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幸せなら良かった
4 アルテミス
しおりを挟む「お待たせしました。どうぞ中へ」
感染症についての知識を思い出そうとしていたヴァルターを、看護師が呼び入れた。
ソファに掛けて、こちらに背を向けていたカミルのブロンドの艶に目をやると、国王はヴァルターをちょっと見やった。グリーンの瞳は少し潤んでいるようで、そのせいか、泣きそうな、困ったような、複雑な表情だった。
「掛けて下さい、ベルトホールド伯爵───」
主治医は、照れくさそうに笑って椅子を指した。「実は、あなたが陛下に、誤って怪我でもさせてしまったかと、伺っていたんです」
自己申告。
国王の機嫌を損ねるのはマズいが、その取り次ぎなどを担う側近───ヴァルターの機嫌を損ねるのも、結構マズいからだ。後々、人の噂になってから云い訳するより、今その事実を自ら明かす方が、悪い印象も薄くて済む。尾ひれはひれも付かなくて済む。いろいろこじれなくて、済む。
「構いません。私も先生の立場なら、同じように疑っていたでしょう」
ヴァルターはにこやかに云った。「それで」と先を促す。
「はい。精密検査の為に、入院をして下さい、今すぐに」
ヴァルターの悪い予感が的中した。深刻な状態に違いない。
「分かりました。すみませんが、必要な物をリストにして頂けませんか、ドクター?」
すると看護師が1枚のメモを提示してくれた。
「こちらをお読みになって、準備をお願いします」
「では、今から準備をしますので、失礼します」
受け取ったメモに伸ばした手が、震えていた。ヴァルターはじっくり見るフリをして、それを両手で持った。
───いや、まだだ。まだ、何も分からない。精密検査をしたら問題なかった、という事だって...!
動揺を抑えながら、立ち上がってドアまで歩く。震える膝を叱咤する。
───当事者は僕じゃないぞ、しっかりしろ!
ドアを開けると、控えていた執事と目が合った。それが、主治医退出の合図。
ドアをくぐる前に、主治医は立ち止まる。
「待たせて頂く間に、病院に手続きの連絡をします」
「病院まで、一緒に行くのですか?」
「ええ。早い方がよろしいので」
主治医の言動は確信に基づいている。検査はそれを証明する手段に過ぎないのだろう。
ドアを閉めて振り返ると、辛いのか、カミルは膝に手をやって、俯き加減で座ったままだった。
「支度をする間、もうしばらくお待ち下さい、陛下」
云いながら、ヴァルターはスマホを取って、知らせる相手を探す。見つけるとすぐに通話ボタンを押した。
「ヴァルター」
「はい!」
すぐに通話を切る。ワン切りになったかも知れない。
構わずカミルの足元に跪いた。未だ俯いていたからだ。しかしカミルは、ヴァルターに気付いていながら、一点を見つめて動かない。
「水など、お持ちしましょうか、陛下?」
何も云い出さないカミルに、ヴァルターは思いつきでそう云った。本当は何か、云い出しにくいのだろうと察したから。
カミルはゆっくりとヴァルターと目を合わせると、表情を歪める。ヴァルターは伸び上がって、カミルを受け止めた。
「カミル様...」
「僕は怖い!」
震える国王を胸に抱き、ヴァルターは腕に力を込める。
「私はいつでもお傍を離れません」
「ありがとう、ヴァルター」
ものの数分の後、カミルは顔を上げた。落ち着いた表情を確認すると、ヴァルターはティッシュを渡した。
「もう大丈夫だ。皇太后に連絡してくれ、ヴァルター」
「かしこまりました」
ヴァルターは改めてスマホを取り、電話をした。侍従長を呼び入れ、事情を話して支度を手伝わせる。
結果の通知や情報統制、スケジュールなど、諸々は侍従長に任せ、ヴァルターはカミルに付いて、病院へ向かった。もちろん、それは内密に行われた。
病院では、秘密保持が充分になされた上で、検査が行われた。
裏口から入り、院長や看護師長など、数人のみで結成されたスタッフだけで治療が始まった。
内容は化学療法で、通常7~8ヶ月は入院が必要だが、後半は一時退院を繰り返しながら、となるので、国王としての仕事は出来ないが、短い時間の来訪なら、挨拶を受けるくらいはできるだろう。
治らない病気ではない、とのことだが、イメージ的にも、国王が重病となると、いろいろと都合が悪い。できるだけ秘密裏に治療を進める事になった。
ただし、もしもの事も、考慮しておかなければならない。
この場合の『もしも』とは、国王が崩御した時の事だ。
王宮の侍従長や首相、国防長官、それと、ヴィンデルバンド公爵などが、数年ぶりに顔を揃えた。
「次期国王として、現在の摂政ハリー殿下が、相応しいかどうか、皆さんの意見を聞きたい」
侍従長が音頭を取る形で、会議は始められた。
「王家の血を受け継いでいる点では、異論はありません。ですが───」
公爵は眉をひそめる。「側室ならまだしも、愛人の腹ですからな。相手がどこのどなたか、誰も知らない」
ハリーが摂政になる時は、ヴィンデルバンド公爵もわりと賛成派だったが、国王となると違うようだ。
「では、ハリー殿下でないとすると、どなたを推薦されますか、ヴィンデルバンド卿?」
「それはもちろん、法律からいっても、伝統から見ても、ヴィンデルバンド公爵家から輩出するのが最適ですな」
そう云ったのは、近衛隊長。ヴィンデルバンド公爵が、口を利くよう、手回ししたのだろう。その手は使うだろうと、みんな思っていた。想定された意見に、一同は顔を見合わせる。
侍従長は代表して、
「そうなると、次期公爵のカルステン卿になりますかな」
孫息子だ。ヴィンデルバンド公爵は当然、といった顔。
「首相はいかがですか?」
政治に口を出せる立場の国王。ハリーとカルステンとは、比べるべくもない。しかし、気の弱いゴットローブ首相は、それをはっきり云えない。
「カルステン卿は精力的で向上心が強い。対してハリー殿下は柔軟性があり国民にも人気で、甲乙つけがたい」
「私は、ハリー殿下を推薦します」
ハッキリ云ったのは、国防長官。侍従長は先を促す。
「どういった点で?」
「これまで問題なく摂政を務めてこられましたし、政務に対しても前向きで実直です」
「しかしハリー殿下は───」
近衛隊長は声をひそめ、「男色家ではありませんでしたか?」
「その点でしたら、問題ありません。こちらで何とかします」
そう云ったのは、侍従長だった。ヴィンデルバンド公爵が鼻で笑う。
「何とかしますと云われても...」
「もしも、ですが、ハリー殿下が国王になられるのであれば、対策は考えてあります。もちろん、カルステン卿ならば、特に対策も必要はありませんがね」
侍従長は、なんとか中立的な発言で済ませた。本来、時期国王を決める場合は、もっと多くの人の意見を聞くべきだが、今回は機密事項の為、これ以上、多くの意見は聞けない。
「少し、休憩にしませんか?」
と首相がナイストスを上げた。
「では、休憩の後、カルステン卿かハリー殿下か、投票という形にしましょう」
侍従長が仕切ると、ヴィンデルバンド公爵の顔色が変わった。脈がない事は、薄々気付いているようだ。しかし休憩を挟むなら、根回しのチャンスだ。
「依存はございませんな」
侍従長の念押しに、全員了解した。
カルステンと比べるまでもなく、ハリーは実績がある。何かをした、という実績ではなく、従順に大人しく務めてきた、という実績だ。
摂政になる前の『問題児ハリー』の心配───ゴシップ紙を賑わす心配もなく、国民からは人気があり、何より、出しゃばらない。その点で、首相と国防長官はハリー推しになる。
近衛隊長は、この会議の召集に際し、おそらくヴィンデルバンド公爵に云い含められたのだろう。その見返りなどは不明だが、彼にとっては、ハリーもカルステンも、近衛兵の為のお飾りに過ぎない。
では侍従長は、というと、カルステンは自分の好きなように模様替えしそうだが、ハリーなら、『国の為』という大義名分があれば、大人しく云う通りにするだろう。
ヴィンデルバンド公爵は云うまでもないから省く。
果たして、投票結果は過半数で、ハリーに決まった。
蛇足だが、会議解散後の、首相と侍従長との会話。
「ハリー殿下が国王になられるなら、そのタイミングで、フリートウッド公爵家の蟄居も、『恩赦』という事ではどうでしょう?」
「それは、よろしいのではないでしょうか。おめでたい事でもありますし」
「もし、フォルカー卿で問題なら、三男のゴットヘルフ卿でもよろしいですな」
「そうですね。あまり目立たない方だけに、毒気もなさそうですね」
「凡庸な方ですよ」
「問題はないでしょう。───では、そのように」
国民の知らないところで、情勢は少しずつ動いていく。
ヴァルターは城内を、アーロンを案内しながら歩く。
「観光客は門の外から、城を見る事くらいしかできません。しかし1階には大広間もあるので、来賓専用だと思って下さい」
「立ち入るな、てこと?」
聡明な視線で頷くヴァルター。「それと」と、ちょっと遠慮がちに、
「私の事は、人前では伯爵とお呼び下さい。イブラントでは、地位の高さが物を云います」
「かしこまりました、伯爵」
アーロンは答えながら、ずっと以前に別の人物と、同じやり取りをした事を思い出した。
「こちらの部屋です」
特に目立つ程の事もないが、各部屋同様、ドアに彫刻が施されている。
「月と星か」
三日月が大きく主張し、星はまばら。
───『夜の間』てとこかな。
そんな事を思っていると、
「鍵は開いています」
ドアの側で一歩引いて、ヴァルターが云った。自分で開けろ、という事か。
「どうぞ、伯爵」
アーロンはドアを引いて、ヴァルターを促した。楽しそうに、目で合図して先に入る伯爵。
「すみません、先生。廊下には防犯カメラが設置されていますので」
「カメラはエレベーター前と非常口だけじゃないの?」
「ご存知でしたか───」
ヴァルターはクスクスと笑う。「でもレンズは広角ですから、油断は禁物ですよ」
ヴァルターは10歳の頃から王宮に仕えている。海千山千の集まる世界で生き抜くには、このくらいのしたたかさも必要だろう。
「ドアのレリーフから、この部屋や住人を、こっそり『アルテミス』と呼んだりします」
「『セレネ』じゃなくて?」
ギリシャ神話でアルテミスは満ちる三日月の事。対して欠ける三日月はセレネだが、『闇』の意味も持っている。
「医者が『セレネ』では困りますね」
ヴァルターの言葉に、アーロンは今更訂正する。
「もしかしたら、期待を裏切るかも知れないけど、私は今、医者ではないんだ、ヴァルター」
首を傾げ、優しい表情でヴァルターは、
「存じ上げています」
と云った。
アーロンは促されて、応接セットのソファに座る。ヴァルターも斜向かいに座ると、テーブルの上の呼び鈴を鳴らした。
少しの間があって、部屋の隅のドアからメイドが入って来た。
「お呼びでしょうか」
伯爵はランチの用意を命じた。
「先生も、まだでしょう? 私もまだ済んでいないので、ご一緒させて下さい」
多少の強引さも、王家の傍で生きていく術だろう。
ちなみに、ダイニングは隣の部屋になる。反対側のドアの向こうに、ベッドルームなどのプライベート空間があるそうだ。来客用にしても、ランクの高い部屋だろう。
「お話の続きをしましょう。ラファエルの具合ですが───」
ヴァルターは急に話を変えた。しかも今まで出て来なかった名前にすり替えている。しかしカンのいいアーロンにはすぐにピンときた。ラファエルとは、カミルの事。
「最初の1ヶ月は入院して集中的に、化学療法を用います。その間、私はあの方(カミル)の代わりに、ここと病院を行き来します」
イブラントの城の内部では、必要上、関係者はメイドに至るまで、カミルの入院は知っている。しかし外部に漏れるのを防ぐため、なるべくその話題は伏せ、あるいは別の人物の話題として扱う事になっている。
カミルの入院は秘密だが、摂政のいる未成年といっても、全く出歩かない訳にはいかない。姿を見せなくなると、それが噂になってしまう。
そこで、入院したのは皇太后で、カミルは付きっきりで看病している、という形を取った。普段元気な母上が倒れて、国王は心配で仕方がないご様子。片時も離れずに看病している、という噂をコソッと流せば、それらしく思われるだろう。普段、ハリー程の愛想は振り撒かない国王でも、やっぱりまだまだ子供だったと思わせておけば、可愛気も相まって印象も良く映る。
───と、企てたのは、ベルトホールド伯爵と侍従長。もちろん、カミルの承認も得ている。その時は国王も久々に笑顔を見せたそうだ。
「私が病院とイブラントを行き来する事で、まるであの方がそうなさっていると、世間には錯覚されます」
ヴァルターは、細かく内情を説明する。
「それでも平行して、摂政殿下が...」
アーロンはつい、口を挟んでしまう。伯爵は話を止めた。
「でもそれは、仕方のない事なんです。それが、この国の理なんです、先生」
国王が崩御すれば、別の誰かが王位に就かなければならない。それがあらかじめ判っているなら、その準備はしておかなければならない。
応援ありがとうございます!
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