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幸せなら良かった

6 誰が為の義務

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 ハリーはあの朝早く、王宮の事務方から呼び出された。
 アーロンをひとりでホテルに残す事に、後ろ髪を引かれる気持ちで出勤した。
 公務だ。アーロンが戻って来たのだから、行けないとはもう云えない。
───アーロンが家族なら、もう少しわがままも云えたのに。
 そんな事を考えながら、迎えの車に乗り、王宮に入った。
 スケジュールとしては、午前中に国賓の歓迎行事、午後からは国の主催する芸術祭コンサートへの出席、その後、国会議員との会食だった。
───午前中の歓迎行事なんて、早朝から支度する程の事もないと思うんだけどな...。
 王宮に附属の教会でお祈りをして───いざ、立ち上がろうとした時、侍従が来た。何か急ぎの用事か、と思う間に、
「失礼します、殿下」
 左右にも首相と国防長官が座った。
───ヤバい。これ絶対ヤバいやつだ。
 そうは思っても、囲まれてしまってはもう遅い。ハリーは覚悟だけはした。
 そこで初めて、カミルの病状を知らされる。
「入院!?」
 礼拝堂に声が響く。いろんな事が頭を駆け巡る。───見舞いには行けるのか? 前国王のケースとの違いは? 皇太后はさぞかし心配なさっているだろう、とか───。
「退院は、いつ頃になる?」
 当然、治るものという前提で話を進めるハリー。答えたのは侍従。
「順調にいけば、半年程で療養が終了します」
「そうか...」
 ハリーはホッと息をついた。カミルの父、前国王が急逝していたので、ハリーは特にそれを心配した。治るのなら、ひとまず安心だ。
「しかし───」
 国防長官が水を指す。「年齢の若さ故に、進行が早い場合もあります。治るのが遅い場合もあり、移植や再発についても、考慮しなくてはなりません」
「移植となれば、ドナーの選定にも、時間を要します」
 補足する侍従に、ハリーは身を乗り出す。
「私が、ドナーになろう」
「いけません。ご病気でもない殿下に、メスは入れられません。万一、という事も、皆無ではないのです」
 侍従はいつになく、睨むような表情で答える。今度は後ろから、アーロンの代わりを務めている医師が顔を出して、補足する。
「血が繋がっているからといって、ドナーとして適合するとは限りません、殿下」
「ラインハルト...?」
 ラインハルト=エッゲリング。ここ二週間ほどは、彼がアーロンの代わりに、主にハリーの健康管理などを務めていた。
───この緊急事態に、現状を把握しているのが、アーロンではない。
 今朝、アーロンはまだベッドにいた。ハリーより前にこの事態を知る事は出来ないだろうが、せめて同時に知らされてもいいのに、何故、ここにいるのがアーロンではないのか。
 顔色を変えるハリーに、侍従が呼びかける。
「アーロン=ワイアットは、殿下の主治医としては相応しくありません」
 ハリーは思わず立ち上がった。侍従は臆することなく、跪いた態勢のまま、ハリーを見返している。その目は信念を歪ませない真っ直ぐな視線だ。
───分かってる...!
 美しい顔を紅潮させ、拳を握りしめる摂政は、肩を上下させながら、目を閉じて、己を抑えていた。
 分かっていながら、意識しないようにしていた。ハリーも、アーロンも。
「......」
 しばらく、ハリーは何も考えず、故に何も云えないまま、立ち尽くす。周囲は黙って、待った。
 クローンを、摂政の主治医にしておく事はできない。それが原因で誘拐されたのも、もはや明らかで、しかもいつ何がきっかけで暴れ出すかも分からない。───危険過ぎる!
「同じ理由で、ステファン=ベルジュも、そして会計士のヴァルドゥイーン=ライニンガーもレムケの契約違反で、契約を打ち切っております、殿下」
 心持ち遠慮がちに、侍従は補足した。摂政の呼吸は落ち着き、静かにまた、腰をおろした。
「取り乱した。すまない───」
 ハリーは肩越しに、「気を悪くしないでくれ、ラインハルト」
「お気遣い、痛み入ります、殿下」
 張り詰めていた空気が和らいだ。
───これだ! この寛容と忍耐は、ヴィンデルバンド家にも、フリートウッド家の他の兄弟にもない!
 国防長官は密かにほくそ笑む。ハリーにはリーダーシップこそないが、冷静に聞き分ける判断力と信頼関係がある。ただ従順なだけのお飾り人形ではないのだ。
───ヴィンデルバンド家の傲慢坊っちゃんカルステンとは、雲泥の差だ。
 このままハリーが国王になるのがいちばん、物事はスムーズに進む。カミル国王の健康問題を理由に、ハリーが取って代わって───。
 そう考えて、国防長官は頭を振った。流石にそれは、国家の転覆を望むのと同じだ。うっかり口にする事のないよう、細心の注意が必要だ。
「どこまで───」
 かすれた声に、咳払いのハリー。「どこまで話していたかな?」
「ドナーについては、必要になった時、こちらで手配します」
 ラインハルトが答えた。侍従が話を戻す。
「国王陛下の回復が遅れてしまう場合は、ハリー殿下...」
 そこで言葉を切った。見つめられて、ハリーは言葉を継ぐ。
「...関白...か?」
 侍従は頭を振り、首相は顔を逸らす。国防長官は更にハリーを見つめて正解を待つ。後ろのラインハルトは、答えを促して、
「ハリー殿下...」
 侍従は更に、云い換えた。「
「待て!」
 仰天しながらも、ハリーは全員の目を見た。真剣で真面目で、それどころか、期待の籠もった眼差しで、こちらを見ている。
 ハリーは両手で顔を覆った。その手の隙間から、
「ヴィンデルバンド公爵は、何と云っている?」
「公爵は既に了承済みです」
 国防長官が、極秘会議を要約してハリーに聞かせた。
───ヴィンデルバンド公爵は、さぞかし機嫌を悪くしただろうな。
 ハリーは力を抜くように、膝に手を落とした。深く、息をつく。
「決まったとは云え、カミル陛下の回復次第だな、国防長官」
「はい。もちろんです、殿下」
 この話は一旦終了───と思ったら、侍従が「もう一つ」と人差し指を立てた。
「ハリー殿下の護衛ですが、これを機会に、近衛兵に───本来の形に戻そうと思います。よろしいですね、殿下」
 元々、ボチェク率いる軍の護衛チームは、急遽立ち上げられたチームで、その場しのぎだった。当初は、折を見て近衛兵に交代すると思われていたが、アーロンがいる事でハリーには好都合だったし、特に誰も異議を唱える者はなかった。
 しかしもう、そうはいかない。カミルが復帰できなければ、ハリーは国王になる。護衛は近衛兵でなければならない。
「そうか。分かった」
 ハリーはそう答えるしかなかった。
 一人ひとり、名前まで覚えた護衛のチームはハリーの前から消え、執事やメイドも、王宮の息のかかった者に代わるだろう。会計士も、新しく探さなければならない。
 ハリーの周囲から、慣れ親しんだ者達が排除されていく。
「近いうちに、陛下の見舞いがしたいが、可能だろうか?」
 自分でも意外な程、ハリーは冷静だった。どこかから情報が漏れて、ハリー国王案が噂になり、どこで謀反の噂に変わるか分からない。カミルの見舞いは、早い方がいい。
「賢明です、殿下」
「スケジュールを調整して、早急に手配致します」
「頼む」
 侍従達が立ち上がった。ふとハリーは、
「今、何時だ?」
 首相が答えた。既に、国賓の歓迎行事は始まっている時間だった。
「殿下は前日の遠出からお戻りになり次第、参加すると伝えております」
 そうなると、ハリーはすぐに行かなければならない。
───アーロンに、連絡だけでも出来ないかな。
 ホテルに残して来たのが気がかりだ。
 寒い教会をゾロゾロ立ち去りながら、侍従と国防長官が、人事についてハリーに報告する。
「執事やメイドは、引き続き今まで従事していた者達で対応しますが、よろしいですね、殿下」
「え?」
 思わず声を上げるハリー。侍従は立ち止まって、
「何か、問題でもおありでしょうか?」
「あ、いや、ない。問題ない」
 ハリーは慌ててそう云った。
「政治秘書のヴィンフリート=ヴァイグルもそのままです。軍との連絡将校は、当面の間は、ヴェルナー=ゲーゲンバウアーが務めます」
「ヴェルナーが?」
「本人の希望です」
 ここは驚かないハリー。なんとなく、理由は分かった。今はただ、見知った顔が心強い。
「ホテルの───」
 云い出しにくいハリー。「チェックアウトをしてないんだが...」
「それでしたら、誰かに行かせます」
 侍従の言葉に、ハリーは咄嗟に、
「カレル=ボチェクに頼みたいんだ」
 急に頭に浮かんだ名前を云った。それを聞いていた国防長官が、
「では、私が彼に伝えておきます」
「ありがとう」
 その後、ボチェクは異動とアーロンの所属について根回しをするのに忙しく、アーロンを迎えに行くのは翌々日になる。ハリーは知らないが。
───どうしてボチェクなんだろう。
 ハリーは囲まれて歩きながら、そんな事をぼうっと考えていた。



 応接室に入ると、ボチェクが立ち上がって、ハリーがソファにかけるまで待っていた。
「なんだか、久しぶりだな」
 祖母の別荘でクローン達に襲われて以来だ。あの時でさえ、挨拶を交わすどころか、まともに向かい合うこともなかった。
「ホテルのチェックアウトの、ご報告に参りました」
 ボチェクは畏まって云った。その割にタイトルは凄まじくどうでもいい。
「君の部署に...所属するそうだな」
 主語はないが、アーロンの事だ。ボチェクは事務的に返す。
「軍に入る前から目を付けておりましたので。子飼いの部下は手放したくないものです」
「...彼を、頼む」
 ハリーは努めて淡々と、素っ気なく云った。どんな様子なのか、食事や睡眠は取れているのか、傷付いているのではないか...訊きたくても、その立場には、もうない。
「様子を、詳しくお話しましょうか?」
 ボチェクの言葉を聞いた瞬間、ハリーの手が汗ばむ。訊きたくて仕方がない。しかしアーロンの様子を知れば、会いたくなる。必死で抑えているのに、もしこちらからそれを尋ねたら、侍従達との信頼を損ねる。
「......」
 しかし、ボチェクの気遣いも断れないハリー。いっその事、ボチェクが独り言でも云ってくれればいいのに。
「話を聞いて、彼はぶっ倒れました───」
 アンバーの瞳が見開かれる。「まあすぐに、復活して出かけましたがね」
 ハリーは身を乗り出し気味で、真っ白い顔をして、ボチェクを見つめる。先を促しているのだ。
 しかしボチェクは話し出さない。
 まるで永遠のように、長い時間、二人は黙ったままだった。ハリーがやっと、止めていた息を吐いた。長いまつ毛が、蒼い頬に影を落とす。
「何故───」
 口を開いたのはボチェク。「彼を連れて行かなかったんです?」
「何故だって? お前がそれを訊くのか、アルフレート?」
 眉間にシワを寄せ、あからさまに怪訝な表情を見せるハリー。
「私以外に、誰が訊くと云うんです?」
「私は昔、似たような理由で愛する者に捨てられた。『何故?』と云うなら、自分の胸に訊け!」
 少し、ボチェクが顔を歪める。
「だからアーロンにも同じ事をしたのか?」
「そっ...、そんな事は云ってない!」
「なら、別れて良かったと云うのか!? それで幸せになれたのか!?」
「お前は知ってる筈だ!」
「そうかい! 幸せなら良かったよっ!」
 ハリーとボチェクが再会して、初めてまともに、過去の話をした。いや、まともではないか。
 怒鳴り合いで、遠い昔を懐かしむとはとても云えない。むしろ引きずっていたわだかまりを、ハッキリさせてしまっただけ。せっかく、胸の奥深くにしまっておいたのに。
「失礼します」
 ボチェクは応接室を出て行く。ドアノブに手を伸ばし、ため息をついた。このまま帰ったら、何故来たのか、分からなくなる。
「今頃のイブラントは───」
 ボソリと云った。「朝焼けがキレイでしょうね」
 ハリーの反応を確認する事なく、ボチェクは出て行った。
───どうしてボチェクは、オレを責めるんだろう。
 ハリーはただ、辛かった。



 ボチェクからすれば、従順過ぎるハリーがもどかしかった。権力者達に何も云えなければ、都合よく使われて、そして風向き次第では簡単に捨てられてしまう。リーダーシップとまでは云わないが、絶対的な存在感は示せなければならない。
───たとえ王になっても、それ以前に人間だろうが、お前は。
 権力を傘に着るのと、意思を貫くのとは、違う。どうしても譲れないものまで犠牲にして、それが果たして国民の為か?
「少し、云い過ぎたな」
 もうあまり来る事のない、毛足の長い絨毯の廊下を歩きながら、ボチェクはハリーの顔を思い出した。
───なにも、責める事はなかったな。
 可哀想な事をしたと、ボチェクは後悔する。王宮にがんじがらめにされて手も足も出せないハリーに対して、云う言葉ではなかった。
───俺はアーロン=ワイアットじゃないからな。
 だから仕方ない。責めるべきではなかったが、かと云ってアーロンのように、優しく笑ってやる事もできない。
───イブラントに行け、ハリー。アーロンを取り戻せ。王宮にハメられる前に...。
 冬の日が暮れるのは早い。日の落ちて薄暗い黄昏の中、ボチェクは待たせていた部下の運転する車に乗り込んだ。
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