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ロイヤルデューティー
9 お帰りはくれぐれも気を付けて
しおりを挟むアーロンは控えていた執事に合図して、リヒター一家を呼び入れた。
全員が揃ったところで、エッケハルトが一人ひとり紹介し、挨拶する。
「イェルン、こちらへ来なさい」
「...はい」
長男が父を見ると、彼は軽く頷いた。戸惑いながらも、イェルンはベッドの側に立った。
「顔を、よく見せてごらん?」
と祖父は云うが、まさか顔を近付ける訳にもいかない。長男はその場に跪いた。
「そこまでしなくてもいいよ」
祖父は驚いて笑った。イェルンはどうしたらいいか分からず、また立ち上がる。ヒエロニムスはベッドの縁を示し、
「ここに座りなさい。他の子供たちも来なさい」
次男が誘い、三男はためらいなく駆け出す。次男は隙あらばと狙っていたようで、駆け寄る勢いでベッドにお尻から器用にダイブ。それを見た三男は、真似をしようとして長男に捕まった。
「僕もロータルみたいに飛ぶー!」
「ロータルは飛んでないよ。お行儀悪い子はロータルみたいに、先生に叱られるんだぞ。アルヌルフは叱られたいのか?」
「やだー。僕お行儀いいの。イェルンのお膝に座る」
揺れるベッドの上で、祖父はにこやかに子供たちを見ていた。エッケハルトからすれば、かつてない父の態度にこっそり驚く。常日頃、誰に対しても彼は厳格だった。年のせいか、病気のせいか、父は随分丸くなった。
「イェルンはゴットヘルフの子供の頃に似ているな。ロータルは母親似でいい顔だが、腕白なところはフォルカーを思い出す。アルヌルフは、いい子にしていたらお菓子をあげようと思っていたが、もう済んでるようだね」
口の端に、クリームが付いていた。みんなが笑う中、イェルンは慌ててハンカチを出して、弟の口元を拭った。
「こんなに賑やかなのは、久しぶりだな。エッケハルト、またいつでも来なさい」
「ありがとうございます、父様───」
子供たちを集めて、「お祖父様にご挨拶して」
家族それぞれに挨拶を交わして、部屋を出た。
ヒエロニムスの代わりに、アーロンが見送りに出る。
「とにかく、お会いになれて良かったと思います」
「訊きたい事が増えたよ、アーロン。また連絡する。いいね」
「お待ちしております、エッケハルト様」
振り返ったエッケハルトは、手を差し出すのではなく、両腕を広げた。アーロンは笑顔で応える。力強いハグで。
「私も、来て良かったと思うわ。ありがとう、アーロン」
エッケハルトの妻も、両腕を広げた。そうなると、三男も真似したがる。次男も待っていて、長男は、後で家族に追求されないように、仕方なくハグをした。もちろん、アーロンは全員分け隔てなく、力強いハグをした。
その間に車がエントランスに回され、リヒター一家は帰って行った。
アーロンはヒエロニムスの部屋に戻り、簡単な触診をする。
「少し、血圧が上がっていますね」
「あんなに笑ったのは、本当に久しぶりだ」
前公爵の顔は、近年見ないくらい、血色がいい。
「痛み止めを飲んだんですか?」
「ああ。エッケハルト達がいる間はなんともなかったが、彼らの帰る間際から急に痛みだしてね。楽しい空気を壊したくなかった」
「ヒエロニムス様は眉をしかめると、お顔が怖くなりますからね」
控えているメイドや執事がビビるような事を、アーロンは平気で云う。しかしヒエロニムスも、
「そうか、私の顔は怖いか?」
「アルヌルフなら、泣いてしまうかも知れませんね」
「それは、気を付けなければいけないな」
まだ腰の痛みは引かないが、ヒエロニムスはご機嫌だ。アーロンは、考えていた事を、口にしてみた。
「一つ、ご提案があるのですが...」
イブラントに戻る車の中で、携帯が鳴った。アーロンはブルートゥースで電話に出る。
『今、どこですか?』
ヴァルターだ。
「そちらへ戻る途中です」
『王宮から連絡がありまして、ニコル様が出先から戻らないようなんです』
もう日は暮れている。
「この年末は、ヴィンデルバンド家でお過ごしですね?」
『その予定でしたが、今朝摂政殿下にメールをしてから出かけたそうなんです。それから誰が電話をしても連絡がつかないそうです』
ヴァルターは冷静に話しているが、どこか、焦りを感じるアーロン。
「行き先や立ち寄り先に、心当たりはありませんか?」
『摂政殿下の仰るには、マッサージ店が気になる、とのことです』
アーロンは車をUターンさせながら、
「情報を下さい」
それは、ハリーが調べたいと思っていた例のマッサージ店。今朝、ハリーに「内部事情を知る人物に会えるかも知れない」とメールしたらしい。
場所は、旧市街に隣接したブロックの一角で、マッサージ店の所有するビルらしい。
───とすると、事務所は最上階。極秘の作業は地下、てところかな。
どちらを調べるかは、ビルに着いてから決める事にするアーロン。
国民の殆どが休暇中なので、車は少ない。予想より早く着いた。
外装は派手ではなく、ビジネスビル風。出入口はシャッターが閉まっている。裏に回ると通用口が路地裏に面していた。もちろん、鍵がかかっている。
アーロンはトイレの窓を探し当て、そこから侵入出来ると判断して、割った。派手な音がしたが、目的は侵入ではなくニコルを探す事なので、中に人がいて駆けつけるなら、おおいに結構。
しかし、アーロンがトイレに侵入し終わっても、人が来ることはなかった。
───間違いだったら、謝るくらいじゃ済まないな。
苦笑いしながら廊下に出た。
───上か、下か。
とりあえずエレベーターを探す。狭い廊下を出ると、そこがエレベーターホールだった。その向こうは、非常灯しか灯っていないが、エントランスらしい。
エレベーターには、二基のうちの一基にだけ、地下一階まで表示がされている。呼び出しのボタンを押すと、動いた。
───エレベーターの電源を切ってないのは、忘れたのか、それとも使っているからか?
アーロンは電気の灯る函の内部へ。そして地下へ。
「ビンゴ」
小さく呟いた。おそらく、エレベーターか廊下の見張りだろう。エレベーターが動いたのに気付き、報告に行って戻って来た男を、アーロンは素早く一撃で仕留める。
最近は軍の奴らに追われる事で実践訓練となり、アーロンの格闘の腕とセンスはかなり磨かれていた。
男が倒れる音をたてないように、一度支えて床にそっと転がす。携帯で、ヴァルターと警察に連絡した。
ニコルは、この日何度目かの後悔をしていた。
両腕を梱包用テープでグルグルに拘束され、倉庫の棚に吊られている。目の前の男は、この世の善人という存在を疑う程いやらしい顔で、ニコルを値踏みするように、こちらを見ている。這うような視線に背中を冷たいものが走る。
「公爵家のご令嬢か。よく云うぜ。そんなお嬢様が、一人でこんな所に来るか? 令嬢を気取った痴女が、男を漁りに来たんだろ?」
男は太くて短いイモムシみたいな指でニコルの頬を撫で、次の瞬間には彼女の白い顎を鷲掴みにした。
ニコルは声をたてず、極めて冷静に男を見返した。それが高貴な令嬢故の事だとは、この男は知らないだろう。令嬢が下衆に感情を揺さぶられるなど、あってはならない。
動じているようにはとても見えない小娘に、男は鼻で笑って見せる。
「そう澄ましていられるのも今のうちだ。そのカワイイお口が俺のをしゃぶりたい、て泣いてお願いするのが目に見えるぜ」
ニコルは目を逸らしたい衝動に耐えなければならなかった。
───こんなのを相手に過ごす時間があるくらいなら、お祖父様のお小言を聞いてた方がマシだったわ。もう少しお上品なら話のネタにもなるのに、お下品過ぎて人に話せないじゃない。こんな事でも、神様にお祈りしたら助けて下さるかしら?
考えてる事に余裕があるようだ。直面している危機に対して実感がないのかも知れない。
ニコルの顎を鷲掴みにしたまま、男の顔が近付いて来た。目を背ければそれは、相手を受け入れる事になる。ニコルは頑張って冷たい視線を向け続ける。
「お前、目ぇ瞑れよっ、やりにくいだろーがっ!」
男はチッと舌を鳴らす。それでも一度息を吐いて、仕切り直し。
近付く男の顔。脂ぎった肌の開いた毛穴まで見える距離。口周りや頬にはうっすらプツプツとヒゲが生えかけていて、生温かい息がかかる。
───ああ、神様! ニコルは悔い改めます。摂政殿下のお役に立ちたいとか、もっと実力を発揮したいとか、経験を積みたいとか、ニコルは生意気でした。どうか、どうか、この状況を───!
ドンドン、とドアを激しく叩く音が響いた。男はまだ距離を縮めてくる。
「チッ」
ギリギリの所で、男の動きが止まった。ドアは鳴り続けている。
ニコルは内心ホッとして、神様に礼を云った。
男は何故かニコルを睨んでから、ドアに向かう。
「なんだよ、うるせえな!」
「エレベーターが動いたんだよっ。誰か来たんじゃねえかな?」
「勝手に調べりゃいーじゃねえかっ。いちいち訊くなよ!」
戻りかける男。ドアの外からは更に、
「なあ、俺も中に入れてくれよ。二番手でいいからさあ。イイトコのお嬢さんがヤラれるとこ、俺も見てえよ!」
男は一瞬呆れたように天を仰ぎ、また舌を鳴らす。
「じゃ、取り敢えずエレベーター見て来いよ!」
「わ、分かった!」
イライラした様子で男が戻りかけるが、またドアがドンドンと叩かれる。
「今度はなんだよ!」
怒鳴りつけるが、返事がない。もう一度繰り返すが、数秒待ってもやっぱり返事なし。
男は舌を鳴らしてドアノブに手をかける。サムターンを回して鍵を開けると、ドアが勢いよく開いた。
「あっぶねっ!───なんだお前は!?」
怒鳴った割には、男は結構な角度で見上げて後退る。間合いを詰めて入って来たのは───、
「アルテミス...!」
「やっぱり、来ていたんですね───て、ニコル様!」
公爵令嬢が最後に見たのは、男を突き飛ばして、らしくなく慌てて駆け寄るアルテミスの姿だった。
───ジャケットの裾が翻って、まるで王子様のマントみたい! 格好良過ぎだよ、アルテミス...。
しかしニコルが目を覚ました時にはもう、彼の姿はなかった。
年の瀬で人通りすら少ない旧市街。
「ん? ここから歩くの?」
いつも、どこか抜けているのはヤン=ハイゼ。
「降りろ、ヤン」
「え、僕だけ? 二人は?」
車の後部座席から身を乗り出すヤン。前席の二人の様子を見ると、前方を睨んでいる。
回転灯を点灯したパトカーや、黒塗りのイカツイ車が何台も停まっていて、制服の警官や黒スーツが何人も群がっている。その間を建物の中から出てきたのは、この寒空にジャケットを着ていない、背の高いブロンドの男。
「すぐそこに地下鉄の駅があるんだ。ヤンを送ってくれないか、ゲロルト?」
「で、君だけがヒーローになる、ての、ステファン?」
ステファンは、肩を竦めて見せる。
「シートの後ろにカバンがあるんだけど、取れる、ヤン?」
「いいよ。───よいしょ、と。これ?」
ステファンは中身を取り出して素早く着替える。黒のジャージーワンピにレギンス、そしてヒールの高い黒ブーツ。
「似合うよ、ステファン! カワイイ!」
「この国は意外に監視社会でね。後で捜索されても性別違いで僕は掻い潜れる。君たちはヒッチハイクでここ迄乗せてもらった事にしといてよ」
ゲロルトはシートにもたれて腕を組み、深く息を吐いた。
「俺だって捜査官だ。たまたま出くわした、て事で、不自然はない」
「ヤンが一人でその大荷物だよ。こんなに食材が入ってたら、怪しまれるかも知れないだろ? それに───」
ステファンはシフトレバーを握る。「危ない橋を渡るなら、人数は最小限と決まってる!」
ゲロルトはヤンに声をかけてドアを開けた。前方を睨むステファンは、まるで獲物を狙う野生のチーター。ヤンがドアを閉めないうちに、車は急発進した。
追突する勢いで車は突っ込む。ブレーキの大きな音をたてて停まると、ジャケットなしの男が周囲を蹴散らしてステファンの車に乗り込んだ。途端に、走り去る車を目掛けて拳銃が何発も発泡された。
「ステファン!」
「大丈夫だよ、彼なら」
飛び出しそうなヤンの肩に手をかけ、見物人を装うゲロルト。ヤンは気になっていた疑問を、ゲロルトにぶつけてみた。
「車に乗せたの、誰!?」
「あれが、俺達の共通の知り合いだよ。もう行くぞ」
駅へ向かうゲロルトに着いて行く。が、荷物を忘れて取りに戻るヤン。
「共通の知り合い、てまさかあれが───」
口をパクパクするヤン。「誰だっけ?」
これで高級役人が務まるんだから、この国も平和だと云えるだろう。
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