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7 ―真夜中の来客―
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アーロンのジム通いが始まった。
ボチェクが面倒を見てくれて、体作りは食事から始め、生活習慣や呼吸法まで指導された。
最初はマシンで体を温めてから、アーロンの好むメニューを飽きるまで、コツを押さえながら何日もかけて身につけていく。
一定のランクまで到達すると、ボチェクは気分転換と称して全く別のスポーツやジャンルのメニューをやらせた。
「アーロンにはセンスがある」
「昔、喧嘩の先生にそう云われたことがあるよ、カレル」
ジムに通い始めて3週間程経った。今ではお互いをファーストネームで呼び合っている。
「喧嘩程度なんて、せっかくのセンスが勿体ない!」
「必要がなかったからさ」
シャワーを浴びて汗を流し、服を着る。「―――今でも水泳は必要ないと思ってるけど」
「泳げると面白いだろ。海を見たことはあるか、アーロン?」
「遠目にならね。波があるんだろ。あと、物凄く塩辛いって」
ここは中央ヨーロッパの小さな国。アルプス山脈が南の空にそびえ、どこにいても存在を主張している。が、東西南北、どちらへ行っても海に行くには国境を越えなければならず、一生、海を見ない国民も多い。
「潮の香りってのが生臭くて、近くにあれば見えなくてもすぐ判る。しかし見た目は、場所や天気によって全く違う。スケールもデカイしな」
「一生行かないかも知れないな」
アーロンは髪をガシガシとタオルで拭く。学会で外国に行くことはあっても、余分な金はないので、観光はほとんどしたことがない。飛行機の窓から見下ろす海には何の感動も湧かないし、会場が海に近くても、滞在費が少ないのですぐに帰国するのがいつものパターン。
「いや、一見の価値はあるぞ。リゾート地なんかでは海岸に集まる女達は下着姿で寝そべってる!」
「水着でしょ」
「変わらんだろう!」
「興奮し過ぎだよ、カレル」
「いつか連れてってやる。お前だって興奮するぞ、アーロン」
「海に行ったことのある人はみんなそう云うんだな。期待してるよ」
「その期待以上だからな」
その夜、学会の会報に目を通しながら、頭に引っかかっていたことを、アーロンはふと思い出した。喧嘩の先生―――ジョオのこと。
「どうしてだ...?」
スパイ容疑で軍に拉致された事も、本来ならなかったことになっているはずだ。しかしアーロンはまだ、思い出せる。自分のポンコツ加減が忘れられなくて、ボチェクのジムの誘いを受けた。
「近くにいるのかな...」
さあーっと、まだ少し冷たい夜風が通った。窓を見ると、はためくカーテンの影に―――。
「アーロン...」
「ジョオ!」
フラフラと歩き出すジョオを抱きとめる。
「―――びしょ濡れじゃないか!」
しかも青い顔で、全身が冷え切っている。まるで積雪の中を歩いてきたみたいだ。
「ベッドを...貸してくれる?」
薄っすら笑みを浮かべながら云っているが、唇が震えている。―――低体温症!?
「分かった! 分かったけど、まだ寝ちゃダメだよ、ジョオ!」
眠ってしまったら、意識が戻らないかも知れない。
「寝たら治るよ、大丈夫」
「ダメだって! 今温めてあげるから、寝ちゃダメだよ!」
トロンとした目で意識を失いかけるジョオに、アーロンは必死で呼びかける。目を離したらその場で寝てしまいそうだ。
「まだだよ、ジョオ! まだまだ―――」
半ばつぶやきながら、ボタンダウンのシャツを脱いで、ジョオに被せる。肌が直に触れると、自分まで一緒に凍ってしまいそうなくらい、冷たい。
「ジョオ?」
「...」
「ジョオ!?」
「...分かってるよ、アーロン...」
頭をもたせかけて、目を閉じたままか細く応えるジョオ。アーロンは離れることが出来ず、ジョオを横抱きにして立ち上がる。真っ直ぐシャワー室に入り、ジョオを抱きかかえたまま、一緒にシャワーを浴びた。
「ジョオ!」
「なに、アーロン?」
「すぐに温まるからね。まだ寝ちゃダメだよ」
「分かった、もう...!」
しかし相変わらず、ジョオは目を開けない。アーロンはジョオを床に下ろし、コアラのように抱き込みながら、服を脱がせて体を擦ってやる。なんだか存在が儚くて愛おしくて、もたれかかる頭にキスをする。濡れ髪の間のうなじに、細い肩に、白いこめかみに、キスをし、はあーっと息をかけ、舐めた。
「アーロン...」
顔を上げて薄っすら目を開けるジョオ。むしゃぶりつくように、小さく開いた唇に口付けた。こんな時でも、ジョオのキスはおずおずと幼い反応を見せる。かまわず、アーロンの舌は口内をかき回した。
―――口の中、冷たい...。
「ジョオ、待ってて、まだ寝ちゃダメだよ」
「うん。...分かった」
濡れたままキッチンへ行き、サーバーに残っていたコーヒーをマグカップに注ぎ、手でカップの温度を確かめながらシャワー室に持っていく。
「これ飲んで」
シャワーを止め、タオル地のガウンで覆う。
「温かい...」
カップを両手で持つと一気に飲んで、はあー、と大きくため息をついた。何というか、―――カワイイ!
「アーロン―――」
振り仰ぐ顔は満足そうな笑顔だが、まだ瞬きがゆっくりしている。
「眠いの、ジョオ?」
「うん。あのね、―――」
言葉までゆっくりと、「自分の望む道を歩いて―――」
―――自分の望む...道...?
体を鍛えている事だろうか? それとも医者を続けろって事か?
「わー、ダメだって、ジョオ、こんな所で寝ちゃ!」
ジョオはガウンを頭から被ったまま無防備に、アーロンに体を預けて寝息をたて始めた。
「これじゃ、襲えないじゃん、ジョオ」
アーロンは大きく頭を振って、ため息混じりに笑った。
別の日。
ハリーの自宅の部屋のドアを、誰かがノックした。
時刻は深夜。日付も変わろうかという頃。
「誰だ?」
答える代わりにまたノック。家人から来客の知らせもないし、アポイントの覚えもない。こんな遅い時間に、誰だ?
「ジョオ―――!」
大きな声を出しそうになって、自ら口を押さえるハリー。「どうやって―――」
思わず口にしかけて、愚問だと気付く。忍び込むくらい、魔女なら簡単なこと。
「こんばんは。今、良い?」
ジョオの、普通の声のボリュームに、ハリーはまた焦って人差し指をたてる。ジョオを急いで自室に引き入れ、廊下を何度もチェックする。
―――誰もいない。
仲の悪い兄達に見られると、何を云われるか判らない。
「アーロンなら、いないぞ」
静かにドアを締める。そのドアを背にして、ジョオを睨みつけた。用事はない、出て行け、という意味だ。しかしそこは強者のジョオ。意に介さず、
「ちょっとお願いがあって来ただけ。済んだら帰るから」
「お願い?」
ハリーは皮肉を込めて云った。「―――奇跡を起こす女が、何をオレなんかにお願いすることがある?」
「今度のパーティーに、アーロンを招待して欲しいだけ」
「アーロンを?」
ハリーの部屋の中央に、キレイな姿勢で立ち、顔だけをハリーに向ける。完璧なモデル立ち。
「アーロンとの仲が潔白だと印象が付けばそれで良いの」
「その理由は?」
「理由は...後々判ると思う。とりあえず今は、てカンジで」
「とりあえず?」
ハリーは怪訝な表情で片眉を上げ、ジョオの言葉を繰り返す。
「じゃあ、しばらくして潔白であってもなくても良くなったら、オレはアーロンを頂いても良いのか?」
答えないジョオ。余裕の笑みを浮かべて、眉を上げて見せた。―――やれるものならやってみろ、そんな風に見えた。
「いいんだな」
畳みかけて、ハリーはマズい、と思う。これ以上云うと自分の首を締める事になる。ハリーは落ち着くために小さく息を吐いて、云った。
「ちなみにその時期はいつ頃になるか、良かったら教えてくれ」
「パーティーの夜、あじさいの城の秘密を教える。その後私はこの国を離れるから、あとは自分で時期を見て動けば良いよ、ハリー」
「それじゃ潔白を証明するんじゃなくて、お前の為に―――」
ハリーの言葉を聞きながら、ジョオは首を大きく何度も振る。
「あなたには、暇はないのよ、殿下」
大分以前に一時だけ流行った呼称を使って、ジョオはハリーを茶化した。
「暇はないって、おい、ジョオ、待て、どこから...!」
慌てて窓辺に駆け寄るハリー。「―――アーロンはパーティー嫌いなのにどうやって」
「彼は必ず来るよ、ハリー」
ジョオは窓の外へ飛び出して、夜の彼方へ消えた。ハリーにツッコミどころを山ほど残して。
都市部のビル群から少し離れた場所に、旧市街の町並みがある。
市街と云っても集落程度の規模。数少ない観光名所なので、街灯の色もオレンジに統一され、法令化されている。
その旧市街の更に外れにあるパブが、アーロンとハリー行きつけの場所。ハリーに誘われ、アーロンも一緒に酒を飲む、パブ〈ハイドランジア〉。
「アーロン先生、久しぶりねー」
「寂しかったわ~」
「ひと月くらい来てなかったよ」
アーロンの周りに、いつものようにニューハーフやゲイが集まって、勝手におしゃべりする。
「ひと月も来てなかった?」
アーロンはこんな場でも、ニコニコと愛想が良い。
「先生、ちょっとお疲れじゃない?」
「ちょっとやつれたカンジ?」
「そう?」
「ちょっと、先生!」
アーロンの腕を揉みながら、一人がダミ声で云った。「―――なに、この腕!」
「ああ、最近ジムに通ってるんだ」
代わる代わる、アーロンの腕を触りに来る。胸や腹まで触られると、アーロンでも容赦なく振り払う。相手も負けてはいないが。
「キャー、ステキ!」
「カッチカチよ!」
「え~、なんで~? ハリーのボディガード始めたの~?」
「ハリー、そこそこ強いじゃない」
「じゃあ、対抗心?」
酒のせいか、それとも商売のせいなのか、あまり美しいとは云えない声で、みんな好き勝手な事を云っている。
その中の一人が突然、
「ねえ、先生、どんなもんか、試して見る?」
「試す?」
云ったのはガタイのいい、青髭の男。アーロンの前に陣取り、右肘をテーブルにつく。持っていたショットグラスを隣に預け、アーロンも相手に倣う。
「アーロン先生、左利きじゃなかった?」
「じゃあ、左でやろう」
店の奥の盛り上がりを背に、ハリーはカウンターで、ユリアーネと名乗る古い客と並んで座る。
「会社の方、目処がたったの?」
「ああ、何とかね。頼んだコンサルタント会社が優秀で、恐れ入ったね」
「レムケ、だった?」
ウェーブのかかった金髪を揺らしてグラスを傾けた。綺麗に化粧をし女装に定評のある男だが、目元のシワで年齢まではごまかせない。無論、ユリアーネという名前も本名ではないだろう。
「そう、レムケ。良い人材が揃ってるらしい」
このパブにいる時だけは、ハリーも少しだけ、姿勢を崩す。「―――引き抜いちゃおっかなー、1人くらい」
「今は、どうしてるの?」
「公爵家専属の税理士にやってもらってるけど、情報だだ漏れ」
カウンターに肘をついてため息を吐く。
「貴族って云っても、他の金持ちと変わらないわね」
と、相槌を打ってから、声をひそめて「ねぇ」と話題を変える。「―――アーロン、体付き変わってない?」
「さすが、ユリアーネだな。判るもん?」
腕相撲で盛り上がるテーブルを遠目に見る。楽しそうなアーロンの顔が見え隠れする。
「背中が広くなって、腰が締まったかな? 姿勢も良くなってる」
「細身の方が、アーロンらしくていいんだけどな」
「見たことあるの?」
「ああ。上半身だけ」
「やっぱり。手を付ける気ないんだ」
ユリアーネはさり気なく、ハリーの膝に手を置く。「―――彼だけは特別なのね」
「それ、久々に聞いた。もう云うのやめたと思ってたよ」
「順調に温めてるのかと思ってた」
ユリアーネは少し拗ねたように云って、またグラスの縁に口を付ける。ハリーの膝の手は離さない。
ハリーも、されるがまま。
「アーロンはどうして鍛えてるの。忙しいんでしよ、病院」
これは質問ではない。確かめたい答えがある場合の、ユリアーネの聞き方。
「どういう意味?」
「アーロン、付き合ってる人がいるんじゃない?」
「その人の為?」
「...うん。―――て、ハリーじゃないわよ、たぶん」
「オレ一応、国民的お坊ちゃん。守ってあげたい存在」
「それは去年までの話。今はもうフツーのお坊ちゃんなのよ、あなたは!」
公爵家の称号は生きている。が、ハリーが継ぐわけではない。
「じゃあ、アーロンの恋人はオレの知らない人だな。心当たりないもん」
シラをきるハリー。
「ハリーには内緒にしてるのか知ら」
ユリアーネの言葉を独り言扱いし、ハリーはカウンターの中に呼びかける。
「マスター、オレの上着を。あと、同じのもう一杯」
マスターから上着を受け取ると、内ポケットから、封筒と名刺を出してまた上着をマスターに預ける。
「これ、やるよ」
ユリアーネの前に、小さな紙片を出す。
「レムケの名刺! いいの?」
「ああ。スマホに入れたから。あと―――」
体を90度、左回転させ、店の奥を顎でシャクる。「アーロン呼んで、ユリアーネ」
「いいわよ」
ハリーの顎を指でなぞって、ユリアーネはあやしい流し目を残して行った。
ボチェクが面倒を見てくれて、体作りは食事から始め、生活習慣や呼吸法まで指導された。
最初はマシンで体を温めてから、アーロンの好むメニューを飽きるまで、コツを押さえながら何日もかけて身につけていく。
一定のランクまで到達すると、ボチェクは気分転換と称して全く別のスポーツやジャンルのメニューをやらせた。
「アーロンにはセンスがある」
「昔、喧嘩の先生にそう云われたことがあるよ、カレル」
ジムに通い始めて3週間程経った。今ではお互いをファーストネームで呼び合っている。
「喧嘩程度なんて、せっかくのセンスが勿体ない!」
「必要がなかったからさ」
シャワーを浴びて汗を流し、服を着る。「―――今でも水泳は必要ないと思ってるけど」
「泳げると面白いだろ。海を見たことはあるか、アーロン?」
「遠目にならね。波があるんだろ。あと、物凄く塩辛いって」
ここは中央ヨーロッパの小さな国。アルプス山脈が南の空にそびえ、どこにいても存在を主張している。が、東西南北、どちらへ行っても海に行くには国境を越えなければならず、一生、海を見ない国民も多い。
「潮の香りってのが生臭くて、近くにあれば見えなくてもすぐ判る。しかし見た目は、場所や天気によって全く違う。スケールもデカイしな」
「一生行かないかも知れないな」
アーロンは髪をガシガシとタオルで拭く。学会で外国に行くことはあっても、余分な金はないので、観光はほとんどしたことがない。飛行機の窓から見下ろす海には何の感動も湧かないし、会場が海に近くても、滞在費が少ないのですぐに帰国するのがいつものパターン。
「いや、一見の価値はあるぞ。リゾート地なんかでは海岸に集まる女達は下着姿で寝そべってる!」
「水着でしょ」
「変わらんだろう!」
「興奮し過ぎだよ、カレル」
「いつか連れてってやる。お前だって興奮するぞ、アーロン」
「海に行ったことのある人はみんなそう云うんだな。期待してるよ」
「その期待以上だからな」
その夜、学会の会報に目を通しながら、頭に引っかかっていたことを、アーロンはふと思い出した。喧嘩の先生―――ジョオのこと。
「どうしてだ...?」
スパイ容疑で軍に拉致された事も、本来ならなかったことになっているはずだ。しかしアーロンはまだ、思い出せる。自分のポンコツ加減が忘れられなくて、ボチェクのジムの誘いを受けた。
「近くにいるのかな...」
さあーっと、まだ少し冷たい夜風が通った。窓を見ると、はためくカーテンの影に―――。
「アーロン...」
「ジョオ!」
フラフラと歩き出すジョオを抱きとめる。
「―――びしょ濡れじゃないか!」
しかも青い顔で、全身が冷え切っている。まるで積雪の中を歩いてきたみたいだ。
「ベッドを...貸してくれる?」
薄っすら笑みを浮かべながら云っているが、唇が震えている。―――低体温症!?
「分かった! 分かったけど、まだ寝ちゃダメだよ、ジョオ!」
眠ってしまったら、意識が戻らないかも知れない。
「寝たら治るよ、大丈夫」
「ダメだって! 今温めてあげるから、寝ちゃダメだよ!」
トロンとした目で意識を失いかけるジョオに、アーロンは必死で呼びかける。目を離したらその場で寝てしまいそうだ。
「まだだよ、ジョオ! まだまだ―――」
半ばつぶやきながら、ボタンダウンのシャツを脱いで、ジョオに被せる。肌が直に触れると、自分まで一緒に凍ってしまいそうなくらい、冷たい。
「ジョオ?」
「...」
「ジョオ!?」
「...分かってるよ、アーロン...」
頭をもたせかけて、目を閉じたままか細く応えるジョオ。アーロンは離れることが出来ず、ジョオを横抱きにして立ち上がる。真っ直ぐシャワー室に入り、ジョオを抱きかかえたまま、一緒にシャワーを浴びた。
「ジョオ!」
「なに、アーロン?」
「すぐに温まるからね。まだ寝ちゃダメだよ」
「分かった、もう...!」
しかし相変わらず、ジョオは目を開けない。アーロンはジョオを床に下ろし、コアラのように抱き込みながら、服を脱がせて体を擦ってやる。なんだか存在が儚くて愛おしくて、もたれかかる頭にキスをする。濡れ髪の間のうなじに、細い肩に、白いこめかみに、キスをし、はあーっと息をかけ、舐めた。
「アーロン...」
顔を上げて薄っすら目を開けるジョオ。むしゃぶりつくように、小さく開いた唇に口付けた。こんな時でも、ジョオのキスはおずおずと幼い反応を見せる。かまわず、アーロンの舌は口内をかき回した。
―――口の中、冷たい...。
「ジョオ、待ってて、まだ寝ちゃダメだよ」
「うん。...分かった」
濡れたままキッチンへ行き、サーバーに残っていたコーヒーをマグカップに注ぎ、手でカップの温度を確かめながらシャワー室に持っていく。
「これ飲んで」
シャワーを止め、タオル地のガウンで覆う。
「温かい...」
カップを両手で持つと一気に飲んで、はあー、と大きくため息をついた。何というか、―――カワイイ!
「アーロン―――」
振り仰ぐ顔は満足そうな笑顔だが、まだ瞬きがゆっくりしている。
「眠いの、ジョオ?」
「うん。あのね、―――」
言葉までゆっくりと、「自分の望む道を歩いて―――」
―――自分の望む...道...?
体を鍛えている事だろうか? それとも医者を続けろって事か?
「わー、ダメだって、ジョオ、こんな所で寝ちゃ!」
ジョオはガウンを頭から被ったまま無防備に、アーロンに体を預けて寝息をたて始めた。
「これじゃ、襲えないじゃん、ジョオ」
アーロンは大きく頭を振って、ため息混じりに笑った。
別の日。
ハリーの自宅の部屋のドアを、誰かがノックした。
時刻は深夜。日付も変わろうかという頃。
「誰だ?」
答える代わりにまたノック。家人から来客の知らせもないし、アポイントの覚えもない。こんな遅い時間に、誰だ?
「ジョオ―――!」
大きな声を出しそうになって、自ら口を押さえるハリー。「どうやって―――」
思わず口にしかけて、愚問だと気付く。忍び込むくらい、魔女なら簡単なこと。
「こんばんは。今、良い?」
ジョオの、普通の声のボリュームに、ハリーはまた焦って人差し指をたてる。ジョオを急いで自室に引き入れ、廊下を何度もチェックする。
―――誰もいない。
仲の悪い兄達に見られると、何を云われるか判らない。
「アーロンなら、いないぞ」
静かにドアを締める。そのドアを背にして、ジョオを睨みつけた。用事はない、出て行け、という意味だ。しかしそこは強者のジョオ。意に介さず、
「ちょっとお願いがあって来ただけ。済んだら帰るから」
「お願い?」
ハリーは皮肉を込めて云った。「―――奇跡を起こす女が、何をオレなんかにお願いすることがある?」
「今度のパーティーに、アーロンを招待して欲しいだけ」
「アーロンを?」
ハリーの部屋の中央に、キレイな姿勢で立ち、顔だけをハリーに向ける。完璧なモデル立ち。
「アーロンとの仲が潔白だと印象が付けばそれで良いの」
「その理由は?」
「理由は...後々判ると思う。とりあえず今は、てカンジで」
「とりあえず?」
ハリーは怪訝な表情で片眉を上げ、ジョオの言葉を繰り返す。
「じゃあ、しばらくして潔白であってもなくても良くなったら、オレはアーロンを頂いても良いのか?」
答えないジョオ。余裕の笑みを浮かべて、眉を上げて見せた。―――やれるものならやってみろ、そんな風に見えた。
「いいんだな」
畳みかけて、ハリーはマズい、と思う。これ以上云うと自分の首を締める事になる。ハリーは落ち着くために小さく息を吐いて、云った。
「ちなみにその時期はいつ頃になるか、良かったら教えてくれ」
「パーティーの夜、あじさいの城の秘密を教える。その後私はこの国を離れるから、あとは自分で時期を見て動けば良いよ、ハリー」
「それじゃ潔白を証明するんじゃなくて、お前の為に―――」
ハリーの言葉を聞きながら、ジョオは首を大きく何度も振る。
「あなたには、暇はないのよ、殿下」
大分以前に一時だけ流行った呼称を使って、ジョオはハリーを茶化した。
「暇はないって、おい、ジョオ、待て、どこから...!」
慌てて窓辺に駆け寄るハリー。「―――アーロンはパーティー嫌いなのにどうやって」
「彼は必ず来るよ、ハリー」
ジョオは窓の外へ飛び出して、夜の彼方へ消えた。ハリーにツッコミどころを山ほど残して。
都市部のビル群から少し離れた場所に、旧市街の町並みがある。
市街と云っても集落程度の規模。数少ない観光名所なので、街灯の色もオレンジに統一され、法令化されている。
その旧市街の更に外れにあるパブが、アーロンとハリー行きつけの場所。ハリーに誘われ、アーロンも一緒に酒を飲む、パブ〈ハイドランジア〉。
「アーロン先生、久しぶりねー」
「寂しかったわ~」
「ひと月くらい来てなかったよ」
アーロンの周りに、いつものようにニューハーフやゲイが集まって、勝手におしゃべりする。
「ひと月も来てなかった?」
アーロンはこんな場でも、ニコニコと愛想が良い。
「先生、ちょっとお疲れじゃない?」
「ちょっとやつれたカンジ?」
「そう?」
「ちょっと、先生!」
アーロンの腕を揉みながら、一人がダミ声で云った。「―――なに、この腕!」
「ああ、最近ジムに通ってるんだ」
代わる代わる、アーロンの腕を触りに来る。胸や腹まで触られると、アーロンでも容赦なく振り払う。相手も負けてはいないが。
「キャー、ステキ!」
「カッチカチよ!」
「え~、なんで~? ハリーのボディガード始めたの~?」
「ハリー、そこそこ強いじゃない」
「じゃあ、対抗心?」
酒のせいか、それとも商売のせいなのか、あまり美しいとは云えない声で、みんな好き勝手な事を云っている。
その中の一人が突然、
「ねえ、先生、どんなもんか、試して見る?」
「試す?」
云ったのはガタイのいい、青髭の男。アーロンの前に陣取り、右肘をテーブルにつく。持っていたショットグラスを隣に預け、アーロンも相手に倣う。
「アーロン先生、左利きじゃなかった?」
「じゃあ、左でやろう」
店の奥の盛り上がりを背に、ハリーはカウンターで、ユリアーネと名乗る古い客と並んで座る。
「会社の方、目処がたったの?」
「ああ、何とかね。頼んだコンサルタント会社が優秀で、恐れ入ったね」
「レムケ、だった?」
ウェーブのかかった金髪を揺らしてグラスを傾けた。綺麗に化粧をし女装に定評のある男だが、目元のシワで年齢まではごまかせない。無論、ユリアーネという名前も本名ではないだろう。
「そう、レムケ。良い人材が揃ってるらしい」
このパブにいる時だけは、ハリーも少しだけ、姿勢を崩す。「―――引き抜いちゃおっかなー、1人くらい」
「今は、どうしてるの?」
「公爵家専属の税理士にやってもらってるけど、情報だだ漏れ」
カウンターに肘をついてため息を吐く。
「貴族って云っても、他の金持ちと変わらないわね」
と、相槌を打ってから、声をひそめて「ねぇ」と話題を変える。「―――アーロン、体付き変わってない?」
「さすが、ユリアーネだな。判るもん?」
腕相撲で盛り上がるテーブルを遠目に見る。楽しそうなアーロンの顔が見え隠れする。
「背中が広くなって、腰が締まったかな? 姿勢も良くなってる」
「細身の方が、アーロンらしくていいんだけどな」
「見たことあるの?」
「ああ。上半身だけ」
「やっぱり。手を付ける気ないんだ」
ユリアーネはさり気なく、ハリーの膝に手を置く。「―――彼だけは特別なのね」
「それ、久々に聞いた。もう云うのやめたと思ってたよ」
「順調に温めてるのかと思ってた」
ユリアーネは少し拗ねたように云って、またグラスの縁に口を付ける。ハリーの膝の手は離さない。
ハリーも、されるがまま。
「アーロンはどうして鍛えてるの。忙しいんでしよ、病院」
これは質問ではない。確かめたい答えがある場合の、ユリアーネの聞き方。
「どういう意味?」
「アーロン、付き合ってる人がいるんじゃない?」
「その人の為?」
「...うん。―――て、ハリーじゃないわよ、たぶん」
「オレ一応、国民的お坊ちゃん。守ってあげたい存在」
「それは去年までの話。今はもうフツーのお坊ちゃんなのよ、あなたは!」
公爵家の称号は生きている。が、ハリーが継ぐわけではない。
「じゃあ、アーロンの恋人はオレの知らない人だな。心当たりないもん」
シラをきるハリー。
「ハリーには内緒にしてるのか知ら」
ユリアーネの言葉を独り言扱いし、ハリーはカウンターの中に呼びかける。
「マスター、オレの上着を。あと、同じのもう一杯」
マスターから上着を受け取ると、内ポケットから、封筒と名刺を出してまた上着をマスターに預ける。
「これ、やるよ」
ユリアーネの前に、小さな紙片を出す。
「レムケの名刺! いいの?」
「ああ。スマホに入れたから。あと―――」
体を90度、左回転させ、店の奥を顎でシャクる。「アーロン呼んで、ユリアーネ」
「いいわよ」
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表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!!
完結済みにいたしました。
6月13日、同人誌を発売しました。
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
寮生活のイジメ【社会人版】
ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説
【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】
全四話
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