21 / 21
一輪の花を想い出に添えて〜サボテンの花〜〈前編〉
しおりを挟む
————窓から差し込む柔らかな陽射しが私の瞼をそっと撫でる。
外から届けられた鳥達の囀りが優しく鼓膜を揺らし、それらが暗い暗い水底から私の意識をゆっくりと光が差す水面へ引き上げていく。
うっすらと瞼を開ける。視線の先には暖かみのある白木の天井が、そして吊り下げられた和風のペンダントライトがぼんやりと映った。
まだ何処か意識は微睡んでいて、頭の中は半分夢心地のまま。
「・・・んっ、あ・・・さ?」
朝の空気はやっぱり少し肌寒い。
私は思わずブルッと身体を震わすと、いつの間にか下がっていた羽毛布団をたくし上げ、首元まですっぽり包まった。
ああ、布団の中は暖かくて、何て幸せな気分なんだろうか・・・・・・って、あれ?
変な違和感がある。何故だか身体が重い気が———何とは無しに動かした手に温かい何かが触れる。
「———————っ⁉︎」
一気に覚醒する頭。目をパッと見開いて隣に目を向けると、部屋の端に使用人不在となった敷布団が見える。
羽毛布団は蹴りたくられたのか、足下まで追いやられ畳の上でくしゃりと丸まっていた。
「・・・な、なな、なななな・・・」
私はそれを見て一瞬頭が真っ白になり言葉に詰まった。
直ぐ真横で蒼空は呑気に寝息を立てている。
腕や足を私に絡めるように身体をぴたりと密着させながら。
「なっ、何してんのよっ‼︎」
室内に絶叫にも似た怒号が反響する。
・・・まさか朝一番にこんな大きな声を出す羽目になろうとは。
「ふあ~・・・おふぁよお~」
呂律の回っていない吞気な口調で私にそう言葉を投げる。
大きな欠伸をすると、蒼空は眠い目を擦りながらのそのそと緩慢な動きで起き上がった。
「何で蒼空が私の布団に入ってんの⁉︎」
「・・・・・・・・・?」
蒼空は私と自分が寝ていた筈の布団を二度、三度と交互に見遣る。
まだ寝惚けていたみたいだけど、一瞬固まったかと思ったら、ハッとした表情をして私の顔を見るなり満面の笑みを浮かべながら「てへ♡」と戯けてみせた。
・・・・・・それを見て私が雷を落としたのは言うまでもあるまい。
・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
「・・・あんたねえ、どんな寝相してんのよ」
「いやあ、昔から寝相が頗る悪くて」
ばつの悪そうな顔をして頭を掻くと、蒼空は申し訳無さそうに頭をぺこりと下げた。
「お互い部屋の端っこまで布団離してたでしょ? それなのにこっちの布団に入って来るような寝相の悪さって何なの・・・」
私はムスッとした表情のままトーストに齧り付く。
マーガリンと苺のジャムを塗ったトーストは想像以上に美味しくて、頬張った瞬間「うまっ」と思わず声が漏れた。
「ところで七海さん。今日はどうするの? やっぱり観光?」
「・・・うん(こいつ、話し逸らしやがった⁉︎)————せっかくの旅行だしね。こっちには滅多に来れないし、今日の内に色々観て回る予定。蒼空はこの辺の観光名所とか詳しいの?」
「んー、そんな言う程は詳しくないかも」
やっぱり地元で当たり前に行けてしまうところって逆にあんまり行かなかったりするものだよね、と何となく勝手に納得する。
「そしたら蒼空もそれなりに楽しめるかもね」
そう言いながら私は目の前に置かれたコーンスープを一口啜ると、本日二回目となる「うまっ!」が口から飛び出した。
多少作ってから時間も経っているだろうに、ビュッフェ形式で提供されるモーニングでこれだけ美味しいとは。
流石、老舗の高級旅館。侮り難し。
* * *
「それでは久瀬様。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
女将さんを筆頭に旅館のスタッフさん達が深々とお辞儀をする。
それを背中越しに感じながら私は玄関で靴を履いていた。
昨日もそうだったけど、丁寧な対応は好感が持てるが、幾人もの人に頭を下げられながら見送られるのは何とも擽ったい。
鍵をフロントに預ける際、玄関ロビーで応対してくれた女将さんの表情は昨夜私に見せた表情をしていた。
まるで娘が歳下彼氏を連れて来た時に見せる母親のよう表情と言えば分かり易いだろうか。
昨日みたいに「あらあら」と言う言葉や「おほほ」と言う笑い声が聞こえて来そうだったが、どんな反応をすれば良いのか分からなかったので、私は取り敢えずそれについては気付かない振りをしておいた。
旅館を出て暫くした頃。
二人きりになったところで、さっきまで猫被りで大人しくしていた蒼空のいつもの調子が顔を出した。
「いやあ、遂に七海さんとデートかあ~」
———楽しみだなあ、なんて言いながらニコニコ顔で私の顔を覗いて来る。
少し前を歩くその足取りは心做しか軽やかで、まるで小気味良いステップを踏んでいるみたいだった。
「デ、デートって————」
「違うの?」
私の言葉を遮るようにして、蒼空は間髪入れずにそう返して来た。
「違・・・わないけどさ」
小さな声でボソボソと呟くように答えると、「七海さんって本当にツンデレだよね」なんて言って来たから「デレて無い!」と慌てて釈明すると「その返し、やっぱりツンデレじゃん」と蒼空は笑う。
〝小悪魔〟———って表現を男に使うのはアレだけど、蒼空程ぴったりな奴も居ない気がする・・・そんな事が頭を過ぎったが、それは言わないでおこうと思う。
きっと、「それじゃあ七海さんは小悪魔系男子に振り回されちゃう恋する乙女って事だね♡」とかまた訳の分からない事を言い出すに決まってる。
うん、きっとそうだ。
自分の勝手な想像に「ははは・・・」と私は思わず苦笑いしてしまった。
肩から掛けたミニショルダーのバッグからスマホを取り出し時刻を確認する。
まだ十時半を少し過ぎた頃だ。
安城岬から程近い温泉旅館・宝松永。
此処から山を下って町に出たらそこからバスで五分くらい。
バスの時刻を調べたら「仁科車庫」と言うバス停から十時四十四分発のバスがあるようで、徒歩の時間を考慮しても、十分に間に合いそうだ。
「ねえねえ、七海さん。これって何処に向かってるの?」
「ああ、そう言えば言ってなかったっけ。えーとね、〝堂ヶ島天窓洞〟って知ってる?」
「んー、聞いた事はあるかもだけど、行った事は無いかなあ。そこにこれから行く感じ?」
「うん、船で中に入っていける洞窟なんだけど、西伊豆だと有名な観光スポットなんじゃないかなあ。写真で見ただけだけど、凄い幻想的って言うか、めちゃくちゃ綺麗なの。ずっとそこに行ってみたいと思ってて、前にも一度旅行で来たからその時に行くつもりだったんだけど。運悪く急な嵐が来て遊覧船が欠航しちゃったんだよね・・・」
何年か前の事ではあるけど、私はその時の事を思い出して溜め息を吐いた。
あの時は天候の所為で急遽予定を変更する羽目になって行けなかったし、今回は一緒に見たかった肝心の相手が————って、いやいや、忘れよう。何を考えてるんだろう。
思い出すだけ悲しい気持ちになるだけだ。
それに仮でも振りでも一応今は蒼空が私の彼氏なんだし、こんな事を考えるなんて蒼空に対して失礼じゃん。
私は頭に浮かんだ顔を振り払おうと左右に頭を振った。
「・・・それってさ、彼氏さんとの旅行で来た時の話し?」
「えっ? そう、だけど?」
「ふーん、そうなんだ」
ん? 何だろう? この含みのある言い方は。まるで拗ねた子供みたいな反応。
って、実際私から見て蒼空はまだまだ子供なんだけど。
「・・・・・・もしかして、妬いてんの?」
すると蒼空は珍しく慌てた素振りで「そんなんじゃないし!」と必死に否定してみせる。
「成る程ねえ。蒼空も案外可愛いとこあるじゃんね」
「ああ! その言い方! ・・・・・・何かムカつく!」
いつものお返しとばかりに、剥れる蒼空を宥めるように頭をポンポンしてみると、子供扱いされたのがよっぽど悔しかったのか、更に頬を膨らませてああだこうだと言い訳をして来る。
それが何とも可笑しくて私は声に出して笑ってしまった。
「ははは、ごめんごめん。行こうとしたのは確かだけど、実際には行けなかったから。初めて行くのは蒼空とだよ? それに・・・彼氏じゃなくて、〝元カレ〟だしね」
それを聞いて蒼空は「へえ、そう」とだけ短く返して直ぐに私に背を向けたけど、一見すると素っ気ないように見えて何だかちょっと・・・嬉しそう。
何だかんだ私も蒼空に毒されて来たのか、そんな些細な事が嬉しいと思えて来て、自分でも気付かない内に顔が緩んでいた。
自然と笑いが込み上げて来る。
だけど、これでまた拗ねられても困るから、私は蒼空にバレないように口許から溢れる笑みをこっそり掌でそっと覆い隠した。
「てかそんな事言ってる場合じゃなかった! 蒼空! バス来ちゃうから急がないと!」
時刻は十時四十一分。
バス出発まで後三分を切った。これを逃すと次のバスまで三十分以上待ち惚けになってしまう。
いきなり急かされて若干戸惑う蒼空の手を半ば強引に取ると、私達は足早に坂道を駆けて行った。
* * *
目の前を通り過ぎる街路樹。
走るバスの車窓によって町の風景は刹那に切り取られ、視界に入った次の瞬間には消え去り、何度となくそれを繰り返しながら景色は彼方後方へと流れて行った。
「あっ、七海さん! 見えて来たよ! あれじゃない?」
窓際の座席に座る蒼空が少し興奮気味に声を上げる。
私の肩を揺さぶって、窓の外を指差した。
言われるがまま身を乗り出し、窓越しに外を覗いてみると、視線の先に停泊する遊覧船が見えた。
そして、ポツポツと何人か船着場の周りに人の姿が確認出来る。
「(あれだ! ヤバい、めっちゃアガるんだけどっ‼︎)うん、あれっぽいね。てか他の人も居るんだからあんまり騒がないようにね?」
大人の余裕を見せようとテンションの上がった蒼空を優しく嗜めたが、内心本当は蒼空に負けず劣らずでテンション上がりまくりだった。
ふと空を見上げてみると雲一つ無い晴れ模様で、太陽の陽射しが海面を照らしてキラキラと輝いていた。
幸いにも今日は風も少ないし、波はとても穏やかに凪いでいて、まさに絶好の船出日和だ。
これなら前回のリベンジは果たせそう!
私は期待に胸を躍らせていた。
「次は〝堂ヶ島〟に停まります。堂ヶ島マリン、堂ヶ島天窓洞に御用の方はこちらでお降り下さい」
車内アナウンスが流れる。
「お降りの方はお忘れ物なさいませんようお気を付け下さい。ステップがありますので足元にご注意下さい」
扉が閉まる。そしてエンジンを吹かす音がそれに続いて、バスは私達をその場に残し走り出した。その姿は山の陰に隠れあっと言う間に見えなくなってしまった。
どうやら此処で降りたのは私達だけらしい。
さっき車内から見た時は船着場にチラホラと人が居たみたいだけど、そんなにたくさんの人は居なかった。
これなら混雑による待ちも無さそうだ。
そう考えたら隠し切れない程、私の胸は高鳴っていた。
楽しみ過ぎる。ヤバい! これはもうフライング気味に語彙力が失くなるやつだ。
それはどうやら蒼空も同じだったみたいで、
「海っ! 着いたああああ‼︎」
近くに人が居ないのを良い事に蒼空は叫ぶように声を上げた。
「———びっくりしたっ。えっ、何それ? 何かそのテンション、海水浴に来た人みたいじゃん」
「ん? 思い切って泳いじゃう? 水着無いけど」
「あのー、蒼空さん? 来週の今頃には十月になってるんですけど?」
「あれ? そうでしたっけ? まあ、冬じゃなければ気合いで入れるんじゃないでしょうか七海さん」
「いやいや、気合いで入る海水浴って何ですの」
私と蒼空は互いに顔を見合わせると、プッと吹き出して思わず大笑いしてしまった。
「ははは、もう、やだ。何この漫才みたいなやり取り」
「七海さんこそ、こんなノリ良かったっけ?」
蒼空はケタケタと腹を抱えて楽しそうに笑っている。
その顔は年相応・・・と言うより何なら童心に帰ったようだった。
初めて蒼空に逢った時。
最初こそ「何だこいつは」って正直思ってたけど、一晩経ってこんなに打ち解けているなんて自分でも驚きだった。
「ほら! そんな下らない事言ってないで、早くチケット買いに行くよ!」
そう言って歩き出そうとした時、ジャケットの袖をクイッと引っ張られた。
「あっ、七海さん、ちょっと待って。ごめんなんだけど、先にトイレ行って来ても良いかな?」
「お手洗い? んー、良いよ。船乗っちゃったら暫く行けないしね。そしたら先にチケット買っとく。さっさと戻って来てよー?」
———りょうかーい! そう言って両手を合わせると、慌てた様子で「ごめんね」のポーズを取りながらそそくさとお手洗いに駆けて行った。
随分急いでたみたいだけど、よっぽど我慢してたのかしら?
* * *
〝バタン!〟
木製の扉が威勢良く大きな音を立てた。
・・・良かった。誰も居ない。
扉を背にしたまま俺は後ろ手で〝カチリ〟と鍵を掛ける。
「はあ、はあ、はあ・・・」
息が苦しい。肺が酸素を取り込もうとして胸が大きく上下する。
無理・・・し過ぎたのかも知れない。
「うぐっ———」
声ならぬ声。咄嗟に俺は胸を押さえる。
心臓を鷲掴みにされたような痛みで今度は息が出来ない。
くそっ・・・どうにかなりそうだ。
息を止めて頭に酸素が巡らない所為か、それともこの胸の痛みの所為か。
とにかく脚が震えて寄り掛かっている事さえしんどくなって来た。
何か掴める物を・・・そう思って何とか一歩、また一歩と足を前に出すと、俺は洗面台の前まで来たところで膝から崩れ落ちてしまった。
崩れ落ちた瞬間、洗面台に両手を掛けていた事でどうにか床に倒れ込むのだけは避けられた。
冷や汗が止まらない。
汗腺から吹き出した汗がシャツをじっとりと湿らせ、ほんの少し息を吸い込んだだけでまた胸に激痛が走る。
その度に顔を歪めて唸るような声が漏れた。
「く、くす・・・りを———」
俺は声を絞り出すと、持っていたバッグの中から震える手でピルケースを取り出した。
薄ピンク色のピルケースには花柄のシールが。
妹が、紗月が大事にしていた宝物のシールだ。
それに小分けして入れていた数種類の錠剤を口の中に放り込む。
口内に薬特有の苦味が広がっていく。
それらを蛇口から捻り出した水で無理やり喉の奥へと流し込んだ。
・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
————どれくらいそうしていただろうか?
段々と薬が効いて来たのか、痛みが引いて呼吸も落ち着いて来た。
「はあ・・・こんな姿、七海さんには見せらんないよな・・・」
俺はその場に座り込んだまま頭を掻いた。
俺はまだ七海さんに言っていない事がある。
と言うより〝言えない事〟と言った方が正しいが。
俺の我儘をあの人は受け入れてくれた。
自分勝手なのは分かってる。
それでも後一日。
あの人が帰るその時までは————
「・・・そろそろ行かないと七海さんに怒られちゃうな」
良し、もう動ける。
俺は立ち上がると洗面台の鏡で自分の顔を確認する。
顔色は・・・悪くない、と思う。
そして、気合いを入れるように自らの手で両の頬をパチンと叩いた。
叩いた頬がほんのり赤くなる。
「大丈夫、大丈夫だ」
鏡に映る自分を見詰めて何度もそう唱えた。
それは・・・そう、自分自身の身体に言い聞かせるように。
* * *
・・・・・・遅い。遅過ぎる。
あれから三十分くらい経っているのにまだ戻って来ない。
私は買ったチケットを左手に持ちながら、腕組みをして券売所の横で仁王立ち。
落ち着き無くチラチラとスマホで何度も時刻を確認する。
スマホを握る手の指が、私の感情を表すように自然と一定のリズムを刻んでいた。
あまりにも戻って来ないもんだからもういっそ突撃してやろうか⁉︎
そう思ったところで、背後から開口一番に「ごめん‼︎」と言いながら蒼空が戻って来た。
走って戻って来たのか息を切らしていて、その額にはうっすらと玉になった汗が浮かんでいる。
「蒼空! もう! 待たせ過ぎ! 全然戻って来ないから倒れてんのかと思って心配したじゃんっ」
「いや、本っ当に待たせてごめん! その、何て言うか・・・お腹がめっっっっちゃ痛くてヤバかったんだよ・・・」
苦笑いしながら蒼空はお腹を摩り何度も何度も平謝り。
さっきまで文句の一つでも言ってやろうかと思ってたけど、必死に謝るその姿を見ていたら何だか毒気を抜かれてしまったみたいで、苛立ちよりも安心感が先に立った。
「・・・まあ、倒れたんじゃないって分かったから良かったけど。・・・・・・お腹、もう大丈夫なの?」
「うん、もう平気。今朝寒かったし、冷たい物飲んでお腹冷えたのかも。てか七海さん、俺の事心配してくれたんだ? 何か嬉しいなあ」
「嬉しいなあ———じゃないっ! 散々待たせた挙句、心配まで掛けておいて反省の色無しか」
「いえいえ、もう海底まで沈む勢いで深~~~~く反省しております故、どうか機嫌の方を直して下さいませ七海様」
ほうほう、そう来たか。
甘い顔をしたらこうして直ぐ調子に乗る。
「・・・・・・本当に沈めてやろうかしら」
ワントーン下げた暗めの声で溜めに溜めてから放ったその言葉。
目を細めて敢えて真顔で見遣る。
そんな私の冷ややかな態度に
「誠に申し訳ありませんでした!」
と態度を一八〇度変えると、頭を深々と下げ、宝松永のスタッフ顔負けの一礼を決めてみせた。
思わずプッと吹き出して、私はそのまま腹を抱えて大笑いしてしまった。
「はははは、何それ? 蒼空って本当に面白いね、もうお腹痛いっ」
笑い過ぎて涙が出て来る。
私はそれを拭って蒼空に視線を向けた。
こんな笑われると思ってなかったのか、目をパチパチと瞬かせながら口を開けてポカーンとした顔をしている。
それがまた何だか可笑しくて。
蒼空ってこう言う奴だよな、と目尻に皺を寄せて微笑むように笑い掛けた。
「冗談だよ。別に怒ってないから。待たせておいて、あんまり調子良い事言うもんだから少し意地悪してやろうと思っただけ。言っとくけど、今日は色々行きたい所あるんだから彼氏としてちゃんと付き合ってよね!」
蒼空がバッと顔を上げる。
「・・・・・・七海さん、今〝彼氏〟って言った?」
自分が言った言葉に私はハッとしたように赤面する。
「え? えーと、その、あの・・・・・・彼氏(仮)ってやつよ!(仮)! てか・・・あんたが言い出したんでしょ? あんたは彼氏で、私は彼女・・・・・・なんでしょ?」
蒼空の顔は途端にぱあっと明るくなった。
喜色をその表情に浮かべたまま、私の手を掴んだと思ったら勢い良く自分の方へと引き寄せ、そのまま思いっ切り抱き締められた。
「ちょっ、蒼空⁉︎」
「うん! 七海さんは彼女!」
蒼空の声が弾む。
昨日までの私なら、きっと驚いてそのまま振り払っていたと思う。
けれど、今の私は———自然と蒼空の背中に手を回して私より大きなその背中をギュッと抱き締め返していた。
そうしたら、私を抱き締めるその力がさっきよりも強くなった気がして。
「七海さん、ありがとう。今日は思い出に残る最っ高の一日にしようね!」
失恋した心の傷を癒す傷心旅行だったけど、もしかしたら、蒼空とだったら良い思い出として上書き出来るかも知れない。
そんな気がしてた。
「うん、そうだね。せっかくなら良い思い出にしなきゃね」
抱き締めた蒼空の身体は暖かくて、何だか安心する。
触れた掌に伝わる蒼空の鼓動。小刻みにトントンとノックするようで、ドキドキしてるのが伝わって来た。
いつも余裕のある感じで振る舞ってる蒼空だけど、本当はドキドキしてくれてるのかって思ったら、何だか凄く嬉しくなった。
でも、そうしたら今度は私のドキドキも聴かれてるんじゃないかって事が凄く気になり出して。
それはやっぱり恥ずかしくて、そんな事を考えてたら益々鼓動が速くなった気がする。
「蒼空! そ、そろそろ行かないと! 船、出ちゃうよ!」
蒼空の顔が直視出来ない。
と言うかどんな顔をすれば良いのか分からなくて、私は俯くように顔を背けた。
これはもう認めるしか・・・ないよね。
私は蒼空を異性として意識し始めてるって事を。
「間も無く出港しまーす! 乗船される方が居ましたらお急ぎ下さーい!」
出港を知らせるアナウンスだ。
船着場に居るスタッフが声を張り上げてもう一度アナウンスを繰り返す。
「乗船される方、もう居ませんかー? 間も無く出港になりまーす! 『洞くつめぐり』で遊覧船コースのチケットをお持ちの方はお急ぎ下さーい!」
「ヤバっ! 急がないと乗りそびれちゃう! 蒼空! 行こう!」
私は蒼空の手を取って走り出そうとしたその時————ガクンッと後ろから手を引かれバランスを崩しそうになった。
「ちょ、ちょっと蒼空⁉︎ ————って・・・・・・えっ?」
振り返ると、蒼空は地面に蹲っていた。
「えっ、えっ———ちょ、ちょっと、蒼空⁉︎ どうしたの⁉︎」
私は蒼空に勢い良く駆け寄った。
触れると尋常じゃなく汗を掻いていて、胸を押さえながら苦悶の表情を浮かべていた。
「ねえ! 蒼空! 私の声聞こえる⁉︎」
返事は無い。眉根を寄せて、どんどん蒼空の表情は険しくなっていく。
呼吸が辛いのか、何秒かに一回、一瞬だけ息を吸い込む音がする。
「誰か! 誰か救急車‼︎」
どうして良いのか分からず戸惑う私に、蒼空が小さく、本当に小さく、絞り出すように言葉を紡いだ。
「七、海・・・さん。・・・・・・ご・・・め・・・・・・・・・んっ」
そう言いながら、蒼空は私に向かって手を伸ばす。
その手は頼りなく震えていて、私は両の手でその手を受け止めると、ギュッと握り締めた。
「ごめんって何が! 良く分かんないけど、謝らないでよ!」
ちゃんと聞こえてるのかは分からない。
だから私は大きい声で叫ぶように言葉を投げた。次の瞬間、
「ゴホッ、ゴボッッ‼︎」
蒼空は喉の奥から塊を吐き出すように大きく咳き込んだ。
胸を反らせて咳き込む度に身体をくの字に曲げるような激しい咳。
私はとにかく必死になって呼び掛け続けた。
そして何度めかの咳と共に—————赤い飛沫が中空を舞った。
その瞬間、世界がスローモーションになったみたいで、放たれた飛沫の一滴一滴、その全てが私の視界でゆっくりと弧を描く。
私自身も時が止まったみたいで、視線だけがその飛沫を目で追っていた。
そして、世界の時間が、また動き出したその時—————
・・・・・・視線を落とす。赤く染められた自分。
蒼空はぴくりとも動かなくなっていた。
「・・・・・・そ、蒼空・・・? 蒼空ああああああああああああ‼︎」
雲一つ無い青空。何処までも広がる青空に、私の悲痛な声とサイレンの音が鳴り響いていた。
外から届けられた鳥達の囀りが優しく鼓膜を揺らし、それらが暗い暗い水底から私の意識をゆっくりと光が差す水面へ引き上げていく。
うっすらと瞼を開ける。視線の先には暖かみのある白木の天井が、そして吊り下げられた和風のペンダントライトがぼんやりと映った。
まだ何処か意識は微睡んでいて、頭の中は半分夢心地のまま。
「・・・んっ、あ・・・さ?」
朝の空気はやっぱり少し肌寒い。
私は思わずブルッと身体を震わすと、いつの間にか下がっていた羽毛布団をたくし上げ、首元まですっぽり包まった。
ああ、布団の中は暖かくて、何て幸せな気分なんだろうか・・・・・・って、あれ?
変な違和感がある。何故だか身体が重い気が———何とは無しに動かした手に温かい何かが触れる。
「———————っ⁉︎」
一気に覚醒する頭。目をパッと見開いて隣に目を向けると、部屋の端に使用人不在となった敷布団が見える。
羽毛布団は蹴りたくられたのか、足下まで追いやられ畳の上でくしゃりと丸まっていた。
「・・・な、なな、なななな・・・」
私はそれを見て一瞬頭が真っ白になり言葉に詰まった。
直ぐ真横で蒼空は呑気に寝息を立てている。
腕や足を私に絡めるように身体をぴたりと密着させながら。
「なっ、何してんのよっ‼︎」
室内に絶叫にも似た怒号が反響する。
・・・まさか朝一番にこんな大きな声を出す羽目になろうとは。
「ふあ~・・・おふぁよお~」
呂律の回っていない吞気な口調で私にそう言葉を投げる。
大きな欠伸をすると、蒼空は眠い目を擦りながらのそのそと緩慢な動きで起き上がった。
「何で蒼空が私の布団に入ってんの⁉︎」
「・・・・・・・・・?」
蒼空は私と自分が寝ていた筈の布団を二度、三度と交互に見遣る。
まだ寝惚けていたみたいだけど、一瞬固まったかと思ったら、ハッとした表情をして私の顔を見るなり満面の笑みを浮かべながら「てへ♡」と戯けてみせた。
・・・・・・それを見て私が雷を落としたのは言うまでもあるまい。
・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
「・・・あんたねえ、どんな寝相してんのよ」
「いやあ、昔から寝相が頗る悪くて」
ばつの悪そうな顔をして頭を掻くと、蒼空は申し訳無さそうに頭をぺこりと下げた。
「お互い部屋の端っこまで布団離してたでしょ? それなのにこっちの布団に入って来るような寝相の悪さって何なの・・・」
私はムスッとした表情のままトーストに齧り付く。
マーガリンと苺のジャムを塗ったトーストは想像以上に美味しくて、頬張った瞬間「うまっ」と思わず声が漏れた。
「ところで七海さん。今日はどうするの? やっぱり観光?」
「・・・うん(こいつ、話し逸らしやがった⁉︎)————せっかくの旅行だしね。こっちには滅多に来れないし、今日の内に色々観て回る予定。蒼空はこの辺の観光名所とか詳しいの?」
「んー、そんな言う程は詳しくないかも」
やっぱり地元で当たり前に行けてしまうところって逆にあんまり行かなかったりするものだよね、と何となく勝手に納得する。
「そしたら蒼空もそれなりに楽しめるかもね」
そう言いながら私は目の前に置かれたコーンスープを一口啜ると、本日二回目となる「うまっ!」が口から飛び出した。
多少作ってから時間も経っているだろうに、ビュッフェ形式で提供されるモーニングでこれだけ美味しいとは。
流石、老舗の高級旅館。侮り難し。
* * *
「それでは久瀬様。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
女将さんを筆頭に旅館のスタッフさん達が深々とお辞儀をする。
それを背中越しに感じながら私は玄関で靴を履いていた。
昨日もそうだったけど、丁寧な対応は好感が持てるが、幾人もの人に頭を下げられながら見送られるのは何とも擽ったい。
鍵をフロントに預ける際、玄関ロビーで応対してくれた女将さんの表情は昨夜私に見せた表情をしていた。
まるで娘が歳下彼氏を連れて来た時に見せる母親のよう表情と言えば分かり易いだろうか。
昨日みたいに「あらあら」と言う言葉や「おほほ」と言う笑い声が聞こえて来そうだったが、どんな反応をすれば良いのか分からなかったので、私は取り敢えずそれについては気付かない振りをしておいた。
旅館を出て暫くした頃。
二人きりになったところで、さっきまで猫被りで大人しくしていた蒼空のいつもの調子が顔を出した。
「いやあ、遂に七海さんとデートかあ~」
———楽しみだなあ、なんて言いながらニコニコ顔で私の顔を覗いて来る。
少し前を歩くその足取りは心做しか軽やかで、まるで小気味良いステップを踏んでいるみたいだった。
「デ、デートって————」
「違うの?」
私の言葉を遮るようにして、蒼空は間髪入れずにそう返して来た。
「違・・・わないけどさ」
小さな声でボソボソと呟くように答えると、「七海さんって本当にツンデレだよね」なんて言って来たから「デレて無い!」と慌てて釈明すると「その返し、やっぱりツンデレじゃん」と蒼空は笑う。
〝小悪魔〟———って表現を男に使うのはアレだけど、蒼空程ぴったりな奴も居ない気がする・・・そんな事が頭を過ぎったが、それは言わないでおこうと思う。
きっと、「それじゃあ七海さんは小悪魔系男子に振り回されちゃう恋する乙女って事だね♡」とかまた訳の分からない事を言い出すに決まってる。
うん、きっとそうだ。
自分の勝手な想像に「ははは・・・」と私は思わず苦笑いしてしまった。
肩から掛けたミニショルダーのバッグからスマホを取り出し時刻を確認する。
まだ十時半を少し過ぎた頃だ。
安城岬から程近い温泉旅館・宝松永。
此処から山を下って町に出たらそこからバスで五分くらい。
バスの時刻を調べたら「仁科車庫」と言うバス停から十時四十四分発のバスがあるようで、徒歩の時間を考慮しても、十分に間に合いそうだ。
「ねえねえ、七海さん。これって何処に向かってるの?」
「ああ、そう言えば言ってなかったっけ。えーとね、〝堂ヶ島天窓洞〟って知ってる?」
「んー、聞いた事はあるかもだけど、行った事は無いかなあ。そこにこれから行く感じ?」
「うん、船で中に入っていける洞窟なんだけど、西伊豆だと有名な観光スポットなんじゃないかなあ。写真で見ただけだけど、凄い幻想的って言うか、めちゃくちゃ綺麗なの。ずっとそこに行ってみたいと思ってて、前にも一度旅行で来たからその時に行くつもりだったんだけど。運悪く急な嵐が来て遊覧船が欠航しちゃったんだよね・・・」
何年か前の事ではあるけど、私はその時の事を思い出して溜め息を吐いた。
あの時は天候の所為で急遽予定を変更する羽目になって行けなかったし、今回は一緒に見たかった肝心の相手が————って、いやいや、忘れよう。何を考えてるんだろう。
思い出すだけ悲しい気持ちになるだけだ。
それに仮でも振りでも一応今は蒼空が私の彼氏なんだし、こんな事を考えるなんて蒼空に対して失礼じゃん。
私は頭に浮かんだ顔を振り払おうと左右に頭を振った。
「・・・それってさ、彼氏さんとの旅行で来た時の話し?」
「えっ? そう、だけど?」
「ふーん、そうなんだ」
ん? 何だろう? この含みのある言い方は。まるで拗ねた子供みたいな反応。
って、実際私から見て蒼空はまだまだ子供なんだけど。
「・・・・・・もしかして、妬いてんの?」
すると蒼空は珍しく慌てた素振りで「そんなんじゃないし!」と必死に否定してみせる。
「成る程ねえ。蒼空も案外可愛いとこあるじゃんね」
「ああ! その言い方! ・・・・・・何かムカつく!」
いつものお返しとばかりに、剥れる蒼空を宥めるように頭をポンポンしてみると、子供扱いされたのがよっぽど悔しかったのか、更に頬を膨らませてああだこうだと言い訳をして来る。
それが何とも可笑しくて私は声に出して笑ってしまった。
「ははは、ごめんごめん。行こうとしたのは確かだけど、実際には行けなかったから。初めて行くのは蒼空とだよ? それに・・・彼氏じゃなくて、〝元カレ〟だしね」
それを聞いて蒼空は「へえ、そう」とだけ短く返して直ぐに私に背を向けたけど、一見すると素っ気ないように見えて何だかちょっと・・・嬉しそう。
何だかんだ私も蒼空に毒されて来たのか、そんな些細な事が嬉しいと思えて来て、自分でも気付かない内に顔が緩んでいた。
自然と笑いが込み上げて来る。
だけど、これでまた拗ねられても困るから、私は蒼空にバレないように口許から溢れる笑みをこっそり掌でそっと覆い隠した。
「てかそんな事言ってる場合じゃなかった! 蒼空! バス来ちゃうから急がないと!」
時刻は十時四十一分。
バス出発まで後三分を切った。これを逃すと次のバスまで三十分以上待ち惚けになってしまう。
いきなり急かされて若干戸惑う蒼空の手を半ば強引に取ると、私達は足早に坂道を駆けて行った。
* * *
目の前を通り過ぎる街路樹。
走るバスの車窓によって町の風景は刹那に切り取られ、視界に入った次の瞬間には消え去り、何度となくそれを繰り返しながら景色は彼方後方へと流れて行った。
「あっ、七海さん! 見えて来たよ! あれじゃない?」
窓際の座席に座る蒼空が少し興奮気味に声を上げる。
私の肩を揺さぶって、窓の外を指差した。
言われるがまま身を乗り出し、窓越しに外を覗いてみると、視線の先に停泊する遊覧船が見えた。
そして、ポツポツと何人か船着場の周りに人の姿が確認出来る。
「(あれだ! ヤバい、めっちゃアガるんだけどっ‼︎)うん、あれっぽいね。てか他の人も居るんだからあんまり騒がないようにね?」
大人の余裕を見せようとテンションの上がった蒼空を優しく嗜めたが、内心本当は蒼空に負けず劣らずでテンション上がりまくりだった。
ふと空を見上げてみると雲一つ無い晴れ模様で、太陽の陽射しが海面を照らしてキラキラと輝いていた。
幸いにも今日は風も少ないし、波はとても穏やかに凪いでいて、まさに絶好の船出日和だ。
これなら前回のリベンジは果たせそう!
私は期待に胸を躍らせていた。
「次は〝堂ヶ島〟に停まります。堂ヶ島マリン、堂ヶ島天窓洞に御用の方はこちらでお降り下さい」
車内アナウンスが流れる。
「お降りの方はお忘れ物なさいませんようお気を付け下さい。ステップがありますので足元にご注意下さい」
扉が閉まる。そしてエンジンを吹かす音がそれに続いて、バスは私達をその場に残し走り出した。その姿は山の陰に隠れあっと言う間に見えなくなってしまった。
どうやら此処で降りたのは私達だけらしい。
さっき車内から見た時は船着場にチラホラと人が居たみたいだけど、そんなにたくさんの人は居なかった。
これなら混雑による待ちも無さそうだ。
そう考えたら隠し切れない程、私の胸は高鳴っていた。
楽しみ過ぎる。ヤバい! これはもうフライング気味に語彙力が失くなるやつだ。
それはどうやら蒼空も同じだったみたいで、
「海っ! 着いたああああ‼︎」
近くに人が居ないのを良い事に蒼空は叫ぶように声を上げた。
「———びっくりしたっ。えっ、何それ? 何かそのテンション、海水浴に来た人みたいじゃん」
「ん? 思い切って泳いじゃう? 水着無いけど」
「あのー、蒼空さん? 来週の今頃には十月になってるんですけど?」
「あれ? そうでしたっけ? まあ、冬じゃなければ気合いで入れるんじゃないでしょうか七海さん」
「いやいや、気合いで入る海水浴って何ですの」
私と蒼空は互いに顔を見合わせると、プッと吹き出して思わず大笑いしてしまった。
「ははは、もう、やだ。何この漫才みたいなやり取り」
「七海さんこそ、こんなノリ良かったっけ?」
蒼空はケタケタと腹を抱えて楽しそうに笑っている。
その顔は年相応・・・と言うより何なら童心に帰ったようだった。
初めて蒼空に逢った時。
最初こそ「何だこいつは」って正直思ってたけど、一晩経ってこんなに打ち解けているなんて自分でも驚きだった。
「ほら! そんな下らない事言ってないで、早くチケット買いに行くよ!」
そう言って歩き出そうとした時、ジャケットの袖をクイッと引っ張られた。
「あっ、七海さん、ちょっと待って。ごめんなんだけど、先にトイレ行って来ても良いかな?」
「お手洗い? んー、良いよ。船乗っちゃったら暫く行けないしね。そしたら先にチケット買っとく。さっさと戻って来てよー?」
———りょうかーい! そう言って両手を合わせると、慌てた様子で「ごめんね」のポーズを取りながらそそくさとお手洗いに駆けて行った。
随分急いでたみたいだけど、よっぽど我慢してたのかしら?
* * *
〝バタン!〟
木製の扉が威勢良く大きな音を立てた。
・・・良かった。誰も居ない。
扉を背にしたまま俺は後ろ手で〝カチリ〟と鍵を掛ける。
「はあ、はあ、はあ・・・」
息が苦しい。肺が酸素を取り込もうとして胸が大きく上下する。
無理・・・し過ぎたのかも知れない。
「うぐっ———」
声ならぬ声。咄嗟に俺は胸を押さえる。
心臓を鷲掴みにされたような痛みで今度は息が出来ない。
くそっ・・・どうにかなりそうだ。
息を止めて頭に酸素が巡らない所為か、それともこの胸の痛みの所為か。
とにかく脚が震えて寄り掛かっている事さえしんどくなって来た。
何か掴める物を・・・そう思って何とか一歩、また一歩と足を前に出すと、俺は洗面台の前まで来たところで膝から崩れ落ちてしまった。
崩れ落ちた瞬間、洗面台に両手を掛けていた事でどうにか床に倒れ込むのだけは避けられた。
冷や汗が止まらない。
汗腺から吹き出した汗がシャツをじっとりと湿らせ、ほんの少し息を吸い込んだだけでまた胸に激痛が走る。
その度に顔を歪めて唸るような声が漏れた。
「く、くす・・・りを———」
俺は声を絞り出すと、持っていたバッグの中から震える手でピルケースを取り出した。
薄ピンク色のピルケースには花柄のシールが。
妹が、紗月が大事にしていた宝物のシールだ。
それに小分けして入れていた数種類の錠剤を口の中に放り込む。
口内に薬特有の苦味が広がっていく。
それらを蛇口から捻り出した水で無理やり喉の奥へと流し込んだ。
・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
————どれくらいそうしていただろうか?
段々と薬が効いて来たのか、痛みが引いて呼吸も落ち着いて来た。
「はあ・・・こんな姿、七海さんには見せらんないよな・・・」
俺はその場に座り込んだまま頭を掻いた。
俺はまだ七海さんに言っていない事がある。
と言うより〝言えない事〟と言った方が正しいが。
俺の我儘をあの人は受け入れてくれた。
自分勝手なのは分かってる。
それでも後一日。
あの人が帰るその時までは————
「・・・そろそろ行かないと七海さんに怒られちゃうな」
良し、もう動ける。
俺は立ち上がると洗面台の鏡で自分の顔を確認する。
顔色は・・・悪くない、と思う。
そして、気合いを入れるように自らの手で両の頬をパチンと叩いた。
叩いた頬がほんのり赤くなる。
「大丈夫、大丈夫だ」
鏡に映る自分を見詰めて何度もそう唱えた。
それは・・・そう、自分自身の身体に言い聞かせるように。
* * *
・・・・・・遅い。遅過ぎる。
あれから三十分くらい経っているのにまだ戻って来ない。
私は買ったチケットを左手に持ちながら、腕組みをして券売所の横で仁王立ち。
落ち着き無くチラチラとスマホで何度も時刻を確認する。
スマホを握る手の指が、私の感情を表すように自然と一定のリズムを刻んでいた。
あまりにも戻って来ないもんだからもういっそ突撃してやろうか⁉︎
そう思ったところで、背後から開口一番に「ごめん‼︎」と言いながら蒼空が戻って来た。
走って戻って来たのか息を切らしていて、その額にはうっすらと玉になった汗が浮かんでいる。
「蒼空! もう! 待たせ過ぎ! 全然戻って来ないから倒れてんのかと思って心配したじゃんっ」
「いや、本っ当に待たせてごめん! その、何て言うか・・・お腹がめっっっっちゃ痛くてヤバかったんだよ・・・」
苦笑いしながら蒼空はお腹を摩り何度も何度も平謝り。
さっきまで文句の一つでも言ってやろうかと思ってたけど、必死に謝るその姿を見ていたら何だか毒気を抜かれてしまったみたいで、苛立ちよりも安心感が先に立った。
「・・・まあ、倒れたんじゃないって分かったから良かったけど。・・・・・・お腹、もう大丈夫なの?」
「うん、もう平気。今朝寒かったし、冷たい物飲んでお腹冷えたのかも。てか七海さん、俺の事心配してくれたんだ? 何か嬉しいなあ」
「嬉しいなあ———じゃないっ! 散々待たせた挙句、心配まで掛けておいて反省の色無しか」
「いえいえ、もう海底まで沈む勢いで深~~~~く反省しております故、どうか機嫌の方を直して下さいませ七海様」
ほうほう、そう来たか。
甘い顔をしたらこうして直ぐ調子に乗る。
「・・・・・・本当に沈めてやろうかしら」
ワントーン下げた暗めの声で溜めに溜めてから放ったその言葉。
目を細めて敢えて真顔で見遣る。
そんな私の冷ややかな態度に
「誠に申し訳ありませんでした!」
と態度を一八〇度変えると、頭を深々と下げ、宝松永のスタッフ顔負けの一礼を決めてみせた。
思わずプッと吹き出して、私はそのまま腹を抱えて大笑いしてしまった。
「はははは、何それ? 蒼空って本当に面白いね、もうお腹痛いっ」
笑い過ぎて涙が出て来る。
私はそれを拭って蒼空に視線を向けた。
こんな笑われると思ってなかったのか、目をパチパチと瞬かせながら口を開けてポカーンとした顔をしている。
それがまた何だか可笑しくて。
蒼空ってこう言う奴だよな、と目尻に皺を寄せて微笑むように笑い掛けた。
「冗談だよ。別に怒ってないから。待たせておいて、あんまり調子良い事言うもんだから少し意地悪してやろうと思っただけ。言っとくけど、今日は色々行きたい所あるんだから彼氏としてちゃんと付き合ってよね!」
蒼空がバッと顔を上げる。
「・・・・・・七海さん、今〝彼氏〟って言った?」
自分が言った言葉に私はハッとしたように赤面する。
「え? えーと、その、あの・・・・・・彼氏(仮)ってやつよ!(仮)! てか・・・あんたが言い出したんでしょ? あんたは彼氏で、私は彼女・・・・・・なんでしょ?」
蒼空の顔は途端にぱあっと明るくなった。
喜色をその表情に浮かべたまま、私の手を掴んだと思ったら勢い良く自分の方へと引き寄せ、そのまま思いっ切り抱き締められた。
「ちょっ、蒼空⁉︎」
「うん! 七海さんは彼女!」
蒼空の声が弾む。
昨日までの私なら、きっと驚いてそのまま振り払っていたと思う。
けれど、今の私は———自然と蒼空の背中に手を回して私より大きなその背中をギュッと抱き締め返していた。
そうしたら、私を抱き締めるその力がさっきよりも強くなった気がして。
「七海さん、ありがとう。今日は思い出に残る最っ高の一日にしようね!」
失恋した心の傷を癒す傷心旅行だったけど、もしかしたら、蒼空とだったら良い思い出として上書き出来るかも知れない。
そんな気がしてた。
「うん、そうだね。せっかくなら良い思い出にしなきゃね」
抱き締めた蒼空の身体は暖かくて、何だか安心する。
触れた掌に伝わる蒼空の鼓動。小刻みにトントンとノックするようで、ドキドキしてるのが伝わって来た。
いつも余裕のある感じで振る舞ってる蒼空だけど、本当はドキドキしてくれてるのかって思ったら、何だか凄く嬉しくなった。
でも、そうしたら今度は私のドキドキも聴かれてるんじゃないかって事が凄く気になり出して。
それはやっぱり恥ずかしくて、そんな事を考えてたら益々鼓動が速くなった気がする。
「蒼空! そ、そろそろ行かないと! 船、出ちゃうよ!」
蒼空の顔が直視出来ない。
と言うかどんな顔をすれば良いのか分からなくて、私は俯くように顔を背けた。
これはもう認めるしか・・・ないよね。
私は蒼空を異性として意識し始めてるって事を。
「間も無く出港しまーす! 乗船される方が居ましたらお急ぎ下さーい!」
出港を知らせるアナウンスだ。
船着場に居るスタッフが声を張り上げてもう一度アナウンスを繰り返す。
「乗船される方、もう居ませんかー? 間も無く出港になりまーす! 『洞くつめぐり』で遊覧船コースのチケットをお持ちの方はお急ぎ下さーい!」
「ヤバっ! 急がないと乗りそびれちゃう! 蒼空! 行こう!」
私は蒼空の手を取って走り出そうとしたその時————ガクンッと後ろから手を引かれバランスを崩しそうになった。
「ちょ、ちょっと蒼空⁉︎ ————って・・・・・・えっ?」
振り返ると、蒼空は地面に蹲っていた。
「えっ、えっ———ちょ、ちょっと、蒼空⁉︎ どうしたの⁉︎」
私は蒼空に勢い良く駆け寄った。
触れると尋常じゃなく汗を掻いていて、胸を押さえながら苦悶の表情を浮かべていた。
「ねえ! 蒼空! 私の声聞こえる⁉︎」
返事は無い。眉根を寄せて、どんどん蒼空の表情は険しくなっていく。
呼吸が辛いのか、何秒かに一回、一瞬だけ息を吸い込む音がする。
「誰か! 誰か救急車‼︎」
どうして良いのか分からず戸惑う私に、蒼空が小さく、本当に小さく、絞り出すように言葉を紡いだ。
「七、海・・・さん。・・・・・・ご・・・め・・・・・・・・・んっ」
そう言いながら、蒼空は私に向かって手を伸ばす。
その手は頼りなく震えていて、私は両の手でその手を受け止めると、ギュッと握り締めた。
「ごめんって何が! 良く分かんないけど、謝らないでよ!」
ちゃんと聞こえてるのかは分からない。
だから私は大きい声で叫ぶように言葉を投げた。次の瞬間、
「ゴホッ、ゴボッッ‼︎」
蒼空は喉の奥から塊を吐き出すように大きく咳き込んだ。
胸を反らせて咳き込む度に身体をくの字に曲げるような激しい咳。
私はとにかく必死になって呼び掛け続けた。
そして何度めかの咳と共に—————赤い飛沫が中空を舞った。
その瞬間、世界がスローモーションになったみたいで、放たれた飛沫の一滴一滴、その全てが私の視界でゆっくりと弧を描く。
私自身も時が止まったみたいで、視線だけがその飛沫を目で追っていた。
そして、世界の時間が、また動き出したその時—————
・・・・・・視線を落とす。赤く染められた自分。
蒼空はぴくりとも動かなくなっていた。
「・・・・・・そ、蒼空・・・? 蒼空ああああああああああああ‼︎」
雲一つ無い青空。何処までも広がる青空に、私の悲痛な声とサイレンの音が鳴り響いていた。
0
お気に入りに追加
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。


【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日


【完結】美しい人。
❄️冬は つとめて
恋愛
「あなたが、ウイリアム兄様の婚約者? 」
「わたくし、カミーユと言いますの。ねえ、あなたがウイリアム兄様の婚約者で、間違いないかしら。」
「ねえ、返事は。」
「はい。私、ウイリアム様と婚約しています ナンシー。ナンシー・ヘルシンキ伯爵令嬢です。」
彼女の前に現れたのは、とても美しい人でした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる