ダブルシャドウと安心毛布

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こちらをちらりとも見ずに黒板につらつらと専門用語を書き出しているのをノートも広げずにぼんやりと見ていた。
特にやりたいことも見つからず、したいことも無く、何となく周りと同じように受験勉強をして、何となく面白そうだからという理由で心理学部の臨床心理学科に入って、後数ヵ月で一年が経とうとしている。

大学に入って思った事は、高校生までとは全く違う学問の学舎だということだ。
確かに必修科目等、取らなければいけない授業があるが、基本的に自分で好きに講義を取っても良い。そうなると曜日によっては1コマ90分だけの為に 学校に来る日も出てくる。
幸い、心理学という学問は思った以上に面白く、新しい知識を得られる事が嬉しいので、そういう所は苦にならない。

それでも、今日こんなに授業が乗り気じゃないのはきっと昨日のせいだった。

最近、仕事終わりに神楽さんの家まで言って珈琲を飲みながら色んな話をするようになった。
最近の気になるニュース、好きな音楽、私がしてる大学の勉強、近くの安い定食のお店。

将来の事。

沈黙の時に気まずくならないように、どちらともなくつけてたテレビ番組で若手芸人がロケをして、一般人に声をかけている。
「そうですね、もうすぐ卒業で…専門学校に行ってるので美容師になります。」着物の女性に聞いたあとで、次は短めの金髪でサングラスをかけた紋付き袴の男性に聞こうとしているのを見ながら、ふと、神楽さんが口を開いた。
「彩月はさぁ…」
「ん?」
「将来、どうするの?」
「どうするって?」
「就職とか、どんな仕事するとかさ。大学で心理学学んでる訳じゃん?なら、やっぱりそういう仕事するのかな?って」
「これがねぇ…」コーヒーが入った白い無地のマグカップを両手で抱えながら口に持っていく。

「見てないんですよね。」
「見てない?」
「ん~…」どう言葉にしようか悩んでいると、冬場でもアイスコーヒーを好んで飲んでいる神楽さんの透明なグラスからカランと涼しい音が部屋に響く。

「これが、『夢』というか、したい事なら猫飼いたいとか、車で車中泊しながら色々絶景見たいとか、あるんですけど。」

「うん。」

「『自分がどうしたい』じゃなくて『自分がどうありたい』って思うほど、自分の事をしっかり見つめてないと感じてるんですよ。私は私の事を。」

「なるほど」しっかりと頷きながら、こちらを見つめて先を促してくる眼差しを見返して、それでも自分に言い聞かせる様に呟く。
「私って思った事、すぐ言っちゃうんですよ。あの時言ったように。でも、それって何も考えてないのと変わりないなぁ…って、神楽さんにあの日言われて…最近考えてます。」
だから。
「自分の事、もう少し見てから答えます。」

目を見開いた後、優しく微笑んだ神楽さんを見ながら神楽さんの将来を聞くなら今かな?と思った事は言わなかった。



いやぁ、絶対あの時に聞くべきだったよなぁ…と思う自分。
軽く聞きゃあ良いじゃん「私の事より、神楽さんはどうなんですか?」って。
そこまで考えて。
じゃあ、今までと一緒じゃん。と思って口をつぐんだ自分。

どっちが正しいか、答えなんか出ない。

店長の話を聞いてしまったら、軽々しく聞けなかった。

ちゃんと神楽さんと知り合って店長の話を聞いてから分かった事がある。
あの人は多分、壁があるんじゃなくて、こちらの言葉をそのまま受け取るんじゃなくて、表情、言い方、声の強弱で相手が今どういう気持ちかを考えて、どんな言葉を伝えるのが大事なのか考えてから話してるんだと思う。
だから、昨日の話の時みたいにいきなり突拍子の無いことを言っても待っててくれてる。

普通の人なら、「いや、『見てない』じゃなくて将来何になりたいかを聞いてるんだけど?」とか、すぐに「何が?」と聞き返したりするのに…というか私なら絶対そうする。
その優しさを知ってしまったけど、同時にそうなるまでのあの人の環境を思うと。

何度目かのため息をついてようやくカバンからノートを取り出し広げる。
その辺りでちょうど、黒縁メガネで髪の毛がモジャモジャの先生がマイクを持って下を向きながらボソボソと話始める。

「え~…というように、ユングの普遍的無意識、生まれつき持ってる人類共通のイメージの4つの内、先ほどはペルソナだったわけですが。次は『シャドウ』ですね。簡単に定義だけいうと『自分の生きなかった半面』なんですが、これだけを言葉で説明しても難しいので例を出して説明すると、これを聞いてる皆さんが客観的に見て優しい人だとしましょう。ただ、皆さんが心の中では『厳しい自分』がいるとしたらこれこそがシャドウな訳です。ん~…余り、ピンときてなさそうですね。」

段々、話をしながらこちらの表情をぐるりと見回す。

「例えば、私が物静かな人間だとしましょう。自他共に認める」ちらほらとクスクス笑いが聞こえる。

「その私が心の中では大声を張り上げ、熱血的な人にイライラするとしましょう。これがシャドウな訳です。」少し静かになったが、皆に伝わってるとは思えないような空気感。
「もう少しいうとそれによって、つまり『熱血教師気取りかよ』と私が思う事によって、実は私は無意識の内に熱血教師になりたかったのになれなかった。だから、物静かな人間として生きてきたのに。と思うことが先ほど言った『生きなかった半面』、つまりこれこそがシャドウな訳です。」

結局、この講義は一文字もノートに書かなかったけど、私はこの『シャドウ』という単語を忘れる事が出来なくなってしまった。

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