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アーロンの事件
6 ニコルとニーナ
しおりを挟む二年前、ニコルは教授のニーナ=シュヴァルツェンベルクと云い争っていた。
「本当の事を云って下さい、教授。エデルガルトと親密な関係にあったのではありませんか?」
教授はやっと、書物から目を離してニコルに向き合った。場所は、ニーナのオフィス。
「親密?───」
ニーナはメガネを取った。「それは、どういう意味?」
「ご自分の胸に手を当てて思い出してご覧なさい。私は、彼女から相談を受けていました。だから───」
「エデルガルトが嘘をついている、とは思わないのですか、ニコル=ヴィンデルバンド?」
問い詰めるニコルに対し、ニーナは冷静に答えていた。二人の間には大きな温度差があり、それは年の差でもあり、エデルガルトに対する想いの差でもあった。
「エデルガルトは私に云いました。シグネットリング(指輪印章)を教授に渡したと」
ニコルはなおも詰め寄る。
「シグネットリングを見せてもらったのは確かです。しかし受け取ってはいません」
若さと情熱が選ぶ方法は、ゴリ押し。ニーナにとって、ニコルを論破する事など容易い。
「では何故、彼女の遺品の中にないんですか?」
「シグネットリングが遺品の中にない事と、私がそれを持っている事はイコールでは成立しません。もっと冷静になるべきです、ニコル嬢」
どうにも太刀打ちできないニコルは、ため息をつき、考える。
「それなら、教授がシグネットリングを持っていないという事を、証明して下さい」
「私の家を捜索するつもり? いい加減になさい」
そろそろニーナの堪忍袋が限界を迎えそうだ。メガネをかけ直し、立ち上がる。
「ではもう一つ───」
「もう出て行ってくれないかしら、ニコル=ヴィンデルバンド」
それでもニコルは食い下がる。
「エデルガルトを、愛していましたか?」
「いいえ。彼女が私をどう見ていたかは知らないけど、少なくとも私の答えは『ナイン』よ」
ニーナはニコルを押し出し、自らもオフィスから出た。
講義が始まった大学の構内には、芽吹いたばかりの芝生の青さが、痛いくらいに眩しかった。
ニーナは、ゲルステンビュッテル子爵邸の書庫で、盛大なため息をついた。
「せっかくのチャンスなのに、あなたはいつも間が悪いわ、ニコル=ヴィンデルバンド」
そう云われたニコルは、何も云わずにニーナを見上げていた。いや、云えずに、というべきか。何故ならお嬢様は、タオルで猿轡をされていたから。そしてそれを取り外す為の手、更に足も結束バンドで縛られ、床に転がされていた。
「今日はね、ベルトホールド伯爵も来ないのよ。なのに何故あなたは来たの、全くの無関係なのに?」
「......」
ニーナはニコルに応えを求めている訳ではない。文句を云ってるだけだ。
その後ろでは粛々と、男達が書物を運び出していた。みんな、工事現場の作業着を着ている。
「こんなチャンスないでしょ。子爵家には出入り自由。運ぶための車両も作業員も、この辺ウロウロしててもなーんにも怪しまれる事はない。この書庫の書物も大概の値打ち物だけど、この屋敷にある家具や調度品もアール・ヌーヴォーの骨董品よ。その価値を全く解ってないのよ、あのお爺ちゃんもお婆ちゃんも」
もったいない! と云い放って大仰に頭を振るニーナ。外したメガネを振り回す仕草も、この教授はちっとも変わっていない。手癖の悪さも。
「そういえば、あなたのお気に入りだったエデルガルトの件ね。私、美しいものが好きなの」
ニーナは座っていた床の段差から立ち上がり、ニコルの周りを歩き出す。
「あなたは私の定義する『美』の枠からはみ出てるわ、ニコル嬢。特にその性格がっ」
くるりと向き直り、立ったままメガネでニコルを指す。
「そっくりよ、あなたの嫌ってるお父様に。正しい事を云ってる振りして、自分には1ミリも非がない、て云い方。───ちょっと!」
急に顔を上げて、作業服に注意をする。
「その本は中身も貴重だけど、装丁はもっと貴重なのよ! ガラスのように扱いなさい!」
ニーナはまた頭を振り、両手を広げる。無造作に伸ばしたダークブロンドの長い髪を掻き上げる。
「床の冷たさはどお? 公爵令嬢にはなかなか味わえない体験でしょう?」
ニーナは初めて楽しそうな顔で、ニコルの周りをリズムを取るように、また歩き出した。
「エデルガルトは、あの美しさに見合った性格だったわね。純真無垢で、素直で、従順で。あなたとは真逆ね、ニコル」
髪を翻してニコルを指し、また機嫌よく歩く。
「かわいいと褒めれば頬を染め、シグネットリングを貸して、と云えば素直に差し出したわ。服を脱げと云えば下着まで脱ぎ捨てた。綺麗だったわよ。シミもなければ、ヘンに筋肉も付いてないし。私が、写真が趣味だ、と云えば、文句も云わずに被写体になったの。でもそれをネタにお金を用意しろ、て云っても、そこは聞かなかったわね。案外吝い子だったわよ」
ニコルの様子を見ながら話すニーナだが、ずっと睨んでいたのに目を逸らしてしまった令嬢に興醒めし、最後は独り言のようだった。
その時突然ドアから、作業服の男が駆け込んできた。
「誰か来るぞ! あんたに用事らしい」
「誰!? 予定に───」
険しい顔でニコルを振り返るニーナ。「あなた、お供なしで一人で子爵邸に来たの!?」
口枷をされたニコルに答えられる訳がない。どちらにしても、書庫に今、誰かに入られてはマズい。
ニーナは開いていた本と、そこに挟んだ紙を手にしてドアの外に出た。ドアの外から入って来た男の一人は、ニコルを書庫の奥へ急いで引きずって行く。そして、ニコルに銃を突き付けた。
「静かにしてろよ」
極力低い声で脅す。黒光りする拳銃の銃口は、ニコルのこめかみに冷たく当たる。扱いには慣れているらしく、躊躇いは1ミリも感じられない。
書庫の物を運び出していた男達は、ドアの外を伺いながら音を忍ばせ、薪小屋へ続くドアから出て行く。
ドアの外からニーナの声が聞こえるが、相手の声は分からない。言葉もはっきりせず、内容も不明だ。
書庫にいる者はみんな、ドアの外の様子に集中した。
「くっ、...っ!」
「ぅあっ! こいつ!」
書庫に、銃声が響いた。
腹のそこに響くような銃声に、アーロンとニーナは一瞬身を屈めた。
「教授はそこにいて下さい!」
アーロンは書庫のドアを開けた。
「動くな!」
書庫に入ってすぐ左手から声がかけられ、反射的に身を屈め、足で相手の足を掬う。
「うわぁ!」
間髪入れずに、相手の手を攻撃し、銃を蹴り飛ばした。伊達に軍からの不意打ちの攻撃を、日々かわしてきた訳ではない。
「何者だ!?」
「う、ぐぅ...」
アーロンが相手の腕を後ろ手に決め、腹這いに倒して膝で乗り上げる。男は教会工事の作業員と同じ格好だ。しかし工事に銃は必要ない筈。
「ここで何を───?」
と話しかけた時また銃声がして、肩を竦める。書庫の奥から小さな悲鳴が聞こえ、見回すと───。
「ニコル様!」
「動くな!」
アーロンは乗り上げていた男の作業着の両袖口を引っ張り、短く団子に結ぶ。これで腕の自由が奪われ、すぐには立ち上がれない。
「止まれ!」
アーロンは構わずニコルに向かって走り出した。銃声はしたが、ヘッドスライディングで距離を詰め、ニコルを連れた作業服男を躊躇いなく殴り倒した。
「伏せて!」
突き飛ばされて、座り込むニコルに怒鳴ってから、アーロンは立ち上がった男をもう一度殴り倒す。すぐにニコルに駆け寄った。
「怪我はありませんか?」
「大丈夫よ、アルテミス!」
ニコルを助けるのはこれで二度目だ。取り敢えず足の結束バンドを外す。
「動けますか?」
「ええ!」
私服だが、パンツスタイルにローヒール。走れると判断してアーロンはニコルを立たせようとした。
「教授は───!」
云いかけて、銃声に遮られる。ニコルとともに床に伏せた。一瞬見回すと、ドアの側にいた男だった。アーロンはニコルを引きずりながら、ほふく前進で本棚の陰に身を隠す。
「あの男達は二人で押し入ったんでしょうか?」
アーロンは小声でニコルに尋ねた。書庫には作業服の男二人しか見当たらないようだ。銃を持っているという事は、工事の作業員に魔が差した、という訳ではないだろう。
しかしニコルは蒼い顔でアーロンに訴える。
「もっと大勢いました。裏口から入って来ました。他の者も銃を持っているかは分かりません。それと、ニーナ=シュヴァルツェンベルクも仲間です」
今度はアーロンが顔色を変える。
「教授も!? じゃ、子爵夫妻が危な───」
「出てこい!」
作業服男の声。アーロンは「ここにいて下さい」と云い捨てて、飛び出した。
男に向かって全力疾走し、手前で前転して、先程と同じように足を掬って床に倒し、手首を踏みつけて銃を手放させた。そこでアーロンは相手から攻撃を食らう。しばらく格闘した後、やっと相手を気絶させた。
───このままにしておくと、またゾンビみたいに復活しちゃうよなぁ。
そう思ってる間に、先に倒した男がのそのそ動き出した。アーロンは周りを見渡す。
───こいつら、書庫の物を盗みに入ったのか。教授なら、価値が分かるもんな。
散らかった室内を素早く探す。転がっていたテープを見つけて、まずは起き上がった奴、ついでもう一人をテープで縛った。
立ち上がるとすぐ、走りながらヴァルターに連絡する。現状を一方的にまくしたてて電話を切った。ヴァルターなら大体察しはつくだろう。警察や救護の手配をしてくれる筈だ。
アーロンは書庫を出て、リビングに駆けつけた。
「教授が来ませんでしたか!?」
ディルク=フランケが階段を見上げていた。
「突然駆け込んでいらっしゃって、キッチンからナイフを持って二階に行かれました。窓ガラスの割れるような音がしたんですが、...」
「子爵夫妻は無事ですか?」
ディルクの後ろに行きかける。ディルクは身をかわして、
「ご無事です。何かあったのでしょうか?」
アーロンはディルクをリビングに促しながら子爵に云った。
「窃盗です。教授も共犯者です。ベルトホールド伯爵に連絡をしましたので、ここを動かないように」
夫人は驚きながら、子爵のソファの隣に座った。子爵はいつでも立ち上がれるように、杖を握る。アーロンはディルクを振り返り、
「何があっても抵抗しないで。子爵夫妻を頼むよ、ディルク」
「お任せ下さい。お気をつけて、アーロン様」
階段を見上げるアーロンが何をするつもりか察したディルクは、そう声をかけて見送った。
アーロンは階段を上がった。開け放たれたドアは、おそらくニーナがここ数日で使っていた部屋のもの。
「観念しなさい、教授」
窓からせっせと調度品を投げるニーナに、アーロンは落ち着いて声をかけた。
調度品もアール・ヌーヴォーで繊細な素材とデザインだが、外に積もった雪をクッションにしているのだろう。振り返ったニーナはニタリと笑い、窓の桟に足をかけた。本人も雪をクッションに飛び降りる気だ。
「もうどこにも逃げられませんよ───」
アーロンを無視して飛び降りた。「教授!」
ダークブロンドの長髪をなびかせて、ニーナは猫のように着地した。アーロンが見下ろすと、調度品は作業服の男達がアリのように回収していた。ニーナは立ち上がって、アーロンを見上げ、片足を引きずりながら屋敷の裏手へ向かった。
───オレが飛び降りないと思ってるのか?
アーロンは躊躇なく飛び降りた。
「そいつを止めて! 殺しても構わないわ!」
ニーナの声に、一斉射撃が始まった。
銃声を背中に、ニーナは屋敷の裏手へ回った。
「かばん、かばん、かばん!」
小さく呟いている。
走り出した時は足首に痛みを感じて焦ったが、ここで止まる訳にはいかない。書庫の裏口に辿り着き、中に入った。
「ニコル!?」
公爵令嬢と目が合った。足元にかばんの中身をぶちまけ、その手にはリングが!
「これ、エデルガルトのシグネットリングですね、教授!」
「似てるけど違うわ。よく見なさい。デーア家の紋章は一輪の薔薇よ。それは違うわ」
この期に及んでもまだ、ニーナは悪あがきをする。ニコルはきっぱりと否定した。
「デーア家の女性には、紋章の薔薇にもう一輪、小さな薔薇を添える紋章をわざわざ用意するのが習わしなんです。教授ならご存知の筈です」
「あら、そうだったかしら?」
ニーナはニコルに近付く。足元に散らばった私物を見下ろしてため息をつくと、意外に黙ってかき集める。
「認めますね、教授。これはエデルガルト=デーアのシグネットリングだと」
「さあ。それは拾った物よ。エデルガルトから受け取ったものではないわ。返して」
ニーナが伸ばした手を避け、ニコルは後退る。
「それが事実なら、拾得物横領ですよ。判ってるでしょう?」
「それがエデルガルトの物という証拠はないわ」
「あるわ!」
追いかけて来るニーナから逃げながら、ニコルは云った。声は天井の高い書庫に響いた。
「待ちなさい、ニコル=ヴィンデルバンド!」
応援ありがとうございます!
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