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油断禁物

8 ボウ・アンド・スクレープ

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 その牧場は、貴族や周辺諸国の有名人がお忍びで利用する施設だ。
 敷地は大きくはないが、設備が充実している。元は貴族か外国人のもので、宿泊施設はおそらく別荘だったもの。牧場の規模にしては、大きな屋敷だ。
 ニューエンブルグ侯爵家の長男の誕生日パーティーは、この屋敷で行われた。
 最近では接点がなくて会えない人たちも、誕生日に招待すれば、駆けつけてくれる。平日でも。そういう国民性。
「僕、4歳になるんだよ」
 誕生日を迎えるリーヴァイも、4歳ともなれば自覚が芽生える。
 パーティーは昼から。招待客に料理を振る舞い、リーヴァイを中心に子供が楽しめるようにもてなす。
 乗馬のインストラクターと一緒に、一人ずつ馬に乗ったり、ミニチュアホースのレースを観戦したり。
「アーロン!」
 振り返ると、アルヌルフ=リヒターが手を振っていた。エッケハルトの三男だ。後ろには両親もいる。
「アルヌルフ、乗馬はしないの?」
 走ってきた少年とハグを交わして、アーロンは訊いた。
「アルヌルフは高い所が苦手なんだよ」
「いいんだ。僕は小さい子に順番を譲っただけだよ」
 父親の暴露に、アルヌルフは慌てて弁解する。もう遅いけど。
「私も同じだよ、アルヌルフ。私は大きな動物が苦手なんだ」
 アーロンがウィンクすると、少年は眉を上げて笑顔を見せた。会う度に、大人に近づいている、当然だが。
「イェルンとロータルは元気かな?」
「ロータルは学校でサッカーの選手に選ばれたよ」
 アルヌルフは得意げに云った。ロータルなら運動神経がいいから、アーロンにも想像がつく。
「イェルンは、どうかな...?」
「元気にしているよ」
 答えたのは、父親のエッケハルトだった。それは、アーロンへの遠慮で濁した表現ではないのか?
「元気に?」
 と聞き返した。エッケハルトはクスリと笑い、
「心配ないよ。私を手伝って、ゲルステンビュッテル子爵邸の書庫を整理してる。専門家のフリッチェ教授は女性だから、安心して没頭しているよ」
「最近はね、女の人ばっかりの空手道場に通ったり、朝からジョギングしたりしてるよ。僕も一緒に走るんだ」
 アルヌルフがそう云って腕を振ると、母親が笑って、
「あら、まるでいつも付き合ってるみたいに聞こえるわ」
「だって! だって今日は、リーヴァイの誕生日パーティーだから、遅れちゃいけないし...」
 苦しい云い訳にアルヌルフの声はフェイドアウトする。アーロンは助け舟を出した。
「そんなに楽しみにしててくれたんだね。ありがとう、アルヌルフ」
 はにかんだ少年の顔を見ながら、アーロンは安心していた。傷ついて苦しんで悩んでもがいたイェルンは、彼なりに前に進んでいる。両親や兄弟の様子から、家族関係も穏やかな事が分かった。
 イェルンやロータルとは、もう数年会っていなかったが、心配には及ばないようだった。
「楽しんでいってね、アルヌルフ」
 子供たちの楽しむ様子を見ながら、駆けつけてくれた大人たちにも声を掛けていく。
 頻繁に云われるのは、
「4歳でもう、あんなにしっかり挨拶ができるなんて、さすが、ハリー元摂政殿下の御長男ですね」
 確かにリーヴァイはしっかりした子だ。彼らの云っている内容に間違いはないが、云い方がアーロンには納得できない。
───そりゃ確かに、ハリーの躾のお陰だけど、リーヴァイ本人の努力があってこそなのに。
 とはいえ、不満を顕にしても仕方がないので、適当に笑顔を返しておく。
 そうこうしているとハリーの秘書、トラウゴットがアーロンに耳打ちする。
「おいでになりました」
「侯爵は?」
「エントランスへ向かわれました」
 アーロンも、急いで牧場のエントランスに向かった。途中で待っていたハリーと合流する。
 出迎えた相手は、国王カミル。
「遅くなって済まない。主役はご立腹かな?」
 挨拶を交わすと、カミルはそう云った。ハリーが笑顔で、
「サプライズ演出ですので、息子は待ち侘びております」
「サプライズか。となると、私だと知ってガッカリするかも知れないな」
 冗談を云い合いながら、パーティー会場まで国王を案内する。
 屋敷の一階の屋内エントランスにテーブルをセットして、大きな窓から牧場を見渡す。まだ青々とした牧草の生える牧場と馬場、そして秋の青い空が晴れ渡り、コントラストが美しい。天候までもが、侯爵家の長男を祝福していた。
 国王が会場に姿を現すと、招かれた大人たちが振り返り、視線を伏せて道を開ける。その先から駆け寄るのは、ニューエンブルグ侯爵家の長男にして国王カミルの従兄弟、リーヴァイ。
「ようこそいらっしゃいました、陛下」
 ボウ・アンド・スクレープを可愛らしく披露すると、
「4歳の誕生日おめでとう、リーヴァイ。こんなに立派にお辞儀をされたら、私のはみすぼらしく見えてしまうな」
 とカミルは云って、従兄弟を抱き上げた。大人たちがどよめく。
「まあ! 陛下に抱き上げて頂けるなら、我が子にもボウ・アンド・スクレープを身に着けさせようかしら?」
「勘弁してくれ、ザシャ。フリートウッド公爵家の下の子なら、もう10歳を過ぎてる筈だ。しかも女の子だろう?」
 会場がどっと沸いた。ボウ・アンド・スクレープは男性の挨拶だ。
 カミルはそのまま上座へ向かった。アーロンを指名して、リーヴァイを預ける。そして改めて、
「今日の主役は、リーヴァイ=ニューエンブルグだ。私は従兄弟として駆け付けたに過ぎない。私への挨拶は無用だ。そのままパーティーを続けなさい」
 と皆に云った。参加者はそれぞれ、歓談を再開させた。
「大きくなったからか、4歳は重いな。普段、膝に座らせるくらいならそうは感じないのに」
 カミルはアーロンの腕の中のブロンドを撫でる。するとアーロンは意味深に微笑んで、
「陛下もいずれは...」
「その発言はセクハラだぞ、アーロン」
 カミルはそう返して、執事から受け取ったシャンパンに口を付けた。
「あら、アーロン卿の云う通りですよ、陛下───」
 改めて国王の元にやって来た、ザシャ=フリートウッド公爵。「子の重みはそのまま幸福の重みです。陛下にもいずれは味わって頂きたいと、貴族も国民も願っております」
 後ろから付いて来た貴族の婦人たちも頷く。アーロンはその隙に、その場を離れた。
「なんだ、もう逃げ出すのか、アーロン?」
 と声をかけるのはハリー。アーロンは笑って、
「するなと云われても、挨拶をしたがるのが貴族ですからね。その間はリーヴァイがいなくても、構わないでしょう?」
「今日のところは許してやる。陛下はあまり貴族の集まりに参加なさらないからな」
 ハリーも肩をすくめた。
 カミル国王は、対個人なら普段から対応するが、団体戦は苦手だ。卒なくこなすが、自らその場に入ろうとはしない。目的のない会話は時間の浪費に思えてしまう。
 だからこういったパーティーは、下級貴族や接点のない者にはチャンスとなる。アーロンは敢えて、リーヴァイを連れ出した。
「主役もおネムですしね」
 リーヴァイはアーロンに身を預け、小さな手で目を擦っていた。



 ニューエンブルグ家長男の誕生日パーティーはお開きとなった。
 リーヴァイはお昼寝をしたお陰で、参加者のお見送りには、主役としてしっかり務めを果たした。
「例の件、今夜話すのか?」
 他の参加者が帰った後、カミルがゆっくりと帰り支度をしながら云った。
「はい。この後にも」
 ハリーは言葉少なに答えた。カミルは敏感に察して、両腕を広げる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、ハリー。離れて暮らす訳じゃないんだから」
 ハリーとハグを交わすと、カミルはアーロンに向き合う。
「リーヴァイの為に足を運んで頂き、ありがとうございました、陛下」
「叔父を頼むぞ、アーロン。彼は自分を責めているかも知れない。自分を不憫には思わないのに、我が子となるとそう思うみたいだ」
「陛下にも、侯爵の気持ちを理解できる時が訪れるでしょう」
 カミルの言葉にたじろぐハリーを横目に、国王はアーロンとハグをした。いつものハリーなら、二人をたしなめるところだが、今日はその元気もない。
 カミルは構わず、ふたりの間にいる従兄弟を見下ろす。彼は真っ直ぐなグリーンの瞳で見上げていた。
「今日は立派だったぞ、リーヴァイ。さすが、王家の血は争えないな」
 と云って、カミルはふわふわのブロンドを撫でた。
「今日は来て下さって、ありがとうございました、陛下」
 カミルの云ってる意味は解らなかったが、リーヴァイは精一杯挨拶した。




 リーヴァイにはリビングで少し待つよう云い残して、アーロンはハリーを連れて寝室へ向かう。
「今日はミロも頑張っていたから、お相手をしてあげてね、リーヴァイ」
「はい、パパ」
 他者に対して温和で友好的な性質のグレートデーンは、招待客のもてなしも頑張った。
「最後にリーヴァイをおもてなしするんだよ、ミロ」
 と愛犬にも云うと、ひと声吠えてアーロンに答えた。
「おいで、ミロ!」
 お昼寝のお陰か、リーヴァイは元気に云って歩き出した。アーロンは知らずに笑顔で向き直り、ハリーを促して階段に足をかけた。
「パパ!───」
 後ろから呼び止められた。「ミロと、馬を見に行ってもいい?」
「いいよ。見るだけだからね!」
 リーヴァイは喜んで、大型犬を促すと走り出した。その姿を見送ってハリーは、
「馬に近付き過ぎたりしないかな?」
「カトリナが着いて行ったから、大丈夫ですよ」
 ハリーには見えない角度だったが、乳母が息子の後を追うのをアーロンは見たらしい。彼が云うなら大丈夫だろう。
 ふたりは寝室に入った。
 寝室と云っても、ソファとテーブルのセットもある。別荘だからか、書斎のような個人用の部屋がないだけだ。
 アーロンはハリーとソファに座る。部屋の外で待っていたメイドからティーセットを受け取り、アーロンは紅茶を淹れた。
「冷めないうちに飲んで、ハリー」
「この香りはキーマンか...」
 ニューエンブルグ家のものを、持って来た茶葉だ。
「疲れが取れるよ」
 そう云ってアーロンも、ハリーが飲むのを確認してから口に含んだ。強い香りは、カップに注いだ時から漂っている。
「ラファエルが人買いに見えてしまうよ」
 夕焼けのような赤い液体に視線を落として、ハリーは呟いた。アーロンはくすりと笑って、
「深刻に考え過ぎだよ。肩書が付くだけじゃないか」
「いや。なんやかやと理由を付けては呼び付けて、手元に置いて離さないだろう。だってリーヴァイはあんなにカワイイんだぞ! 誕生日のパーティーにわざわざ来るなんて、カミルにしてはおかしい!」
 国王の名前を伏せて話す余裕も残っていないハリー。こんな親バカになるとは、アーロンは想像すらしていなかった。
 アーロンは呆れてため息をつき、安心させようと口を開いた。が───。
「お前はイマイチ判ってないみたいだが、リーヴァイはおそらく、国内はおろか、ヨーロッパで競っても、比べようもないくらい可愛くて賢い。そっちの趣味じゃないカミルだってきっと、魔が差せば...」
 ここまでくると、苦笑いすら出ない。
 そりゃ今のうちは可愛いだろうが、第二次性徴を迎えて男らしくなったら、濃い髭が生えてくるかも知れないし、背も高くガッシリしたイカツイ体格になるかも知れない。反抗期だってあるだろうし、女の子に興味を持ち過ぎて勉強に身が入らないなんて事もあるかも知れない。
───リーヴァイがガールフレンドを連れて来たら、ハリーはどうするだろう...。
 今のうちから、ハリーに覚悟するように云っておかないと、とアーロンはハリーに向き直った。



 厩舎では、乳母のカトリナが腰を折って、地面を見つめていた。
「ナスカン...ですか?」
 馬具のベルトを繋ぐ金具だ。
「革ベルトが切れそうなんで、交換してたら落としちゃって」
 調教師は豪快に笑った。
 詳しく聞いてみると、馬のすぐ側で交換の作業をしていて、イタズラ好きの馬が調教師の背中を押したらしい。その勢いで調教師はバランスを崩し、ナスカンとやらを手放してしまったと云う。
「馬房の中には落ちてない筈なんだが、こう暗くちゃ、どこに落ちたのか...」
 古い厩舎は照明も古く、老眼の始まっている調教師の目には、小さな金具は、海に落とした指輪のようだ。
「金属の金具を探せばいいんですね?」
 カトリナの親切など、ごく当たり前の行動だった。
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