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1巻
1-1
しおりを挟む第一話
「ああっ、あ……っ、ん、ああっ、ああ……っ……」
キングサイズのベッドは、私が日頃使っている安物のベッドと違い、スプリングがきいてよく弾む。
一流ホテルの高層階のスイートルーム。大きな窓の外には星をちりばめたように幻想的な夜景が広がっているけれど、今の私にはそれを楽しむ余裕なんか、ない。
広くて薄暗い部屋の中には、私のいやらしい嬌声と彼の荒々しい吐息、ベッドの軋む音、互いの身体がぶつかり合う音が絶え間なく響いている。
どうしてこんなことになったのか、呆けた頭では思い出せない。だけど、狭い肉壁が押し広げられる感覚と、奥底を突かれる息苦しさが、これが夢ではなく現実であることを教えてくれる。
私の身体に入り込んだ硬くて熱い塊は、確かに『彼』なのだ。
律動に堪えるように腕を伸ばせば、彼の首にたやすく手を回すことができた。ここぞとばかりに抱きついたって、咎める者は誰もいない。
筋肉質で白く滑らかな彼の肌は汗ばみ、体温が直接じわじわと伝わってきた。鼻孔をくすぐる甘い匂い、耳にかかる乱れた息、柔らかな髪――
私は今、ずっと傍で見ているだけだった憧れの先輩の腕の中にいる。そう思うだけで、痺れるほどの快感が背筋を駆け抜けていく。
彼の首に回した腕に力を込めると、ふいに視線がぶつかった。
乱れた前髪の間から覗く二重の大きな目は熱を帯びて潤み、やや太めの眉は少し寄せられている。その姿は官能的で、いつにも増して色気があり、艶めかしい。
……本当に、惚れ惚れするくらい綺麗な顔。
どれだけ一緒にいても見慣れることのない彼の整った顔が至近距離にあり、思わず頬が熱くなる。だけど次の瞬間、それ以上に熱い彼の唇が落ちてきた。
「んん……っ……」
唇の隙間から入り込んだ舌が丁寧に歯列をなぞり、内頬を撫で上げる。上顎を舐められると、なんとも言えない甘い痺れが広がり、全身から力が抜けた。なおも口腔内を動き回る彼の舌はやがて私の舌をとらえ、あっという間に絡め取られる。
ぴちゃぴちゃといやらしい音を立てながら、互いの舌が絡まり合った。そのねっとりとした感触と温度に、今にも溶けてしまいそうだ。
――ああ、ヤバイ。頭がぼーっとしてきた。
口づけが深くなるにつれて、思考が奪われていく。
密着した彼の胸からは、自分のものとは違う鼓動が伝わってきた。少し速いリズムが、彼の高揚を物語っている。
もう、私、幸せすぎて死んじゃうかも……
「――どうかした?」
彼の唇が離れ、耳元で甘く囁かれる。目を向けると、小さめだけれど厚い彼の唇の端がニヤリと上がった。
「考えごとをする余裕があるなら、もっと激しくしてもいいよね?」
「あああっ! ダメ、せんぱい……っ、やあ、ああ……っ」
彼は私の両足を抱え上げ、押し広げた。彼の昂ぶりが角度を変えて私を貫き、最奥にまで達する。さっきまでとは違うズンッとした重い衝撃に、夢見心地だった気分は一気に吹き飛び、目の前にチカチカと星が舞った。
「やあ、待って、先輩っ……はあ、これ、や、あ、あああっ」
彼との繋がりがより深くなっていき、腰が宙に浮いてしまう。強烈な圧迫感に悲鳴に近い声を上げたけれど、先輩はさらに奥へと腰を進めた。
「ほら、美月。見て?」
掠れた声で促され、視線を動かす。すると持ち上げられた足の間から、ぬかるんだ秘部をゆっくりと往復する『彼自身』が見えた。
「は……、ナカ、すごいことになってる。俺のを咥え込んで、もうぐちゃぐちゃだ」
「やだやだ、言わないで、ああ、いや……あ……っ」
とっさに視線を逸らしたものの、生々しい光景が目に焼きついてしまった。それは薄暗い照明でもわかるくらい蜜に濡れていて、光っている。
さすがにこれは刺激が強すぎる。それに、この体勢も正直しんどい。
「もう、やだ、ふっ、……んん、ぅ」
抗議の声は、先輩の唇に吸い込まれた。
憧れの人に、淫らな自分を晒け出すなんて。でもそれ以上に、悦んでいる自分がいた。
全身を押しつけるように何度も奥へ侵入され、貫かれるたびに身体がベッドへと沈み込む。自分の嬌声が、深い口づけによって消えていく。息苦しいはずなのに、熱い唇と舌の感触はひどく心地よかった。
このまま彼に喰らい尽くされてしまいそう。
いや……いっそ、このまま食べられてしまいたい。
「先輩、もっと……して?」
離れた唇が名残惜しくて懇願すると、先輩の動きがぴたりと止まり、チッと小さく舌打ちされた。
――どうしよう、私、怒らせるようなこと言っちゃった?
欲しかったのはキスだったんだけど、どうやら伝わらなかったらしい。失言だったかもしれないと顔を強張らせたが、もう、遅かった。
「煽ったのは、そっちだからな……」
「ち、ちが……あ、いや、あっ、ああ……っ」
その言葉を合図に、抽送のスピードが上がっていく。部屋には、ぐちゅぐちゅという淫らな音が響いた。
「ああっ! だめっ……だめぇっ……!」
苦しいほどの衝撃が、私を否応なしに快楽の淵へと追いつめる。抗うように背を反らせば、硬く尖った乳首を存分に舐め上げられた。
「いや、もう……お、おかしくなっちゃう、もう、許して……っ」
ぴんと伸ばしたつま先から、電気のような痺れが走る。身体のあちこちで湧き上がっていた快感が波打ちながらひとつの白い渦になり、みるみるうちに膨れ上がる。
「やだ、やだあ、変になる……っ、ああ、あんんっ!」
得体の知れない大きな波から逃げようとして身体を捩ると、腰を掴まれ強く引き寄せられた。
「いいよ……変に、なって?」
「せんぱ、い……、ああっ、も……、ダメェ……!」
「先輩じゃない……――輝翔」
「ああっ、あ、輝翔さん……っ……ああっ、あああああ――っ!!」
先輩の名前を叫んだ途端、目の前が真っ白になり、私は背中を大きく反らしながら絶頂に達した。
「く……っ……う」
ほぼ同時に、先輩の身体が私の上に落ちてきた。
脱力した私は何も考えられず、ただ快感の余韻に浸る。
苦しくて、切なくて、でも愛おしくて。
身体を覆い尽くす熱が、私のすべてを麻痺させる。
こんな気持ち、知らなかった。
ずっと、手の届かない人だと思っていた。
恋をしてはいけない。そうわかっていながらも、ずっと心の奥底で求めていた人。
その彼に、こんな風に抱かれる日が来るなんて。
少しの後悔とそれ以上の幸せを噛みしめて、私は眠りについた。
――私の憧れだった、輝翔先輩。
どうして私が先輩と一夜を過ごすことになったのか。
事のはじまりは、ちょうど一週間前にさかのぼる。
*****
「お疲れ様です」
「お疲れ様でした~」
エントランスの脇に立つ警備員さんに挨拶をして、入り口の自動ドアをすり抜ける。
もうすぐ二十時だ。
すっかり暗くなった空を見上げて、羽織っていただけのジャケットのボタンを留めながら私は足早に会社をあとにした。
私は、羽田野美月二十三歳。
今年の春に大学を卒業し、現在、株式会社SUZAKI商事の総務部総務課に勤務する社会人一年生です。商社ですよ、商社!! なんの取り柄もなく、運よくエスカレーター式の高校に入ってなんとか大学まで卒業することができた、この私が!
……まぁ、コネですけど。
SUZAKI商事では主に食品関係の輸出入を行っているが、私はそんなグローバルでワールドワイドな業務には従事していない。
私の所属する総務課は、一言で言うならば『なんでも屋』。他部署の仕事が円滑に進むようサポートし、従業員の満足度向上に努めることが仕事です。
せっかくの商社勤めなのに、と思うことなかれ。もともと人のお手伝いをするのは好きなので、今の仕事にはやり甲斐を感じている。まあ、まだまだ新人なので、他の優秀な社員さんみたいに重要なお役目を賜ることはないけれど、今日はたまたま他部署でちょっとしたトラブルがあり、私も少しだけお手伝いさせてもらった。
ただ、そのせいで残業になってしまったのは、計算違いだった。
信号待ちをしながら、待たせている相手にメールを送る。
金曜日の夜。いつもだったら、まっすぐ自宅に帰るか、気の合う友達と遊びに行く私だけど、今日は食事会。ちなみにコンパではありません。
このたび四つ年上の兄、羽田野悠一が結婚することとなりました。
親族の顔合わせは済んでいるし、婚約者の沙紀さんとは以前から親しくさせていただいている。今日は、その兄たちとの食事会です。
兄たちだけでなく、もう一人、重要なお客様がいらっしゃるので、自然と早足になる。
軽く息も上がる頃にようやくたどり着いた居酒屋は、大勢のお客さんで賑わっていた。店の人に名前を告げると、一番奥のお座敷に通される。
「遅くなりました~っ!」
「美月ちゃん、お疲れ様~。遅くまで大変だったね」
「遅いぞ美月、いつまでチンタラ仕事やってんだ!?」
小上がりのお座敷は襖が閉められていて、個室のようになっていた。沙紀さんと兄は、ジョッキ片手にすでに盛り上がり中。
そんな二人の向かいに、仕立ての良いグレーのスーツを着こなした、端整な顔立ちの彼の姿があった。
くっきりとした二重の大きな目に優しい光を宿して、彼はにっこりと微笑んだ。
「お疲れ様、美月ちゃん。消えてしまったデータの再入力手伝いだろう? 大変だったね」
「――輝翔先輩……っ! いえ、専務。お疲れ様です」
そのお言葉だけで疲れが吹き飛びます!
須崎輝翔さん。私が勤めるSUZAKI商事の専務であり、私の憧れの人。
輝翔先輩とはじめて会ったのは、私が中学一年生の時。
先輩はまだ高校生だったけれど、すでに大人の男性の雰囲気を醸し出していた。
それもそのはず。先輩は、SUZAKI商事を取り仕切る須崎グループの跡取り息子で、いわゆる御曹司。エスカレーター式の名門校に幼稚舎から通っている、筋金入りのお坊ちゃまだったのだ。
ついでと言ってはなんだけど、うちの父は須崎グループの顧問弁護士をしている。父の跡を継ぐ予定の兄は、将来、自分のボスになる先輩と同じ中学に入学。以来、親友、あるいは仕事上のパートナーとして、公私にわたる付き合いが続いている。
一方、頭の出来の良い兄に比べて、私の成績は至って普通。父のDNAはすべて兄に受け継がれ、私は一般家庭で平々凡々に育った母に似たらしい。
とはいえ、別にそのことにコンプレックスを抱いたりすることもなく、お兄ちゃんは大変だね~、くらいにしか思っていなかった。
けれども、あの日。はじめて会った先輩に、私は一目で惹かれた。
くっきりとした二重の大きな目。
太めの眉は力強いものの、決してくどくはなくて、男らしい。
色白の肌に、小さめの厚い唇。
センターより少し右側から流した前髪と、襟足のちょっとはねた髪型は、清潔感がある。
そして、全身から溢れる知的で上品なオーラ。
まさに、王子様だった。ふわっとした栗色の頭の上に王冠を載っけて、白タイツで白馬に跨っていたとしても、私はちっとも違和感を感じませんよ!!
「君が美月ちゃん? はじめまして、悠一君の友人の須崎輝翔です。よろしくね」
高すぎず低すぎず、期待を裏切らない素敵な声にも心を奪われる。差し出された手は白くて綺麗で触り心地がよく、初対面の中学生のお子ちゃまにまで律儀に挨拶してくれるところに、品を感じて……
私はすっかり虜になってしまった。
先輩に少しでも近づきたくて、彼や兄と同じ私立高校を受験することを決意した私は、中学の三年間、猛勉強した。
先輩は私より四つ年上なので、私が入学する頃には卒業している。ただ、ちょっとでも繋がりが欲しかったのだ。不純な動機だったけれど、何も知らない家族は、必死に勉強する私を応援してくれた。その上、先輩と兄は家庭教師までしてくれた。
おかげさまで無事に高校に合格し、晴れて私は『親友の妹で高校の後輩』となった。
しかし、それから特に大きな出来事などなく、私は大学に入学。そして四年生になり、就職先に迷っていた時に声をかけてくれたのが先輩だった。
先輩は大学を卒業したあと、須崎グループの中核企業のひとつであるSUZAKI商事に入社し、専務に就任していた。
「迷っているなら、うちにおいでよ」
その一言で、私はあっさりと就職先を決めた。専務の知り合いで、顧問弁護士の娘。これが私のコネである。
だけど、勘違いしないでほしい。確かに私は先輩に対して好意を持っているけれど、それは決して恋愛感情なんかではない。
たとえるならば、アイドルに対する憧れのようなもの。
――だって彼は、私なんかじゃ手の届かない、雲の上の人なのだから。
王子様は今、ビールのジョッキをあおりつつ、焼き鳥に舌鼓を打っていた。
私は促されるまま、先輩の隣へと腰を下ろす。
すぐ傍に先輩の気配を感じて、私はドキドキしながらチューハイを注文した。
やがて店員が運んできたチューハイを先輩が受け取り、私に手渡してくる。その時、指先が少し触れた気がして、顔が赤くなったかもしれない。固まっている私を気遣うように、先輩は近況なんかを尋ねてくれた。
「総務の仕事はどう?」
「んー、大変ですけど、やり甲斐はあります」
私がやっている仕事は、お茶出しやコピー取り、郵便物の配布、切れた電球の交換、観葉植物への水やり……、はっきり言って、誰でもできる仕事。
けれど、今日みたいに他部署で何かあった時はサポートとして駆り出されたり、他の仕事をしている先輩たちのお手伝いだってする。要するに『なんでも屋』だ。
専業主婦の母より受け継いだDNAなのか、私は昔からそういった細々とした仕事が好きだった。だから学生時代は、生徒会や文化祭の運営委員なんかを好んでやっていた。
「……やっぱり、総務課じゃなくて秘書課に入るべきだったかな?」
「いえいえ、私には無理ですよ!」
顔の前で手をぶんぶんと振り、先輩の言葉を否定しつつ、顔のほてりをあおいだ。
秘書課は、総務部の中でも花形部署のひとつ。そこに所属するお姉さまたちは皆、才色兼備で、私なんかが入ったら違う意味で目立ってしまう。
だけど、本当は秘書課に憧れていた。新入社員の私は、社内で先輩に会うことなんてほとんどない。ただ、もし役付きの秘書になれたら、仕事中の先輩の姿を好きなだけ見ていられる。そう思って秘書検定を取得したものの、秘書課のお姉さまたちのレベルの高さを見てすぐに諦めた。
知性も足りない、美人でもない私には、書類を抱えて社内を走り回っているくらいが丁度いい。
「美月ちゃんはよく気がつくし、秘書向きだと思うんだけどね?」
ふいに向かいの席から声がかかる。顔を向けると、沙紀さんがにこやかに微笑んでいた。
沙紀さんは、兄や先輩と同じ大学を出ていて、私より三つ年上。垂れ目がかわいい、ふんわりとした美人さんだ。清楚で落ち着いた印象なんだけど、兄曰く天然ボケなところもあるらしい。かと思えば、時々妙な色気を醸し出すことがあって、女の私でもドキッとさせられることも。
彼女はバッグからリボンのかかった小さな箱を取り出すと、私に向かって差し出した。
「沙紀さん?」
「この前、お誕生日だったんでしょう? 遅くなってごめんね。いつもお世話になっているから、感謝の気持ちです」
「……ありがとうございます!」
沙紀さん、あなたのほうがよっぽど気がつく人です。
箱の中身はかわいらしいピアスで、私の誕生石のサファイアが控えめに輝いていた。うん、そのセンスも素敵です!
「……そうか、そういえば、誕生日だったね」
もらったピアスをうきうきと眺めていたら、先輩が呟いた。
「ごめんね? なんにも準備してなくて。今度、何か用意するから」
「いえいえ! 気にしないでください!」
先輩から誕生日プレゼントなんてもらったら、私、卒倒しちゃいますから!
慌てふためいている私をよそに、兄たちはクスクスと笑う。
「美月、もらっといたほうがいいぞ? 須崎グループの御曹司からのプレゼントは、庶民がそうそう手に入れられない高価なものだろうから」
呑気な兄は、高級ブランドの名前を次々と羅列する。そして、私も欲しいな~、なんて言う沙紀さん。だけど、私はそんなのちっとも欲しくない。
「……そんなもの、いりませんからね?」
御曹司からの高価なプレゼント。
確かに魅力的ではあるけれど、私には必要ない。
だって、そんなものをもらったら、ますます先輩が遠い人に思えてしまうから。
先輩は、私とは住む世界の違う人間だとわかっている。でも、こうやって一緒に庶民的な居酒屋でビールと安価な料理を摘まんでいれば、少しは親近感が湧くというものだ。
私は話題を変えようと、兄たちに話を振った。
「沙紀さんみたいな人がお義姉さんになってくれるなんて夢みたい~。本当に、うちの兄なんかでいいんですか?」
「なんかとはなんだ」
二人の馴れ初めは大学時代にさかのぼる。沙紀さんに一目惚れした兄が積極的にアプローチして、付き合うことになったのだそうだ。はじめて沙紀さんを紹介された私が、『お兄ちゃん、面食い……』と呟いたのは言うまでもない。
学生時代、そこそこモテていたという兄。大企業の顧問弁護士の息子で、背も高いし、顔も、まあ、見れないことはない。だけど、傍らにいつも噂の御曹司がいるのだから、普通であればそちらに目が行ってしまうだろう。
「出会った時から、悠一さんと結婚するって決めてたもの。私も、美月ちゃんみたいなかわいい妹ができて幸せよ」
言われたほうが赤くなってしまうような言葉を口にしているにもかかわらず、沙紀さんはちっとも恥ずかしがっていない。なんだか、無性にかっこよく見えた。
兄は大学在籍中に司法試験に合格し、卒業後、司法修習を経て弁護士になった。まだまだ駆け出しで、今は父の事務所で働いている。私には難しくてよくわからないけれど、バッジをもらったら即弁護士として独立できるような甘い世界ではないらしい。
ちなみに沙紀さんは今、兄と同じく父の事務所で事務の仕事をしている。父は、私が大学を卒業したら事務所を手伝わせるつもりだったようだけれど、その役に就いたのは沙紀さんだった。
どうやらその時点で、二人の結婚は決定事項だったみたいだ。
「美月ちゃんは? いい人いないの?」
「いません、いません。今は仕事が恋人ですから」
ちょっとだけ胸が痛んだのは、きっと気のせいだ。大学四年の時、私にも彼氏というものがいた。だけど数ヶ月であっけなく別れてしまった。
浮気をされたとか、他に好きな人ができたとかいうわけではなくて、お互い就職活動や卒論などで忙しくなり、自然消滅してしまったのだ。はっきりフラれていれば、こんな風にモヤモヤせずに済んだのかもしれない。
「結婚式のブーケは、美月ちゃんにあげるからね」
「おいおい、美月よりも、輝翔にあげたほうがいいんじゃないか?」
婚約者と親友に挟まれて上機嫌の兄は、少し酔っぱらっている様子。どうしてブーケを男の人にあげないといけないのさ。
「お前もそろそろ身を固めろとか言われはじめる頃だろう?」
兄の言葉に、思わずチューハイを口に運ぶ手が止まった。
「そういえば、輝翔さんは今、誰かとお付き合いしてるの?」
沙紀さんの言葉にさらに固まる。だけど先輩は笑顔でさらりとかわした。
「今は、そんな相手いないよ。俺が、結婚もいいなって思えるように、二人で幸せなところを見せてくれよ?」
――内心ホッとした。社内で先輩は女子社員たちの憧れの的で、熱心なファンも大勢いる。私もそのうちの一人ではあるけれど、これでも立場をわきまえているので、表立って騒いだりはしない。本当のファンは、スターの動向を温かく見守るものです。
だけど、自然と情報は耳に入ってくるわけで……秘書課のなんとかさんや受付のなんとかさんが、専務の恋人の座を狙ってあれやこれやとアプローチしているみたい。ただ、私が入社して以来、専務に恋人がいるというような話を聞いたことはなかった。まあ、昔の恋人について聞くことはあるけれど。
それは当然だ。須崎グループの御曹司の相手ともなれば、家柄も容姿もそれ相応の女性が選ばれるはず。一介の社員なんかに手を出すわけがない。
「じゃあ、フリー同士で美月ちゃんと付き合ってみたら?」
突然、沙紀さんがそんなことを言い出すので、ようやく口に入れたチューハイを思わず噴き出しそうになってしまった。あぁ、沙紀さん。あなたも結構酔ってらっしゃる。
「な、な、なんてこと言うんですか! そんなの絶対ダメに決まってるじゃないですか!」
手にしたジョッキをドンッとテーブルに置いて、私は必死に否定した。
私ごときがこの見目麗しい先輩の相手になれるわけないことは、自分が一番理解している。ただでさえ専務の周りには美女が盛りだくさんなのに、私が選ばれるわけなどない。
私があんまり必死に否定したためか、兄と沙紀さんは二人そろって苦笑いを浮かべている。こういうところは似たもの同士なんだから。
「……俺と付き合うのが、そんなに嫌かなぁ?」
目の前の二人にいろいろ文句を言い立てていたら、隣に座っている先輩も苦笑いを浮かべた。
そういえば隣に当事者がいたことをすっかり忘れていた。いくら相手が私とはいえ、こんなに必死に抵抗されては気分を害したかもしれない。
「俺は、美月ちゃんなら大歓迎なんだけどね」
優しい先輩は、さりげなく気遣いなんかを見せてくれる。さすが紳士。
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