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第1話:ようこそ異世界、初期スキルは【デバッガー】でした
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チカチカと点滅する蛍光灯の光が、やけに目に染みる。
壁に掛けられた安っぽいアナログ時計の秒針は、カチ、カチ、と無機質な音を立てながら、午前三時を指し示していた。周囲には、同じように死んだ魚のような目をした同僚たちが、キーボードを叩く音だけが響いている。ここは、俺、相馬 譲(そうま ゆずる)が勤める、都内某所のシステム開発会社――俗に言うブラック企業というやつだ。
「……終わらん」
誰に言うでもなく、乾いた唇からため息と共に言葉が漏れる。ディスプレイに映し出されているのは、膨大な量のソースコード。クライアントから急遽ねじ込まれた仕様変更に対応するため、連日連夜、この赤い文字のエラーメッセージと格闘している。納期は明日の朝イチ。どう考えても物理的に不可能(インポッシブル)なスケジュールだ。
(そもそも、要件定義の段階で無理があったんだ。あのクソ営業、安請け合いしやがって……)
内心で悪態をつきながら、カフェインと糖分で無理やり覚醒させた脳をフル回転させる。バグの原因箇所を特定し、修正し、テストする。その繰り返し。まるで終わりのないデバッグ作業だ。システムエンジニア、略してSE。聞こえはいいが、現実は泥臭い作業の連続である。特にこの会社では、「納期は絶対」「顧客満足度第一(ただし開発者の満足度は考慮外)」「気合と根性で乗り切れ」という精神論がまかり通っている。完全に昭和の悪しき風習を引きずった、前時代的な労働環境だった。
俺は元々、物事を効率的に進めるのが好きだった。無駄を嫌い、最短ルートで目的を達成することに快感を覚えるタイプだ。だからこそ、非効率と精神論が支配するこの職場環境は、地獄以外の何物でもなかった。それでも辞めずに続けているのは、他に選択肢がなかったから、という消極的な理由が大きい。転職活動をする時間も気力も、この会社に吸い取られて久しい。
「相馬くん、ここの処理、どうなってるか分かる?」
隣の席の先輩が、力なく声をかけてくる。彼の目の下にも、俺と同じくらい濃い隈が刻まれていた。
「ああ、そこは昨日、俺が修正した箇所ですね。確か、パラメータの受け渡しで……」
淀みなく説明しながら、頭の片隅では別のことを考えていた。
(この説明も、本来ならドキュメントに残しておくべきなんだ。そうすれば、同じ質問を繰り返す必要もなく、全体の効率が上がる。だが、そんな時間はない。自転車操業、場当たり的対応。まさに負のスパイラルだ)
システム開発において、ドキュメント作成は極めて重要だ。設計書、仕様書、テスト報告書。これらがしっかりしていれば、属人化を防ぎ、品質を担保し、将来的な改修や保守を容易にする。だが、この会社では「動けばいい」という風潮が強く、ドキュメントは軽視されがちだった。その結果、過去のコードはブラックボックス化し、ちょっとした修正が新たなバグを生み、その対応に追われる……という悪循環に陥っている。まさに、システムの「技術的負債」が雪だるま式に膨れ上がっている状態だ。
そんなことを考えていると、ズキリ、とこめかみに鋭い痛みが走った。ここ数日、まともに睡眠をとっていないせいだろう。視界が一瞬、ぐにゃりと歪む。慌てて目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
(まずいな……集中力が切れてきた)
こういう時にミスは起きる。ケアレスミスが、後で致命的なバグに繋がることもある。コーヒーを淹れようと席を立った、その時だった。
グラリ、と世界が傾いだ。
いや、違う。俺の身体が、言うことを聞かずに傾いているのだ。
「あれ……?」
声を出そうとしたが、うまく音にならない。視界が急速に暗転していく。遠のく意識の中で、床に叩きつけられる鈍い衝撃と、同僚たちの慌てたような声が、やけにゆっくりと聞こえた気がした。
(ああ……なんだ、これ……バグか? 俺の身体の……)
システムエラー、強制シャットダウン。
そんな言葉が頭をよぎったのを最後に、俺の意識は完全にブラックアウトした。
◆
気がつくと、俺は真っ白な空間にいた。
上下左右、どこを見てもただただ白い。床も壁も天井もない。まるで、無限に広がるホワイトアウトの世界に放り込まれたかのようだ。
「……どこだ、ここ?」
呟いてみるが、声は妙に反響することなく、すぐに白の中に吸い込まれて消えていく。身体は? 確か、会社の床に倒れたはずだが……。自分の手を見てみる。見慣れた、少し骨張った自分の手だ。服装も、会社に着てきたヨレヨレのシャツとスラックスのまま。特に痛みや違和感はない。過労で倒れて、病院の集中治療室にでもいるのだろうか? にしても、この空間はあまりに非現実的すぎる。
(状況を整理しよう。俺は過労で倒れた。そして今、謎の白い空間にいる。考えられる可能性は……①臨死体験、②何かの夢、③ガチで異世界的な何かに巻き込まれた、か)
SEとしての癖で、すぐに現状分析と仮説立てを始めてしまう。①と②なら、いずれ覚醒するだろう。問題は③の場合だ。最近、ネット小説でよく見る、いわゆる「異世界転生」とか「召喚」とかいうやつだろうか? だとしたら、あまりにも唐突すぎる。トラックに轢かれたわけでも、神様っぽい爺さんが出てきたわけでもない。
『……確認。対象:相馬 譲。意識覚醒を確認しました』
突然、頭の中に直接響くような、無機質で平坦な声が聞こえた。女性の声のようにも、男性の声のようにも聞こえる。合成音声、あるいはシステムボイスのような響きだ。
「誰だ?」
警戒しながら問いかけるが、声の主の姿は見えない。
『私は、世界の転生プロセスを管理するシステムの一部です。あなたは、規定の条件を満たしたため、新たな世界へ転生する権利が付与されました』
「転生……? やっぱり、そういうことなのか。俺は、死んだのか?」
『はい。あなたの旧世界における生命活動は完全に停止しました。原因:過重労働による急性心不全。いわゆる過労死です』
あっさりと告げられた死因に、思わず乾いた笑いが漏れた。
「過労死……マジか。まあ、だろうなとは思ってたけど」
ある意味、予想通りの結末だ。あのまま働き続けていれば、遅かれ早かれこうなっていたに違いない。不思議と、悲しみや後悔は湧いてこなかった。むしろ、あの無限ループのようなデバッグ地獄から解放された安堵感の方が大きいかもしれない。
『転生にあたり、あなたには特典として、一つ、ユニークスキルが付与されます。これは、あなたの旧世界での経験や適性を考慮し、システムが自動的に選定したものです』
「特典? スキル……」
きたきた。異世界転生のお約束展開だ。ここでチートスキルをもらって、異世界で無双する、みたいな流れだろうか? 正直、もうあくせく働くのはこりごりだが、生きるためには何かしらの力が必要になるだろう。どんなスキルがもらえるのか、少しだけ期待が膨らむ。剣術とか魔法とか、あるいは生産系のスキルとかだろうか。できれば、あまり目立たずに、楽して稼げるようなスキルがいい。
『あなたに付与されるユニークスキルは、【デバッガー】です』
「……でばっがー?」
聞き慣れた単語に、思わず眉をひそめる。デバッガー。つまり、バグを見つけて修正する人、あるいはツールのことだ。俺が死ぬ直前までやっていた、あの忌々しい作業そのものではないか。
『スキル【デバッガー】。効果は以下の通りです』
システム音声は、俺の困惑などお構いなしに説明を続ける。
『1:情報読取(リード・インフォメーション)。対象の基本的な情報、ステータス、構成要素などを読み取る能力。ただし、読み取れる情報の深度や範囲は、あなたのスキルレベルと対象の隠蔽レベルに依存します』
『2:バグ発見(ファインド・バグ)。対象や事象に内在する、論理的な矛盾、法則からの逸脱、システムの欠陥、すなわち「バグ」を発見する能力。バグの発見確率は、あなたのスキルレベル、集中力、および対象の複雑性に依存します』
『3:限定的干渉(リミテッド・インターフェア)。発見した「バグ」に対して、ごく限定的な干渉を行う能力。例えば、一時的な機能停止、誤作動の誘発、パラメータの微小な変動などを引き起こす可能性があります。ただし、成功確率と影響度は低く、大規模な改変や修正は不可能です。また、失敗した場合や、世界の根幹に関わるバグに干渉した場合、予期せぬペナルティが発生する可能性があります』
説明を聞き終えて、俺はしばし呆然とした。
なんだ、このスキルは?
情報読取は、まあ鑑定スキルの劣化版みたいなものか? 使えなくはないかもしれない。
バグ発見? 異世界にもバグなんてあるのか? システム的な世界なのか?
限定的干渉? 要するに、ちょっとしたイタズラができる程度、ということか? しかもリスク付き。
「……あの、これって、攻撃力とか防御力とか、そういうのは?」
『スキル【デバッガー】に、直接的な戦闘能力はありません』
「魔法とかは……?」
『スキル【デバッガー】は、魔法の習得や使用を補助するものではありません』
「生産とか……?」
『スキル【デバッガー】は、直接的な生産活動を支援するものではありません』
システム音声の回答は、無慈悲なまでに簡潔だった。
つまり、このスキルは、戦闘にも、魔法にも、生産にも、直接的には何の役にも立たない、ということらしい。ただ、情報を見て、バグを見つけて、ちょっと干渉できるだけ。しかもリスク付き。
(これ……完全に外れスキルじゃないか……?)
愕然とした。異世界に来てまで、デバッグ作業の真似事みたいなことをしろと? しかも、見返りは少なく、リスクは高い。前の世界の仕事と、本質的に何も変わらないじゃないか。むしろ、こっちの方がたちが悪いかもしれない。
(いや、待て。落ち着け、俺。SE的思考を発揮しろ。仕様をよく読め)
スキル説明をもう一度、頭の中で反芻する。
「情報読取」は鑑定の劣化版かもしれないが、使い方次第では化けるかもしれない。例えば、相手の弱点や、アイテムの隠された効果とか。
「バグ発見」。これが一番の謎だ。異世界の「バグ」とは具体的に何を指すのか? もし、モンスターの行動パターンや、魔法の法則、あるいは社会システムそのものに「バグ」が存在するとしたら?
そして「限定的干渉」。これが鍵だ。たとえ限定的でも、法則に干渉できるというのは、見方によってはとんでもない能力ではないか? 例えば、敵の攻撃が当たる瞬間に「当たり判定のバグ」に干渉して回避するとか? 罠の「作動条件のバグ」を利用して無効化するとか?
(……いや、考えすぎか? 説明では「ごく限定的」「成功確率と影響度は低い」とあった。そんな都合のいいことができるとは思えない。それに「予期せぬペナルティ」というのも気になる)
期待と不安が入り混じる。どちらにせよ、このスキルが俺の唯一の武器(?)であることは間違いない。これを使いこなすしかないのだろう。
『スキルの付与を完了しました。これより、対象を新たな世界へ転送します。健闘を祈ります』
システム音声が一方的に告げると、俺の足元が急速に不安定になった。白い空間がぐにゃりと歪み、強い浮遊感と共に、身体がどこかへ引っ張られる感覚。
「うおっ!? ま、待て! 心の準備が……!」
俺の叫びも虚しく、視界は再び暗転した。
今度こそ、本当に新しい世界へと送り出されるらしい。
◆
次に意識が戻った時、俺は柔らかな草の上に横たわっていた。
鼻腔をくすぐるのは、濃密な土と草いきれの匂い。耳には、聞いたことのない鳥の鳴き声や、風が木々の葉を揺らす音が届く。ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、どこまでも広がる青い空と、そこに浮かぶ白い雲だった。太陽の光が暖かく、心地よい。
「……本当に、来たのか。異世界に」
上半身を起こし、周囲を見渡す。
俺がいるのは、なだらかな丘の上にある草原のようだ。視界の先には鬱蒼とした森が広がり、遠くには険しい山々が見える。人工物は一切見当たらない。空気は澄み切っており、深呼吸すると肺が浄化されるような気分になる。元の世界の、排気ガスと埃にまみれた空気とは大違いだ。
(さて、どうしたものか……)
状況を確認する。持ち物は、着の身着のまま。財布もスマホもない。あるのは、この身体と、さっき授与された【デバッガー】という謎のスキルだけ。まさに裸一貫、ゼロからのスタートだ。
(まずは情報収集だな。ここがどこで、どんな世界なのか。近くに村や町はあるのか。それと、このスキル【デバッガー】を試してみる必要がある)
とりあえず、立ち上がって周囲を見渡す。幸い、身体に異常はないようだ。むしろ、連日の徹夜で蝕まれていた身体が、嘘のように軽く感じる。これも転生特典の一つなのだろうか?
ふと、足元に咲いている、見たことのない青い花が目に入った。
(試しに、こいつに【デバッガー】を使ってみるか)
スキルを使う、と言っても、具体的な方法は教わっていない。ゲームのように念じればいいのか? それとも、何か特定のポーズや呪文が必要なのか?
(とりあえず、対象に意識を集中して……『情報読取(リード・インフォメーション)』!)
心の中で強く念じてみる。すると、脳内に直接、情報が流れ込んでくるような感覚があった。
『対象:ブルーウィスプ草
分類:植物科>ウィスプ属
状態:正常
特性:微弱な魔力放出、夜間に発光
用途:観賞用、低級ポーション素材(鎮静効果)
備考:一般的な野草。特別な価値は低い。』
「……おおっ!?」
思わず声が出た。本当に情報が見えた! しかも、かなり詳細だ。名前だけでなく、分類、状態、特性、用途、備考まで表示されている。これは、思ったよりも使えるかもしれない。鑑定スキルの劣化版どころか、むしろ上位互換まであり得るぞ?
(次に、『バグ発見(ファインド・バグ)』……!)
続けて、同じ花に意識を集中し、念じてみる。今度は、先ほどとは違う感覚。まるで、膨大なデータの中から、特定の文字列を検索しているような……あるいは、ソースコードの膨大な行の中から、エラー箇所を探し出そうとしている時のような、集中力と、わずかな違和感を探る感覚。
数秒後。
『……バグ検出:0件』
「……まあ、そうだよな」
さすがに、道端の雑草にそうそうバグは見つからないか。がっかりする気持ちと、少しホッとする気持ちが入り混じる。もし、そこら中のものにバグが見つかったら、それはそれで恐ろしい世界だ。
(とにかく、スキルが使えることは確認できた。情報読取はかなり有用そうだ。問題は、バグ発見と限定的干渉が、どういう場面で、どういう効果を発揮するのか……)
空を見上げる。太陽の位置からすると、まだ昼過ぎといったところか。日が暮れる前に、安全な場所を見つけたい。森に入るのは危険そうだ。まずは、この草原を抜けて、人里を探すのが定石だろう。
「よし、行くか」
俺は、未知なる異世界での第一歩を踏み出した。
元システムエンジニア、相馬譲。享年28歳。
スキル【デバッガー】と共に、彼の異世界での新たな人生(デバッグ作業?)が、今、始まった。
(……まずは、水と食料の確保だな。あと、できれば地図。どこかに都合よく落ちてたりしないだろうか……って、そんなバグみたいな展開があるわけないか)
少しだけ自嘲しながら、俺は丘を下り始めた。その先に待ち受けるのが、平穏なスローライフなのか、それとも新たなデスマ(デバッグ・マーチ)なのか、まだ知る由もなかった。
壁に掛けられた安っぽいアナログ時計の秒針は、カチ、カチ、と無機質な音を立てながら、午前三時を指し示していた。周囲には、同じように死んだ魚のような目をした同僚たちが、キーボードを叩く音だけが響いている。ここは、俺、相馬 譲(そうま ゆずる)が勤める、都内某所のシステム開発会社――俗に言うブラック企業というやつだ。
「……終わらん」
誰に言うでもなく、乾いた唇からため息と共に言葉が漏れる。ディスプレイに映し出されているのは、膨大な量のソースコード。クライアントから急遽ねじ込まれた仕様変更に対応するため、連日連夜、この赤い文字のエラーメッセージと格闘している。納期は明日の朝イチ。どう考えても物理的に不可能(インポッシブル)なスケジュールだ。
(そもそも、要件定義の段階で無理があったんだ。あのクソ営業、安請け合いしやがって……)
内心で悪態をつきながら、カフェインと糖分で無理やり覚醒させた脳をフル回転させる。バグの原因箇所を特定し、修正し、テストする。その繰り返し。まるで終わりのないデバッグ作業だ。システムエンジニア、略してSE。聞こえはいいが、現実は泥臭い作業の連続である。特にこの会社では、「納期は絶対」「顧客満足度第一(ただし開発者の満足度は考慮外)」「気合と根性で乗り切れ」という精神論がまかり通っている。完全に昭和の悪しき風習を引きずった、前時代的な労働環境だった。
俺は元々、物事を効率的に進めるのが好きだった。無駄を嫌い、最短ルートで目的を達成することに快感を覚えるタイプだ。だからこそ、非効率と精神論が支配するこの職場環境は、地獄以外の何物でもなかった。それでも辞めずに続けているのは、他に選択肢がなかったから、という消極的な理由が大きい。転職活動をする時間も気力も、この会社に吸い取られて久しい。
「相馬くん、ここの処理、どうなってるか分かる?」
隣の席の先輩が、力なく声をかけてくる。彼の目の下にも、俺と同じくらい濃い隈が刻まれていた。
「ああ、そこは昨日、俺が修正した箇所ですね。確か、パラメータの受け渡しで……」
淀みなく説明しながら、頭の片隅では別のことを考えていた。
(この説明も、本来ならドキュメントに残しておくべきなんだ。そうすれば、同じ質問を繰り返す必要もなく、全体の効率が上がる。だが、そんな時間はない。自転車操業、場当たり的対応。まさに負のスパイラルだ)
システム開発において、ドキュメント作成は極めて重要だ。設計書、仕様書、テスト報告書。これらがしっかりしていれば、属人化を防ぎ、品質を担保し、将来的な改修や保守を容易にする。だが、この会社では「動けばいい」という風潮が強く、ドキュメントは軽視されがちだった。その結果、過去のコードはブラックボックス化し、ちょっとした修正が新たなバグを生み、その対応に追われる……という悪循環に陥っている。まさに、システムの「技術的負債」が雪だるま式に膨れ上がっている状態だ。
そんなことを考えていると、ズキリ、とこめかみに鋭い痛みが走った。ここ数日、まともに睡眠をとっていないせいだろう。視界が一瞬、ぐにゃりと歪む。慌てて目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
(まずいな……集中力が切れてきた)
こういう時にミスは起きる。ケアレスミスが、後で致命的なバグに繋がることもある。コーヒーを淹れようと席を立った、その時だった。
グラリ、と世界が傾いだ。
いや、違う。俺の身体が、言うことを聞かずに傾いているのだ。
「あれ……?」
声を出そうとしたが、うまく音にならない。視界が急速に暗転していく。遠のく意識の中で、床に叩きつけられる鈍い衝撃と、同僚たちの慌てたような声が、やけにゆっくりと聞こえた気がした。
(ああ……なんだ、これ……バグか? 俺の身体の……)
システムエラー、強制シャットダウン。
そんな言葉が頭をよぎったのを最後に、俺の意識は完全にブラックアウトした。
◆
気がつくと、俺は真っ白な空間にいた。
上下左右、どこを見てもただただ白い。床も壁も天井もない。まるで、無限に広がるホワイトアウトの世界に放り込まれたかのようだ。
「……どこだ、ここ?」
呟いてみるが、声は妙に反響することなく、すぐに白の中に吸い込まれて消えていく。身体は? 確か、会社の床に倒れたはずだが……。自分の手を見てみる。見慣れた、少し骨張った自分の手だ。服装も、会社に着てきたヨレヨレのシャツとスラックスのまま。特に痛みや違和感はない。過労で倒れて、病院の集中治療室にでもいるのだろうか? にしても、この空間はあまりに非現実的すぎる。
(状況を整理しよう。俺は過労で倒れた。そして今、謎の白い空間にいる。考えられる可能性は……①臨死体験、②何かの夢、③ガチで異世界的な何かに巻き込まれた、か)
SEとしての癖で、すぐに現状分析と仮説立てを始めてしまう。①と②なら、いずれ覚醒するだろう。問題は③の場合だ。最近、ネット小説でよく見る、いわゆる「異世界転生」とか「召喚」とかいうやつだろうか? だとしたら、あまりにも唐突すぎる。トラックに轢かれたわけでも、神様っぽい爺さんが出てきたわけでもない。
『……確認。対象:相馬 譲。意識覚醒を確認しました』
突然、頭の中に直接響くような、無機質で平坦な声が聞こえた。女性の声のようにも、男性の声のようにも聞こえる。合成音声、あるいはシステムボイスのような響きだ。
「誰だ?」
警戒しながら問いかけるが、声の主の姿は見えない。
『私は、世界の転生プロセスを管理するシステムの一部です。あなたは、規定の条件を満たしたため、新たな世界へ転生する権利が付与されました』
「転生……? やっぱり、そういうことなのか。俺は、死んだのか?」
『はい。あなたの旧世界における生命活動は完全に停止しました。原因:過重労働による急性心不全。いわゆる過労死です』
あっさりと告げられた死因に、思わず乾いた笑いが漏れた。
「過労死……マジか。まあ、だろうなとは思ってたけど」
ある意味、予想通りの結末だ。あのまま働き続けていれば、遅かれ早かれこうなっていたに違いない。不思議と、悲しみや後悔は湧いてこなかった。むしろ、あの無限ループのようなデバッグ地獄から解放された安堵感の方が大きいかもしれない。
『転生にあたり、あなたには特典として、一つ、ユニークスキルが付与されます。これは、あなたの旧世界での経験や適性を考慮し、システムが自動的に選定したものです』
「特典? スキル……」
きたきた。異世界転生のお約束展開だ。ここでチートスキルをもらって、異世界で無双する、みたいな流れだろうか? 正直、もうあくせく働くのはこりごりだが、生きるためには何かしらの力が必要になるだろう。どんなスキルがもらえるのか、少しだけ期待が膨らむ。剣術とか魔法とか、あるいは生産系のスキルとかだろうか。できれば、あまり目立たずに、楽して稼げるようなスキルがいい。
『あなたに付与されるユニークスキルは、【デバッガー】です』
「……でばっがー?」
聞き慣れた単語に、思わず眉をひそめる。デバッガー。つまり、バグを見つけて修正する人、あるいはツールのことだ。俺が死ぬ直前までやっていた、あの忌々しい作業そのものではないか。
『スキル【デバッガー】。効果は以下の通りです』
システム音声は、俺の困惑などお構いなしに説明を続ける。
『1:情報読取(リード・インフォメーション)。対象の基本的な情報、ステータス、構成要素などを読み取る能力。ただし、読み取れる情報の深度や範囲は、あなたのスキルレベルと対象の隠蔽レベルに依存します』
『2:バグ発見(ファインド・バグ)。対象や事象に内在する、論理的な矛盾、法則からの逸脱、システムの欠陥、すなわち「バグ」を発見する能力。バグの発見確率は、あなたのスキルレベル、集中力、および対象の複雑性に依存します』
『3:限定的干渉(リミテッド・インターフェア)。発見した「バグ」に対して、ごく限定的な干渉を行う能力。例えば、一時的な機能停止、誤作動の誘発、パラメータの微小な変動などを引き起こす可能性があります。ただし、成功確率と影響度は低く、大規模な改変や修正は不可能です。また、失敗した場合や、世界の根幹に関わるバグに干渉した場合、予期せぬペナルティが発生する可能性があります』
説明を聞き終えて、俺はしばし呆然とした。
なんだ、このスキルは?
情報読取は、まあ鑑定スキルの劣化版みたいなものか? 使えなくはないかもしれない。
バグ発見? 異世界にもバグなんてあるのか? システム的な世界なのか?
限定的干渉? 要するに、ちょっとしたイタズラができる程度、ということか? しかもリスク付き。
「……あの、これって、攻撃力とか防御力とか、そういうのは?」
『スキル【デバッガー】に、直接的な戦闘能力はありません』
「魔法とかは……?」
『スキル【デバッガー】は、魔法の習得や使用を補助するものではありません』
「生産とか……?」
『スキル【デバッガー】は、直接的な生産活動を支援するものではありません』
システム音声の回答は、無慈悲なまでに簡潔だった。
つまり、このスキルは、戦闘にも、魔法にも、生産にも、直接的には何の役にも立たない、ということらしい。ただ、情報を見て、バグを見つけて、ちょっと干渉できるだけ。しかもリスク付き。
(これ……完全に外れスキルじゃないか……?)
愕然とした。異世界に来てまで、デバッグ作業の真似事みたいなことをしろと? しかも、見返りは少なく、リスクは高い。前の世界の仕事と、本質的に何も変わらないじゃないか。むしろ、こっちの方がたちが悪いかもしれない。
(いや、待て。落ち着け、俺。SE的思考を発揮しろ。仕様をよく読め)
スキル説明をもう一度、頭の中で反芻する。
「情報読取」は鑑定の劣化版かもしれないが、使い方次第では化けるかもしれない。例えば、相手の弱点や、アイテムの隠された効果とか。
「バグ発見」。これが一番の謎だ。異世界の「バグ」とは具体的に何を指すのか? もし、モンスターの行動パターンや、魔法の法則、あるいは社会システムそのものに「バグ」が存在するとしたら?
そして「限定的干渉」。これが鍵だ。たとえ限定的でも、法則に干渉できるというのは、見方によってはとんでもない能力ではないか? 例えば、敵の攻撃が当たる瞬間に「当たり判定のバグ」に干渉して回避するとか? 罠の「作動条件のバグ」を利用して無効化するとか?
(……いや、考えすぎか? 説明では「ごく限定的」「成功確率と影響度は低い」とあった。そんな都合のいいことができるとは思えない。それに「予期せぬペナルティ」というのも気になる)
期待と不安が入り混じる。どちらにせよ、このスキルが俺の唯一の武器(?)であることは間違いない。これを使いこなすしかないのだろう。
『スキルの付与を完了しました。これより、対象を新たな世界へ転送します。健闘を祈ります』
システム音声が一方的に告げると、俺の足元が急速に不安定になった。白い空間がぐにゃりと歪み、強い浮遊感と共に、身体がどこかへ引っ張られる感覚。
「うおっ!? ま、待て! 心の準備が……!」
俺の叫びも虚しく、視界は再び暗転した。
今度こそ、本当に新しい世界へと送り出されるらしい。
◆
次に意識が戻った時、俺は柔らかな草の上に横たわっていた。
鼻腔をくすぐるのは、濃密な土と草いきれの匂い。耳には、聞いたことのない鳥の鳴き声や、風が木々の葉を揺らす音が届く。ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、どこまでも広がる青い空と、そこに浮かぶ白い雲だった。太陽の光が暖かく、心地よい。
「……本当に、来たのか。異世界に」
上半身を起こし、周囲を見渡す。
俺がいるのは、なだらかな丘の上にある草原のようだ。視界の先には鬱蒼とした森が広がり、遠くには険しい山々が見える。人工物は一切見当たらない。空気は澄み切っており、深呼吸すると肺が浄化されるような気分になる。元の世界の、排気ガスと埃にまみれた空気とは大違いだ。
(さて、どうしたものか……)
状況を確認する。持ち物は、着の身着のまま。財布もスマホもない。あるのは、この身体と、さっき授与された【デバッガー】という謎のスキルだけ。まさに裸一貫、ゼロからのスタートだ。
(まずは情報収集だな。ここがどこで、どんな世界なのか。近くに村や町はあるのか。それと、このスキル【デバッガー】を試してみる必要がある)
とりあえず、立ち上がって周囲を見渡す。幸い、身体に異常はないようだ。むしろ、連日の徹夜で蝕まれていた身体が、嘘のように軽く感じる。これも転生特典の一つなのだろうか?
ふと、足元に咲いている、見たことのない青い花が目に入った。
(試しに、こいつに【デバッガー】を使ってみるか)
スキルを使う、と言っても、具体的な方法は教わっていない。ゲームのように念じればいいのか? それとも、何か特定のポーズや呪文が必要なのか?
(とりあえず、対象に意識を集中して……『情報読取(リード・インフォメーション)』!)
心の中で強く念じてみる。すると、脳内に直接、情報が流れ込んでくるような感覚があった。
『対象:ブルーウィスプ草
分類:植物科>ウィスプ属
状態:正常
特性:微弱な魔力放出、夜間に発光
用途:観賞用、低級ポーション素材(鎮静効果)
備考:一般的な野草。特別な価値は低い。』
「……おおっ!?」
思わず声が出た。本当に情報が見えた! しかも、かなり詳細だ。名前だけでなく、分類、状態、特性、用途、備考まで表示されている。これは、思ったよりも使えるかもしれない。鑑定スキルの劣化版どころか、むしろ上位互換まであり得るぞ?
(次に、『バグ発見(ファインド・バグ)』……!)
続けて、同じ花に意識を集中し、念じてみる。今度は、先ほどとは違う感覚。まるで、膨大なデータの中から、特定の文字列を検索しているような……あるいは、ソースコードの膨大な行の中から、エラー箇所を探し出そうとしている時のような、集中力と、わずかな違和感を探る感覚。
数秒後。
『……バグ検出:0件』
「……まあ、そうだよな」
さすがに、道端の雑草にそうそうバグは見つからないか。がっかりする気持ちと、少しホッとする気持ちが入り混じる。もし、そこら中のものにバグが見つかったら、それはそれで恐ろしい世界だ。
(とにかく、スキルが使えることは確認できた。情報読取はかなり有用そうだ。問題は、バグ発見と限定的干渉が、どういう場面で、どういう効果を発揮するのか……)
空を見上げる。太陽の位置からすると、まだ昼過ぎといったところか。日が暮れる前に、安全な場所を見つけたい。森に入るのは危険そうだ。まずは、この草原を抜けて、人里を探すのが定石だろう。
「よし、行くか」
俺は、未知なる異世界での第一歩を踏み出した。
元システムエンジニア、相馬譲。享年28歳。
スキル【デバッガー】と共に、彼の異世界での新たな人生(デバッグ作業?)が、今、始まった。
(……まずは、水と食料の確保だな。あと、できれば地図。どこかに都合よく落ちてたりしないだろうか……って、そんなバグみたいな展開があるわけないか)
少しだけ自嘲しながら、俺は丘を下り始めた。その先に待ち受けるのが、平穏なスローライフなのか、それとも新たなデスマ(デバッグ・マーチ)なのか、まだ知る由もなかった。
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主人公こと小鳥遊 綾人(たかなし あやと)はある理由から毎日のように体を鍛えていた。
そんなある日、突然知らない真っ白な場所で目を覚ます。そこで綾人が目撃したものは幼い少年の容姿をした何か。そこで彼は告げられる。
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最強が無双する異世界ファンタジー開幕!
気づいたら美少女ゲーの悪役令息に転生していたのでサブヒロインを救うのに人生を賭けることにした
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衝撃を受けた途端、俺は美少女ゲームの中ボス悪役令息に転生していた!?
これは、自分が制作にかかわっていた美少女ゲームの中ボス悪役令息に転生した主人公が、報われないサブヒロインを救うために人生を賭ける話。
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カムイイムカ(神威異夢華)
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僕の名前は朝霧 雷斗(アサギリ ライト)
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異世界に転生することになったが勇者や賢者、チート能力なんて必要ない。
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ゲーム好きの田中 蓮(たなか れん)が、寝て起きたらゲームの世界(異世界)にいた。
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ゲームの世界(異世界)へ、モブ(子供キャラクター)に転移したレンだが、いつの間にか面倒なことに巻き込まれていく物語。
■注意■
作中に薬や薬草、配合など単語が出てきますが、現代をヒントにわかりやすく書いています。現実世界とは異なります。
現実世界よりも発達していなくて、でも近いものがある…という感じです。ご理解ご了承いただけますと幸いです。
知らない植物を口にしたり触ったりするのは危険です。十分気をつけるようにしてください。
この作品はフィクションです。
☆なろうさんでも掲載しています
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