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婚約したの?
2 ブリギッタを君に
しおりを挟むハリーが、執務室のドアから顔を出した。
「なんだ、ヘタってもいないじゃないか」
廊下に出て来たハリーの視線の先には、腕を組んで壁に寄りかかる、アーロンがいた。
「ニコル様は、よろしいのですか、殿下?」
「ああ。五分くらいならな」
ハリーはアーロンの隣に来て、同じように壁に寄りかかった。一度壁を離れたアーロンも、また同じ体勢になる。
「ニコルにはヘタってるところを見せて、オレには見せないんだな」
プロポーズを断られて執務室を出る時のアーロンは、まだなんとかしっかりしているように、ハリーには見えた。
「ヘタってなどいません。考え事をしていたまでです」
「ニコルが勘違いしていたと?」
「はい。仰る通りです」
どうやらほんの数秒で、アーロンは立ち直ってしまったらしい。
「アーロンにとって、あのくらい、ダメージを受ける程の事もない、か...?」
ハリーはちょっと寂しそうに云った。隣のアーロンは低い声で、
「まさか、そんな目的で断ったのか、ハリー?」
あ、怒ってる。
「そうではない。それは断じて、違う」
「それなら───」
アーロンはまた、跪いて小箱を取り出した。「結婚して下さい、ハリー」
当たり前だが、さっきと同じ指輪がそこにあり、真剣な、怖いくらい真剣なヘーゼルの瞳が、ハリーを見つめている。
「...いや、だめだ」
思わぬ不意打ちに「ヤー」と答えそうになりながらも、辛うじて意志を貫くハリー。一生に一度、いや、本来ならハリーが見せるべきかも知れない光景を二度も見せられて、内心小躍りな気分だ。
しかしアーロンは、「そうですか」と呟いて、のそのそ立ち上がる。やっぱそのダメージはデカいッスよ、殿下。
「いいでしょう。その勝負、受けて立ちます!」
はい? なんか、アーロンの鼻息が荒い。てか、
「勝負?」
「このアーロン=ゲルステンビュッテル、必ずハリー殿下から、いいお返事を頂きます!」
すげー大見得切って、「では、本日はこれまで」とか云って、アーロンは一礼して立ち去った。
いやいや、今夜もっかい、バイタルチェックに来てね!
その日から、アーロンのプロポーズラッシュが始まった。
婚約が決まっているので、今更のプロポーズを人に見られる訳にはいかないので、ふたりきり、もしくはニコル、執事、メイド、給仕に限って同席ありで、アーロンは果敢に挑んだ。
が、ことごとく撃沈。
───結婚しない訳じゃないんだよな。
婚約会見も近付いているし、その前にゲルステンビュッテル子爵家への訪問も控えているし、新しい住まいや、新婚旅行先の話もちらほらしている。子供の話だって、ハリーが始めたものだ。
───まさか、子供の事を認めないから...は、ないな。
それならハリーはそう云うだろう。
「訊いていい?」
バイタルチェックの時に、訊いてみた。
「断ってる理由?」
ハリーは言葉を探しているのか、ヒントを考えているのか、しばらく唸っていたが、
「やっぱりやめておく」
なんで!?
アーロンは糸の切れた操り人形のように、その場でクタ、と力が抜けた。チーンとどこかで音が鳴る。
まあ、一つだけ思い当たるものが、アーロンにはある。それを上回るのが、勝負の分かれ目だろう。
「逆に訊くけど、なんで急にプロポーズしようと思ったんだよ、アーロン?」
ハリーの問いに、アーロンは簡潔に答える。
「してないから」
ロマンティストな一面を持つハリーの結婚にプロポーズがないなんて、
「オレが怒ると思った?」
「怒らないまでも、後々...」
「オレ、そんなに心狭いかなぁ」
広さか? 広さの問題か?
バイタルチェックを終えて、アーロンはスツールを片付け、エアコンと照明を調節する。
ベッドのハリーが腕を広げてアーロンを迎える。ハグをしながらハリーの襟元に顔を埋めるアーロン。
「ハリー...」
スンスンの合間に、大好きな名前を呟くように呼ぶ。
「うん?」
「愛してる?」
珍しく、アーロンの方から訊く。プロポーズとか、ハリーにとって嬉しい事続きだ。
「愛してるよ、アーロン」
ハグの腕に力を込める。
「じゃあ、結婚して」
あ、そうきたか。
「...アーロン───」
ちょっと肩を押し返す。「これ、プロポーズ?」
「ダメかな?」
「...ダメ」
シチュエーションなのか、それとも、跪くとか指輪差し出すとか、ポーズが揃わないとダメなのか?
「そもそもの話、もしカミルが結婚しろ、て云わなかったら、どうしてた、アーロン?」
ふたりは体勢を変え、枕にアーロンが背を預け、そのアーロンにハリーが身を預けている。ハリーに巻きつけられた腕の先の大きなアーロンの手とハリーの白い手、握ったり握られたり、絡め合いながら、ハリーは訊いた。
「たぶん、プロポーズしてたよ」
そしてたぶんだけど、ハリーは一回でO.K.してくれたと思うアーロン。
「そうかな」
「こだわりはないけど、結婚できなくても一緒には暮らしてた筈だから、結婚できる、てなったら、プロポーズするよ、たぶん」
「そうだったら、式はどうしてたかな」
お互いの手のひらを合わせながら、ハリーは云った。
「今回はどうするの?」
「ヴァルターが文献ひっくり返してるよ」
後ろからハリーの顔を覗き込むアーロン。斜めに見上げるハリー。
「文献?」
「数年先なら、もう摂政ハリーなんて昔の人だろうけど、今回は国王の仕掛けたイベントだからな。王家の結婚式だから、昔からのしきたりに倣って行われるだろ」
思い切り眉をひそめるアーロン。
「オレ、ウェディングドレスは着ないぞ。今から云っておくけど」
「仮装パーティーかっ」
ツッコミつつ、ちょっと想像しちゃうハリー。かなりデカい花嫁だが、化粧ノリはどうだろうか。
「ハリーの方が絶対に、いや圧倒的に似合うよ」
「オレはたぶん、したくてもさせて貰えないと思う」
「したいの?」
「したかったとしてもっ。したくないよ、別に」
するとアーロンは、ハリーと間合いを取って値踏みするように頭のてっぺんから眺め回す。そしてペロ、と肩をはだけさせる。肌着の肩だけど。
で、黙って元に戻した。だってちゃんと肩幅があるんだよ。
「なんだよ、その残念そうな感じ。全然残念じゃないぞ」
アーロンはそこには触れず、
「てなると、ふたりともタキシード?」
「だろうな」
当然、という頷きのハリー。
「やっぱ、大勢の人の前で、式するの?」
「式そのものは教会でやるから招待客だけしかいないけど、教会の外にはギャラリーがいっぱいだろうな」
ハリーの結婚式となると、ファンをはじめとして、みんながハリーを見に来るんだろうなぁ。
「アーロンも注目されるよ」
「オレは介添に徹するよ」
「いや、無理だから、覚悟して。主役だからね」
現実逃避したくなるアーロン。
「もう寝よ」
照明を切って、アーロンはベッドに潜り込む。ハリーも一緒に入って、アーロンの腕の中におさまる。
「アーロン、結婚式したくない?」
少しして、モヤモヤしていたらしきハリーが云った。
「そんな事ないよ───」
アーロンはハリーを抱きしめる。「結婚式て、大事だからね。心配した?」
「うん。ちょっと」
「だったらその前に、プロポーズ受けてよ」
ハリーはクス、と笑って、またアーロンの襟元に顔を埋めた。
その後しばらく、アーロンのプロポーズラッシュが止んだ。
───諦めた...筈ないけどな。
ちょっと残念に思いながら、この日ハリーはヴァルターと打ち合わせをしていた。婚約会見と、その先のもろもろについて。
国王への見舞いも兼ねていたので、ハリーがカミルの療養先の城を訪ねた。少し遅くなったので、皇太后と共に、ディナーを御馳走になって帰った。
「アーロンは?」
執事に尋ねると、まだ医局だろう、との事だった。
ハリーの部屋は、前室はなく、最初は広い執務室だ。応接室も兼ねているので、執務デスクと応接セットがある。ニコルとは、廊下で別れた。
その奥はダイニング。お茶やランチを兼ねて歓談、となると、来客も招く部屋だ。
更に奥は、プライベート空間。間に小さな、メイドの控えの間がある。そこを抜けて、ドアを自分で開けて、
「......」
入らずに閉めた。
控えの間には、文字通りメイドが控えていて、立っているが、床を見つめている。表情は変わらず真面目だ。
───訊くか? いや、口止めされているだろう。執事のさっきの返答も、そうだろうな。
一瞬の光景が、いや、鮮やかな色彩が、ハリーの瞼の裏に焼き付いている。強い香りも。
ハリーの部屋に照明が点くと、この控えの間にあるランプが灯る。確かに今、灯っている。
フッと短く息を吐いて、ハリーはまた、ドアを開けた。
床一面に、真っ赤なバラの花が敷き詰められている。
中央に一本の通り道があって、その先にはアーロンが立っていた。
「おかえり、ハリー。怖くないから、おいで」
と呼びかけてきた。燕尾服じゃないけど、裾の長いジャケットのスーツ姿だ。背の高さと足の長さが強調される。
ハリーはため息をついて頭を振った。
───見た目もやる事も、お前はイケメンだよ、アーロン。
ハリーはゆっくり、通りを進んだ。
近付くとアーロンは跪き、後ろに隠していた左手を差し出した。その手には指輪───じゃなくて、ピンクのバラ一輪。
王家の薔薇『ブリギッタ』だった。
「それ、どうやって...!?」
「色々協力して貰った」
しばらくプロポーズがなかったのは、このせいだったのか。
王家の薔薇は、花弁が弱く、花の付きも悪いので、綺麗に咲いた状態のものは超が付く程貴重だ。試験器に保存して保たせる、文字通り箱入りの薔薇。庭師の責任者、王宮の事務方など、持ち出しの許可を取るにもおいそれとはいかない。しかも、欲しいタイミングで咲いてるかどうかも条件の一つだ。
「受け取って、ハリー」
呆然とするハリーを促すアーロン。ハリーはそっと両手で受け取った。
鼻に近付けるが、香りは弱い。たぶん、
───試験器で保存してたヤツだな。
ハリーの様子を見て、アーロンは頭を掻く。
「ごめん、咲いてすぐの花じゃないから、香りが薄いみたいなんだ」
分かってるよ、アーロン。全部分かってる。王家の薔薇を手に入れるのに苦労した事も、部屋一面にバラを敷き詰めるのにかなりの費用が必要な事も、これが二度と繰り返せない一発勝負だという事も。しかも───、
「そんな事、云わなきゃ分かんないのに」
変なとこ正直で、スマートじゃないんだよな、アーロンて。
この部屋は、プライベートな書斎のようなもの。寝室ではない部屋。隣が寝室で、そこへのドアの前に、アーロンは立っている。
「おいで、ハリー」
アーロンが差し出す手を握り、エスコートされた寝室。ここにも一面に、バラが敷き詰められていた。床だけでなく、ベッドにも。
香水のローズの香りと違い、少し青い感じの混ざった、植物の香り。これだけ隙間なく、絨毯のように敷き詰められると、このままでは眠れないかも。
さて、アーロンの目的はこのデコレーションを見せる事ではない筈。手を引いていた彼は、振り返ってもう一度跪いた。その手には指輪の小箱。
「結婚して下さい、ハリー」
その視線に戸惑うハリー。
初めてプロポーズされた時アーロンは、緊張しながらも自信満々だった。回を重ねるに従って、だんだん挑戦的になっていったが、今回は、なんだか切なさのような、微妙な感情のこもった視線だった。
アーロンの苦労が想像できるだけに、ハリーの胸にも刺さるプロポーズだった。
ハリーは小箱を持つ手を自分の手で包み込みながら、アーロンに近付く。お互いに片手を離し、アーロンはハリーの腰に、ハリーはアーロンの頬に触れる。
「ダメだよ、アーロン」
がっくりと肩を落とし、アーロンはハリーの腹部に顔を埋めた。
───ハリーの意志固いな。
王家の薔薇を手にした時から、アンバーの瞳は潤んでいた。その瞬間はイケる気がしたアーロンだったが、ピンクのバラの香りを嗅いだ辺りから、勝てる気が薄れてしまった。ハリーの表情でアーロンには分かってしまったから。
「アーロン...」
遠慮勝ちに声をかけてくるハリーに、アーロンは顔を上げ、
「バラのお風呂に入ろう、ハリー!」
いたずらっぽい表情で云った。
早速、バスタブに張ったお湯にバラの花びらをたっぷり浮かべ、残ったバラは城中に飾った。
さながら、バラの城だった。
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