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鼓草―たんぽぽ―

10 傷つく者に

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「おはようございます、ロミルダ様」
 ディルク=フランケは、コール家の奥に向かって挨拶をしながら入った。家の外では ヴェンデリン=コール少年が、子爵邸の飼い犬アーディと遊び始めたところだった。
 ディルクはロミルダの様子を見る為に、家の奥へ進む。しかし廊下で足を止めた。
 呻くような声が聞こえる。例えば重い物を運ぶのに、持ち上げる瞬間に力を込める時の様な声。それと、途中で息を継ぐ早い呼吸。
 ディルクはこっそりと開け放たれたドアに近付く。そしてロミルダの寝室を覗いた。
 ディルクは我が目を疑う。
 繰り広げられていたのは、尋常とはとても云えない光景だった。そして頭に浮かんだのは、ロミルダの一人息子、ヴェンデリンの事。
 ディルクは息を殺してその場を立ち去った。外からは、アーディの鳴き声が聞こえる。それと、あどけない子供の声も。
 気付かれないように玄関のドアをそっと閉め、ディルクは走り出した。向かってくるアーディを避け、しかしまだまとわりつくので、コール家に向かうように指示を出す。アーディを追いかけて来る少年を捕まえると、
「あなたは私と一緒に行きましょう、ヴェンデリン
「どこに?」
 なんの疑いもなく見上げる少年。ディルクは彼に、嘘をつかなければならない。
「食料の買い出しです。さあ、車に乗って下さい」
 買い出しなら、アーディを連れて行けない。また、母親もまだ、出かけてはいけない、とアーロン先生から云われていた。ヴェンデリンは何かを感じながらも、いつも優しい執事に従った。
 車を走らせている最中にアーロンから電話があったが、ディルクは何事もないように受け答えをして電話を切った。ついでに電源も切る。
 アーロンも、養子といえど貴族のひとりだ。執事の云う事など信じるかどうか分かったものではない。今は、時間を稼ぐしかない。
 ディルクは、教会建設の工事車両の行き交う道で、歩く男性を見つけた。車を停めて、ヴェンデリンを残して降りた。
 車を通り過ぎた男性を追いかけて、ディルクは声をかけた。彼は近所に住んでいる見知った男性で、酒で何度も失敗を繰り返し、今も無職の中年だった。毎日日課のように、教会建設の現場を見に行っていたのを、ディルクは知っていた。素面なら実に気のいい男だという事も。
「ちょっと、頼まれ事をしないか?」
 ディルクはその男性と上着を交換し、自分の車をスーパーマーケットの駐車場に駐めて来るよう頼んだ。
「今云った場所に駐めて、帰りはタクシーでも何でもいいから、別の手段で帰ってくれ。これは帰りの交通費と手間賃だ」
 かなりの額のキャッシュを渡した。
 契約が成立すると、ディルクは車にいるヴェンデリンを降ろし、男性を見送ると、工事車両の一台を停めた。
「車の調子が悪くて、引き返さなくちゃならないんだ。乗せてくれないか?」
「その子供はなんだ?」
 親子には見えない二人連れに、運転手は不審な顔をする。当然だ。
「近所のお子さんだよ。この子の家の買い出しに行くところだったんだ」
「その子の親は?」
「インフルエンザで家にいる」
 運転手は納得して二人を乗せた。
 子爵邸の近くで降ろして貰うと、ディルクはコール家には戻らず、子爵邸に向かった。不審な行動に足を止めるヴェンデリン。
「母様の車で買い出しに行くのかと思ったんだけど、違うの?」
 ディルクは頭のいい、美しい少年の前に跪く。
「今から私達は、誰にも見つかってはいけません。ロミルダ様の命令です」
「どうして?」
 当然の疑問に、執事はゆっくりと首を振った。
「ロミルダ様は、





 そのビルは、国内随一の高さで有名だった。
 長くなり始めた日はとっくに暮れ、ビルに残っているのは警備員だけかと思われた。
 その部屋は倉庫だ。書類棚が狭い部屋にひしめくように並び、そびえている。古い紙とホコリの匂いがしていた。
 奥へ進むと、照明も届くか届かないかの薄暗い隅に、隠し扉を認めた。細工された方法でドアを開けると、窓のない真っ暗な部屋に入る。
「...っと!」
 何か───いや、誰かがぶつかってきた。それを華奢な胸で受け止めると、ぶつかってきた者は、激しく肩を揺さぶって身を引いた。その勢いで尻もちをついている。両手は背後で縛られていた。
「大丈夫?」
 と囁いた。こちらの暗視スコープを見上げる瞳は、まるで手負いの野生動物みたいだった。失敗したのが悔しいのか、歯を食いしばって、肩で息をしている。
「イェルン=リヒターだね?」
 スコープを首に下げて、小声で尋ねた。一人で脱出するのは簡単だが、目の前の少年を連れて行くなら、見つかるのをなるべく遅らせたい。
「誰だ?」
 イェルンは困惑して眉をひそめる。
「アーロン=ゲルステンビュッテルの依頼で、君をここから連れ出す。僕はステファン」
「アーロン先生の...」
 その名前だけで、少年は力が抜けた。というか、野生動物から少女に変わったみたいだった。
 証明を点けていない室内に目が慣れると、少年の様子が見えてきた。どれ程ヒドい目に遭ったのか、口角から流れた血が乾き、左の瞼は腫れて半開きだ。服の襟は大きく裂けて服としての役を果たさず、それどころか下半身は、靴以外は何も着けていなかった。
───ここに来たのが僕で良かった。
 もしアーロンがイェルンのこの姿を見たら、一瞬でマシュー(プログラムされた兵士)に変貌していただろう。
 ステファンはジャケットを脱いでイェルンに渡した。それから、見せかけの為のミニスカートも。
「何もないよりかはマシだよ」
 ステファンの言葉に、少年は俯いて固まっていたが、思い切ってスカートを履いた。
 その間にもステファンは、ドアの反対側の壁に細工をする。戻ってイェルンを呼ぶ。
「おいで。爆破する」
 少年を抱き寄せ、細工した壁に背を向けた。小規模ながら爆風が巻き起こり、建材などのホコリが舞う。
───大丈夫、かな?
 と思う間もなく、警報が鳴り出した。大丈夫ではなかったようだ。
 ステファンは壁に開いた穴から頭を。吹き上げるビル風を気にする事なく、腰上まで身を乗り出す。ドアの向こうが騒がしくなるが、ドアにも細工を施したので、暫くは時間が稼げる。
「おいで、イェルン」
 一旦壁の内側に戻り、ステファンは少年を呼ぶ。腰のポーチからロープを取り出し、イェルンを背負うように自身と一緒に結んだ。
「ロープが食い込んで痛いだろうけど、我慢して」
 そう背中に断ると、再び穴から上を向いて身を乗り出し、両腕のプロテクターからフックを飛び出させた。
「足は下ろしておいて」
 そう云って、フックを壁に突き刺した。次はもう片方のフックを刺し、その両腕の二本だけで、ステファンはビルを登り出した。
 屋上までは一階分の壁。しかし半分程で細工をしていたドアが破られ、二人は見つかった。下から一斉射撃を受けるが、ちっとも当たらない。
 銃弾が背後を通り過ぎる中をステファンは登り切った。
「見かけによらず、馬鹿力ね」
 屋上に待機して二人を引き上げたユリアーネがボヤく。
「それより、準備はできてるの?」
「ええ。あとはムササビスーツを着るだけ」
 その準備をしながら言葉を交わし、ステファンが振り返ると、ユリアーネは予告通り、少年と一体化していた。
「アルビノで双頭の悪魔がいたな」
「まあ! もっと美しい例えはないの?」
「頭が二つあるヒトデ?」
「例えが悪化してるわ!」
 ユリアーネの沸点がステファンにはよく分からない。
 取り敢えず準備ができたところで、敵はやっと屋上に出て来た。
「じゃ、任せたわよ。後でね!」
 ユリアーネは先に飛び降りた。
 ステファンは一通りの銃撃戦をすると、ユリアーネから遅れる事3分で、自分もビルから別の方角に飛び降りた。飛び降りながら手榴弾のピンを抜いて、屋上に放った。
───明日の新聞に載っちゃうかなぁ。
 と、ステファンは滑空しながら思った。



 ハリーは王宮のエントランスで、アーロンの出迎えを受けた。
 ヘーゼルの瞳は一瞬だけ、いつもと違って見えたが、あっと思う間にいつもの瞳に戻っていた。
「おかえりなさいませ、殿下」
 アーロンも他の者と同様、いつもと変わらない言葉をかけてきた。だからハリーも、いつもと変わらない態度で車を降り、執事たちに囲まれ、先導されて部屋へ戻る。
 摂政の執務室に入るまでに、この日の今後の予定や指示が交わされる。溜まっている書類や連絡などの仕事だけでなく、すぐに一服するならどこへ紅茶を運ぶかなどの些細な事まで。
 秘書のニコル=ヴィンデルバンドは一旦、ハリーの執務室まで着いて来た。アーロンは出入り口のドアの前に控えている。
「私は自分の部屋に戻ります。何かあったらいつでもお呼び下さい、ハリー殿下」
 公爵令嬢は珍しく丁寧に云って、摂政の許可を貰って出て行く。アーロンと目が合うと、
「おかえりなさいませ、ニコル様」
「ただいま、先生。殿下をよろしくね」
 いつになく、柔らかい表情だった。
「紅茶を淹れてくれ、アーロン」
 ドアが閉まるのを待たずに、ハリーはそう云ってプライベートルームへのドアを開けた。
 寝室のソファセットで、ハリーはアーロンの作法を見ていた。
 外遊先で、ハリーは事件解決の連絡を受けた。
 甥にあたるイェルン=リヒターが、傷つきながらも救出された事も、ゲルステンビュッテル子爵が拘束され、子爵夫人が亡くなり、コール家の少年が発見された事も。
 ベルトホールド伯爵からの連絡だったので、かなり詳しく聞いた。だから、ゲルステンビュッテル子爵家へのお悔やみなどは憚られ、公然とは、アーロンの前では触れない事になった。
「お好みではちみつをどうぞ、殿下」
 アーロンはティーカップにはちみつの小瓶を添えた。
「オレを癒やしてる場合か、アーロン?」
 ハリーは紅茶には手を付けず、立ち上がってアーロンを抱き寄せた。アーロンの腕は力強くハリーを抱きしめる。耳元で、アーロンが深く息を吸うのが分かった。
「紅茶は熱いうちに飲んで、ハリー」
 ヘーゼルの瞳を潤ませながら、アーロンはハリーを促して隣に座った。
───もしかしたら泣くかと思ったけど...。
 ハリーの予想に反し、アーロンは落ち着いていた。それが却って心配だった。
「オレよりも傷ついた人がいるからね」
 とアーロンは云ったが、アーロンの傷が浅い訳ではない。しかしアンバーの瞳を見返して、アーロンは笑った。
「オレには、ハリーがいてくれるから」
 確かにハリーはアーロンに云った。ずっと一緒にいる、と。アーロンの味方だ、と。その言葉が、アーロンにとってどれ程の意味を成すのか、摂政といえど、人の心は計り知れない。
「そうだな。お膝に乗せてもらってるくらい、安心できるし、心強いし、嬉しいんだよ、ハリー」
 そう云われたハリーの方がノックアウトされる。アンバーの瞳を揺らしながら、ハリーは両手を広げた。
「乗りたいならほら、乗れよ、オレの膝に」
 アーロンは嬉しそうに笑い、逆にハリーを膝に乗せた。
「ふ、む...ん...」
 ゆっくりと深く口づける。
「ダメだよ、ハリー。...ん、オレ...歯止め、効かなくな...ちゃう」
「止めるな、あ...ろン」
 ふたりは息を荒くしながら、相手の服を脱がそうとしている。もどかしいのはボタンダウンのシャツ。
「ハリー...ハリー!」
 アーロンはいつになく、愛しい名前を何度も呼ぶ。ハリーの肌着を剥ぎ取って放ると、顎の下から唇と舌を這わせ、仰け反る白い胸の粒を吸う。
「あっ、は、んっ...あーろ...っ!」
 アーロンのワイシャツの外せないボタンを握ったまま、ハリーは快感に胸を上下させる。見下ろすと、胸を擦る鼻梁の両側にまつ毛があり、隙間から金色の妖しい光が見える。
「アーロン、これ、外して」
 ハリーはワイシャツのボタンを任せ、自身は膝から降りてアーロンのベルトに手を伸ばす。
 大きな手がハリーの顔にかかる髪を掻き上げる。
───興奮する、アーロン?
 ハリーは金色の瞳を見上げながら、固く張り出すアーロン自身を口に含んだ。
「はあ...ハリー...」
 頭上から熱い吐息が聞こえた。
 ハリーがアーロンを昂めるにつれ、アーロンの腰がざわつき始める。ハリーの髪を握って抑えようとしているが、跳ねようとする腰はピクピク震えている。
 解かってる。アーロンはされるがままではいられない。こんな時は乱暴なくらい激しくハリーを求めるんだ。何も考えずに夢中になって、自分が疲れ果てるまで何度だって挑み続ける。
───受け止めるよ、アーロン。だから...。
「ハリー...っ!」
「ん、んんっ!」
 なんの前触れもなく、ハリーの口の中が溢れた。無意識に喉の奥のものを飲み込む。
「ごめん、ハリー」
「ん...へーき。飲んじゃった」
 と云いながら、ハリーは溢れた口元を拭った。
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