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期待と不安

5 ハリーからアーロンへ

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 ハリーの本名は『ハリー』ではない。
 ハロルド・エードゥアルト・マクシミリアン。『ハリー』はハロルドの愛称だ。
 しかし、義父の元フリートウッド公爵でさえ『ハリー』と呼んでいた。
「初めて知った時びっくりした。ギュンター先生がたまに呼んでたくらいだな」
 ファイト=ギュンター。フリートウッド公爵家の元主治医だ。
「初めて知ったの、いつ?」
「学校に入学する時。でも先生は間違えて『ハーロルト』て呼んだ」
 スペルが同じなんだから当然だ。だから『ハリー』とみんなに呼ばせたのかも知れない。
「フリートウッド家はG国の流れを汲んでるんだ。必ずじゃないけど、子供に英語名を付けることがあって、だからオレ『ハーロルト』じゃなくて『ハロルド』なんだろうな」
 母国語で読んだ場合、『ハロルド』は『ハーロルト』になる。しかし愛称の『ハリー』は英語にしかない。
「ややこしいな」
「オレが好んで付けてもらった訳じゃない」
 ハリーが拗ねた感じで云うと、アーロンは彼の手を取り、
「ハリーは『ハロルド』より『ハリー』の方がしっくりくるよ」
 クスッと笑って、握った手に唇を付けた。
「紋章も決めないと───」
「紫陽花!」
 アーロンが云い終わらないうちに、ハリーは云い切った。アーロンは笑って、
「そう云うと思った」
 ハリーも笑って、
「王家は薔薇を使ってる。薔薇は好きなんだけど、分家として合わせる必要はないと思う。組み合わせるモチーフをどうするか、だな」
「盾か剣か槍、フラッグもあるし王冠やクロスも───」
「クロス!」
 またもやハリーが台詞を被せる。アーロンは「クロスね」と云ってタブレットに入力する。
「そうじゃなくて、お前、クリスマスにプレゼントしてくれただろ、クリストハルトのクロス」
「うん。オレの代わりにハリーの傍に置いて欲しいと思って」
「オレがお前の元に戻したんだぞ」
 パソコンに向かって前屈みだったアーロンは、上体を起こしてハリーに向き直った。
「やっぱりハリーだったのか」
 ヘーゼルの瞳が、じっとハリーを見つめる。ごくたまに、アーロンはこんな目をする。それはたぶん、本音を云うべきかどうか考えてる。
「アーロン...?」
 どちらが悪いとか、譲らなければいけないとか、そういう事じゃない。でも、本音を云って欲しい。
 すると、緊張の糸を断ち切るように、アーロンがフッと笑った。
「そう構えるなよ、ハリー」
 アーロンは同じソファに並んで座るハリーの腕を引いて、抱き寄せた。
「オレ、余計な事したかな」
 ハリーの体勢は斜めになっていて、その分アーロンより低くなる。身長差が生まれて、首を折るようにアーロンを仰ぎ見る。唇が少しだけ開き、見下ろすにはいい角度だ。
───きれいだな。
 と頭の片隅で思いながら、
「余計かどうかは分からないけど、結果として、悪い事じゃなかったと思うよ」
 すると、きれいなハリーの表情が曇る。
「お前、濁してるだろ」
 ハリーの言葉にアーロンが頭を振ると、ハリーはにじりよって、倒れ込むアーロンに乗り上げた。
「本音を云え、アーロン」
 ハリーは怒った表情なのに、組敷かれたアーロンはニヤニヤ。
 騎乗位。
「......」
「積極的だな、ハリー」
 アーロンはハリーの頬を撫でようと手を伸ばすが、ハリーに突っぱねられた。何度も果敢に挑戦するが、跳ね退けられ、捕まる。ムキになって、その手を握りつぶす勢いのハリー。
「分かった分かった。ちゃんと云うよ」
 さして痛くはないが、ハリーの怒りを鎮めないといけない。
 アーロンは、乗り上げた彼から降りようとするハリーに、「起こして」と手を伸ばす。何も考えずにハリーが手を引くと、アーロンは飛びついてきた。
「...っ!」
 驚くハリーをアーロンはぎゅっと抱きしめた。腕を緩めたと思うと今度はキスの雨を降らせる。
「ちょ、まっ、アーロ、んっ」
 久々に、グレートデーン発動。ハリーはなんとかアーロンの頭部を捕まえて、睨む。
「怒るぞ」
 アーロンはちょっと残念そうな顔で笑って、肩をすくめた。



 アーロンはソファの上で長い足を折りたたむ。
「あの時、オレの私物は何ひとつ残ってなかったのに、唯一あのクロスだけ、オレの手元に返ってきた」
 でっかい子供みたいに体育座りで、語り出すアーロン。それを聞きながらハリーは、
───こいつ、何か抱えてないといられないのか?
 などと思う。その手には、話題のクロス。さっき取りに行って戻って来た。
「あのクロスを見て、クリスが呼んでるのかと思っちゃったんだ」
 それは、死の世界から。アーロンはひとりでひっそりと死のうと思っていた。
「でも、オレの傍にいろ、て云っただろ」
 あの時もハリーはそう云った。アーロンは頷いて、
「でも、そのクロスを見ると、思い知らされるんだ」
「なにを?」
「自分がちっぽけで、無力で、なんにも出来ない、て事」
 クロスは名もない植物のように小さくて、ちょっと力を入れたら簡単に壊れてしまいそうな、儚げな見た目。まるで、クリストハルトのように。
 そして、実際にアーロンは力を尽くせなかった。
 子爵邸を火事にしてしまったし、ロミルダ=コールを死なせる事になってしまった。イェルン=リヒターは拐われ、心に大きな傷を負った。そして義母は目の前で命を絶ち、義父は逮捕された。
「誰も、守る事が出来なかった。クロスを持っていたのに、クリスの事も守れなかった」
「このクロスは、守って欲しくてお前に渡されたものじゃない」
 ハリーはクロスを、革紐でチョーカーにしておいた。アーロンの襟元を想像しながら。普段、飾り気のないアーロンが付けたらきっと、モチーフは小さくてもインパクトは大きいだろう。
「右腕を出せ、アーロン」
 ハリーは右側にいるアーロンに、遠い方の腕を出すようにと云った。何も考えずに従うアーロン。
 ハリーは差し出されたアーロンの腕に、クロスの付いたチョーカーを巻いた。
「ハリー...」
 戸惑うアーロンに、ハリーは巻きながら、
「いつでもこのクロスを見て思い出せ。自分が完璧じゃない事を」
「ハリー、て、たまに厳しいよね」
「完璧じゃないならどうすればいいのか、考えろ」
 ハリーは言葉とは逆に、いつになく穏やかな微笑みで、ヘーゼルの瞳を見つめる。
「ハリー...」
「どうすれば、オレと家族を護れるか、考えて護れ。お前と家族の事は、オレも護る。だからちゃんと、オレの傍にいろ」
 ヘーゼルの瞳が揺れて、溢れた。アーロンは頬を拭って、
「何それ、プロポーズ?」
 濡れた手の甲を見て、もう一度ハリーを見ると、ドヤ顔で微笑んでいる。
「まあな。するだろ、結婚」
「するよ!」
 ぎゅっと、ハグをする。
 いちばん近くにいて、いつも心配しながらずっと待っていてくれるハリーを、アーロンは思いを込めて抱きしめた。



「ハリーの事だから、もっと凝った演出でプロポーズするかと思ってた」
 アーロンは右腕のクロスに触れながら云った。ハリーはため息をついて、
「やっぱりバレてたか。そうする予定だったよ。しかも今度の休みに、とか思ってたのに」
「なんでそうしなかったの?」
 お祝い、というか記念に赤ワインを飲みながら、アーロンはビターチョコをちょびっとかじる。場所はテーブルに移動しているふたり。
「どうすればお前にバレずにプロポーズできるか、いろいろ考えてた」
 ハリーはドライフルーツを摘んだまま、未だにその方法を考えているような顔。アーロンもドライフルーツを摘み、二つに割って鼻の下に付ける。味もそうだが香りも凝縮されている。
「オレのプロポーズを何度も断ったから、きっとハリーの方からプロポーズしてくれるんだろうな、とは思ってたよ」
「お前は映画の観過ぎだ。サプライズプロポーズなんて、U国の発想だ。『一緒に住む』とか『子供をつくる』て云ったらそれだけでプロポーズだろ」
 とハリーは云うが、あまりに、しつこい程にアーロンがプロポーズをするので、プロポーズという儀式がしたいんだな、とは思った。
「サプライズにこだわらなくても良かったのに」
「お前があれだけサプライズ出してくるんだから、サプライズが欲しかったんだろ?」
 ハリーは面白くなさそうだが、アーロンはワインの香りを楽しみながら、ハリーの気持ちが嬉しかった。
「最初のプロポーズを断ったのは、ハリーもプロポーズを考えてたからだろ?」
「えっ?」
「違うの?」
 ふたりはジッと目を見交わせて、しばらく言葉を発しない。
───ハリーの目...。云わないつもりだ。
 アーロンは立ち上がり、テーブルの向かいの婚約者に近付く。
「いや、だから、それは...」
 珍しく、アーロンに対してたじろぐハリー。彼としては、全く別の思いがあったから。
 アーロンは本当に、貴族の仲間入りなど出来るのか? いや、その覚悟はあるのか? それが出来てから、その上でハリーと結婚できるかどうかを確かめたかった。
「どんな条件を出されたって、オレが結婚やめる訳ないだろ」
「でも、こんな筈じゃなかったとか、こんなの聞いてないとか、そう云う事もあると思う」
 アーロンなら、その時になっても飄々と受け止めてしまうかも知れない。それでも、貴族や王族がどんなものか、分かった上で、ハリーからのプロポーズに返事をして貰おう、とハリーは思った。
「そこがたとえ地獄でも、ハリーと一緒ならオレは後悔なんかしないよ、ハリー」
 アーロンはハリーをテーブルの横に立たせる。その正面に跪くと、角の擦れた小さな箱を出して、開けて見せた。
 そこには相変わらず、小さくも厳かな輝きを見せる指輪が、鎮座在している。アーロンはそれを摘んで、ハリーの左手を取った。
「アーロン...」
 しかしアーロンは何も云わず、黙ってハリーの薬指にリングをはめた。その手を握ったまま、アーロンはハリーを見上げる。
「でも絶対、地獄になんか行かせないけどね」
「アーロン!」
 立ち上がったアーロンと、ハリーは抱き合う。
「愛してるよ、ハリー」
「オレも、愛してる、アーロン!」





 その日、珍しく王宮を訪ねたのは、ピルッカ=ヴァリヤッカだった。
「観光以外で王宮に入るのは初めてです」
 そう云ってから、連れを振り返った。
 ピルッカに着いて来たのは、文献を調査してまとめた大学教授。躾に厳しそうな、でもエプロンの似合いそうな年配の女性だ。
「カバン、持ちましょうか?」
「お気持ちだけで結構ですわ。ありがとうございます」
 二人を会議室に入れると、アーロンは執事にたしなめられる。
「ご案内は私どもにお任せ下さい。アーロン卿は殿下の執務室でお待ち下さい」
 そろそろ、そういう態度も身につけておかなければならない。後でハリーにも叱られそうだ。
 ハリーには前日から云われていた。位の高さを意識しろ、と。しかしたまたま、ピルッカと顔を合わせてしまい、スルーできなくて前述の経緯となった。
───気を付けなくちゃ。
 ハリーの執務室に戻ると、やっぱり咎められた。
「どこに行ってたんだ、アーロン?」
「あ、ちょっと廊下に」
 と答えると、ハリーは指でアーロンを招く。向かい合わせで立つと、ネクタイを直される。そして、キス。
「ん...」
 直前のハリーは、見つめちゃいそうな程キレイだった。
「ダメダメ。もう何人か集まってるんだよ、ハリー」
 自分の衝動を抑えようとして、アーロンは墓穴を掘る。
「お前、見に行ったのか? もう少し落ち着けよ、アーロン」
「たまたま見えたんだよ」
 この日は、婚約の儀式の打ち合わせで、大学教授を始め、イベントプランナーや衣装のデザイナーまで集まって、最終打ち合わせだ。
 アーロンとハリーは、会議室に最後に入った。会議の進行はニコル嬢。
 飽くまでも内々の儀式に過ぎないが、今後の資料として遺す為にも、儀式はカメラで撮影する。
 教会の建設は、国王カミルの一声で、規模を縮小した。撮影に堪えられるギリギリの仕上がりで、儀式に臨む。飽くまでも予定だが。
「今、画面に表示されているのが、当日の参列者のリストです」
 各々持参したパソコンやタブレットにデータが表示される。
───あれ?
 既にリストアップの段階で目を通していたアーロンは、初めて見る人物の名前に首を傾げる。そして黙って画面を指差す。
「それな。───」
 ハリーはアーロンに耳打ち。「ピルッカが、気分転換になるかも知れない、て」
 そう云われては、アーロンも反論出来ない。
───まさかこの後、ハリーも行く、とか云わないよな...。
 アーロンは懸念を抱きつつ、会議中なので問い詰めるのは後にした。
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