涙と花

カイ異

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朽ち行く花の後悔

二つの衝突

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 店を飛び出していく雨車を見送りながら唯理は一人考えをまとめていた。こめかみに手を当てて頭をほぐすと、軽く息をつく。
「バーベナか……これほどとはな」
 まるでかけ違えたボタンのようだ。一段のズレが最後には大きなズレを生む。
 想定していたよりも緊迫した状況に唯理は一人思考に潜る。
 まず間違いなく桜家は沢谷のことで何か知っている。その考えは沢谷の話題を出したときにはっきりと確信に変わっていた。
 確かに自身をいじめている人の話をされていい顔をする人間などいないだろう。仮にいじめの相談に乗るにしても、当事者でもない人間に何がわかると反感を買うのが落ちだ。
 だが、桜家の怒りは明らかにそれとはが違っていた。ぐちゃぐちゃになった感情を吐き出すような怒りではない。明確な敵対者に向ける怒りであった。
「これでやっと点と点が繋がった」
 唯理の花を見る力は万能ではない。読心術のように考えていることをすべて見通すといった超人じみたことはできない。
 わかるのはその人の性質とも呼べるものと精神の状態くらいだ。
 故に唯理は常に冷静な観察を心がけていた。花を見ることによって問題があることには気づけても、その間で絡み合った人間関係という線を読み解くのは結局の所唯理の頭である。
 怒りの質の見分け方などは、そうした花だけではわからないことを読み解くために唯理が大切にするスキルの一つだった。とはいえ実践で使うことも滅多になかったが。
 しかし、そうして唯理の目と頭で導き出した答えでも必ずあっているとは限らない。
「俺の予想が正しかったら雨車にはことを任せたな」
 雨車を送り出した理由、それは答え合わせだ。
 今の桜家は間違いなく動揺している。そこに信頼している友達の雨車が話しかける。この状況下ならば、桜家は本音の断片を雨車にぶつけるだろう。それで桜家の立場ははっきりとわかるはずだ。
 だが、本音をぶつけられた雨車はどうなるだろうか……
 一抹の不安を抱きながら、唯理はただひたすらに帰りを待つことしかできないでいた。ただひたすら、本当にこれが正しかったのかと二人のことを考えながら……

「待って!」
 雨車の言葉に桜家は振り向かずに足を止める。雨車は息の上がった体にもう一度力を込めると、桜家の背中に追いつくことができた。
 一人になりたかったのか、桜家は大通りをすぐに外れ細道に入っていた。すぐ後ろには大通りがあるはずなのに騒がしい声は全く頭に入ってこなかった。ただ一人、桜家の声だけが鮮明に耳に残る。
「ごめんなさい……今は話したくないんです……」
 桜家は雨車の顔を見ようともしなかった。それとも自分の顔を隠そうとしているのだろうか?
「お願い……話を聞いて!」
 とめどなく流れる汗を拭い、絶え絶えの声で雨車は桜家を呼び止める。
「今日のことはごめんなさい。何も伝えないで騙すようなことしちゃって」
 桜家は何も答えてくれなかった。それでも雨車はめげずに思いを伝える。
 桜家を傷つけようとした。そう思われることだけはどうしようもなく辛かった。
 何より、勘違いされたままこの話し合いが終われば、桜家は裏切られたと更に傷つくことになるはず。それは雨車が一番望まない結末だった。
「私はあなたの力になりたくて、沢谷さんにいじめられている貴方はすごく辛そうだったから!」
 はっと肩を震わせ桜家は振り返る。その顔にはまるで道に迷った子供のように不安の色が浮かんでいた。
 瞳に映るあまりにも小さく、怯え、今にも消えてしまいそうな姿にたまらず雨車は彼女の両手を握る。
 桜家の手は病的なまでに白かった。しかし、人肌の暖かなぬくもりが彼女が確かに生きていることをはっきりと雨車に知らしめる。そのぬくもりがどこかに消えてしまわぬように手に少し力を込めた。
「雫ちゃんのことは別に責める気はないの……」
 ぽつりと桜家の顔から一粒の雫が流れ落ちる。
 桜家の言葉に雨車は戸惑いながらも強くうなずいた。
 責める気がないという言葉は正直に言って意外だった。嫌われても仕方ないようなことをしたと思っていた。こうすればよかったという後悔が膿を出すようにあふれてくる。
 思えば桜家が泣いたのを見るのは初めてだった気がする。桜家は明るい性格とは言えず、物事をいつも深く考えているおとなしい人だった。そのせいか、感情的になっているところを見たことがない。
 今日だって忘れた教科書を見せてくれたが、嫌な顔は一切しなかったし自分を非難するようなことも言わなかった。
 でももしかしたら、本当は迷惑だったのかもしれない。ずっと我慢させていたのかもしれない。
「私は……ただ……私が……」
 桜家は必死に何かを伝えようとしているようだった。しかし、言葉が思いつかないらしく、もどかしそうに必死に口を開いては苦しそうに顔をゆがめる。
 あまりにも不憫な姿だった。一人の少女が今にも何かに押しつぶされそうになっている。必死になって、これほど苦しそうに何かを背負っているのだ。
 気づくと雨車は腕を桜家の背に回していた。そして病気の時に母がやってくれたように優しくゆっくりと円を描くように背をなでる。
 ゆっくりでいいからと声をかけながら雨車は桜家の背をさすり続けた。
 桜家の目から一粒また一粒と涙がこぼれる。
「私は……守られるべき人じゃないの」
 余りにも寂しい言葉だった。まるで救われることを諦めるような、心が折れてしまったような言葉だった。
 そんなことはないよ! 心の中で雨車は叫ぶ。でも、この言葉を直接伝えたところで意味がないことはわかっていた。
 桜家がいじめられだしたのはもうかなり前だ。その長い間、自分はそばにいてあげることしかできなかった。
 沢谷さんに直談判したが、結局自分もいじめられる羽目になっている。もし唯理があの時助けてくれていなければ、今日だって絡まれていたかもしれない。
 そんな頼りない自分の思いがはたして彼女に届くのだろうか?
「沢谷さんは昔は人をいじめるような人じゃ無かったよね」
 雨車は子供に聞かせるように優しく語りかけた。
 今の桜家にとって必要なのはきっと希望なのだ。この暗い闇がいつかは晴れるという希望。それさえあれば、桜家の心はきっと……
「だから何か理由があると思うの。きっとそれがわかれば沢谷さんとまた……!」
 突如衝撃を感じるとともに、雨車はバランスを崩してよろけ尻もちをついていた。
 驚いて視線を上げると開かれた二つの手が視界に入った。
 病的なまでに白い手だった。そしてその手は先ほどまで雨車が握っていた手だった。そこでようやく自分が桜家に突き飛ばされたのだと理解する。
 だが、状況は理解できても頭の中では無数の疑問がうごめいていた。
「私に関わらないで……放っておいてください!」
 意を決したような桜家の言葉が疑問の渦をかき消した。どうしてこうなったかわからないまま雨車はぽかんと口を開いていることしかできなかった。
 雨車は立ち上がると一歩桜家の方に踏み出す。
 しかし、雨車は一歩前に踏み出したつもりでも実際には半歩も進んでいなかった。それほどまでに今の桜家は近寄りがたい雰囲気だった。
 近づいてきた雨車を拒絶するように桜家は後ろに下がると、身を守るように胸の前で両手を組む。その目は黒くよどみ、感情が上手く読み取れない。
 その瞳に、私はちゃんと映っているのだろうか? 答えが否だということは自分のすべての感覚が訴えていた。
「お願いだから……もう私に関わらないで」
 再び同じ言葉を投げられる。だがその言葉の意味を理解するにはとても長い時間がかかった。言葉の意味を頭が理解していても心が納得するのを拒否していた。
 かけられた言葉がやっと明確な意味となたころには、もう桜家の姿はどこにも見えなくなっていた。

 何も考えられず気づいたときには先程までいたカフェに戻っていた。さっきまでの時間が嘘のように店の中からいい香りが漂い、人々は幸せそうな顔で話していた。
 雨車が唯理に目を向けると、唯理はまるで戻ってくるのがわかっていたように手を振り呼び掛ける。雨車は彼に言われるがまま、席に戻った。
 しかし、こうして唯理と向かい合ってもまるで夢でも見ているようなふわふわとした感覚は消えてくれない。
「何を言われた?」
「……私に関わらないでって」
 真っ先に思い浮かんだのがその言葉だった。そして、その言葉を口にした途端、自分を拒絶した少女の姿が鮮明に脳裏に焼き付く。
「そうだろうな……」
 その言葉に雨車はぼんやりとしていた視線を唯理に向ける。
「こうなるってわかってたんですか?」
 唯理は迷うように固まっていたがやがて小さく頷いた。その姿を見てどうして? という言葉が脳裏をよぎる。
 どうしてあの時追いかけろなどといったのだろうか? そもそもどうして唯理は桜家に対してあんなにもぶしつけな聞き方をしたのだろうか?
「桜家のことは信用しない方がいい」
 あまりに予想外の言葉に雨車は耳を疑った。雨車の中で桜家は大切な友達である。その友達を否定するような言葉がまるでナイフのように心を抉る。
「……どうしてそんなこと言うんですか?」
「俺も言いたくて言ってるわけじゃない。でも、あいつは……」
「唯理さんは芝蘭ちゃんがどれほど苦しんでいたかわからないんですか!」
 もともと雨車がいじめを何とかしたいと思ったのは、桜家を助けたかったからだ。唯理も沢谷にいじめられている人がいると知り手助けを約束してくれた。
 だからこそ雨車は、唯理が桜家を守ってくれるかもしれないと期待をしていたし、少なくとも目的は同じだと思っていた。
 しかし、実際に唯理が行ったことは桜家を不必要に傷つける行いだった。期待していた分、その落差が大きな失望となって雨車に突き付けられる。
 自分勝手なのはわかっている。あくまで唯理は協力してくれている人間。本来は部外者なのだ。協力してくれるだけでありがたいことだし、頼んだのは自分自身だからこそ文句を言うのは筋違いだとも思う。
 それでもあふれてくる悔しさをどうしても割り切ることができなかった。
「人同士の関係はそう簡単じゃない」
 それは唯理が桜家に対して投げかけた言葉だった。その何かを見通したような物言いは、今ばかりはどうしても受け入れられなかった。
「それじゃあ、唯理さんは芝蘭ちゃんのことをどう考えてるんですか⁉」
 思わず語気が強まってしまう。でも、今は唯理の真意をどうしても知りたかった。
「悪いがまだ言えない。第一、今言ったところで受け止めきれると思えない」
 信用していない。まるでそういわれた気分だった。
 実際、唯理は本当に自分を信用していないのだろう。そもそも自分だって唯理と自分がどんな関係か桜家に説明できなかったのだ。そんなあやふやな関係の人物が信用されるわけなかったはずなのに……
「今日はもう帰ります」
 雨車は返事を聞かずにその場を後にした。
「俺の判断ミスだった。すまなかった」
 唯理の口から洩れた謝罪は、笑い合う人々の声によって受け取るべき人の耳に届かないままかき消された。
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