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一輪の花を想い出に添えて〜桔梗の花〜
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街灯一つない海沿いの道。
私は月明かりで薄っすらと照らされた道を歩いていた。
時刻は十九時を回ったところ。
予定していたチェックインの時刻は疾うに過ぎている。
旅館に電話を掛けて遅れる事を伝えたら、丁寧な対応で時間変更を快く承諾してくれた。
急なお願いにも関わらず何とも有難い話しだ。
とは言え、それでも夕食の時間は後ろにズラせても二十時である。
間に合わなければ奮発して予約した懐石料理も食べられない。
私はガタガタ道を重いキャリーケースを引きながら、スマホのナビを頼りに旅館までの道を急いだ。
それにしてもこの辺りは本当に何も無い。
沿岸に目を向けると数キロ先に街の明かりが見えるが、山沿いであるこの辺りは民家も無く、海を眼下に捉えながらも周りは樹木が生い茂り、気持ち程度に舗装された細い道があるだけで、人も車も殆ど通らない静かな場所である。
崖の下から岩肌に打ち付ける寄せては返す波の音が聞こえる。
耳を傾ければ風で騒めく木々の音、虫や鳥達が奏でるアンサンブルが鼓膜を刺激する。
それらの音が風流で何とも心地良い。
今はガラガラと言うキャリーケースのタイヤが鳴らす音、そしてジャリジャリと言う地面を踏み締める足音が人工的なノイズを生み出し自然のアンサンブルに不協和音を齎していて風流も何もあったものではないが。
・・・ああ、それと付け加えるとそこに重なるように鳴るもう一つの足音。
いつまで付いて来ると言うのか。
気にしないようにしていたが、いい加減我慢の限界である。
「だから付いて来ないでってば!」
私は振り向き様にそう叫んだ。
丁度、その時、真横を一台の車が通った。
ヘッドライトが彼の顔を一瞬照らし、直ぐ様その後方へと走り抜け、あっと言う間にその姿は見えなくなった。
「そんな怒らないでも良いじゃん?さっきから何でそんなにツンツンしてんのさ」
こちらの気も知らないで。あっけらかんとしたその態度がまたムカつく。
さっきからずっとこんな調子だ。
数メートルの距離を空けてずっと後ろから付いて来てる。
「お前はカルガモか」と言ってやりたい気分だった。
「当たり前でしょ⁉︎大人を揶揄わないでよ!」
初めて逢ったその日に、こんな年下の未成年からいきなり告白されて、しかも「三日間だけ」なんて言われたら馬鹿にされてると思うのが普通だ。
「あのね、君は高校生でしょ?」
「〝君〟じゃなくて〝蒼空〟ね?」
「ああ、もうっ!そんな事、今はどうでも———」
そう言い掛けたところで彼の指が私の唇に触れ、その言葉を遮った。
「どうでも良くなんかないよ?彼女にはやっぱりちゃんと名前で呼んで欲しいからさ。ね?七海さん♡」
彼はイタズラっぽく笑う。
・・・・・・何て強引な子なんだろうか。
完全に向こうのペースだ。
こんな若い男の子に手玉に取られてムカつくやら悔しいやら。
でもそんな事よりも子供の癖に妙に色っぽいその表情にまたドキッとしてしまった自分が何よりも腹立たしい。
「だ・れ・が!彼女よ‼︎私の彼氏になろうだなんて十年早いわよ!」
そしたら「じゃあ十年後なら良いって事だね?」なんて返して来て、本当に口が達者な奴。
最近の高校生って皆こんな感じなの?
だとしたら何とも末恐ろしい話しだ。
「あっ、七海さん。旅館見えて来たよ。あれだよね?七海さんが泊まる旅館」
そう言って彼が指差した先を見ると朱色の明かりが灯っているのが見えた。
旅館の周りに置かれた灯籠の明かりだ。
温泉街として有名なここ伊豆半島で、創業三〇〇年以上、江戸時代から続く伝統ある老舗の温泉旅館〝宝松永〟。
本当なら彼氏と泊まる予定だった想い出の温泉旅館・・・改めて旅館を前にすると彼氏との想い出が頭を過ぎって胸の奥がちくりと痛んだ。
だけど、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
このカルガモを何とかしなくては。
「ねえ、蒼空くん。本当に何処まで付いて来る気?もう旅館着いちゃうし、ご両親も心配してるよ?だから早くお家に帰りなって」
その瞬間、彼の顔が一瞬曇った気がした。
「・・・帰る家なんて、ないよ」
物憂げに彼はそう答えた。
私は思わず言葉に詰まる。
聞いてはいけない事を聞いてしまったのではないだろうか。
————と思ったら「なーんてね!」と彼の表情がコロリと変わり「うち、放任主義なんで全然へーき♫」と言いながら私の手からキャリーケースを掻っ攫うと、そのまま私を置いてさっさと旅館に入って行ってしまった。
「ちょ、ちょっと!何それ⁉︎心配して損したじゃん‼︎てか私の荷物っ!もう、何でアンタが入ってくのよ⁉︎」
急いで彼を追うように私も中に入った。
玄関を潜ると、そこには既に仲居さん、そして女将さんが立っていて、私を見るや否やこちらに向かって深々と頭を下げた。
流石、由緒ある高級旅館。
ただのお辞儀一つ取っても実に美しい所作で、大声なんて憚れる雰囲気に私は口を噤んだ。
「久瀬様、お待ちしておりました。この度は当旅館にお越し頂き誠に有難う御座います。電話でお一人になるとお聞きしておりましたが、お連れ様も無事お越しになられたようで御安心致しました」
横を見ると彼は既に靴を脱いで玄関からロビーへと上がり込んでいた。
「いや、これは違うんです!」
そう言おうとしたのに・・・、
「良い旅館ですね!あっ、七海さんはチェックインの手続きしないとでしょ?俺、早く部屋見たいし、先に行ってるね♫」
そう言って私の言葉を遮ると、仲居さんを連れ立って先に奥へと行ってしまった。
「えっ・・・マジ?」
「さあさあ、久瀬様。手続きがありますのでまずはこちらへ御記入を————」
◆ ◆ ◆
結局、何度か彼の事を言い出そうとしたが、女将さんのテキパキとした対応に口を差し挟む余地が無く、何も言えず促されるままに手続きを進めてしまった。
「————夕食は二十時から〝松の大広間〟で提供致します。ご入浴は大浴場をお使いになられる場合は二十三時までの御利用になりますので御注意下さいませ。あっ、そうそう、うっかりしておりました。混浴で入られたい場合は御予約して頂ければ時間制で貸切風呂も御利用出来ますが如何なさいますか?」
私は間髪入れずに「結構です‼︎」と答えた。
歳の離れたカップルだと思われたのか、女将さんは私の反応を見て「あらあら」と楽しそうな表情を見せる。
「それでは、これで説明は以上になります。何かありましたら部屋に備え付けの電話がありますので」
そして、女将さん直々に案内してもらいながら私は今回泊まる〝桔梗の間〟へと足を向けた。
「前にも一度来ましたけど、此処は本当に綺麗な所ですね」
「有難う御座います。当旅館は伊豆の温泉旅館の中でも二番目に古い旅館でして。当時の色を今でも色濃く残しているんですよ。重要文化財としても指定されておりまして、私も此処に勤めて四十年になります」
女将さんは嬉々としてそう語った。
「それは凄いですね。私は歴史なんかには疎いんですけど、此処は確かに歴史を感じさせてくれる気がします」
左右に目を配ると、金箔が配われた壁に挟まられるように廊下が続いていて、触り心地の良さそうな赤絨毯の上に配置された台には一定間隔で花が飾られていた。
「これは何の花なんですか?」
「これは桔梗の花で御座います。お客様が泊まられる〝桔梗の間〟を象徴する花ですね」
何でもこの旅館では各部屋に繋がる廊下にそれを象徴する花が飾られているらしい。
「桔梗の花言葉、御存知ですか?」
「えっ、いや、えーと、何でしたっけ?」
私は恥ずかしながら花には全然詳しくない。
綺麗だなとは思うけれど、花を愛でるようなタイプでも無いし、花言葉なんて当然知る由も無かった。
「桔梗の花言葉は〝気品〟〝誠実〟〝変わらぬ愛〟、そして〝永遠の愛〟と言われております。昔から有名なんですよ?〝桔梗の間〟に泊まると永遠の愛が約束されると」
おほほ、と女将さんは笑った。
その笑い方さえ何となく気品を感じさせるが、その意図するところを感じ取って私は「はは・・・」と愛想笑いを返す事しか出来なかった。
そうこうしている内に廊下から庭園へと抜けて行く。
何処を見ても美しいの一言に尽きる。
敷き詰められた石の一欠片、植えられた木の枝葉一本いっぽん、一枚いちまいに至るまで無駄な物が何一つ無い。
言葉が出ないとはこの事である。
その圧巻の景色に私は彼氏の事も、例の彼の事もこの瞬間だけは忘れて大きな感動に包まれていた。
「間も無く〝桔梗の間〟に御座います」
その言葉を受けて私は視線を前へと向ける。
離れにある〝桔梗の間〟が見えて来た。
「それでは久瀬様。御ゆるりとお過ごし下さいませ」
女将さんは深々とお辞儀をすると、私が中に入るまでその姿勢を崩さなかった。
流石は四十年の大ベテランである。
私は女将さんに軽く会釈をすると、玄関口から建物の中へと入って行った。
部屋へと繋がる襖は閉まっているが、中の明かりが隙間から漏れている。
彼の姿は無い。と言う事は、奴は既に中に居ると言う事だ。
いやいや、宿泊する私より先に部屋に入るってどう言う事⁉︎
そう思いながら荒ぶる気持ちを落ち着ける為、大きく深呼吸をすると、私は意を決して襖を開いた。
部屋に入ると彼は広縁に置かれた椅子に座りながらお茶を啜る。
窓から一望出来る景色を眺め既に寛ぎモードに入っていた。
「あっ、七海さん。待ってたよ。見てよ、凄い良い眺めだよ」
私に気付いた彼はこちらに振り向くと、そう言いながらひらひらと手を振ってみせる。
「蒼空くん。マジでこの部屋に泊まる気?」
「うん。そうだよ?強引に押し掛けちゃってごめんね。でも七海さんと一緒に居たかったからさ」
最初は何の冗談かと思ったが、ここまで来ると冗談だとは思えない。
とは言え、あの言葉が本気だと思える訳も無く、一体何を企んでいるのかと私は無言で猜疑心に満ちた目を向けた。
「あっ、その顔は俺を疑ってるね?大丈夫だよ、逢ったその日に変な事はしないから」
( 既に変な事されてますけど!と言うより変な事しかされてませんけど⁉︎ )
彼が言う「変な事」と言うのはそう言う意味では無いんだろうなとは思いつつ、心の中で盛大にツッコミを入れた。
「ははは、七海さん、何か面白い顔になってるし」
ケラケラと笑う彼を見てたら何だか肩透かしを食らった気分だ。
「はあ」と溜め息を吐くと、私は彼を追い払う事を諦めた。
元々、何もかもどうでも良いと思って此処に来たのだ。
料金だってキャンセルが効かず二人分で支払い済みだ。
だったら乗り掛かった船、彼の目的が何であれそのくらい軽く往なしてやろうじゃないか。
「・・・分かった、分かったわよ。今回だけだからね?私が滞在する三日間だけ、彼女のフリしてあげるわよ。あっ、でも布団は別々だからね⁉︎」
彼の、いや蒼空の顔がぱあっと明るくなった。
「七海さんありがとう!大好き♡」
そう言って勢い良く椅子から立ち上がると、立ち上がった勢いそのままに思い切り抱き着いて来た。
「ちょ、ちょっと!調子に乗るなっ!」
「へへへ」と笑う蒼空は年齢よりも少し幼く見えて、甘えるようなその仕種がさながら大型犬のそれみたい。
さっきまでカルガモだったのに。
いつの間にやら大きな犬に変貌を遂げたらしい。
犬は好き・・・なんだけれど、果たしてこんなんで私の心臓は保つのだろうか?
「こらっ!離れて!もう夕食まで時間ないから急がないと!」
「あっ、懐石料理だっけ?楽しみ~♫」
パッと手を離すと無邪気に笑いながら、空は玄関口に駆けて行った。
まだドキドキしてる気がする。
ううん、そんな事は無い。
これは気の所為だ。
私は思い切り頭を振った。
取り敢えず急がないといけない。
着替えるのは後回しにして、私も部屋を出ようとしたところで、広縁の所に桔梗の花が飾られているのが見えた。
〝昔から有名なんですよ?〝桔梗の間〟に泊まると永遠の愛が約束されると〟
あの時の女将さんの言葉が不意に思い出された。
「七海さーん?早く早くー」
玄関口から蒼空が私を呼ぶ声がする。
「はいはい、今行くからちょっと待って」
アンタみたいな子供相手に、
意識なんて・・・してやらないんだから、絶対に。
私は月明かりで薄っすらと照らされた道を歩いていた。
時刻は十九時を回ったところ。
予定していたチェックインの時刻は疾うに過ぎている。
旅館に電話を掛けて遅れる事を伝えたら、丁寧な対応で時間変更を快く承諾してくれた。
急なお願いにも関わらず何とも有難い話しだ。
とは言え、それでも夕食の時間は後ろにズラせても二十時である。
間に合わなければ奮発して予約した懐石料理も食べられない。
私はガタガタ道を重いキャリーケースを引きながら、スマホのナビを頼りに旅館までの道を急いだ。
それにしてもこの辺りは本当に何も無い。
沿岸に目を向けると数キロ先に街の明かりが見えるが、山沿いであるこの辺りは民家も無く、海を眼下に捉えながらも周りは樹木が生い茂り、気持ち程度に舗装された細い道があるだけで、人も車も殆ど通らない静かな場所である。
崖の下から岩肌に打ち付ける寄せては返す波の音が聞こえる。
耳を傾ければ風で騒めく木々の音、虫や鳥達が奏でるアンサンブルが鼓膜を刺激する。
それらの音が風流で何とも心地良い。
今はガラガラと言うキャリーケースのタイヤが鳴らす音、そしてジャリジャリと言う地面を踏み締める足音が人工的なノイズを生み出し自然のアンサンブルに不協和音を齎していて風流も何もあったものではないが。
・・・ああ、それと付け加えるとそこに重なるように鳴るもう一つの足音。
いつまで付いて来ると言うのか。
気にしないようにしていたが、いい加減我慢の限界である。
「だから付いて来ないでってば!」
私は振り向き様にそう叫んだ。
丁度、その時、真横を一台の車が通った。
ヘッドライトが彼の顔を一瞬照らし、直ぐ様その後方へと走り抜け、あっと言う間にその姿は見えなくなった。
「そんな怒らないでも良いじゃん?さっきから何でそんなにツンツンしてんのさ」
こちらの気も知らないで。あっけらかんとしたその態度がまたムカつく。
さっきからずっとこんな調子だ。
数メートルの距離を空けてずっと後ろから付いて来てる。
「お前はカルガモか」と言ってやりたい気分だった。
「当たり前でしょ⁉︎大人を揶揄わないでよ!」
初めて逢ったその日に、こんな年下の未成年からいきなり告白されて、しかも「三日間だけ」なんて言われたら馬鹿にされてると思うのが普通だ。
「あのね、君は高校生でしょ?」
「〝君〟じゃなくて〝蒼空〟ね?」
「ああ、もうっ!そんな事、今はどうでも———」
そう言い掛けたところで彼の指が私の唇に触れ、その言葉を遮った。
「どうでも良くなんかないよ?彼女にはやっぱりちゃんと名前で呼んで欲しいからさ。ね?七海さん♡」
彼はイタズラっぽく笑う。
・・・・・・何て強引な子なんだろうか。
完全に向こうのペースだ。
こんな若い男の子に手玉に取られてムカつくやら悔しいやら。
でもそんな事よりも子供の癖に妙に色っぽいその表情にまたドキッとしてしまった自分が何よりも腹立たしい。
「だ・れ・が!彼女よ‼︎私の彼氏になろうだなんて十年早いわよ!」
そしたら「じゃあ十年後なら良いって事だね?」なんて返して来て、本当に口が達者な奴。
最近の高校生って皆こんな感じなの?
だとしたら何とも末恐ろしい話しだ。
「あっ、七海さん。旅館見えて来たよ。あれだよね?七海さんが泊まる旅館」
そう言って彼が指差した先を見ると朱色の明かりが灯っているのが見えた。
旅館の周りに置かれた灯籠の明かりだ。
温泉街として有名なここ伊豆半島で、創業三〇〇年以上、江戸時代から続く伝統ある老舗の温泉旅館〝宝松永〟。
本当なら彼氏と泊まる予定だった想い出の温泉旅館・・・改めて旅館を前にすると彼氏との想い出が頭を過ぎって胸の奥がちくりと痛んだ。
だけど、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
このカルガモを何とかしなくては。
「ねえ、蒼空くん。本当に何処まで付いて来る気?もう旅館着いちゃうし、ご両親も心配してるよ?だから早くお家に帰りなって」
その瞬間、彼の顔が一瞬曇った気がした。
「・・・帰る家なんて、ないよ」
物憂げに彼はそう答えた。
私は思わず言葉に詰まる。
聞いてはいけない事を聞いてしまったのではないだろうか。
————と思ったら「なーんてね!」と彼の表情がコロリと変わり「うち、放任主義なんで全然へーき♫」と言いながら私の手からキャリーケースを掻っ攫うと、そのまま私を置いてさっさと旅館に入って行ってしまった。
「ちょ、ちょっと!何それ⁉︎心配して損したじゃん‼︎てか私の荷物っ!もう、何でアンタが入ってくのよ⁉︎」
急いで彼を追うように私も中に入った。
玄関を潜ると、そこには既に仲居さん、そして女将さんが立っていて、私を見るや否やこちらに向かって深々と頭を下げた。
流石、由緒ある高級旅館。
ただのお辞儀一つ取っても実に美しい所作で、大声なんて憚れる雰囲気に私は口を噤んだ。
「久瀬様、お待ちしておりました。この度は当旅館にお越し頂き誠に有難う御座います。電話でお一人になるとお聞きしておりましたが、お連れ様も無事お越しになられたようで御安心致しました」
横を見ると彼は既に靴を脱いで玄関からロビーへと上がり込んでいた。
「いや、これは違うんです!」
そう言おうとしたのに・・・、
「良い旅館ですね!あっ、七海さんはチェックインの手続きしないとでしょ?俺、早く部屋見たいし、先に行ってるね♫」
そう言って私の言葉を遮ると、仲居さんを連れ立って先に奥へと行ってしまった。
「えっ・・・マジ?」
「さあさあ、久瀬様。手続きがありますのでまずはこちらへ御記入を————」
◆ ◆ ◆
結局、何度か彼の事を言い出そうとしたが、女将さんのテキパキとした対応に口を差し挟む余地が無く、何も言えず促されるままに手続きを進めてしまった。
「————夕食は二十時から〝松の大広間〟で提供致します。ご入浴は大浴場をお使いになられる場合は二十三時までの御利用になりますので御注意下さいませ。あっ、そうそう、うっかりしておりました。混浴で入られたい場合は御予約して頂ければ時間制で貸切風呂も御利用出来ますが如何なさいますか?」
私は間髪入れずに「結構です‼︎」と答えた。
歳の離れたカップルだと思われたのか、女将さんは私の反応を見て「あらあら」と楽しそうな表情を見せる。
「それでは、これで説明は以上になります。何かありましたら部屋に備え付けの電話がありますので」
そして、女将さん直々に案内してもらいながら私は今回泊まる〝桔梗の間〟へと足を向けた。
「前にも一度来ましたけど、此処は本当に綺麗な所ですね」
「有難う御座います。当旅館は伊豆の温泉旅館の中でも二番目に古い旅館でして。当時の色を今でも色濃く残しているんですよ。重要文化財としても指定されておりまして、私も此処に勤めて四十年になります」
女将さんは嬉々としてそう語った。
「それは凄いですね。私は歴史なんかには疎いんですけど、此処は確かに歴史を感じさせてくれる気がします」
左右に目を配ると、金箔が配われた壁に挟まられるように廊下が続いていて、触り心地の良さそうな赤絨毯の上に配置された台には一定間隔で花が飾られていた。
「これは何の花なんですか?」
「これは桔梗の花で御座います。お客様が泊まられる〝桔梗の間〟を象徴する花ですね」
何でもこの旅館では各部屋に繋がる廊下にそれを象徴する花が飾られているらしい。
「桔梗の花言葉、御存知ですか?」
「えっ、いや、えーと、何でしたっけ?」
私は恥ずかしながら花には全然詳しくない。
綺麗だなとは思うけれど、花を愛でるようなタイプでも無いし、花言葉なんて当然知る由も無かった。
「桔梗の花言葉は〝気品〟〝誠実〟〝変わらぬ愛〟、そして〝永遠の愛〟と言われております。昔から有名なんですよ?〝桔梗の間〟に泊まると永遠の愛が約束されると」
おほほ、と女将さんは笑った。
その笑い方さえ何となく気品を感じさせるが、その意図するところを感じ取って私は「はは・・・」と愛想笑いを返す事しか出来なかった。
そうこうしている内に廊下から庭園へと抜けて行く。
何処を見ても美しいの一言に尽きる。
敷き詰められた石の一欠片、植えられた木の枝葉一本いっぽん、一枚いちまいに至るまで無駄な物が何一つ無い。
言葉が出ないとはこの事である。
その圧巻の景色に私は彼氏の事も、例の彼の事もこの瞬間だけは忘れて大きな感動に包まれていた。
「間も無く〝桔梗の間〟に御座います」
その言葉を受けて私は視線を前へと向ける。
離れにある〝桔梗の間〟が見えて来た。
「それでは久瀬様。御ゆるりとお過ごし下さいませ」
女将さんは深々とお辞儀をすると、私が中に入るまでその姿勢を崩さなかった。
流石は四十年の大ベテランである。
私は女将さんに軽く会釈をすると、玄関口から建物の中へと入って行った。
部屋へと繋がる襖は閉まっているが、中の明かりが隙間から漏れている。
彼の姿は無い。と言う事は、奴は既に中に居ると言う事だ。
いやいや、宿泊する私より先に部屋に入るってどう言う事⁉︎
そう思いながら荒ぶる気持ちを落ち着ける為、大きく深呼吸をすると、私は意を決して襖を開いた。
部屋に入ると彼は広縁に置かれた椅子に座りながらお茶を啜る。
窓から一望出来る景色を眺め既に寛ぎモードに入っていた。
「あっ、七海さん。待ってたよ。見てよ、凄い良い眺めだよ」
私に気付いた彼はこちらに振り向くと、そう言いながらひらひらと手を振ってみせる。
「蒼空くん。マジでこの部屋に泊まる気?」
「うん。そうだよ?強引に押し掛けちゃってごめんね。でも七海さんと一緒に居たかったからさ」
最初は何の冗談かと思ったが、ここまで来ると冗談だとは思えない。
とは言え、あの言葉が本気だと思える訳も無く、一体何を企んでいるのかと私は無言で猜疑心に満ちた目を向けた。
「あっ、その顔は俺を疑ってるね?大丈夫だよ、逢ったその日に変な事はしないから」
( 既に変な事されてますけど!と言うより変な事しかされてませんけど⁉︎ )
彼が言う「変な事」と言うのはそう言う意味では無いんだろうなとは思いつつ、心の中で盛大にツッコミを入れた。
「ははは、七海さん、何か面白い顔になってるし」
ケラケラと笑う彼を見てたら何だか肩透かしを食らった気分だ。
「はあ」と溜め息を吐くと、私は彼を追い払う事を諦めた。
元々、何もかもどうでも良いと思って此処に来たのだ。
料金だってキャンセルが効かず二人分で支払い済みだ。
だったら乗り掛かった船、彼の目的が何であれそのくらい軽く往なしてやろうじゃないか。
「・・・分かった、分かったわよ。今回だけだからね?私が滞在する三日間だけ、彼女のフリしてあげるわよ。あっ、でも布団は別々だからね⁉︎」
彼の、いや蒼空の顔がぱあっと明るくなった。
「七海さんありがとう!大好き♡」
そう言って勢い良く椅子から立ち上がると、立ち上がった勢いそのままに思い切り抱き着いて来た。
「ちょ、ちょっと!調子に乗るなっ!」
「へへへ」と笑う蒼空は年齢よりも少し幼く見えて、甘えるようなその仕種がさながら大型犬のそれみたい。
さっきまでカルガモだったのに。
いつの間にやら大きな犬に変貌を遂げたらしい。
犬は好き・・・なんだけれど、果たしてこんなんで私の心臓は保つのだろうか?
「こらっ!離れて!もう夕食まで時間ないから急がないと!」
「あっ、懐石料理だっけ?楽しみ~♫」
パッと手を離すと無邪気に笑いながら、空は玄関口に駆けて行った。
まだドキドキしてる気がする。
ううん、そんな事は無い。
これは気の所為だ。
私は思い切り頭を振った。
取り敢えず急がないといけない。
着替えるのは後回しにして、私も部屋を出ようとしたところで、広縁の所に桔梗の花が飾られているのが見えた。
〝昔から有名なんですよ?〝桔梗の間〟に泊まると永遠の愛が約束されると〟
あの時の女将さんの言葉が不意に思い出された。
「七海さーん?早く早くー」
玄関口から蒼空が私を呼ぶ声がする。
「はいはい、今行くからちょっと待って」
アンタみたいな子供相手に、
意識なんて・・・してやらないんだから、絶対に。
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