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鼓草―たんぽぽ―
8 紅茶の香り
しおりを挟む建築士との打ち合わせは、ランチを挟んで数時間に及んだ。
建築士がラフ図面を描いてくれた為に、話が盛り上がってしまったからだ。家具の配置にまでおよんでしまった。
「ハリー殿下、そろそろお時間です」
執事に耳打ちされるまで気付かなかった。
「では、このラフ図面を持ち帰って、次に伺う時には製本した図面を持って参ります、殿下」
「頼む」
建築士は意気揚々と帰って行った。
アーロンとハリーは余韻に会話を弾ませながらも、一旦別れてそれぞれの部屋に、着替えに戻った。
アーロンがハリーの部屋に戻ると、ハリーはメイクの最中だった。
「いいじゃないか。やっぱりアーロンは寒色が似合うな」
アーロンのタキシード姿を見て、ハリーは云った。そのハリーも、明るいブルーのタキシード。アスコットタイにベスト。ちなみにアーロンは蝶ネクタイとカマーバンド。
「これ、付けてみて、ハリー」
メイクの済んだハリーに、アーロンは用意していたラペルピンを出した。
「......っ!」
ハリーは息を呑んだ。
モチーフは青いバラだが、輪郭はプラチナ、青の部分はサファイアだろう。国内でアーロンの事を知る者は多い。安物やイミテーションを使った品を案内する宝飾店などない筈だから、間違いなく本物で、決して粗悪品でもない。物欲のないアーロンにはピンとこないかも知れないが、相当値の張る品だ。
───貴族は消費するのが社会貢献とは云ったけど...。
まあ、それ以前から婚約指輪を造ってくれてはいるけど、出来ればアーロン自身の為に使って欲しい。
そうは思いつつ、嬉しさを隠さないハリー。ラペルピンをアーロンに付けて貰って上機嫌で満面の笑み。アーロンはハリーの手を取って立たせ、ハリーの全身をじっくり見て、
「良かった。似合うよ、ハリー」
派手めなハリーの衣装に合わせ、地味にならず、しかし派手過ぎないように造ったラペルピンは、よくできたとアーロンもご満悦。
ハリーは6センチ上のヘーゼルの瞳を見上げて、
「プロポーズされるかと思った」
「受けてくれるならいつでも用意は出来てるよ」
アーロンのちょっと不満そうな顔に、ハリーは肩を竦めた。そしてハグをする。
「ありがとう、アーロン。これは下取りに出さないで大切にするよ」
「うん」
アーロンはいつもするように、ハグをしながらハリーの襟元でこっそりスンスンした。
「そろそろ行こうか」
頭を上げて一瞬見つめ合うと、ふたりは揃ってハリーの部屋を出た。
ふたりが出かけたのは、コンサートホール。
ボックス席からの、オペラ鑑賞がデートのメインイベント。会場では、この日最も位の高いVIP客。開演直前には、全観客に紹介され、ふたりは立ち上がって拍手に応えた。
「なんで紹介されるの?」
ハリーに耳打ちするアーロン。
「ホールや作品に箔がつくだろ」
「摂政殿下がオペラ鑑賞に来たから?」
アーロンの台詞に眉を上げるハリー。
「婚約者と連れ立って、な」
恋人と楽しむ娯楽、というレッテルなのか、それとも国内でも最も有名なカップルがデートに訪れるからなのか、いずれにしても宣伝効果はあって余りある程だろう。
「こんなに目立つと、あんなコトとか、出来ないな」
「どんなコトか知らないけど、変なコトしていい場所じゃないからな、ここは」
いたずらなアーロンの発言にハリーは肩越しに睨む。しかしアーロンは、
「ハリーは怒ってもキレイだな」
効果なし。
この日の演目は、初心者向け『フィガロの結婚』。作曲はモーツァルトだが、台本はイタリア語、作品の舞台はスペインだ。
「ハリーの警備をしてた時に、漏れ聞こえてた」
とアーロンは云った。ハリーはちょっと得意げな顔で、
「生の演奏と演技は違うぞ。それに、この作品は初心者向けでもあるけど、何度観ても楽しめる作品でもあるからな」
そう云っていた通り、ふたりは最後まで楽しんだ。特にアーロンは生の音と声を初体験して、映画とは全然違う感覚に心を揺さぶられた。
「ありがとう、ハリー。最初に云ってた意味が解かったよ。生の音は全然違うな」
アーロンは興奮しながら云った。
オペラは好き嫌いが最初に観た印象で決まると云われたりもするが、アーロンには良い方だったようだ。
出演者や演奏者に拍手を贈り、摂政殿下とその婚約者も拍手で送り出された。近衛兵に守られながらリムジンに乗り込み、帰路に就く。
「オーディオの設備がどんなに良くなっても、オペラやコンサートが廃れない訳が解かったよ。こんな音の世界をオレは知らなかった」
車の中でも、アーロンはまだ興奮していた。珍しくハイテンションで冷めないアーロンの様子を見ながら、ハリーは複雑な心境だった。
───なんにもない平和な日々...。昨夜、そんな事云ってたな、アーロン。
アーロンは興奮して見せているのかも知れない。誘拐されている子供の事を忘れられる訳がないから。
───こんなふうに、どこか居心地の悪い気分でいる事になるなら、アーロンの好きにさせれば良かったのかな...。
ハリー自身も、アーロンの感動と興奮に満足するフリをしながら、頭の片隅にある懸念を払拭できずにモヤモヤを抱えている。
「ハリー」
アーロンの手が、ハリーの手にそっと重ねられた。
───気付いたかな、アーロン?
見上げたアンバーの瞳に、ハリーの心境が映っているかも知れない。そう思ったが、
「また、連れてってね」
「...うん。また、行こう」
まるで無邪気なアーロンの言葉に、ハリーは柔らかく答えた。
なんにもない平和な日々になったらな───。
次の日からハリーは、A国への外遊に出かけた。
当初は婚約者のアーロンを連れて行く予定だったが、今回の事があり、断念した。マスコミには、アーロンが診ている患者に目を離せない者がいるから、と伝えておいた。
それでもアーロンは、空港までハリーを見送りに出た。
「A国はいい国だよ。オレの事は気にしないで、独身最後の羽伸ばしに行っておいで。心配してもしなくても、結果は同じだから」
アーロンはハグをしながらハリーにそう云った。
「オレの心配はお前の怪我と、ラファエルの不興を買う事だ」
長くハグをすると、マスコミが喜ぶ。しかし国境を挟む程離れるのが、いつにも増してハリーは不安だ。
「一つだけ、これだけは覚えておけ、アーロン」
「なんでしょう、ハリー殿下」
マスコミのマイクがふたりに近付けられて、仕方なくアーロンは敬語になる。ハリーも仕事モードで、
「私はいついかなる時も、お前の味方だ、アーロン」
ヘーゼルの瞳が一瞬揺れるのを見て、ハリーは王子様スマイルで頷いた。
アーロンはイブラントには戻らず、新市街の一角へ向かった。
郊外に近いそのホテルには、ゲルステンビュッテル子爵夫妻が泊まっていた。
「まあ、アーロン!」
義母は驚いたが、快く迎え入れてくれた。アーロンの上着を預り、甲斐甲斐しくハンガーにかけてくれる。
「あなた、今テレビに映っていたからびっくりしちゃったわ」
摂政殿下を見送った婚約者として報道されていたようだ。
「朝食は...?」
二人の台詞が被った。目を見交わせて笑い合う。そして先にアーロンが、ダイニングのティーセットを見て、
「ちゃんと、食べてるようですね、二人とも」
「ええ。あなたはまたコーヒーだけなの、アーロン?」
義母の言葉に、義理の息子は頭を振る。
「朝は受け付けなくて」
「生活習慣は気を付けなさい。いつまでも若くはないのよ」
「...はい」
女性に云われると、アーロンでもちょっとショックかも。
「どうしたんだね、朝から訪ねて来るなんて?」
「おはようございます、お義父さん」
夫人のテレージアとの会話が途切れたところで、アーロンに話しかける義父、ディーデリヒ=ゲルステンビュッテル子爵。挨拶を交わして、アーロンもダイニングに掛けた。
「これまでに分かった事を、報告に来ました」
「なあに、分かった事、て?」
義母は、何も分かっていない口ぶりだった。アーロンは義父と目を見交わす。彼はこっそり首を振った。余計な事は云うな、という意味か? もしかしたら子爵は、夫人にはコール母子の事は何も云っていないのかも知れない。
「ヴェンデリンは然る貴族の落とし胤と噂されていましたが、実は母親のロミルダ=コールこそが、貴族の血を引いていたようなんです」
アーロンは事件に直接関係のない事を云った。もちろん、今回の件で明らかになった事実だが。
「まあ、そうだったの? で、どなたなの、ロミルダさんの父親という方は?」
「それは明かせません。父親は認知していないので」
夫人は、テレビドラマの主人公に感情移入するように、眉を曇らせ、
「お気の毒ね...」
と云った。子爵は聞いているのかいないのか、表情は変わらなかった。
「それと、警察にも聞かれたかも知れませんが、お義父さん」
「何かね?」
淡々と尋ねる義父に、アーロンも淡々と尋ね返す。
「一昨日の午前9時から11時の間、どちらにいらっしゃいましたか?」
「まあ、子爵はずっと、私と一緒にいらっしゃいましたよ、アーロン」
答えたのは子爵夫人だった。アーロンは苦笑いして、
「そういえば、私がお義父さんの携帯に電話したら、お義母さんが出ましたね」
子爵もつられて苦笑いをしていた。
「あら。───」
夫人は紅茶を一口含んで、「冷めてしまったわね。淹れ直しましょう」
男性二人は、黙って夫人を見送った。暫く沈黙があった。
「お義母さんと一緒だったのは、確かですか?」
「ああ」
「場所はどちらでしたか?」
子爵は口を閉ざす。アーロンは構わず続ける。
「ホテルのフロントに聞いたら、ロミルダ=コールの死亡推定時刻に、お二人はこのホテルにはいらっしゃらなかったそうです。間違いありませんか?」
子爵は答えず、アーロンと目も合わせないが、テーブルに置いた両手を組み直したり、指を忙しく動かしたりしている。落ち着きを失くしてるのは明らかだ。
ところが子爵はピタ、と動きを止めて、アーロンの名前を呼んだ。
「私は出来るだけ正確に答える。だからテレージアには、この話はしないでくれ、アーロン」
アーロンは一応頷いて、続ける。
「ホテルの従業員によると、最初にお義母さんがタクシーで出て、追いかけるようにお義父さんがタクシーでお出かけになったという事ですが...」
子爵が答える前に、夫人が戻って来た。
「珍しい茶葉が手に入ったの。きっとアーロンも気に入るわ」
夫人の周りには彼女の時間が流れ、空気が広がっている。夫と養子の雰囲気など、まるで気付いていない。
「珍しい...?」
わざわざ違う種類の紅茶を淹れ直した。その訳は、純粋に淹れ直しただけなのか?
それぞれの前に置かれたティーカップ。見た目は他の紅茶と変わらない。タンニンで紅く澄んだ液体が美しく、そこからたゆたう湯気に紅茶の香りがする。
───さっきの紅茶と変わらないような...。
そうは思いつつ、アーロンは頭に浮かんだ予感を払拭出来ない。義父の顔をチラッと見ると、先程からの緊張は続いている。
アーロンはカップに添えた自分の手が、汗ばんでいる事に気付いた。そこで気分が切り替わり、大きく息を吸い込んだ。ゆっくりと息を吐く。
───ここで急ぐ必要なんかない。
焦った場合の代償は大きい。アーロンは二人に気を配りながら、義母に尋ねた。
「ディルク=フランケに最後に会ったのは、いつですか?」
「あら、いつだったか知ら?」
夫人は子爵に顔を向けた。アーロンの視線も義父に向けられる。
「たしか...一昨日の朝じゃなかったかな」
「でも、それきりいなくなっちゃったわ。どこへ行ったのか知ら」
まるで独り言のように、夫人はポツリと云った。それから部屋には沈黙が流れた。
無垢材のダイニングテーブルには、木目が波紋のように波を描いている。
「ディルクとロミルダさんは、以前から知り合いだったんでしょうか?」
「聞いてないな」
子爵は思ってもいない養子の質問に、不思議そうな顔を上げた。そして問うように夫人に顔を向ける。
「さあ...。私も聞いていませんわ。ヴェンデリンは懐いていたようですけど、アーディの躾を教えていましたから、おかしいとも思いませんでした」
夫人はそう云いながら、ティーカップを口元に持っていく。
「あっ!───」
アーロンは小さく叫んだ。「お義母さん、紅茶に虫が!」
「えっ!?」
義母はカップを覗く。アーロンの嘘で彼女の紅茶は止められたが、振り向くと義父もソーサーごとカップを持ち上げていた。急いでいるせいで、カチャカチャと磁器が鳴っている。
「いけません!」
アーロンはテーブルに乗り上げる勢いで義父のカップを手で払った。カップが空を飛び、冷め始めた紅茶と湯気が舞う。紅茶の香りが辺りに漂った。
「火傷は───!?」
アーロンが怒鳴るように云いかけた時、ドサ、と倒れる音がした。
「お義母さんっ!」
アーロンは叫んだが、義母の姿を見てすぐに、義父に向き直った。彼は床の夫人を見下ろしながら、左手首を右手で握っていた。
「バスルームへ!」
アーロンは義父の二の腕を強引に引っ張って、バスルームへ急ぐ。
「マルガレータ!」
専属運転手の名前を繰り返し呼びながら。
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