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摂政最後の事件...!?
2 末っ子の過去、次男の未来
しおりを挟む応接室。
奥の壁一面には巨大なキャビネット。ガラス扉の向こうには、美しい陶器や食器が並んでいる。コーナーの一角には1メートル程の高さの観葉植物が佇み、空間を柔らかく見せている。
「イブラントの私のイメージ、これなのよね」
ニコルが見上げているのは、一点の細密画。植物や昆虫をモチーフにしている。よくある黒ペンではなく、パステルのグラデーションが、無機質感を和らげている。隅っこには、「Enah」とサインがある。
「同じアーティストの作品が、この城には何点かあるようです。私の部屋にも一点あります」
「アルテミスの間にも?」
振り向くと、アルテミスはオーディオセットの前で悩んでいるようだ。ニコルはクスリと笑うと、スマートリモコンを呼んだ。
「ピアノのBGMをかけて」
すると、クラシックのピアノ曲が室内に流れ出した。アルテミスは虚空を、音を追いかけるように見渡す。
「これはいいですね、便利で」
「アルテミスて、機械モノは苦手?」
「ええ。進化の早さについて行けなくて」
アルテミスは高身長でイケメン、人材の好みにうるさいカミルに気に入られるくらいだから、きっと仕事はデキる方だろう。なのに、文明の利器は苦手。完璧ではない、というのは何故か、可愛らしい。
「ねえアルテミス、チェスをしない?」
「チェスですか? ルールを知っている程度ですが、それで宜しければ」
アルテミスはメイドに向かって、チェスの用意を頼んだ。
「結構よ。私も強くはないし。おもてなし、て云っても、どうせお茶を飲むくらいしか思いつかないでしょう、あなたは」
そう云われると身も蓋もない。医師になる為の勉強と、医師になってからの勉強が中心の生活を送ってきたアーロン。女性に限らず、ゆっくり話をするのは医療従事者か患者ばかりで、それ以外の女性をもてなす為に出来る事など、ハリーに指示されても思いつかなかった。
ソファに対面で掛け、用意して貰ったチェスのボードにコマを並べていく。
「アルテミスからどうぞ」
「恐れ入ります。では」
まずは、キングの前のポーンから。
「でもやっぱり意外ね。アルテミスがハリー殿下のファンだなんて」
「それは忘れて頂いて結構です」
なにせ昨日の今日ですからね。アーロンの手にはまだ、ハリーの肌の温もりが記憶に新しい。
「また赤くなってる!」
「なってませんっ」
「でも解るわ。彼は昔から、男性にも女性にもモテたから」
ニコルは、コマを手の中で弄びながら思いを馳せている。
「ニコル様にとっては、幼馴染みでしょうか?」
「そんなに親しくはなかったわ。社交界で見かけたくらいよ。彼の周りにはいつも取り巻きがいて、女性は近付く事ができなかったの」
ニコルが社交界デビューしたのは12歳。ハリーはまるでスポットライトを浴びるていように、輝いて見えた。しかし取り巻きやハリーの機嫌で、彼に近付けるのは可愛らしい男の子ばかり。ニコルは子供ながらに、ハリーが選ぶのは男性だけなのだと理解した。
「私、ヴィンデルバンド公爵家でみんなから可愛がられてチヤホヤされてたの。ハリーには一瞬で負けた気がしたわ」
ニコルがどんな衣装で着飾っても、大勢の人に褒めそやされても、ハリーの輝きは格段の差だった。
「その手でよろしいのですか?」
「ええ。ナイトは失いたくないので」
「待ったなしですよ、ニコル様」
構わずにアルテミスはコマを進めた。そして続きを促す。
「ヴィンデルバンド公爵家のご令嬢なら、主役級でしょう?」
「私自身も、ハリーから目を逸らせなかったの。端から勝負になんてなってなかったのよ。でも、ハリーも頑張っていたのね、フリートウッド家の体面の為に」
ニコルがバルコニーに出ようとすると、ハリーが先に出て行った。追いかけたのは、オットマー=ヴィルト。子爵家の跡取りで、ハリーに尽くしているのが、ニコルにも解った。
「機嫌が悪くなってるハリーを必死になだめて励まして。世界的な有名人とそのマネージャー、て感じだったわ、その時は」
その後、ニコルはいろんな噂を聞いた。ハリーは社交界に顔を出さなくなり、ヴィルト子爵家は没落した。オットマーがハリーに手を付けたとか、フォルカーのご不興を買ったとか。
「私が最も有力だと思うのは、オットマーがフォルカーを怒らせて、社交界から追われた、ていう説」
「フォルカー卿は今の、フリートウッド公爵ですよね」
相槌を打って、先を促すアルテミス。
「ええ。摂政になってからだそうだけど、ハリーは滅多に人に怒ったりしないそうなの。私の昨日の件も、怒られなかったわ」
「何故、ハリー殿下は───」
「オットマーを失ったからじゃないかな」
オットマーが社交界を追われたのは、フォルカーの不興を買ったせいかも知れない。次期公爵のご機嫌を取る為に、周囲の者が不必要に配慮して、オットマーを追い出したとしたら、ハリーはきっと、ショックを受けたに違いない。
「殿下は、悲しんだかも知れませんね」
「これはあくまでも説よ。確証はないし、ハリー殿下にも直接には訊けないわ」
そう云ったニコルのコマの動きに、「あ」と思わず声が漏れるアルテミス。
「ナイトがそんなところに...?」
「チェックメイトね」
天を仰ぐアルテミス。
「ナイトはいつからそこにいました?」
「すべてのコマの動きを見てないと、ね」
ニコルはドヤ顔で云った。
「まあ、私が勝ったらおもてなしにはなりませんからね」
「アルテミスは負けず嫌いね」
「まあ最初に、ルールを知ってるだけだとお断りもしていましたしね」
「あら、ならもう一回対戦する?」
ニコルはアルテミスのまた違った一面を垣間見た。
ハリー摂政殿下は、秘書のニコルを伴ってイブラントの城を後にする。
エントランスまで、アルテミスとベルトホールド伯爵は見送りに出た。
「年が明けたら、しばらくはこうしてお会いする事も難しいかも知れませんね、殿下」
伯爵は穏やかに微笑みながら、アルテミスとニコルにほのめかす。
「あら、そうなんですか、ハリー殿下?」
ニコルに頷くハリー。何気なく、できるだけ自然な仕草で、アルテミスのヘーゼルの瞳に目を向ける。彼は、具体的な理由は分からないまでも、なんとなく察してはいるだろう、とハリーは思う。
そしてそのアーロンも、察しながらも顔には出さず、ただニコニコとしてその場にいる。年が明けようが明けまいが、ハリーには簡単には会えないし、話もできない。それは変わらない。ただ、切ないだけ。
「陛下の事は、くれぐれも頼んだよ、伯爵」
「こちらのことは、お任せ下さい、ハリー殿下」
摂政としては珍しく、ハリーは腕を広げてヴァルターとハグをした。そして、アルテミスに顔を向ける。
「君には、皇太后と伯爵を頼むよ、アルテミス」
と右手を差し出す。アルテミスが条件反射的に手を出すと、ハリーはそれをかわして抱き寄せた。
「......」
思わぬハリーの行動に、素に戻ってしまいそうなアーロン。軽くパニクってるのが、傍目にも明らかだった。
「アルテミスが固まってしまいましたわ、ハリー殿下」
ニコルはハリーがアルテミスをからかったと思い、暗にたしなめる。そのアルテミスの隣では、ヴァルターが俯いて肩を揺らしている。
「刺激が強すぎたかな」
ハリーはそう云いながら、ヘーゼルの瞳を優しく見つめた。アーロンはいろんな衝動をやっとの事で抑え、
「お...お任せ下さい、ハリー殿下」
掠れた声でやっと云った。
「アルテミスも、殿下の前ではとってもカワイくなっちゃうのね」
とニコルは云って、車に乗った。
「怒ってるんですか、アルテミス?」
とヴァルターが云ったのは、ハリー達を見送って、書斎に戻る途中。そう云われている割には、アルテミスは怒っているようには見えない。
「ちょっと、疲れました」
ハリーに散々ペースを乱され、久々に翻弄されたアーロン。ニコル一人の為にアルテミスを演じ続けなければならず、更に自我の暴走も抑え、気疲れに気疲れを重ねた時間だった。
「楽しそうでしたね、伯爵は」
「ええ。ここ最近にないくらい、楽しませて頂きました」
ヴァルターは所詮、当事者ではない。
「ニコル様に気付かれたらどうするんですか」
「その時はその時ですよ」
そんなものなのか。まあでも、アーロンがイブラントの城にいる事が明るみになって、困るのはアーロン本人だけだ。しかももう、アーロンはワイアットではない。うまくすれば、貴族特権的な上から目線で、軍など蹴散らせる───というのはご都合主義だろうか。
───オレの目論見も、妄想で終わったしな。
ハリーとこっそり手を繋ぐとか、ハリーを連れ出して二人きりになるとか、あんな事やこんな事───どれ一つもできなかった。残念。
───一応、ポケットにメモは入れたけど、気付くかな、ハリー...。
隙を見て、ハリーに連絡先を書いたメモを渡そうと思っていたアーロン。それだけは何とか出来たようだった。
「ところでアルテミス───」
人差し指を立てる伯爵。「あなた方おふたりは、いつ、お会いになったんです?」
バレていたようだ。「昨夜」とは答えられず、スルーを決めるアルテミス。
「咎めるわけではありません。でも、アルテミスの喜ぶ顔が見たかったな、と思いまして」
ヴァルターはきっと、今日の事を、退屈しているカミルに報告するに違いない。決して、悪意でそうする訳ではない。それは解っているが。
「伯爵、───」
アルテミスは立ち止まって見下ろす。「やっぱりあなたは人が悪い」
アーロンはリヒター家に来ていた。
エッケハルトに、ホームパーティーに招待されたからだ。
ワインとコーラを手土産に訪ねると、パーティーはまだ始まっていなかった。
「パーティーの前に、こちらへ来てくれ」
エッケハルトの小さな書斎に招き入れられた。彼の妻や子供達はダイニングでパーティーの準備をしているらしい。
リヒター家の人達に会うのは、フリートウッド家を訪問して以来だ。
「あの後家族に、私がフリートウッド公爵家の次男だと伝えた」
「そうですか」
エッケハルトの妻は、多くの事を夫に任せるタイプなのと、結婚前から聞いていた話を総合して、理解にそう時間はかからなかったそうだ。
子供達、特に長男のイェルンは、父が隠し事をしていた事にこだわった時期はあったそうだが、一応の理解は示した。
「次男と三男は単純に喜んでいたよ」
その時の様子は、アーロンにも容易に想像できた。
「実は、私の方からヒエロニムス様に提案したのですが───」
アーロンは、先日の事を打ち明ける。
「提案?」
「はい。フォルカー様は、アルコール依存が強い状態ですが、精神を病む程には至っていません。治療の経過にもよりますが、しばらく、ヒエロニムス様の元で療養して、その間、次男のあなたか、フォルカー様のお子様が代理を務める、というのはいかがでしょうか?」
「代理...」
エッケハルトはポツリと繰り返した。そして、頭を振る。
「家族で相談して決めたんだが、次男である事は認知してもらうとして、家督を継ぐのは、遠慮しようと思う。君の期待に応えられなくて申し訳ないが」
自ら出て行っておいて、公爵家が弱っているところに戻って来て、まるで地位を横取りするようなマネはできない。
「私の事はお気になさらずに。答えを出して頂けたので、ホッとしました。長引くと、ご家族の中でもわだかまりになってしまうでしょうから」
この言葉に安心するエッケハルト。アーロン=ゲルステンビュッテルは、最後まで、リヒター家の事をいちばんに考えてくれていた。
「君にはこれまでこの件でよく面倒を見てもらった。感謝しているよ」
「家族が、家族という形を取れずにいるのは悲しい事です。ヒエロニムス様のご心痛でもありましたので」
父の心痛を知る程、アーロンという男は父の懐に入り込んでいる。そこにはどんな経緯があったのか。
それと、『家族』にこだわっているように、エッケハルトには思えてならない。アーロンはもしかして、不遇な少年時代を過ごしたのではないか。エッケハルトの興味は尽きない。
「一つ、訊いてもいいかな、アーロン?」
「なんでしょう?」
アーロンは屈託のない表情で待つ。エッケハルトは、プライベートに踏み込む失礼と知りつつ、口を開いた。
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