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油断禁物
11 崩壊
しおりを挟む「僕、殿下が好きなんです。今夜は帰しませんよ」
社長の秘書はそう云って、ハリーの頬を両手でホールドした。
「ん、む...」
唇と視界を塞がれ、バランスを崩したハリーはソファに手をついた。下敷きになった秘書は、上目遣いでハリーの首に腕を絡める。
「力を抜いて、何も考えないで、殿下」
ライトブラウンの髪が、流れて落ちる。ブルーの虹彩の中心の瞳孔が開き、ハリーが映り込みそうに思えてくる。
───こんな行儀の悪い奴、願い下げだ。
頭ではそう思っているのに、まるで磁力で引き寄せられるように、ハリーの頭部はゆっくりと秘書に近付いていく。
まるで幽体離脱でもしているように、ハリーの意識の一部が、自身を俯瞰で見ている。その意識は、抵抗しようと腕を突っ張るのに、肘が緩んで体を支えられない。頭部が引力に逆らえない。
秘書のブルーの瞳は瞼で蓋をされる。
───くちびる...。知らない、見たことない、くちびる...。
ハリーの目の両側にダークブロンドの髪が流れ落ち、相手の頬に触れる。
「はぁ...」
ため息をついて、ハリーは秘書の襟元に額を預けた。頭の上から、彼の楽しそうな声が降ってくる。
「少し、呑み過ぎちゃいましたね。僕が介抱してあげます」
秘書はスルリとハリーの下から抜け出し、ハリーを仰向けに、ソファに寝かせた。
「水を、くれないか...」
「お水ですか? いいですよ」
まもなく、秘書はハリーに、口移しで液体を飲ませた。
───水じゃない。酒だ。
ツッコんでやりたいが、思っているだけで、ハリーは声を発しない。億劫なのと、横たわった体勢が心地良過ぎてどうでもいいのとで、無気力になっている。
そして秘書は、ハリーのネクタイを緩め始めた。ワイシャツのボタンを襟元から、順番に外していく。ベルトに手をかけ、ボトムをくつろげる。
服の締め付けから解放されて、ハリーは身体が弛緩するのを感じた。ほっとけば、間もなく寝落ちするのは間違いない。
しかし、そうはいかなかった。
「ん...ぁ...」
遠く、ため息が聞こえた。呼吸を合わせるように息を吸った時、ハリーは自分のため息だと気付いた。
下半身が、熱くなる。
「お口で、しましょうか、殿下?」
エコーがかかるように、声が頭の中を駆け巡る。いやらしく舌を出して見せる唇が思い浮かぶ。すると本当に、ハリー自身が包まれた。深く浅く、ハリーを刺激する。
「ぅ...っ!」
ハリーは恥ずかしい声を噛み殺し、片腕で顔を隠した。
───こんな顔、アーロン以外の奴には見せられない...。
そう思うのと同時に、理性もまだ残っている事に気付くハリー。しかしすぐに、秘書の攻めに身を任せてしまう。
───アーロン...。
声なく呟くと脳裏に、最も大切な人の顔が思い浮かぶ。光る瞳や穏やかな眉、愛を囁く薄い唇、それから、それから───。
「んっ、ぁ...!」
「あ、あ、ぁむ...ん」
秘書がマナー悪くジュルジュル吸いつき、ハリーの身体は昂りから急激に醒める。
そして昂りの波はすぐに戻ってくる。
「今度は、僕の身体で受け止めます、殿下」
社長の秘書は、ボトムを脱ぎ捨てて下半身を曝し、ソファの上のハリーに跨った。
───どうしてオレ、抵抗しないんだろう? オレの身体じゃないのか?
ハリーの下半身は、秘書の刺激のせいか、再び昂り、吐き出したいとその身を起こす。
───やめろ! そこをどけ!
声にならない叫びは、まるで悪い夢を見ているように、妙にリアルでままならない。
ハリーの葛藤も知らずに、下半身は秘書の身体に飲み込まれ───。
吹き飛びそうな勢いでドアが開いた。
ハリーの上の社長秘書が、悲鳴をあげながら引きずり出された。足をバタバタさせてもがくが、踵が滑るように空を蹴っている。
ハリーは身体を持ち上げられ、ソファに座らされた。二の腕にチューブをきつく巻かれ、注射器をつき立てられた。
───どうせ殺されるなら、お前がいいよ、アーロン。
見上げたハリーは首が座らない赤ん坊のように、顎が上がってしまう。その正面にアーロンが立つと、抱きしめられた。
「ぅぐ...っ」
アーロンの顔は背中の方に見えなくなり、抱かれているのに腹部に圧迫を感じて声が漏れた。
身体が浮き、ハリーの視界には床と、革靴の踵と、ベストのバックベルト。腰と膝下をホールドされ、ゆらゆら揺られながら、移動が始まった。
天井の高い内装の高級車の中でも、ハリーはアーロンと向き合った状態で膝の上に乗せられ、彼の肩にだらしなく顎を乗せていた。その間ずっと、耳元で鼻歌が聞こえていた。
───賛美歌...かな...。
アーロンの歌える歌は、賛美歌くらいしかない筈。
ハリーはなんだか、淋しくなってきた。アーロンと密着してるのに、会話はおろか、名前すら呼び合っていない。
───怒ってるのかな...。
以前、結婚後の浮気について、ハリーはアーロンに云った。云ったが、アーロンがどうするか、答えては貰えなかった。
───デカいくせして、繊細なんだよな、アーロン...。
分かっていながらハリーは、社長の秘書と身体を繋げてしまった。
ハリーの意思を無視して秘書が、ほとんどレイプに等しい状態でハリーを飲み込んだ。が、アーロンの目にどう映ったかは判らない。
───オレ、アーロン以外の奴と繋がったんだ。ステファンにさえ流されなかったのに、社長秘書を拒めなかった...。
罪悪感と自分への失望がハリーを責めたが、本当にハリーを責めるべきアーロンは、耳元で鼻歌を歌っている。
ハリーは漠然と、アーロンの狂気を感じ取っていた。
───オレがこいつを壊したんだ。殺されたって仕方ない...。
ハリーは真っ黒で冷たい海に沈むような心持ちだった。なのに、下半身は未だ熱を持ち、痛いくらいだった。我が身の浅ましさに、配偶者の顔もまともに見られない。
───こんな状況でもまだ、オレは欲情を抑える事すらできない。
消え去りたい程の嫌悪感を抱えながらも、ハリーはどこかでアーロンに甘えている自分を感じる。対面スタイルで抱えあげられる事で、ハリーの前を隠してくれている。
その優しさが、切なくもあった。
車が止まると、再びアーロンに担ぎあげられ、ハリーは自宅に帰ってきた。
執事やメイドには、アーロンとハリーの秘書からなんとなく事情が説明されていた。それでも主人とその配偶者の尋常ならざる様子に、
「お、おかえりなさいませ...」
たじたじ。
そして無言のざわめきが波のように浸食していく。屋敷全体が一種異様な雰囲気に包まれた。
アーロンは、執事達が恐れるように行く手を空ける中を、小さく鼻歌を歌いながら、当主を担いで寝室に向かった。
ハリーの秘書トラウゴットが、寝室のドアを閉める。その背中に追い縋る声。
「待って!」
長男の声は、ハリーにも聞こえた。
「父様!」
───リーヴァイ...!
毎晩アーロンと一緒に寝ているキングサイズのベッドに横たえられた、ハリー。アーロンは着ていたジャケットを広げてハリーにかけた。そしてベッドを離れる。
長男の半泣きで訴える声と、アーロンの囁くような低く落ち着いた声が、聞こえる。遠く、まるで壁越しのようで、内容は分からない。
───皇太子は取り乱してはいけないと、何度も云ってるのに...。
自分の事を心配しているとは気付かず、ハリーは頭の片隅で思う。その目は虚ろに虚空を見つめている。
耳が、アーロンの声を求めていた。どこかで「愛してるよ」と云っているのが聞こえた。
───オレも愛してる。だから、早く触ってっ、アーロン!
愛しい人の温もりを思い描くハリー。アーロンの指の動き、息遣い、囁き...。最初はまるで怖がるように触れるくせに、ハリーが溺れる程の深いキスをする。絶頂を迎える時、アーロンはハリーをきつく抱きしめる。
───抱いて、アーロン。いつもみたいにオレを抱きしめて!
そう渇望するハリーの元に、声が届いた。
「水だよ、ハリー」
声が、身体に沁みていき、喜びで胸がいっぱいになる。
「あ...ろ...」
身体が重い。ハリーは飛びつきたい衝動を叶えられずに、ベッドに横たわったまま、そこに立つ男を見上げた。金縛りのように身体が動かず、視界も霞む。
「水を飲んだ方がいいよ。アルコールを分解───ハリー?」
ハリーの様子に顔色を変えるアーロンだったが、当のハリーの耳には、録音加工した声にしか聞えなくなっていた。まるで性能の悪いスピーカーから聞こえてくるようだった。
───直接、オレの耳元で呼んでよ、アーロン!
そのアーロンは、どこか遠くでハリーを探していた。何度もハリーの名前を呼んでいた。ハリーは懸命に応えようとしていた。
───オレはここだよ、アーロン。
アーロンは、ネクタイを締めながら階段を降りる。
「おはようございます、皇太子殿下」
「おはよう、公爵代理」
応えた皇太子は、見ていたタブレットをソファに置いた。
「ニュースのチェックですか?」
アーロンはソファから降りて近付いて来る少年を待ちながら、問いかける。少年は天井を見上げるように首を傾け、
「株価のチェックですよ。この間、ニコル=ヴィンデルバンドに云われたので」
「ほう」
「でもさっぱりです」
皇太子は小さな肩を竦めた。ブロンドがサラサラと揺れる。
アーロンは少年をダイニングに誘いながら、
「当家の令嬢は、まだおやすみのようですね」
「公爵代理───」
アーロンを、遠慮勝ちに呼び止める執事。「レーア様は、どうしても公爵代理にエスコートをお願いしたい、との仰せです」
すると、アーロンの肘の辺りでクス、と笑う声が。
「彼女は高い所が好きなんです、公爵代理」
その意味するところはつまり、アーロンに抱っこされて移動したい、という事か。
アーロンは自己嫌悪のため息を落として、
「すみませんが、ダイニングでお待ち下さい、皇太子殿下」
「私は、イングリッシュブレックファストでも飲んでいますから、我が家のプリンセスを頼みます」
皇太子の眉を確認してから、アーロンは階段に戻って急ぎ足で上る。
───なんか、ヴァルターに似てきたな。
などと思いながら。
階段を上ると、横目には屋敷の中でいちばん大きなシャンデリアが目を引く。この季節は採光の加減で、点灯しなくても陽光を弾いて煌めく。
その木漏れ日のような光のあたる手摺りは、新築から数年を経て、艶が更なる重厚感を増す。
階段を上りきると、その部屋の前にはグレートデーンが、命じられもしないのに座って待っていた。大人になってピンと立った耳がよく動く。ブルーグレーの背中が美しくツヤを見せていた。
ミロはアーロンを認めると、鼻を鳴らして近付いて来る。その頭部は皇太子と同じくらいの高さだ。
「ご苦労だったね、ミロ」
手のひらに擦り付けてくる鼻先を軽く押し返す。今は遊んでやれない。ミロにもそれは解った。
アーロンは改めて、愛娘の部屋の前に立つ。ノックの為に腕を上げると、中から幼児のグズる声が聞こえた。細かい内容は判らないが、乳母の諌めに反発しているのが判る。
「パパだよ。入っていいかい?」
と云って耳をすませるが、許可が降りない。グレートデーンの方がしびれを切らし、鼻を鳴らしてクルリとその場で回る。
仕方なくもう一度ノックをすると、すぐにドアが開いた。
「おはようございます、アーロン様。お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「いいよ、エッバ。少し、二人きりにしてもらえないか?」
乳母は一礼して出て行った。
改めて室内に向き治り、アーロンはしまった! と思った。
───まだ着替えてないじゃん...。
娘がパジャマのままでグズっているという事は、これから着る服の事でお気に召さない何かがある、という事だろう。センスのないアーロンには、難易度MAXの問題だ。
「おはようございます、プリンセス=レーア」
アーロンはポーカーフェイスで娘のベッドの傍らに立った。
「おはよう、パパ」
レーアはベッドの上に立ち、短い腕を精一杯伸ばした。アーロンはフラつく娘を抱きしめて、ベッドに座った。
「朝からまつ毛が濡れてるよ。どうしたの、レーア?」
「だって、パパに会えなくなっちゃうと思ったの。そしたら悲しくて泣いてしまったの。どこへも行かないで、パパ」
云いながらレーアは泣き顔になり、声が揺れて、最後はアーロンの肩に顔を埋めてしまった。
「大丈夫だよ、レーア。パパはここにいるよ」
細くて柔らかい栗毛を、大きな手で何度も撫でる。
「でもパパは行ってしまうの。レーアもリーヴァイも置いて───」
顔を上げ、ブルーの瞳で真っ直ぐに見つめる。「父様のところへ」
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