あじさいの城4 ―アルテミスの娘―

かしわ

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 ノックの音がした。
「入るよ、エナ」
 カミルの声だ。エナが返事をする前に、婚約者はドアを開けた。顔だけを覗かせると、電気が点いた。
「具合はどう?」
 と云いながら、何歩も歩いてベッドにたどり着く。ちゃんと着替えが済んでいて、あとはネクタイとジャケットがあれば出掛けられる服装だ。
 カミルはエナの頬に指の背を当て、そして額に手のひらを乗せる。
「熱はないね。寒くない?」
 わりといつも通りのカミル。言葉数が多いのはたぶん、エナを心配してくれてるから。
 しかしエナは、さっき泣き止んだばかりで、決して機嫌よくはない。
「もう少し、寝ててもいい?」
「いいよ。何かあったら、躊躇わずに云うんだ。いいね?」
 カミルは立ち上がり、窓へ向かう。ドレープカーテンを引いて端へ寄せる。しかし、レースカーテンの向こうはまだ暗い。
「今、何時?」
「7時半くらいかな」
「もう、そんな時間なの?」
 エナは思わず身を起こす。
───忘れてた! こっちの冬は日の出が遅いんだ!
 ナガノよりも、一時間以上遅い。
「慌てる事はない。あんな思いをしたんだ。気が済むまでゆっくりしなさい」
「ううん、もう起きる。大丈夫だから」
 慌ててベッドから出てシャワー室に向かうエナを、カミルが呼び止める。傍に来るように求められて戻ると、顎を掬われた。
「......」
 見つめられて、エナは目を逸らすが、カミルに咎められる。
「泣いた?」
 バレた。
「あー、ちょっと、夢見ちゃって...」
 と云ったが、カミルはごまかされてはくれない。でもまさか、婚約者に対して「自分は一人ぼっちだ」とは云えない。
 答えあぐねていると、優しく抱き寄せられた。
「ひとりで解決できる事?」
 エナのショートヘアに指を絡める。カミルの腕の中は温かくて、心臓のトクトクというリズムが心地良い。
───カミルとふたりで解決する事...。
 そんな事、云えない。彼を縛る事になったらいけないから。
───抱いて...。
 こんな時、そう云ってエッチするものなのかな。
 エナはそう思って、挑戦しようとして...とうとう云えない。そんな事で、何が変わって何が解決するのか、エナには関連性が見出せない。別に今シたいとか思わないし。
 今考えなくてもいい事を考えていると、カミルに名前を呼ばれた。
「云えないならいいよ。シャワーを浴びておいで」
 そう云われてハッとする。考えるのに夢中でカミルの腕の中にいる事を忘れてた。
「ごめん。すぐ戻るね」
 数歩進んで、エナは立ち止まる。なんか今、力尽くで離れた、ていうか、引き止められた...? 気になって振り返ると、
「いや、なんでもない」
 カミルは口元を隠して目を逸らした。エナは首を傾げながらも、シャワールームへ向かった。
───カミルらしくなかったな。



 自分はチョロい、とエナは思う。
 ほんの数時間前には泣く程の孤独を感じていたのに、今、大好きなクロワッサンを目の前にして、大喜びしている。踊っちゃいそう。
「冷めないうちにどうぞ」
 メイドさんが、カフェ・オ・レをエナの為に作ってくれた。
 籠に山盛りのクロワッサンと、カフェ・オ・レ。優雅な朝食だ。
「ご所望なら、クロワッサン・ぺルデュ・サレでも、クロワッサン・オ・ザマンドでも、なんでも云って、エナ。シェフに作らせるから」
 カミルはコーヒーを飲みながらそう云ってくれた。
「シェフがいるの!?」
「うん。ここで働く人の食を預かっているシェフだ。評判だよ」
 そうか。お金持ちなら、お抱えシェフも当たり前か。カミルはエナの想像の上をいく資産家のお坊っちゃんだ。
 しかしエナはクロワッサンを一つ千切りながら、
「カフェ・オ・レがあれば充分。しかもこのクロワッサン、温かいの。カミルもどお?」
「僕はもう、朝食は済ませた」
 カミルは食に対して、あまり興味がない。まあ、エナ自身もクロワッサン以外には見向きもしないが。
 バターの豊潤な香りを裏切らない甘さと、表面のサックサクの食感。中の生地は、舌の温度で溶けるような柔らかさがありながら、モチモチの歯応えと素材の甘み。そして鼻を抜ける香ばしさ。
「んン...!」
 最初の一口はあまりの美味しさに、ため息とともに声が漏れる。
「このクロワッサン作った人、神!」
「伝えておく」
 二口目はクロワッサンをカフェ・オ・レに浸す。そうやって千切ったものをプレーンと交互にして食べた。
「ご馳走さまでした」
「もういいの? カフェ・オ・レは?」
 いつものように、エナの食べる姿をを眺めていたカミルが訊くが、いつものように、エナの朝食は終了。
 するとそれを待っていたように、ノックとともにドアが開いた。
「ニコル!?」
「おはようございます」
 パンツスタイルのキレイめお姉さんが入って来て、カミルの前でちょこんと膝を曲げた。現地の言葉で挨拶。
「隣の部屋で待ってて、エナ」
 いつになく慌ててカミルが云うと、メイドさん達がエナに迫り、さっさと連れて行かれた。
───今の女の人、誰? 元カノ?
 ウケる~。
 しかしエナから見えないようにカミルは立ち塞がっていた。
 淡いブラウンのボブを揺らして、すっぴん風なのに整った目鼻立ち。丸ネックのジャケットにワイドパンツは、ちっとも派手じゃないのに、一瞬で部屋が華やいだ。
───カミルと並ぶと、絵になってたな...。
 片やエナの服装は、白ブラウスに黒のワンピ。お気に入りの服が瞬殺された気分。
 間もなく隣の部屋から、カミルとお姉さんが入って来た。
「エナ、こちらは...」
「堅苦しいのはやめましょ。あなたが『Enah』ね。初めまして、ニコルよ」
 英語で握手を求められて、エナは反射的に右手を差し出した。
「初めまして。エナです。エナ=...」
「ファーストネームだけでいいでしょ。やっと会えたわ、カミルのお気に入りの画家に!」
 エナも気付いてはいた。先程いたダイニングにも、この部屋にも、エナの絵が飾ってあることを。
───お気に入りの、...。
 カミルをチラ、と見ると、ちょっと気難しい顔をしている。エナには会わせたくなかった、そんな感じに見えた。
「ね、エナ。今日は私がこの国を案内してあげる。いらっしゃい」
 珍しく慌てるカミル。現地の言葉で何か云うけど、ニコルは人差し指を振って、
「#$%&? *&□%$▷#、マイェステート?」
 ニコルの現地の言葉に、咳払いをするカミル。その前を、エナはニコルに手を引かれて出て行く。
 ままならないもどかしさを惜しげもなく顔に出して、カミルはエナの後を追った。



 車は短めのリムジン。
 街中を走る間、ニコルは電話をかけている。
「ごめん、エナ。国内を案内しようとは思ってたけど、とんだオマケが付いてきて」
「オマケだなんて、失礼ですわ、カミ───」
「ラファエルだ!」
 カミルは怒鳴るように被せて云った。こんなに彼が慌てたり困ったりするのは、エナも見た事がない。しかし間にいるエナも、どうしたらいいか分からない。
「私たち、幼馴染みたいなものなの。家ぐるみで親しくさせて頂いてて、彼が小さい時から知ってるわ。昔から生意気だったのよ、ね、ラファエル」
 するとカミルは現地語で何か云った。ニコルは涼しい顔で短く返す。
 カミルはずっと難しい顔だ。エナは、ちょっと胃が痛くなる。
 やがて車が止まる。
「付き合ってくれる、エナ?」
 そう云われて、エナはニコルと車を降りた。
「ここ、私のお気に入りのお店なの。あったわ。これ、着てみて、エナ」
 一方的に渡され、エナは仕方なく試着する。ちょっとくすんだパステルカラーの、ラップ風ワンピ。バルーンスリーブがフェミニンなテイスト。
「やっぱり! この色、あなたに似合うと思ったの!」
 はしゃぐニコルの後ろにカミルがいた。表情が和らいで、機嫌が治っていて良かった。
 ニコルは更に、同じ色のショートブーツとバックをコーディネートした。
「でもわたし、そんなにお金、持ってきてないし...」
「いいのよ、そんな事気にしなくても。へぃ───ラファエルがプレゼントしてくれるから」
 ニコルの強引さに文句を云いながらも、カミルはプレゼントに関しては気持ちよく応じた。
 車に戻る時には、ニコルは別の車の執事に荷物を持たせていた。
「エナにもちゃんと、『付き合ってね』て云ったでしょ。ね、エナ」
 と振り向くと、顔色が良くない。
「ごめんなさい。ちょっと...」
「急になの!? すぐに云わなくちゃダメじゃない!」
 ニコルも慌てる。車に乗せようと手を取ると、汗ばんでいる。脂汗をかいているようだ。
「この近くなら、いい場所がある。そこへ向かおう」
 カミルはそう云って、スマホを取り出した。



 出迎えたアーロンは、見るからに不機嫌だった。
「アポも取らないで突然押しかけていらっしゃるとは...」
 高級貴族を相手に、修道院出身のアーロンは嫌味たっぷり。
 ハリーの教育がうるさい筈なのに、この日のアーロンは髪が乱れ、シャツは第二ボタンまで外れている。一応、ニューエンブルグ家のシティハウスに案内はされたが、後をついて行く足元に目をやると、靴下も履いていない。
「寝てたのかしら?」
 カミルに耳打ちするニコル。カミルは口元に手をやって、
「『寝てた』の意味が違うだろう」
 どうやら、最もタイミングの悪い時にしてしまったらしい。
 するとアーロンが振り返り、
「どのようなご用件でしょうか? エナまで巻き込ん───」
 顔色が変わる。「具合悪いの、エナ?」
 カミルとニコルに数歩遅れて、俯いて歩くエナ。アーロンが訊くまでもない。
 二人をリビングに案内し、エナは応接室に通す。アーロンはそのままエナの診察を始めた。
 アーロンは看護師資格を持つメイドと、英語を話せるメイドを呼ぶ。エナは、遠慮というか、心を閉ざしているようで、「大丈夫」の一点張りだ。
「じゃあ、いつもはどうしてるの、エナ?」
 質問の答えを聞くのはメイドに任せて、アーロンは応接室を出た。
 リビングのソファセットでは、カミルとニコルが、神妙な顔で静かにしていた。アーロンの顔を見ると、カミルは立ち上がった。
「エナの具合はどうだ?」
 アーロンはさっきの不機嫌がウソのように微笑んで、しかし頭を掻く。
「ソファでしばらく休むと云っています。いつも飲んでいる鎮痛剤を調べてから、渡そうと思います」
「鎮痛剤?」
 訝しむカミルに、ニコルがまるで訳知り顔で云う。
「女の子にはそういう時もあるの。分かるでしょ」
 それでカミルは一応納得したようだった。肩を落とし、応接室の方を顎でしゃくる。
「行っても構わないか?」
「鎮痛剤を渡す時に、訊いてみます」
 結局、カミルが心配しているとアーロンに云われて、エナは婚約者に会うことにした。
「ごめんね、カミル」
「気にするな。僕の方こそ、何も気付かなくて済まなかった」
 ブランケットをかけ直す。ソファに横になるエナに合わせて、カミルは床に座っている。メイドも出ていってしまって二人きりだが、誰かに見られたら、たしなめられてしまうかも知れない。国王が床に座るとは、とかなんとか。
 カミルは思わずフッと笑った。
「なに?」
 エナの表情も和らぐ。
「エナには悪いが、病気じゃなさそうで、ホッとした」
 そう云って、エナの前髪をかきあげる。
「だめぇ」
「目に入りそうだ」
「いいの。大丈夫」
 アーロンから、質問はNGと云われていたカミル。しかし、云わなければならない事を云うのは、今だと思う。
「鎮痛剤を飲んだなら、眠くないか?」
「まだ大丈夫みたい」
 それはちょっと不都合だと、カミルは思う。できれば微睡んでるくらいがちょうどいい。しかし意を決して、
「今から云う事は、聞き流してくれていいんだが」
「なに、それ」
 早々のツッコミに、カミルは苦笑い。
「考えるな、て意味。───」
 律儀に答えてから、「僕は、実は王様なんだ」
「よかった」
 エナの感想に驚いて、カミルはオウム返しに訊く。
「よかった?」
「もしかしたら、マフィアのお坊っちゃんかと思ったから。だってメイドさんとか執事さんとか、あとボディーガードの人とか、みんなカミルにかしずくんだもん。王様の方が、マフィアよりはマシかな」
 カミルは苦笑いで頭を振った。同時に思うのは、エナの言葉数が増えてきた事。体調が戻ってきたのかも知れない。
 そんな事を思った途端に、エナの目尻を雫が滑り落ちた。カミルはエナと一緒に、指で雫を掬う。
「ごめん。今情緒不安定だから、気にしないでね」
 エナにそう云われると、却ってカミルは不安になる。もう、決意してしまったかも知れない。
「僕がもう少し大人だったら...」
 虚しい仮説だ。大人だったらなんだと云うのか。
 カミルは大きく頭を振った。正解なんてないし、幸せにする保証など、この世にはない。あるとすれば...。
「僕の気持ちは、結婚を決めた時から変わらないよ、エナ」
 でも、この気持ちが果たしてどれくらい伝わっているかが分からない。
「愛してる?」
 エナは眩しそうに目を細めて云った。カミルはブランケットから指先だけ出ているエナの手を取って、その手にキスをする。
「愛してる」
「こっち」
 もう片方の手で、エナは自分の唇を示す。カミルは中腰になって、ソファに手をついた。口づけをする、まだ十代の婚約者。
 シャンデリアの煌きの下で、カミルの顔は真っ赤だった。
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