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一輪の花を想い出に添えて〜霞草の花〜
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「んんーっ!最っ高‼︎———温泉、ホント生き返るわあ・・・」
やっと一人になれた解放感から私は周りに憚る事なく思い切り羽を伸ばしていた。
大浴場が利用出来るギリギリの時間を狙ったのが良かった。
私以外、誰も居ないから完全に貸し切り状態だ。
「はあ、沁み渡るとはこの事ね」
二十代前半の頃はそんなに興味が無かった温泉も今や癒しのひと時。
都会の喧騒を離れて満点の星空の下で絶景を見ながら温泉に浸かれるなんて、何と贅沢なんだろう。
荒んだ心も浄化されていくみたいだ。
「夕食も奮発した甲斐があったな~」
・・・・・・・
・・・・・・・
〝こちら合鴨ともち豚ロースの山菜松茸鍋で御座います。出汁は季節の柚出汁になっておりまして、良く火を通してからお食べ下さい〟
〝すごっ。懐石料理って初めて食べたけど、お刺身も普段食べてるのと全然違うし、この土瓶蒸し?だっけ?これもめちゃくちゃ美味しいねっ。こんな豪勢な食事、俺初めてだよ〟
〝うんうん、素直で宜しい。かなり奮発してるんだからちゃんと味わって食べてよね?〟
〝分かってるよ。七海さんのお陰だもんね。ありがと〟
・・・・・・・
・・・・・・・
「・・・あいつも可愛いとこあんじゃん」
そこで自分がニヤけている事にはたと気付いた。
「いやいや、何で?お酒、そう、お酒の所為!」
それにしても・・・あの子の目的が全然分からない。
私だってまだ二十代。
それでもあの子からしたら随分と歳上な訳で。まさかの歳上好き?
「はっ⁉︎まさか私の身体が目的とか⁉︎大人の色香で絆されて———って何言ってんだろ。・・・そもそも今日会ったばっかじゃん」
そう、私と蒼空が出会ったのはまだほんの数時間前の事。
それなのに付き合って欲しいと告白され、フリとは言え彼氏彼女の関係になって、剰え高級旅館の同じ部屋でお泊まりだなんて。
あまりにも急展開だ。
「根負けしてOKしたけど、有り得なくない?と言うか相手は未成年だし、何かあったら私が罪に問われるんじゃ⁉︎」
その時、クスクスと言う笑い声が何処からか聞こえて来た。
「えっ、誰か・・・居る?」
「七海さん、さっきから独り言凄いね(笑)」
それは蒼空の声だった。
「俺も温泉入ってるの忘れてない?独り言、全部筒抜けなんだけど」
そうだ、大浴場は男女、高い壁で仕切られてはいるけど、此処は屋外露天風呂。
一人で入ってたからすっかり油断してた・・・。
「ちょ、ちょっと!盗み聞きとか止めてよ!」
「いやいや、七海さんの声が大きいんだって。聞きたくなくても聞こえてくんの」
顔が急速に熱くなっていくのが分かった。
ヤバい、やらかした。
さっきのを聞かれていたなんて。
「まさか七海さんがそんな風に思って————」
「わ、私!のぼせちゃうから先に出るね!」
蒼空が何かを言い掛けていた気がするけど、それに構う余裕もなくて、私は慌てて大浴場を飛び出していた。
◆ ◆ ◆
・・・ああ、最悪。本当に最悪だ。
「全部」って言ってた。
と言う事は、あんな事やこんな事、さっきまで声に出して喋っていた事は全て聞かれていたと言う事だ。
あいつが戻って来たらどんな顔をして会えば良いのか・・・急いで部屋に戻って来たから髪もまだ濡れている。
「髪の毛乾かさないと・・・」
洗面台に繋がる戸を開く。
濡れたまま、櫛も通さず乱れた自分の姿が鏡に映った。
浴衣も着崩したように帯も緩み襟元が肌蹴ている。
「これは他人様に見せられたもんじゃないな」
私は深い溜め息を吐いた。
「溜め息ばっか吐いてると、幸せ逃げちゃうらしいよ?聞いた事ない?」
驚いて声のする方へ振り向くと、そこには蒼空が立っているではないか。戸枠に寄り掛かるようにしてこちらに視線を向けている。
「・・・戻って来るの・・・早かったね」
顔が引き攣っている気がする。こんな姿を見せるなんて———と直ぐに背を向けたけど、結局は鏡越しに視線がかち合っていた。
「だって七海さん、話してる途中で慌てて出て行っちゃうんだもん。流石に気になるじゃん?」
そう言ったかと思うと、蒼空はスタスタと私の方に近付いて来る。
(え?えっ⁇ええっ⁉︎)
空は私の直ぐ後ろで立ち止まった。
ほんの数センチ手を伸ばせば触れられる距離だ。
そして、蒼空の両手が私の肩に触れ・・・・・・
「ちょ!な、何する気っ—————」
「そのままだと風邪引いちゃうよ?」
着崩れた浴衣をそっと直される。
鏡越しに見たら、空は見ないようにと目を瞑ってくれていた。
「見えてないから、動かないでね」
襟元を直され、そのまま洗面台の横に置かれた椅子に座らされる。
「帯は流石に自分で直して?」
肩に手を置き、耳元でそう囁かれた。
微かに息が掛かりぞくりとする。
当の蒼空はそんな事は気にも留めず、ドライヤーを手に取ると髪に温風を当て、慣れた手付きで私の髪を乾かし始めた。
「ちゃんと乾かさないと傷んじゃうからさ。七海さん、せっかく綺麗な髪なのに勿体ないよ?」
「蒼空って・・・結構、世話好きなんだね」
「ん?ああ、世話好きって言うか・・・まあ、歳の離れた妹が居るからね。昔は良くやってあげてたんだよ」
手櫛でわしゃわしゃされながら、目に掛かった前髪の隙間からちらりと蒼空の顔を覗いてみると、とても優しい顔で微笑んでいて、蒼空が気付いてないのを良い事に私は乾かされている間、ずっとその顔を見詰めてしまった。
「———はいっ、OK!これでバッチリ」
アメニティとして置いてあったヘアオイルまで使って整えられた髪は、触ってみると驚くくらいさらりとした指通りで、自分で言うのも何だけど凄く綺麗だった。
「あ、ありがとう」
「うんうん、素直で宜しい」
そう言いながら大人っぽい表情から一転し、蒼空はまたあのイタズラっぽい表情をしてみせる。
「それ、私が言ったやつじゃん」
「へへ、お返し」
・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
————時刻は間も無く零時を迎える。
夜も更けた頃、私は蒼空と離れの客間を出て、庭園内を二人で歩いていた。
「せっかくだから散歩でもしながら話したい」
そう言い出したのは蒼空だった。
〝カランカラン〟
〝カランカラン〟
僅かにズレながら鳴らされる二人の下駄の音が、澄んだ空気を心地良く揺らし、耳を傾ければもう直ぐ九月も終わると言うのに、鈴虫がその綺麗な羽音を奏でていて、何とも風流だ。
海が近いからだろうか。
風に混じる微かな潮の香りが鼻を掠める。
「本当に綺麗だね」
「そうだね。東京じゃあこんな景色そうそう見れないもん」
「そうじゃなくて・・・」
「えっ?」
「七海さんが、って話し」
「・・・またそうやって直ぐ大人を揶揄う。アンタ、本当にマセ過ぎ」
蒼空は何も言わず、ただ笑っているだけだった。
やっぱりこのまま流されるようにしていては駄目だ。
私は意を決して蒼空に問い掛けた。
「ねえ、空。いい加減、本当の目的を教えてよ。三日間だけ付き合ってくれってどう言う意味?」
二人の間にしばらく沈黙の時間が流れる。
それは数秒の事だったか、それとも数分だったか。
きっとそんなに経ってはいないんだろうけど、私にはあの沈黙がとても長く感じられて。
「・・・うちの実家、昔は花屋だったんだよ。小さい花屋だけど、自慢の店でさ」
沈黙の後、蒼空がその重い口を開いて話し始めたのは何故か自分の生い立ちについての話しだった。
「俺ね、今の父親とは血が繋がってないんだ。本当の父親は俺が生まれて直ぐ事故で亡くなっちゃって。妹が居るって話したけど、俺にめちゃくちゃ懐いててさ、凄い可愛いんだよ。でも妹はお袋と新しい父親との間に出来た子だから、俺とは半分しか血が繋がってなくて」
思わぬカミングアウトに私は目を丸くする。
それが私の質問とどう関係するのか分からなかったけれど、そう話す蒼空の表情は真剣そのもので、私はそれをただ黙って聞く事しか出来なかった。
でも、どんな表情をして聞けば良いのか分からなくて、俯いたまま、私の視線は目の前の池で遊泳する鯉を無意味に追い掛けていた。
そんな私を見て、蒼空も何かを察したみたいで・・・
「あっ、ごめんね?親父の事は生まれて直ぐの話しで全然覚えてないし、寂しいとかそう言う話しじゃないから。だから七海さんがそんな暗い顔しないで?」
蒼空はそう言って笑ってみせたけど、やっぱりその表情は何処か悲しげに映った。
「・・・さっき、〝昔は〟って言ったでしょ?今は?今はお花屋さんはやってないの?」
何か言わないと。
蒼空の言い方が気になって、私はそれについて思い切って聞いてみたんだ。
「うん。失くなっちゃった」
少し間を置いて、蒼空はそう答えた。
目線は外したまま、何処か遠くを見ているようで。
「花屋はお袋の夢だったんだよ。親父が亡くなって大変だったと思う。俺が生まれたばかりだったし、店を切り盛りしながら女手一つで俺を育ててくれて・・・お袋には本当に感謝してる」
「えと、聞いて良いのか・・・分からないけど。何でお店辞めちゃったの?お母さんの夢・・・だったんでしょ?」
「もう・・・死んじゃったから」
その言葉に私の心は騒ついた。
蒼空は無理に作ったぎこちない笑顔を浮かべていて、それを見ていたら何だか私まで切なくて、悲しくて、何とも居た堪れない気持ちで胸の奥が締め付けられていくようだった。
「お袋、元々身体が弱かったんだよ。なのに俺の所為で無理させて。妹が三歳の頃に・・・ね」
それじゃあ蒼空は本当のお父さんもお母さんも失くして、血の繋がらないお父さんと妹さんとの三人で暮らしていると言う事になる。
「・・・そう、なんだ。お父さんと、その・・・上手くいってないの?」
「貴久さんとは・・・あっ、貴久さんってのがそのお袋が再婚した相手なんだけど。あんまり、ね。良くは思われてないみたい」
他人様の家庭の事情に首を突っ込むのはお門違いなのは分かってる。
それでもそんなの・・・蒼空があんまりだ。
でも、だからと言って私なんかに出来る事が何も無い事は分かってる。
「帰る家なんか無いって、そう言う事だったんだ」
〝・・・帰る家なんて、ないよ〟
〝なーんてね!うち放任主義なんで全然へーき♫〟
あの時の言葉が思い出される。
あれは冗談だと思ってた。
ううん、冗談に見せていたんだ。
「家に居場所が無くて、それであんな事言ったんだね」
でもそれに対して蒼空は「それはちょっと違うかな」って返して来た。
「何が違うの?」そう言おうとしたら、「あっ」と空が急に声を上げた。
「ねえねえ、見てよ七海さん。あそこ」
そう言うと蒼空は池の方を指差した。
言われるままそちらを向くと、そこには小さく可愛いらしい花達が咲いているのが目に入った。
「これ知ってる?霞草の花」
近付いて眺めてみると、白やピンク、他にも色違いの同じ花が色取り取りに咲いていて、月明かりの演出も手伝ってそれはとても絵になる光景だった。
「うーん、名前くらいは。私、あんまり花詳しくなくて。でもちょこんとしてて可愛い花だね」
「これ、お袋が好きな花だったんだよね。霞草って色によって花言葉が違うんだって」
「へえ、同じ花でも花言葉って変わるんだ?じゃあこれは?このピンク色のやつ。ピンクの霞草にはどう言う意味が込められてるの?」
「色々な意味があったと思うけど、確かピンクの霞草の花言葉は〝切なる願い〟だったかな」
〝切なる願い〟
蒼空のお母さんが好きだったと言う霞草。
蒼空のお母さんはどんな願いをその胸に抱いていたんだろうか。
「・・・今の俺の気持ちにぴったりだよ」
蒼空が小さく何かを呟いたけど、あまりに小さいそれに私は「えっ?」と聞き返した。
「ううん、何でもない。てか大分冷えて来たし、そろそろ中入ろっか」
蒼空はそう言うと私の手を強引に引っ張って行く。
「冷えちゃったし、一緒にお風呂でも入る?」
なんて茶化して来たから「何言ってんの⁉︎」って慌てて言うと「それは残念」だなんて冗談なのか本気なのか分からない口振りで返して来た。
話しの途中で誤魔化された気がするけど、やっぱり蒼空にとっては言い難い事なのかも知れない。
だけど、私からあれこれ聞くのは違う気がして。
蒼空とのお付き合いが終わるまでにはまだ時間がある。
後二日もあるとも、もう二日しか無いとも言えるけれど、それまでは取り敢えず蒼空の方から話してくれるのを待とうと思いながら、私は蒼空に手を引かれるままに客間へと戻って行った。
私達はまだ、お互い知らない事ばかりで。
蒼空の本当の目的も、私を選んだ意図も、分からない事だらけだけど、きっと悪い奴じゃない。
無邪気で子供っぽいと思ったら急に大人な表情になったり、振り回されっ放しで掴み所の無い奴だけど、それでも蒼空の話す言葉にきっと嘘は無い気がする。
だから私も少しは信じてみる事にしたんだ。
「七海さん、布団離し過ぎじゃない?」
「うるさい!良いから黙って寝る!」
本当に少しだけ・・・ね?
やっと一人になれた解放感から私は周りに憚る事なく思い切り羽を伸ばしていた。
大浴場が利用出来るギリギリの時間を狙ったのが良かった。
私以外、誰も居ないから完全に貸し切り状態だ。
「はあ、沁み渡るとはこの事ね」
二十代前半の頃はそんなに興味が無かった温泉も今や癒しのひと時。
都会の喧騒を離れて満点の星空の下で絶景を見ながら温泉に浸かれるなんて、何と贅沢なんだろう。
荒んだ心も浄化されていくみたいだ。
「夕食も奮発した甲斐があったな~」
・・・・・・・
・・・・・・・
〝こちら合鴨ともち豚ロースの山菜松茸鍋で御座います。出汁は季節の柚出汁になっておりまして、良く火を通してからお食べ下さい〟
〝すごっ。懐石料理って初めて食べたけど、お刺身も普段食べてるのと全然違うし、この土瓶蒸し?だっけ?これもめちゃくちゃ美味しいねっ。こんな豪勢な食事、俺初めてだよ〟
〝うんうん、素直で宜しい。かなり奮発してるんだからちゃんと味わって食べてよね?〟
〝分かってるよ。七海さんのお陰だもんね。ありがと〟
・・・・・・・
・・・・・・・
「・・・あいつも可愛いとこあんじゃん」
そこで自分がニヤけている事にはたと気付いた。
「いやいや、何で?お酒、そう、お酒の所為!」
それにしても・・・あの子の目的が全然分からない。
私だってまだ二十代。
それでもあの子からしたら随分と歳上な訳で。まさかの歳上好き?
「はっ⁉︎まさか私の身体が目的とか⁉︎大人の色香で絆されて———って何言ってんだろ。・・・そもそも今日会ったばっかじゃん」
そう、私と蒼空が出会ったのはまだほんの数時間前の事。
それなのに付き合って欲しいと告白され、フリとは言え彼氏彼女の関係になって、剰え高級旅館の同じ部屋でお泊まりだなんて。
あまりにも急展開だ。
「根負けしてOKしたけど、有り得なくない?と言うか相手は未成年だし、何かあったら私が罪に問われるんじゃ⁉︎」
その時、クスクスと言う笑い声が何処からか聞こえて来た。
「えっ、誰か・・・居る?」
「七海さん、さっきから独り言凄いね(笑)」
それは蒼空の声だった。
「俺も温泉入ってるの忘れてない?独り言、全部筒抜けなんだけど」
そうだ、大浴場は男女、高い壁で仕切られてはいるけど、此処は屋外露天風呂。
一人で入ってたからすっかり油断してた・・・。
「ちょ、ちょっと!盗み聞きとか止めてよ!」
「いやいや、七海さんの声が大きいんだって。聞きたくなくても聞こえてくんの」
顔が急速に熱くなっていくのが分かった。
ヤバい、やらかした。
さっきのを聞かれていたなんて。
「まさか七海さんがそんな風に思って————」
「わ、私!のぼせちゃうから先に出るね!」
蒼空が何かを言い掛けていた気がするけど、それに構う余裕もなくて、私は慌てて大浴場を飛び出していた。
◆ ◆ ◆
・・・ああ、最悪。本当に最悪だ。
「全部」って言ってた。
と言う事は、あんな事やこんな事、さっきまで声に出して喋っていた事は全て聞かれていたと言う事だ。
あいつが戻って来たらどんな顔をして会えば良いのか・・・急いで部屋に戻って来たから髪もまだ濡れている。
「髪の毛乾かさないと・・・」
洗面台に繋がる戸を開く。
濡れたまま、櫛も通さず乱れた自分の姿が鏡に映った。
浴衣も着崩したように帯も緩み襟元が肌蹴ている。
「これは他人様に見せられたもんじゃないな」
私は深い溜め息を吐いた。
「溜め息ばっか吐いてると、幸せ逃げちゃうらしいよ?聞いた事ない?」
驚いて声のする方へ振り向くと、そこには蒼空が立っているではないか。戸枠に寄り掛かるようにしてこちらに視線を向けている。
「・・・戻って来るの・・・早かったね」
顔が引き攣っている気がする。こんな姿を見せるなんて———と直ぐに背を向けたけど、結局は鏡越しに視線がかち合っていた。
「だって七海さん、話してる途中で慌てて出て行っちゃうんだもん。流石に気になるじゃん?」
そう言ったかと思うと、蒼空はスタスタと私の方に近付いて来る。
(え?えっ⁇ええっ⁉︎)
空は私の直ぐ後ろで立ち止まった。
ほんの数センチ手を伸ばせば触れられる距離だ。
そして、蒼空の両手が私の肩に触れ・・・・・・
「ちょ!な、何する気っ—————」
「そのままだと風邪引いちゃうよ?」
着崩れた浴衣をそっと直される。
鏡越しに見たら、空は見ないようにと目を瞑ってくれていた。
「見えてないから、動かないでね」
襟元を直され、そのまま洗面台の横に置かれた椅子に座らされる。
「帯は流石に自分で直して?」
肩に手を置き、耳元でそう囁かれた。
微かに息が掛かりぞくりとする。
当の蒼空はそんな事は気にも留めず、ドライヤーを手に取ると髪に温風を当て、慣れた手付きで私の髪を乾かし始めた。
「ちゃんと乾かさないと傷んじゃうからさ。七海さん、せっかく綺麗な髪なのに勿体ないよ?」
「蒼空って・・・結構、世話好きなんだね」
「ん?ああ、世話好きって言うか・・・まあ、歳の離れた妹が居るからね。昔は良くやってあげてたんだよ」
手櫛でわしゃわしゃされながら、目に掛かった前髪の隙間からちらりと蒼空の顔を覗いてみると、とても優しい顔で微笑んでいて、蒼空が気付いてないのを良い事に私は乾かされている間、ずっとその顔を見詰めてしまった。
「———はいっ、OK!これでバッチリ」
アメニティとして置いてあったヘアオイルまで使って整えられた髪は、触ってみると驚くくらいさらりとした指通りで、自分で言うのも何だけど凄く綺麗だった。
「あ、ありがとう」
「うんうん、素直で宜しい」
そう言いながら大人っぽい表情から一転し、蒼空はまたあのイタズラっぽい表情をしてみせる。
「それ、私が言ったやつじゃん」
「へへ、お返し」
・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・
————時刻は間も無く零時を迎える。
夜も更けた頃、私は蒼空と離れの客間を出て、庭園内を二人で歩いていた。
「せっかくだから散歩でもしながら話したい」
そう言い出したのは蒼空だった。
〝カランカラン〟
〝カランカラン〟
僅かにズレながら鳴らされる二人の下駄の音が、澄んだ空気を心地良く揺らし、耳を傾ければもう直ぐ九月も終わると言うのに、鈴虫がその綺麗な羽音を奏でていて、何とも風流だ。
海が近いからだろうか。
風に混じる微かな潮の香りが鼻を掠める。
「本当に綺麗だね」
「そうだね。東京じゃあこんな景色そうそう見れないもん」
「そうじゃなくて・・・」
「えっ?」
「七海さんが、って話し」
「・・・またそうやって直ぐ大人を揶揄う。アンタ、本当にマセ過ぎ」
蒼空は何も言わず、ただ笑っているだけだった。
やっぱりこのまま流されるようにしていては駄目だ。
私は意を決して蒼空に問い掛けた。
「ねえ、空。いい加減、本当の目的を教えてよ。三日間だけ付き合ってくれってどう言う意味?」
二人の間にしばらく沈黙の時間が流れる。
それは数秒の事だったか、それとも数分だったか。
きっとそんなに経ってはいないんだろうけど、私にはあの沈黙がとても長く感じられて。
「・・・うちの実家、昔は花屋だったんだよ。小さい花屋だけど、自慢の店でさ」
沈黙の後、蒼空がその重い口を開いて話し始めたのは何故か自分の生い立ちについての話しだった。
「俺ね、今の父親とは血が繋がってないんだ。本当の父親は俺が生まれて直ぐ事故で亡くなっちゃって。妹が居るって話したけど、俺にめちゃくちゃ懐いててさ、凄い可愛いんだよ。でも妹はお袋と新しい父親との間に出来た子だから、俺とは半分しか血が繋がってなくて」
思わぬカミングアウトに私は目を丸くする。
それが私の質問とどう関係するのか分からなかったけれど、そう話す蒼空の表情は真剣そのもので、私はそれをただ黙って聞く事しか出来なかった。
でも、どんな表情をして聞けば良いのか分からなくて、俯いたまま、私の視線は目の前の池で遊泳する鯉を無意味に追い掛けていた。
そんな私を見て、蒼空も何かを察したみたいで・・・
「あっ、ごめんね?親父の事は生まれて直ぐの話しで全然覚えてないし、寂しいとかそう言う話しじゃないから。だから七海さんがそんな暗い顔しないで?」
蒼空はそう言って笑ってみせたけど、やっぱりその表情は何処か悲しげに映った。
「・・・さっき、〝昔は〟って言ったでしょ?今は?今はお花屋さんはやってないの?」
何か言わないと。
蒼空の言い方が気になって、私はそれについて思い切って聞いてみたんだ。
「うん。失くなっちゃった」
少し間を置いて、蒼空はそう答えた。
目線は外したまま、何処か遠くを見ているようで。
「花屋はお袋の夢だったんだよ。親父が亡くなって大変だったと思う。俺が生まれたばかりだったし、店を切り盛りしながら女手一つで俺を育ててくれて・・・お袋には本当に感謝してる」
「えと、聞いて良いのか・・・分からないけど。何でお店辞めちゃったの?お母さんの夢・・・だったんでしょ?」
「もう・・・死んじゃったから」
その言葉に私の心は騒ついた。
蒼空は無理に作ったぎこちない笑顔を浮かべていて、それを見ていたら何だか私まで切なくて、悲しくて、何とも居た堪れない気持ちで胸の奥が締め付けられていくようだった。
「お袋、元々身体が弱かったんだよ。なのに俺の所為で無理させて。妹が三歳の頃に・・・ね」
それじゃあ蒼空は本当のお父さんもお母さんも失くして、血の繋がらないお父さんと妹さんとの三人で暮らしていると言う事になる。
「・・・そう、なんだ。お父さんと、その・・・上手くいってないの?」
「貴久さんとは・・・あっ、貴久さんってのがそのお袋が再婚した相手なんだけど。あんまり、ね。良くは思われてないみたい」
他人様の家庭の事情に首を突っ込むのはお門違いなのは分かってる。
それでもそんなの・・・蒼空があんまりだ。
でも、だからと言って私なんかに出来る事が何も無い事は分かってる。
「帰る家なんか無いって、そう言う事だったんだ」
〝・・・帰る家なんて、ないよ〟
〝なーんてね!うち放任主義なんで全然へーき♫〟
あの時の言葉が思い出される。
あれは冗談だと思ってた。
ううん、冗談に見せていたんだ。
「家に居場所が無くて、それであんな事言ったんだね」
でもそれに対して蒼空は「それはちょっと違うかな」って返して来た。
「何が違うの?」そう言おうとしたら、「あっ」と空が急に声を上げた。
「ねえねえ、見てよ七海さん。あそこ」
そう言うと蒼空は池の方を指差した。
言われるままそちらを向くと、そこには小さく可愛いらしい花達が咲いているのが目に入った。
「これ知ってる?霞草の花」
近付いて眺めてみると、白やピンク、他にも色違いの同じ花が色取り取りに咲いていて、月明かりの演出も手伝ってそれはとても絵になる光景だった。
「うーん、名前くらいは。私、あんまり花詳しくなくて。でもちょこんとしてて可愛い花だね」
「これ、お袋が好きな花だったんだよね。霞草って色によって花言葉が違うんだって」
「へえ、同じ花でも花言葉って変わるんだ?じゃあこれは?このピンク色のやつ。ピンクの霞草にはどう言う意味が込められてるの?」
「色々な意味があったと思うけど、確かピンクの霞草の花言葉は〝切なる願い〟だったかな」
〝切なる願い〟
蒼空のお母さんが好きだったと言う霞草。
蒼空のお母さんはどんな願いをその胸に抱いていたんだろうか。
「・・・今の俺の気持ちにぴったりだよ」
蒼空が小さく何かを呟いたけど、あまりに小さいそれに私は「えっ?」と聞き返した。
「ううん、何でもない。てか大分冷えて来たし、そろそろ中入ろっか」
蒼空はそう言うと私の手を強引に引っ張って行く。
「冷えちゃったし、一緒にお風呂でも入る?」
なんて茶化して来たから「何言ってんの⁉︎」って慌てて言うと「それは残念」だなんて冗談なのか本気なのか分からない口振りで返して来た。
話しの途中で誤魔化された気がするけど、やっぱり蒼空にとっては言い難い事なのかも知れない。
だけど、私からあれこれ聞くのは違う気がして。
蒼空とのお付き合いが終わるまでにはまだ時間がある。
後二日もあるとも、もう二日しか無いとも言えるけれど、それまでは取り敢えず蒼空の方から話してくれるのを待とうと思いながら、私は蒼空に手を引かれるままに客間へと戻って行った。
私達はまだ、お互い知らない事ばかりで。
蒼空の本当の目的も、私を選んだ意図も、分からない事だらけだけど、きっと悪い奴じゃない。
無邪気で子供っぽいと思ったら急に大人な表情になったり、振り回されっ放しで掴み所の無い奴だけど、それでも蒼空の話す言葉にきっと嘘は無い気がする。
だから私も少しは信じてみる事にしたんだ。
「七海さん、布団離し過ぎじゃない?」
「うるさい!良いから黙って寝る!」
本当に少しだけ・・・ね?
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声を出すこともなく、ふたりを見つめていた。
わたしにとって、恋人と親友だったふたりだ。
今日まで身近だったふたりは。
今日から一番遠いふたりになった。
*****
伯爵家の後継者シンシアは、友人アイリスから交際相手としてお薦めだと、幼馴染みの侯爵令息キャメロンを紹介された。
徐々に親しくなっていくシンシアとキャメロンに婚約の話がまとまり掛ける。
シンシアの誕生日の婚約披露パーティーが近付いた夏休み前のある日、シンシアは急ぐキャメロンを見掛けて彼の後を追い、そして見てしまった。
お互いにただの幼馴染みだと口にしていた恋人と親友の口づけを……
* 無自覚の上から目線
* 幼馴染みという特別感
* 失くしてからの後悔
幼馴染みカップルの当て馬にされてしまった伯爵令嬢、してしまった親友視点のお話です。
中盤は略奪した親友側の視点が続きますが、当て馬令嬢がヒロインです。
本編完結後に、力量不足故の幕間を書き加えており、最終話と重複しています。
ご了承下さいませ。
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