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天使が訪れる

4 副所長はモテ期

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 アーロンが事務所に戻ると、事務員たちがワタワタしていた。
「なんか、あったの?」
 近くにいた事務員に訊くと、
「あっ、副所長!」
 叫び声とともに、全員が注目する。
「患者が暴れています!」
「どこで?」
「放射線科の待合いです!」
 一瞬アーロンの口角が上がったように見えた。しかし事務員が確認する間もなく、アーロンは出て行ってしまった。
「マズい!」
 慌てたのは、ファイルの束を抱えたアーロンの秘書、ジーグルーン=クルツ。グレーのスーツにネクタイをしている。ブルネットの髪を後ろで一つにまとめ、化粧っけはない。ハリーから、アーロンのお目付け役を申しつかっている。
 だから、ファイルを事務員に預けて、慌ててアーロンを追いかけた。
「先生、アーロン先生、待って下さい!」
「走っちゃダメだよ、ジーグルーン」
 早歩きの速度は緩めず、アーロンは秘書を見下ろす。
「せ、先生こそ、暴れたらダメですよ!」
「暴れてるのは私じゃなくて、患者だろ、ほら」
 アーロンの指差す先に、人だかりができていた。ひと目見て、アーロンは眉を曇らせる。
「マズいな。あれ、薬物中毒者だ」
「えっ!? あ、先生っ」
 人だかりを掻き分けて行くアーロンを、ジーグルーンは一瞬遅く、捕まえ損ねた。
 アーロンは遠巻きの輪の中に入り、ボールペンを振りかざす男の手首を掴んで、捻り上げた。人だかりがどよめく。
「お前が殺し屋かっ。た、助けてくれっ。誰か、警察を呼んでくれ! 殺される!」
 男は素人目に見ても、目がヤバい状態だった。アーロンは男の頭上から見下ろして、
「警察はもうすぐ来ますよ~。あんまり抵抗しないで下さいね~」
 ジーグルーンは見ていて気が気じゃなかった。アーロンの捕まえた男は、上半身裸で目が血走っていて、捻られていない方の腕は肘の内側付近から手首にかけて、血だらけだった。しかも、アーロンに押さえられたら普通は身動き取れないのに、更に暴れようとして足をバタつかせている。
「先生...」
 ジーグルーンは思わず呟く。アーロンが手首をキメてもなお暴れるとは、かなり力強い男だ。万が一アーロンの手が外れたりしたら、アーロンは返り討ちに遭ってしまうかも知れない。
「もうすぐ警察も到着しますので、来院の皆さんは戻って下さーい」
 事務員と男性看護師が、人だかりを追い払う。なにせ人だかりときたら、野次馬から一歩踏み込んでスマホで撮影をしているんだから、困ったものだ。もう既に、一件や二件はネットにアップされているんじゃないだろうか。
 人だかりがなかなか散らない中、やっと警察が駆け付けた。その間も男は「殺される!」「警察呼べ!」を繰り返していた。
「お望み通り、警察来ましたよ」
 とアーロンが云っても、
「うわあ、殺し屋が来たぁ! 殺される! 殺される!」
 肩を揺らしてアーロンの拘束から逃げる気だ。
 しかし駆け付けた警察にも薬物中毒者らしいという情報は届いていたようで、彼らは拘束衣を男に着せて、その上からロープで縛り上げて、三人がかりでガッチリ抑えながら、連れて行った。
 他にも警察は大勢駆け付けて、包囲しながらも銃や盾を構えて、結構な臨戦態勢だった。
 その中でアーロンだけが、まるで警察を従えるみたいに、スラックスのポケットに手を突っ込んで見送った。スマホを構えていたギャラリーも、アーロンの行動を讃えて拍手喝采だった。
「ネットに流されますから、帰ったら侯爵に叱られると覚悟しておいて下さいね、先生」
 引き返すアーロンの隣を歩きながら、ジーグルーンは怒って見せる。しかしいつだって、アーロンには効果がない。
「もうネットに上がってるの?」
「まだ確認はしていません。ですが、あれも、あっちも、後ろのも、みんなスマホで先生を撮ってます」
「物好きだな~」
 ジーグルーンは体の向きをクルリとアーロンに向け、ちょっと眉を吊り上げる。
「それは、先生を撮るギャラリーがですか、それとも、トラブルに飛び込む先生が、ですか?」
 アーロンはまあまあ、とジーグルーンの肩を叩いて歩き出す。こちらが怒ってもアーロンは平気なものだ。
「先生の云い分も、分からないではないですけどね」
 副所長として、この医療センターを守りたい、来院者や施設スタッフを傷付けたくない、それは解かる。しかし、
「侯爵に叱られるのは、先生だけじゃないんですよ」
 そう云われると、アーロンもジーグルーンが気の毒になる。
「侯爵には、私から云っておくよ」
 ニコ、とアーロンは笑った。
───ぜんっぜん分かってない!
 肩をがっくり落として、秘書はアーロンを見送ってしまった。



 相変わらずのアーロンだが、相変わらずではない事もある。
「副所長カッコいい!」
「イケメンで頭良くて強い、てありえなくない?」
 女性所員にベタ褒めされるが、男性所員も黙っていない。
「僕なんか昨日、クッキー貰っちゃったもんね」
「うっそ、なんで?」
 胸ぐらを掴まれて、ソッコーでタップアウトする男性。
「昨日? じゃそれ、事務長が配ってた手作りクッキーじゃないかな。豪華なラッピングじゃなかった?」
「そーいえば、クリスマスみたいにキンキラしてたな」
 と云って女性所員を見ると、二人とも固まっていた。ハッと我に返った様子で、
「今の、聞かなかった事にしとくわ」
「えっなんで!?」
「知らない、知らない」
 アーロンのモテ期だ。しかもアーロンはガードが固い。スゲー緩そうなのに。
「先生、ランチ行きましょうよ」
「いいよ。取り敢えずこれやったら行くよ」
 と云って行く気を見せるが、副所長は忙しくてすっぽかす。
 だからと云って、お詫びにディナーなんかせがむと、
「ごめんっ。起きてる息子に会えるかも知れないから、真っ直ぐ帰りたいんだ」
 イクメンかっ!
 ちなみに、デスクに写真を飾らない副所長に、
「息子さんの写真データ、スマホで撮って持ち歩いてるんでしょう。見せて下さいよ」
「うーん、それがねぇ...」
 歯切れが悪いなりにも見せてくれる。が、顔はモザイク。
「侯爵に叱られるんだよね。セキュリティ意識を持ちなさい、て」
 そりゃ、顔見に帰る訳だ。
「どうにかしてランチだけでも...」
 と女性所員がブツフツ云う隣で、男性所員が、
「無理だと思うよ。副所長、昼ごはん食べないから」
「嘘でしょ!?」
「このセンターの七不思議だよなぁ」
 暇そうな別の所員が、コーヒー片手に通り過ぎる。
「見たことないんだよ、誰も」
「なにを?」
「副所長が食事してるところ」
 アーロンはコーヒー党だ。食事に誘う事ができないなら、せめてティーサロンで接近しよう!
 女性所員は、アーロンが誰にも呼ばれずにふらっと席を立つ瞬間を待った。
───今だ!
 女性所員が立ち上がろうとした刹那、周囲の所員も一斉に立ち上がった。ずぞぞぞ、と大移動が始まったが、廊下に出ると既に先発隊が戦闘を開始していた。
───作戦失敗か...。
 女性所員は、チッと舌打ちして席に戻った。
 次の日、隣の席の男性所員がウキウキで出勤して来た。
「僕の話、聞きたい?」
「ニヤけてるのがキモいから、さっさと話しちゃって」
 毒を吐いたが、話を聞いて女性所員は叫ぶ。
「なんですって!?」
 昨日、その男性所員は残業していたが、ティーサロンに行くと副所長がいて、医療の質問をすると熱心に教えてくれたと云う。
───その手があったか!
 と、思ったのは女性所員だけではなかった。



 病理検査室でアーロンは、仕事をサボっていた。
「最近、人増えたかなぁ」
「さあ。私が知る訳ないだろ」
 答えるのは、この部屋のボス、バルバラ=アイゼンシュタット。さっきからずっと、顕微鏡に釘付けだ。
「ちょっとした名物ですよ、このセンターの」
 プレパラートを作りながら、技師が面白そうに云った。
「なんだ、名物て?」
「分母が増えた訳じゃないんですよ」
 バルバラには意味が分からなかったが、興味もないのでスルー。それよりも、今調べている検体に頭を痛めている。
「分かった、アーロン?」
「無理。オレも分かんない」
「使えねぇ!」
 バルバラが毒づいた途端、二人で大笑い。アーロンは検体の写真をバルバラに返しながら、
「現役の病理医が分からなくて、内科医のオレに分かる訳がない。病理の検体なんて、資料でしか見てないからな」
「かつてのエースの名が泣くな」
「誰がエースだ」
 プレパラートから技師が顔を上げる。
「先生と副所長て、同じ大学なんですか?」
「いや。同じ教授」
 アーロンが授業を受けた教授は、当時、バルバラの大学に時々講義をしに行っていた。
「その教授のお気に入りだったんだ、こちらの副所長は」
「手先が器用だったからさ。昔から技師は足りないからね」
 バルバラの持ち上げが痒くて、アーロンは説明を正した。しかしバルバラは技師に眉を上げて見せる。
「謙遜、謙遜」
 バルバラの言葉に、コーヒーカップを持ったまま、アーロンは軽く手を広げてからコーヒーを飲む。二人は気の置けない仲のようだ。
「息子元気? もう歩けるの?」
「元気だよ。ハイハイが出来るようになって、目が離せなくなった」
「犬を飼うといいらしいですよ。護ってくれる、て聞きました」
 不確定情報だ。
 しかしアーロンは犬と聞いて、義弟のヴェンデリン=ゲルステンビュッテル子爵を思い出す。寄宿学校に編入が決まっていたから、彼の希望を叶えてやれなかった。
───休暇で帰ってきて、義兄の家ニューエンブルグに犬がいたら喜ぶかな。
「侯爵に提案してみるよ」
 アーロンはカップを空にして返す。バルバラが受け取りながら、
「戻るの?」
「ああ。コーヒーありがとう。美味しかった」
 アーロンは技師の肩を軽く叩く。技師は爽やかな笑顔で、
病理ここので良ければ、いつでも淹れますよ、副所長」



 自宅に帰ると、アーロンはまず、リーヴァイの顔を見に行く。
 ハリーがいる時は、彼とのスキンシップが最優先だが、この日は取引先とディナーで、まだ帰っていない。
「今帰ったよ、リーヴァイ。いい子にしてたかい?」
 スーツのまま抱き上げて、ソファに座る。言葉はまだ喋れないが、リーヴァイは手足をバタつかせて、体全体で喜んでくれる。
 アーロンとハリーは接し方も全く違う。
 帰ってからも、ハリーがいなければリーヴァイの元へ一直線のアーロンだが、そこをハリーに注意される。
「まず着替えてからだろ」
 そう云うハリーは、リーヴァイを連れてこさせる。決して自分からは行かない。その際、ハリーはその日のリーヴァイの様子をベビーシッターのカトリナから聞く。
「一日に一回は抱いてあげてよ、ハリー」
 アーロンに強く云われ、リーヴァイを膝に乗せるくらいはするが、ヨダレやお漏らしが気になって、長くは抱いていられない。
 ハリーに愛情がない訳ではない。膝の重みを感じる度に、初めて抱いた時の記憶が蘇り、「重くなったな」「大きくなったな」と話しかけるように云う。穏やかで優しい表情だ。アーロンの至福の瞬間だ。
 アーロンは逆にベタベタし過ぎてハリーにきわどい事を云われる。
「もしもお前とリーヴァイの血が繋がってなかったら、オレはお前たちの関係を疑うからな」
「それなら、ヒエロニムス様のお膝に憧れたハリーもヤバいよな」
 途端に機嫌を悪くするハリーに、アーロンはすぐに謝ったが、危うくケンカになるところだった。
 リーヴァイの髪色はブロンド。ハリーの生まれた頃と同じだ。ちなみに卵子提供者もブロンドで、瞳はグリーンと資料に書いてあった。今のリーヴァイも同じ。
「まだ顎は割れてないな」
 アーロンは小さな顎を摘んでクスッと笑った。
 アーロンには元々幼い頃の写真などないから、似ているかどうかは判らない。
───オレとハリー、どっちに似てても似てなくても、愛してるよ、リーヴァイ。
 声に出さずに語りかけるアーロン。リーヴァイは意味不明な声を発しながらも、アーロンと目を合わせて笑顔になる。
 赤ん坊も含めて、アーロンは子供と額をくっつけ合うのが好きで、最近やっと、リーヴァイともそれが出来るようになった。額を離して目を合わせると、リーヴァイは甲高い声で笑う。
「リーヴァイは、犬は好きかな?」
 不意にアーロンは、カトリナに尋ねた。彼女は笑顔で、
「まだ、判別はできないようです。本物をご覧になってみないと...」
 動物と赤ちゃんはカワイイものの最たる組み合わせたが、大人の思い通りにいかない組み合わせでもある。
「馬だったら話は早いかもしれないけどなぁ」
「は? 馬...でしょうか?」
 アーロンの唐突な発言に戸惑うカトリナ。
 馬ならハリーはすんなり許してくれるだろうが、それ以外の動物を飼うのを、簡単にO.K.するかどうか。
───ま、馬じゃリーヴァイの部屋では飼えないけどな。
 動物の保護センターで見つけるのではなく、たぶん血統書付きの純血種を買い、ドッグトレーナーを付け、専任の世話係を雇い...。
───ハリーと相談しよ。
 だって、家族の事だから。
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