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油断禁物

10 父の代わりに

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 床も家具も、使っているのはウォールナット。
 衝撃に強く無垢材でも艶があり、使い込む程に、風合いが出る。アール・ヌーヴォーの部屋にもよく合う。
 壁紙や椅子の座面などの色調は、グリーンで自然な調和を出し、天井にはカットガラスをふんだんに使ったシャンデリアがぶら下がっている。
 この豪華な部屋で頭を抱えるリーヴァイを見て、爆笑するアーロン。
「焦らなくても大丈夫だよ。これから沢山の、数え切れない人と出会うんだから」
「えーっ、数え切れない程!?───てどれくらい? パパも?」
 4歳の質問は、軽いが真剣だ。頷くアーロンの次は、ハリーを見る。ハリーは肩を竦めて眉を上げた。リーヴァイは再びあんぐりと口を開けたが、今度は両手で隠した。
「世の中には、家族であるお父さんとお母さんの間に生まれた子もいれば、お父さんかお母さん、どちらかと一緒に住んでいない子もいる。両親と、血の繋がっていない子だっているよ。でも、みんな家族だ。どんな形でも、愛し合っていればね。正しいとか、間違ってるとか、そんなことはない。それぞれが大切な『家族』なんだ」
 アーロンの説明を、リーヴァイは真剣な眼差しで聞いていた。
「理解できたかな、リーヴァイ?」
「はい、父様」
 ハリーの確認に、長男は畏まって返答した。
「さて、それでは本題に入ろう」
 そう云ってアーロンは、説明を始めた。
 まず、カミル国王との関係。従兄弟とはどんな関係性をいうのかを含め、リーヴァイ、そしてハリーが王家の血を引く一員だという事を説明した。
「陛下は、王様でしょ? じゃあ、王子様は、だれ?」
「い~い質問ですね~」
 そう云うアーロンの隣で、ハリーは静かに姿勢良く座っている。リーヴァイは身振り手振りを交えて、懸命に理解しようとしている。
「王子様は、王様の子供でしょ? でも、カミル陛下には子供はいらっしゃらないよね?」
「そう。それはつまり、今は王子様がいらっしゃらない、という事。じゃあ、誰がなればいいと思う?」
 アーロンの問いに、ハッとグリーンの瞳を輝かせて、
「父様!」
 叫ぶように、幼児は答えた。
「何故だ?───」
 水を差すように冷静に尋ねるのは、ハリー。「何故そう思うのか、意見を云ってみなさい、リーヴァイ」
 口調は命令だったが、ハリーは柔らかく云った。長男はテーブルに小さな手を出し、指折り数える。
「なぜなら、父様は、王様の血を引いてます。それに王子様みたいにかっこいいし、あと、馬に乗れます」
 真面目な雰囲気の侯爵とは対象的に、隣の配偶者はクスクスと肩を揺らす。まあ確かに、王子様の理想像ではあるが。
 そこで何か云おうとするハリーを、アーロンが止める。
「父親を尊敬するのは、とても素晴らしい事です。そうは思いませんか、侯爵?」
 尊敬=王子様という式は、ハリーには捨てておけない。
「あー...」
 額に手を充て言葉を選ぶハリーに構わず、アーロンは話を続けた。
「侯爵は、侯爵になる前に、王様の代わりをしていらっしゃったんだよ、リーヴァイ」
「そうなの!?」
 驚いた4歳児はグリーンの瞳を煌めかせて、憧れの父を見つめた。ハリーはちょっとむず痒い思いで、眉をしかめてアーロンを横目で睨む。そして、
「私の事はともかく、カミル陛下は、まだご結婚なさっていないだろう?」
「だから、王子様はまだいらっしゃらない。でも───」
 ハリーの言葉を継ぐアーロン。「次の王様候補を決めておかなければならないんだ」
「父様は...王子様にならないの?」
 リーヴァイは両親の顔を交互に見る。アーロンは、
「王宮でも、いろいろ考えて話し合った結果、リーヴァイ」
「はい」
 呼ばれて思わず畏まる。
「君に、白羽の矢が立ったんだよ」
「えええっ!?」
 小さな両手を頬に充て、くりくりの目を見開いて───。
「『白羽の矢』てなぁに?」



 王宮からのは、リーヴァイが5歳になってからだ。
「だから5歳になるまでのこの一年間を、皇太子になるための準備期間とする」
 ニューエンブルグ侯爵は、息子の瞳を真っ直ぐに見て、そう云った。
「はい!」
 と返事はいいが、具体的には何一つ、分かっていないリーヴァイ。彼はただ、ハリーからの課題をクリアすればまた、褒めて貰えると思っているだけだ。
「それでいいじゃないか? 何か問題ある?」
 アーロンは寝室のソファから振り返って、云った。
 アーロンはパジャマにガウン姿で、ノートパソコンを開いている。少しでもチャンスを見つけては、医師教育の受講をしている。
 ハリーは黙って、パジャマのボタンを閉めている───ようだが、肘が止まっている。
 アーロンは立って、愛しい肩を包み込むように抱きしめた。
「リーヴァイはしなくてもいい宮仕えをしなくちゃいけないのに、あんなに無邪気に...」
「考え過ぎだよ、ハリー」
 落ち込むダークブロンドに、鼻を埋めるアーロン。実際は『皇太子候補』という肩書が付くだけだ。
 しかしハリーは、自分の摂政時代と重ね合わせてしまう。興味のない式典に出席して挨拶をしたり、仲良くもない貴族や政財界の人物と食事をしなくてはならなかったり、王宮の組んだスケジュールに従って──。
 いや、ハリーはそんな事、苦ではなかった。彼にとって受け入れられなかったのは、大切な人を認めてもらえなかった事だ。
 リーヴァイは素直で従順だ。国王カミルや王宮からの課題には懸命に向き合うだろう。そして結果を出し、実績を積み上げて認められるだろう。
 しかしいつか、自分の大切なものを認めてもらえなかった時、気付くのだ。自分の存在意義とは何かを。望みの儚さを。
「オレ、摂政を務めてた時のハリー、尊敬してたよ。だから、リーヴァイにも沢山の事を学んで欲しい。誰でも経験出来る事じゃないし」
 アーロンの腕に包まれて、ハリーは背中からじんわりと温められる。
 アーロンだって、ハリーの失望の大きさを知らないわけじゃない。しかし彼は「終わり良ければすべて良し」とするタイプだ。過去には、敢えてこだわらない。
 しかしハリーは違う。特に我が子となれば、同じ鉄は踏ませたくない。
「損な性格だな、ハリー」
 耳元の言葉に、ハリーは振り向いた。
「なんだよ、て?」
「だって、どんな状況であっても、きっとハリーは悩むから」
 「そんな事はない」と云おうとして、ハリーは息を止めた。ヘーゼルの瞳が、揺れて見えた。
 アーロンはハリーと向かい合い、抱きしめた。
「ハリーの気持ちは解るよ。でも、あの頃ハリーが自由じゃなかったから、オレたち結婚まで出来たんじゃないかと思うんだ。障害や足枷があっても、心まで支配することは出来ないよ。そうだろ?」
 ハリーが摂政にならずに、フリートウッド公爵家の末っ子のままだったら、アーロンと恋人になったとしても、結婚はしなかったかも知れない、と云うのだろう。
 確かに、ハリーとアーロンの事を間近で見ていなかったら、カミルは同性婚を可能にする法律は作らなかったかも知れない。いや、そもそもハリーとアーロンは長続きしなかったかも知れないし、なんなら付き合いもしなかったかも知れない。
 王宮は、ハリーのスケジュールも食事も健康も資産も、全てを把握し、コントロールしていた。しかし、女性と結婚させる事は出来なかった。それどころか結局は、同性婚のきっかけ、そして国内最初のその事例となってしまった。
「でも今度は、リーヴァイをオレから取り上げてしまう。オレの息子が、オレの代わりになるんだ」
 ハリーは、頭では分かっている。王家の血筋の存続は、何事を差し置いても守らなければならない。そしてその座に着く者は───。
「ハリー。───」
 アーロンは満面の笑みで、「ハリーがそんなに重く考えると、リーヴァイは押し潰されちゃうよ」
「だって、実際に───」
「いいんだよ。その責任の重さは、王宮が持てばいいんだ。リーヴァイにだってちゃんと、拒否権はあるよ。ハリーだって、その権利を使ったじゃないか。それとも後悔してるの?」
 ハリーは何度も首を横に振った。アーロンはアンバーの瞳を真っ直ぐに見て、力強く云った。
「それでいいんだ。君は間違ってない。リーヴァイだって大丈夫だよ。だってハリーの遺伝子を受け継いでるんだから」
 ハリーはアーロンの背中に腕をまわして、ギュッと力を込めた。





 ハリーの持株会社の社長は、彼の秘書とハリーを置いて、先に帰った。
「良い夜を」
 と云いながら、複雑な視線をハリーに送っていた。ウィンクでもし損ねたみたいだった。
───秘書も連れて行けよな。オレに送らせるのか?
 その秘書は、したたかに呑んでごきげんだ。
「お隣、よろしいですか?」
 と云うと、ハリーの返事も聞かずに隣に座った。サロン風のバーで、個室にソファセットがあり、二人がけにしては幅のある革張りのソファに、二人で座る。向かい側は空席。
───秘書のわりに、もてなし方を知らないのかな。出来る秘書ではないな。
 ハリーは悩む。この秘書があまり優秀ではない事を、社長に云うべきかどうか。
───オレの秘書じゃないけど、秘書の能力次第では、社長の仕事の結果を左右す───。
「お...っと...?」
 秘書が、ハリーにぶつかった、と思ったがそうではなく、明らかに体重をかけてきた。
───意識失う程呑んだのか?
 と見ると、秘書はハリーを見上げていた。おめめパッチリで。
「あの、僕の事、好きにして下さい、ハリー殿下」
 えーと、お前社長の秘書だろ?───随分行儀の悪い秘書だ。
 例えばハリーの秘書が、ハリーの指示なくしてこのような行為に及んだ場合、ハリーは自分が恥ずかしいし、契約についても考え直す。
「社長の指示か?」
「あ...え...と...」
 秘書は目を泳がせる。───そうか、社長の指示か。それなら仕方ない。
「私から社長には云っておく。君はもう帰りなさい」
 送るのも面倒なので、ウェイターに云って、ハイヤーを呼んでもらおうとすると、
「いえっ、僕の意志です! 僕の気持ちです! 僕、あなたが好きです、ハリー殿下」
「私はもう摂政ではない。『殿下』はやめなさい。今は侯爵だ」
 判ってない筈はない。『殿下』を付けたいなら『殿下』が正しい。
 まあ確かに、ハリーがいちばん輝いて見えたのは、摂政時代かも知れないけどね。
───いや、仕事の内容は今の方がよな。
 摂政の仕事は、云わば王宮のマスコットだった。今の仕事は、会社の経営状況を把握し、社長や重役と会社を運営していく事だ。
───接待も確かに仕事だけど...。
 社長との食事はコミュニケーションだが、社長の秘書をもてなすのはハリーの仕事ではない。断じて違う。むしろ───。
───まさか、いや、やっぱり社長の意向で、この秘書はオレをもてなしてるつもりなんだろうか?
 全然もてなせてないけど!
 凭れてくる秘書を押し返すが、秘書も負けずに戻ってくる。
 そこへ突然ノックがあり、ウェイターが入って来た。手にしたトレイには、ウィスキーのグラスが二つと、ナッツやドライフルーツの盛り合わせ。ハリーには思い当たらない。
「その注文は───」
「遅かったね。───オールドファッションド、お好きでしょ、殿下」
 秘書は勝手にウィスキーカクテルを頼んでいた。確かに好きだけど、食事や酒の楽しさは「同席者」という要因も重要な要素だ。
───今日はまあまあ早めに帰れると思ってたのに...。
 ウィスキーグラスで唇を濡らしながら、ハリーは家族に思いを馳せる。
 リーヴァイはマナーを中心に学んでいるが、その成長ぶりは目覚ましいばかりだ。その報告を聞くにつけ、ハリーは気分よくベッドに入れる。
 アーロンも仕事から帰ると、着替えもそこそこに長男の様子を見に行く。ハリーを親バカと云うが、彼も負けてはいない。
───でも最近だから、そろそろアーロンともスキンシップを───。
「でーんか♪」
 ハリーの思考を邪魔する秘書。ハリーとタイミングが合わないところとか、きっと相性が良くないんだろう。
───『殿下』やめろ、つってんのに...。
 ハリーは腕を絡めてくる秘書との攻防の合間に、グラスに口を付ける。勢い余ってグビ、と呑むと、甘みと苦味の絶妙なバランスの液体が、味覚と嗅覚を刺激する。
 オールドファッションド。カクテルなので配分によるが、アルコール度数は高いものでは40度にもなる。
 ハリーには珍しく、濃いアルコールに喉の熱さを感じながらも、ほろ酔いの楽しい気分になってくる。食事の前から、食前酒やスパークリングワイン、白ワイン、赤ワインと、料理の皿が変わる度に、酒のグラスを変えた。そして食後酒はブランデーだった。こんなに呑んだのは久しぶりだ。
 ところがそこに水を差す、秘書。ハリーの腕を引っ張り、頬にキスをした。
「何をする」
「僕、殿下が好きなんです。今夜は帰しませんよ」
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