あじさいの城4 ―アルテミスの娘―

かしわ

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幸せなら良かった

3 イブラントへ

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 目を覚ますと、そこは医務室らしかった。
 シングルベッドを囲んでカーテンがかかっている。カーテンのすぐ外では、誰かがパソコン入力をしているようで、端末を叩いたりマウスをタップしたりする音がしていた。
───行かなきゃ。
 アーロンは、なんだかちょっと重い体を起こし、靴を履いた。寝てる場合じゃない!
「アーロン?」
 ハーロルトの声だった。
 カーテンを開けると、ハーロルトが立ち上がったところで、壁の時計を振り返った。
「オレ、大分寝てた?」
「いや、まだ5分も経ってないよ。───ちょっとそこで待ってて、アーロン」
 ハーロルトは内線電話に手を伸ばす。ボスに報告するんだろう。そう思ったら、アーロンは力が抜けてベッドにストンと座った。
 間もなく、ボチェクがドアを開けた。
「ほら、紹介状だ。───」
 封筒をアーロンに渡す。「どうだ、調子は?」
 アーロンの頭と顎を掴んで、ぐいっと上向かせるボチェク。ヘーゼルの瞳はしっかりしているように見える。
「ありがとうございます、ボス」
 とアーロンは云ったが、表情はない。
───愛想のいいコイツがニコリともしねえ。
 ボチェクはハーロルトに、
「イブラントにコイツを送ってやれ。ひとりで行かせたら事故でも起こしそうだからな」
 ハーロルトの返事を待たずに、アーロンをまた振り返る。
「どうせすぐに出るんだろう、アーロン?」
「はい」
「王宮のお前の私物がそろそろ軍本部ビルこっちに届く。預かっておくからいつでも連絡しろ。それと───」
 アーロンの手から封筒を引ったくる。「お前は必ずヴァルターに会え。それ以外の奴に、こいつは読ませるな。いいな」
「私が直接渡しましょうか?」
 ボチェクの剣幕に、ハーロルトが気を利かせる。
「いや。今イブラントの連中は、簡単に人を入れない。厳重警戒だ。ボーッとしてる今のアーロン一人の方が、却って疑われない。だからお前は車から出るな、ハーロルト」
「了解しました、ボス」
 ハーロルトは何も事情を知らないが、ボスの様子で、素直に返事だけをした。
 軍の本部ビルから、ハーロルトの運転する車が吐き出される。
「ジャケットはホテルにあるの、アーロン?」
「ああ。たぶん...」
 イブラントとは、王家所有の城がある場所。現在は、カミルの母である皇太后が住んでいる。国王カミルの側近であるヴァルターに会いに行くのであれば、最低でもスーツだ。せめてジャケットは必要となる。
 ハーロルトは、アーロンが今朝までいた高級ホテルに寄った。
「ボスの口調だと、イブラントの城に入ったらしばらくは出て来れないと思うんだ。だから、最低必要な物は持って行った方がいいよ、アーロン」
 そう云われても、今のアーロンにはスマホも財布も運転免許証もない。あるのはボチェクから渡された、軍の身分証だけだ。
「なんだ、スーツあるじゃない」
 クローゼットを開けたハーロルトは、ハンガーに掛けられた一着を取り出した。
 深いブルーの生地。ハリーがプレゼントしてくれた、高級ブランドNHのオーダーメイドのスーツだ。
「イブラントに行くなら、これくらいのスーツじゃないとね!」
「それ、で...?」
 戸惑うアーロン。せっかく作ってもらったのに、ハリーの前ではまだ、袖を通していなかった。
「ほら、早く着替えて、アーロン!」
 ハーロルトに押し付けられる。しかしアーロンは、スーツを受け取らない。
「ダメだよ。ダメなんだ、ハーロルト。これはダメ」
 ハリーの前で着てないのに、他の関係ない場面で袖を通すなど、ハリーの気持ちをないがしろにしている気がするアーロン。
 しかしその頑なな態度が、ハーロルトに答えを導く。
「ねえ、アーロン───」
 スーツを引っ込める。「その様子だと、これは大切な人の為の物だね。でも、スーツは着てこそ価値のあるものだし、いつ着て見せるか分からないけど、その時が初めての方が、その人は残念に思うんじゃないかな?」
 胸の前で広げていたアーロンの両手が、力なく下りる。
「そう、かな...」
「そうだよ。イブラントに行くなら尚更。きっとアーロンの事なんて誰も知らないから、スーツだけが身分の保証だよ。これ、NHのスーツだろ。このスーツだけが、君を保証してくれる」
 ハーロルトが改めてスーツを渡すと、今度はアーロンも素直に受け取った。
 イブラントは、ホテルから車で1時間程の場所。
 イブラントは地名だが、そこには王家所有の城があり、今は皇太后が住んでいる筈だった。『イブラント』という名前が、『皇太后の居城』という隠語のようになっていた。
「イブラントには、行った事ある、アーロン?」
 ハーロルトは、明るく話しかける。でないと、助手席のアーロンは、日差しの下の雪のように、消えてなくなりそうなくらい、儚く見えた。
「...いや、ないな」
 アーロンは何も考えてなさそうに答えた。
「皇太后はお優しい方だけど、周囲の人達は、皇太后のお世話をしている事を鼻にかけるような連中なんだ。失礼な事を云われたり、腹の立つ事をされたりするかも知れないけど、イヤな顔はしないように頑張ってね、アーロン」
 頑張る。───何を頑張るんだろう?
 首都の市街はとうに過ぎ、丘のような小さい山を越える。この程度なら道路の封鎖はないが、路面には雪の轍が出来ている。
 ハーロルトは慎重にハンドルを捌く。
「何故君がそうするのかは解らないけど、イブラントに行くのはたぶん、正解だと思う」
 さっきから、ハーロルトやボチェクの云ってる意味がよく解らない。
「ハーロルト」
 突然呼びかけられたハーロルトは、驚いてブレーキを踏みそうになった。
「...なに、アーロン?」
「イブラントで、何か起きてるのか?」
 ハーロルトは、何度も頭を振る。しばらくは運転にかこつけて黙っていたが、
「僕は、何も聞かされてないんだ」
 表情が、心なしか曇る。「でもね」と前置きして、
「一昨日の夜から、王宮の情勢がガラリと変わったみたいなんだ」
「情勢が...?」
「うん。詳しくは分からない。僕ら護衛のチームが解散になったのも、レムケの事件だけが理由じゃないみたい」
 何度かカーブを過ぎると、山道は小さな町に入る。イブラントだ。雪は洩れなく積もっていて、雪かきをする人の姿も見える。
 やがてイブラントの城の門に辿り着き、車は衛兵に止められた。
「身分証の提示をしなさい」
 衛兵はしかと、写真を確認する。次いで要件の確認。
「ベルトホールド伯爵へお取次を」
 ハーロルトが全て仕切ってくれた。衛兵は城内に確認の内線電話をして、待機所から出てきた。
「エントランスホールで待ちなさい。駐車場は───」
「それには及びません。約束があるのは一人だけです。私はすぐに帰りますから」
 ハーロルトはわざと被せて云い、車をすぐに出した。アーロンに目配せ。
「ね。門番でさえ、あの通り上からなんだ、イブラントは」
 車はゆっくりとエントランス前に横付けされる。ハーロルトはアーロンの腕に手を置いて、
「たぶん、すぐには帰れないだろうから、必要な物があったら僕に連絡して、アーロン」
 同僚の念押しに、アーロンは肩を竦める。軍本部を出てきた時より、落ち着いたようだ。
 ハーロルトは、「それと」と云って間を置いてから、
「人はどう生まれるかじゃない、どう生きるかだよ」
 アーロンのヘーゼルの瞳が、揺れた気がした。
「ハーロルト...」
「───て、誰かが云ってた」
 付け加えると、ハーロルトは変顔で目を瞑る。
「それもしかして、ウィンク?」
 と突っ込むと、ハーロルトは残念そうにため息をついた。アーロンは笑って両腕を広げた。車の座席に座ったまま、ふたりは力強くハグをした。
「オレの唯一の自慢は、友人には恵まれてる、て事だよ。ありがとう、ハーロルト」
「自慢なんて、アーロンならいっぱいあるじゃないか。───」
 言葉に詰まるハーロルト。「元気でね、アーロン」
 アーロンはハーロルトを見送ると、エントランスホールに入った。既に案内の執事が待ち構えていた。



 執事が、慇懃にお辞儀をして出ていった。
 アーロンはひとり、小さな応接室に取り残されている。
 王宮の情勢が変わった。───そんな事を、ハーロルトは云っていた。
───ハリー...。
 アーロンは大切な人に思いを馳せる。───彼はいつだって、騒動の中心にいる。トラブルに巻き込まれたり、身近な人が巻き込まれて心配したり。
───それでもお前は挫けずに乗り越えて来た。
 だからこそ、自分がしっかり支えなければ。
 アーロンは、覚悟を決めた。



 ベルトホールド伯爵こと、ヴァルターは、アーロンを10分程待たせてからやっと、応接室に来た。
「お待たせしました」
 アーロンに向き合いながらそう云ったが、視線は執事が出て行くのを待つ様子。そしてドアが閉まると、深くため息をついた。
 目を閉じて、しかし耐えられなくなって、知的な表情が歪む。
「アーロン先生!」
「ヴァルター...!」
 ふたりは固くハグをした。ヴァルターはアーロンの肩に顔を埋めて、震えている。
 王家の居候として始まり、カミルの側近として、常に気の抜けない立場のヴァルター。子供の頃に良くしてもらった思い出もあってか、それとも知り合いの前で緊張が解けたのか、アーロンに気を許しての事だった。
 アーロンは、亜麻色の髪を撫でて、ヴァルターが落ち着くまで待った。
 やがて、両目を擦りながらアーロンから離れるヴァルター。
「すみません、先生。あぁ、せっかくのスーツを汚してなければ、いいのですが...」
「スーツくらい、構わないよ」
 アーロンは、本心からそう云った。もちろん、スーツをないがしろにしているわけではない。ヴァルターには、泣いてしまう理由があるに違いないからだ。
 アーロンは部屋の隅からティッシュを取ってきて、ヴァルターに渡した。
「どうぞ、掛けて下さい」
 盛大に鼻をかんでから、ソファを示してくれた。そしてアーロンの向かいに掛け、
「事情があって、先生をお客様として扱う事ができません。お茶もお出しできなくて、心苦しい限りです」
 相変わらずの礼儀正しさに、アーロンはニコニコ笑って「気にしないでいいよ」と云った。
「ところで...何から訊いたらいいかな」
 さっきのヴァルターのセリフやハーロルトの言葉。『事情』とやらについて、ここまで濁されては、直球では訊きにくい。
「私の方から、順にお話致します。但し───」
 真顔のヴァルター。「これからお話する事は、くれぐれも内密にお願いします」
 キター!───アーロンは気持ち、姿勢を正して身構えた。



 ハリーが呼び出された日の、一週間程前だった。
 頭痛持ちではあるが、わりと健康なカミル国王。しかしその日は、朝から倦怠感を訴えていた。
「風邪でしょうか?」
 ヴァルターの判断で熱を計った。普段なら断られる筈なのに、カミルは素直に従ってくれた。それだけでも、いつもと違っていた。
「熱はないようですね」
 体温計を片付けるヴァルター。
「寒気もないし、喉の調子も別段悪くはない」
 症状を話すカミルだが、顔色は良くない。食欲もなく、朝食は殆ど残していた。
 ヴァルターは決断した。
「ドクターを呼びます」
 これも、カミルは素直に従った。
 ヴァルターはすぐに主治医を呼び出し、診察に付き添った。
 国王のリビングルーム。ソファに掛けるカミルの対面に椅子を置き、主治医は普段通りの診察をする。それだけだったが、ヴァルターの胸騒ぎは治まらなかった。
「すぐにこのマスクをして下さい」
 主治医は新しいマスクを取り出してカミルに着けさせた。そして自分も着ける。
───感染症...⁉
 ヴァルターの胸中は、不安しかない。
 主治医はカミルの手を取り、袖を捲くった。
「......!」
 大きなアザが前後に2箇所あった。
「このアザに覚えはございませんか?」
「アザには今朝気付いたが、打ち身などの記憶はない」
 医師の問いかけに首をひねるカミル。もう片方の腕にも1箇所、そして、
「背中を拝見致します」
 看護師も手伝って服を捲くり上げると、やはり背中にも大きなアザがあった。まるで虐待を受けている小児のようだった。
 主治医は立っているヴァルターを見上げ、
「ほんの数分だけ、陛下と二人きりでお話をしたいのですが」
「はい。では、失礼します」
 ヴァルターは軽くお辞儀をしてリビングルームを出た。
───私が虐待をしていると、疑われただろうな。
 冗談ではない。今初めてアザを見て動揺しているのはヴァルターだ。
 それよりも、あのアザ。打ち身にしては多過ぎる。痛がって当然なのに、カミル本人が気付いたのは今朝だと云っている。夢遊病で出歩くなんて持病はないし、アザを作る程の運動も格闘もしていない筈。
 それに、マスクも不可解だ。
「お待たせしました。どうぞ中へ」
 感染症についての知識を思い出そうとしていたら、看護師がヴァルターを呼び入れた。
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