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5話
再会
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期末試験を終え、みんなが待ち望んでいた夏休みに入った。だからと言って、特別に用事あるわけでもなく、わたしは静かに縁側で風景画を描いていた。畑で育った野菜のキレイな緑、野菜を育てるための土の濃い茶色、空の深い青。少し前のわたしでは気づける色ではなかったと思う。
「ハル、宿題のほうは大丈夫かい」
「うん。大丈夫。きちんとやっているよ」
「まぁ、あんたは勉強出来るから。心配はいらないか」
楓ちゃんはとなりに座って、お茶を啜った。
彼女自身も、ここのところ仕事が立て込み、徹夜が続くことがあった。昨晩もあまり眠れていないようで、クマが出来ていて、少しやつれたようにも見える。ごはんのときは、いつも一緒に食べるけれど、食べ終えるとすぐに書斎へと戻ってしまうことが多かった。お茶を持って行ったときも、行き詰っている表情をしていることもあった。楓ちゃんはずっと一人で戦っていたのだと気づかされる。そして仕事に向けている顔が紛れもなくプロのイラストレーターそのものであった。わたしはその楓ちゃんに甘えてばかりいた。いつか彼女のようにやさしくて強い人になりたい。そして独りではないと知った今、前へと歩いていくことを決意した。少しでも強くなれるように。両親とも少しずつではあるが、連絡を取るようにしている。明るくなったわたしの声に、母は泣いて喜んでいた。わたしはそれだけ心配をかけてしまっていたのだと反省した。辛いことがあったら、殻に閉じこもることはせずに打ち明けようと思う。そしてこれからは心配かけた分を、恩返しをして行きたい。
「ねぇハル。久しぶりに帰省してみるかい」
「えっ」
楓ちゃんの提案に、わたしは目を大きく見開いた。
帰省しようだなんて考えてもいなかった。むしろ、考えようともしていなかった。わたしは言葉を失いつつ、わたしは自分の絵を見つめた。自分はどうしたいのか。両親のもとに帰って、平常心でいることが出来るのか。元同級生と出くわしたとき取り乱してしまわないか。恐怖心や不安感が膨らんで行った。今でもイジメを行っていた佐倉さん達のことを思い出すと震えがとまらなくなってしまう。前に進むと決めたというのに、未だに恐怖心で苛まれている。わたしはどうすれば。震える手にキレイな手が添えられた。怯えた表情でわたしは楓ちゃんを見た。わたしとは対照的に安らかに微笑んでいた。風が吹き、わたし達の髪を揺らした。
「ハル。泣いたっていい。怒ってもいい。取り乱しだっていい。だってそれがハルの本音なんだから。親友だった子がどう考えているかはあたしにもわからない。だけれど、もし許してほしいと思っているのであれば、本音をぶつけてやればいい。その子が罪を償うのはそれからでいい」
「楓ちゃん、わたしね恐いんだよ。恐くて仕方がないの。またイヤなことをされるんじゃないかって。また立ち向かえないんじゃないかって。そう考えると、震えが止まらないの。弱い自分がイヤなの」
「うん。だけれど今のハルにとって乗り越えなくちゃいけない壁なのかもしれないね。だからさイヤなことをして来た奴らに見せつけてやんな。強くなったんだぞわたしはって。それが最高のやり返しだと思うな。あたしは」
楓ちゃんは二ッと笑った。
彼女の笑顔はやっぱり好きだ。前に進めなくなったときに、再び足を前へ前へと進めるように導いてくれているように感じる。殻に閉じこもったとき、あのときの温もりを思い出す。わたしが抱いていた恐怖心が、少し和らいだ。わたしは楓ちゃんにとびっきりの笑顔を向けた。そんなわたしに楓ちゃんはやさしく包み込んで頭を撫でてくれた。
「うん。やっぱりハルは笑顔が似合う」
「ありがとう。わたしもね、楓ちゃんの笑顔がすごく好きだよ」
「うれしいことを言ってくれるじゃない」
青い空の下、二人で笑い合った。
*
帰省すると決めた週の土曜日にわたし達は両親のもとへ向かった。
空は快晴。とてもおでかけ日和であった。運転をする楓ちゃんの傍ら、わたしは車窓の外を眺めていた。懐かしい風景が広がっている。最寄り駅に広がるたくさんのビル。何度も通りかかったチェーン店。よく買いに行っていた文房具店。家に近づけば、見慣れた住宅街。変わらぬ風景に、どこか安心している自分がいた。でも不安があるのも事実だ。胸のあたりがざわざわとしている。
「ハル、どうだい。久しぶりの地元は」
「まだ数ヶ月しか経ってないのに、すごく懐かしい」
「そうだね。駿人達と出会って、ハルはどんどん明るくなっていく。まだ不安定なところもあるかもしれないけれど、少しずつ変わって来ていると思うよ」
「うん。そうだといいんだけれど…」
わたしの煮え切れない答えに、楓ちゃんはクスリと笑った。
変われている自信はまだない。だけれど、以前のように笑えるようになって来ているように思える。むしろ以前よりも笑っている気がする。それも楓ちゃんのおかげだ。楓ちゃんのおかげで駿人くん達と出会えた。そして恋を知ることが出来た。感謝をしてもしきれてないぐらいだ。徐々に両親が住む家が見えてくる。楓ちゃんはウィンカーを出し、減速しつつ敷地内へと入って行った。二階建ての黄緑がかかったマイホーム。車から降り、ぼんやりとその光景を眺めている。玄関が勢いよく開き、母さんがわたしに向かって駆け寄り、力いっぱいに抱き締めた。久々に感じる懐かしい温もり。花のような甘くやさしい匂い。離れていた時間を埋めていく。そんな感じがした。
「母さん、苦しい」
「あっ、ごめんなさい。えっと、そのおかえりなさいハル」
「ただいま。母さん」
「見間違えるぐらい、明るくなって…」
「そ、そんなことないよ。それでさ父さんは…?」
「中でテレビ見ているわ。帰省するって連絡あってから、ずっとそわそわしているわよ。晴香はまだか。まだ帰ってこないのかって。そればかりなんだから」
「父さんらしい」
二人でクスクスと笑った。
「お二人さん。そろそろ中に入りましょ」
楓ちゃんはわたしと母の肩に手を回し、玄関へと足を運ばせた。
父さんが仕事で履いて行く革靴や普段履いている運動靴、母さんがよく履いている桃色のパンプスがキレイに並べてあった。下駄箱に上にはキレイなガラス細工の細い花瓶に一輪の花が添えられていた。きっと母さんだろう。母さんは玄関を大切にしている。『帰って来たときに安心することが出来るでしょ』といつも言っている。で確かに玄関に花が添えられていると、キモチがいい。脱いだ靴を揃え、リビングに向かった。父はソファーに座り、バラエティー番組を視聴していた。普段観ていないくせに、今日に限って観ているだなんて、明らかに落ち着きがないのがわかる。いつもだったら、ニュースや刑事ドラマ、時代劇などを好んで視聴している。父さんの新しい一面を見れた気がする。
「た、ただいま、父さん」
「あぁ、おかえり」
父さんはこちらを向かず、挨拶を返した。威厳を保ちたいのだろう。わたしが部屋に引きこもってしまったとき、父さんは何度もドアを叩き、何度もわたしに呼びかけた。何があったのか。顔を見せてくれないか。何度も何度も。あのときのわたしは、恐くて、心配をかけたくなくて、両親に壁を作ってしまった。余計に心配をかけてしまう結果になってしまったけれど。だけれど、こうしてまた顔を合わせることが出来ている。
「あ、あの。と、父さん。その…」
「なんだ」
「コーヒー淹れようか」
「いや、いい。大丈夫だ」
「うん。わかった」
父さんはどちらかというと寡黙な人だ。家でもあまり話さないし、いつも読書をしているか、書斎で仕事をしているかだ。家族に興味がないのかと思いきや心配性な面も見せてくる。わたしが体調を崩したときも母さんよりもそわそわしているし、ショッピングモールで迷子になったときも走って探し回ってくれたこともあった。きっと不器用な人なのだろう。だからこそ、わたしは父さんのことをキライになることはなかったし、反抗期らしい時期もなかった。
「やぁ兄さん」
「楓、お前、何しに来たんだ」
「冷たいわねぇ、兄さん。愛しいハルを送って来たんじゃない」
「あぁ、それはすまなかったな。ありがとう」
「どういたしまして。それより兄さん。愛しの娘がコーヒーを淹れてくれるっていうのに断る阿呆がどこにいる?」
「うるさい。お前に関係ないだろう」
「そうだねぇ。でもいいのかなぁ。ハルが結婚とかしたらもう淹れてもらえなくなるかもねぇ」
「け、結婚なんてまだ早い! 晴香はまだ中学二年生なんだぞ!」
「そんなこと言っているうちに、あっという間にハルが結婚相手連れてくることになるよぉ。に・い・さ・ん」
楓ちゃんの言葉に言い返せず、父は小さく唸っていた。わたしのこともあって、父さんは楓ちゃんには弱いようだ。わたしのこともあって、あまり強くは言えないのだろう。父さんは気まずそうにこちらを見て「晴香、コーヒーを頼めるか」と口にした。大きな子どもみたいなところがおかしくなってしまい、思わず噴き出してしまった。そのことに父さんはムッとした。父さんと楓ちゃんは本当に仲のいい兄妹だなと感じる。
「なんだ?」
「ううん。なんでもない。コーヒー淹れてくるから。待ってて」
「わかった」
肩を落とす父さんを横目にわたしは再び微笑みをこぼして、キッチンへと足を運んだ。
*
翌日、わたしは一人で町を歩いていた。小学校や以前通っていた中学校、よく通っていた文房具店、親友とときどき行った駄菓子屋、そしてよくスケッチしていた公園。どれも懐かしく思えるのと同時にやはり辛いと感じている。公園の隅あるベンチに腰を下ろした。夏休みということもあり、幼児や小学生の楽しげな声や保護者のおしゃべりをする声、ブランコなどの擦れる音が聞こえてくる。とても平穏な日常だ。まるであの出来事がなかったかのように思わされる。同じことをやってありたいとは思わない。だけれど、なんだか虚しく思えてしまう。わたしだけが取り残されてしまったように感じる。きっとみんなはわたしのことを忘れて、新しい日常を送っている。それが許せない自分がいるのだ。ざわざわする胸にそっと手を添えた。悔しくて苦しい。どうしよもならないこの感情は、ずっと抱くことになるのだろう。きっと大人になってもずっと。わたしは帰路に就こうとベンチから立ち上がった。公園の門から出て少し歩いたところで、わたしは聞き覚えのある声で呼び止められた。
「ハル…? ハルでしょ!」
今一番に聞きたくはなかった声、出くわしたくはなかった人物。わたしはみるみると顔を青く染め、ゆったりと振り返った。わたしよりも少し高くすらりとしたスタイル、茶色かかったボブカット、横髪に黄色の髪留めを付けた少女、『シズ』こと月城雫が戸惑った表情で立ち尽くしていた。お互いに信じられない様子であった。体が硬直してしまい、動くことが出来なかった。足ががくがくと震えていた。彼女がいるということはリーダー格の女子生徒・佐倉さんも近くにいる可能性だってある。恐くて苦しくて逃げたいというキモチがいっぱいになった。それなのに足が鉛のように重たい。力いっぱいにスカートを握りしめていた。恐くて恐くて仕方がなかった。
「ハル、大丈夫だよ。佐倉さん達はいないから。あたし、今一人だから…」
「し…ず」
「ハル、ハル、ハル、ハル」
シズは駆け寄って、わたしを抱きしめた。彼女が震えていて泣いているのがわかった。
「あたし、ハルに謝らなきゃってずっと思ってた。親友だったのに、一緒に戦わなきゃいけなかったのに。あたし恐くて、イジメられたくなくて、一緒になってハルのことを遠ざけてイジメをしちゃってた。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
彼女が発する言葉にウソを吐いているようには聞こえなかった。もともと大人しくて性格で純粋な女の子だ。ウソを吐けない子だというのはわかっている。だけれど、わたしは彼女に対し、まっ黒な感情を抱いていた。シズのことを強く押し離し、わたしは自分の想いを全部彼女にぶつけた。
「今さら、何? 許せるわけないじゃない。だって、裏切られたんだよ。信じていたあなたに。親友だと思ってたあなたに。言い訳なんか聞きたくない。わたしは…わたしは…」
大好きなあなたに手を汚してほしくなかった。
その言葉を発することが出来ず、わたしは鉛のように重たくなった足を必死の思いで走らせた。何度も躓きつつも走り続けた。走馬灯のように思い出していく。彼女との思い出。お喋りをしたこと、一緒にスケッチしていたこと、共にお弁当を食べたこと、二人で笑い合ったこと、下校中に見たオレンジ色の空を。泪があふれた。もっと一緒にいたかった。もっと笑い合いたかった。もっと一緒に絵を描いて行きたかった。もっと一緒に歩んで行きたかった。それがもう叶うことがないのだと。わたしは、もう彼女と親友には戻れないのだと思い知らされる。彼女自身、たくさんの葛藤があっただろう。とは言えども、イジメに加担したことへの事実は変わりはしない。もうあの頃のわたし達には戻ることは出来ないのだ。わたしはまた悲しみの海へと潜っていた。住宅街の曲がり角、わたしは誰かとぶつかり、派手に尻餅をついた。わたしは慌てて顔を上げて謝罪をした。
「ご、ごめんなさい!」
そこには楓ちゃんが心配な表情を浮かべて立っていた。
「か、楓ちゃん…。…楓…ちゃん…」
「ハル、あたしね。胸騒ぎをしていたんだ。ハルに何かあったんじゃないかって、あなたを探していたの」
「楓ちゃん楓ちゃん」
「大丈夫。がんばったんだね。いいんだよ。泣いても」
楓ちゃんはやさしくわたしを包み込んだ。彼女の温もりを感じながら、わたしは声を出して泣き出した。怒りや悲しみ、寂しさや虚しさ、たくさんの感情がわたしの心をいっぱいにしていた。シズが逆らうことが出来なかったのはわかっている。だけれど、もうわたし達の友情が繋がることはないのかもしれない。あふれるばかりの泪。わたしは楓ちゃんの腕の中で泣き続けた。
* 楓視点
泣き疲れたのかハルは、自室のベッドで横になっていた。
理由は聞かなくとも、なんとなくわかる。おそらくだが、以前通っていた中学校の同級生と出くわし対峙したのだろう。そのときにどんなやりとりがあったかまではわからない。しかし、彼女なりに過去と決着をつけようとしたのかもしれない。あたしは今のこの子に見守ることしか出来ないのだろうか。まだハルは十三歳の子どもだ。未熟なところはたくさんある。あたしは、この子ために何かしてあげられないのだろうか。何もしてあげられない自分の無力さを思い知らされる。机に置かれている写真立てに目をやった。その写真には小恥ずかしそうにしているハルと笑顔の女子生徒。二人は親友同士だったのだろう。いつしか、二人はすれ違ってしまい、お互いに立つ位置が変わってしまったのかもしれない。
「楓、大丈夫?」
声をかけて来たのは、ハルの母親である陽子だ。あたしの幼なじみであり、一番の親友であり、そして今は義姉にあたる人物だ。彼女はハルとよく似ている。引っ込み思案で、よく人の影に隠れてしまうような人物で、かなりの美人であった。学生時代では、男子達から言い寄られることも何度もあった。その度、あたしが間に入り、守ってきた。いつからだっただろうか。兄に想いを寄せるようになっていた。引っ込み思案の彼女のことだ。うまく話せずすぐにうつむいてしまっていた。兄が都心の大学に進学することになり、陽子は表情を曇らせることが多くなり、好きだった絵も気が乗らない様子であった。卒業する間際になり、あたしは陽子の背中を押して、兄のもとへと連れて行き、想いを伝えさせ、二人はめでたく両想いになることになった。しばらく遠距離恋愛が続き、お互いに社会人へとなって数年したところで結婚をし、ハルを授かった。兄も陽子も幸せそうな表情を浮かべて、こちらも暖かいキモチにさせられる。それは今も変わらない。
「うん、あたしは大丈夫」
「ハルのこと、いろいろありがとう。わたし達じゃ、あんなに明るくさせることは出来なかったから」
「別にあたしだけの力じゃないよ。近所に住む少年に協力をしてもらってね。今じゃ友達と寄り道をして来るぐらいさ」
「そう。そっちで友達が出来たのね。そっちでも自分の殻に閉じこもってしまってないか心配だったの」
「大丈夫よ。この子はまだまだ子どもなところはあるけれど、あたし達が思っている以上に大人なんだよ。それに今、絶賛初恋中だから」
「あら」
陽子はポッと赤くなり、そしてやさしく微笑み、ハルを見つめた。すぐに赤くなるところも、やはり母娘だなと思ってしまう。あたしはおかしくなって、思わず声を出して笑ってしまった。陽子は頬を膨らませて、あたしを睨みつけた。
「何よ。もう」
「いやなんでもない。陽子、少し飲まないかい」
「そうね。まだおやつどきだけど、ハルの様子とか聞きたいし」
「どこから話そうかしら」
二人して笑い合った。
ハルの頭をやさしく撫で、あたし達は部屋をあとにした。
ハルには幸せになってもらいたい。あの子はあたしの希望の光なのだから。
*
夢を見た。
わたしとシズが親友として生活をしていた頃だろうか。学校近くにある公園で、わたし二人、よく写生会を行っていた。色鮮やかなコンビネーション遊具やかわいらしいパンダや馬のスプリング遊具、ブランコなどがあって、子ども連れが多くにぎやかであった。その風景を描き合っては、二人で観せ合っていて、その時間がとても楽しくて幸せな瞬間であった。
「ハルは本当に絵が上手だよね。あたし、どんなに描いても,ハルのようには描けないよ」
「そ、そんなことないよ。わたし、シズの絵、すごく好きだよ。シズが描く人達の表情、すごく楽しそうなんだもん。たしとは見ているんだって思わされるもん。それにシズの絵はこっちまでもが笑顔になるんだよ。なかなか出来ないよ」
「ハルは本当にやさしい子だよね。そこがハルのいいところで、あたしの好きなところではあるけどね」
シズは切なそうな笑みを浮かべて、わたしの絵をまじまじと観ていた。今思えば、これが彼女と距離が出来てしまうきっかけになってしまったと思う。けれど、それからもわたし達二人は一緒に絵を描き続けていた。人間関係に不器用な二人だ。シズと出会ったのは美術部だった。当時はクラスも別々でお互いに初対面に等しかった。話すきっかけになったのはペアにになって似顔絵を描くことになって、わたし達はペアを組めておらず、気まずさを感じつつも、わたし達はペアとなった。シズは本当にキレイな絵を描いていた。わたし達は緊張しつつも会話をしながら交流を深めていった。最初はお互いに苗字に『さん』づけで呼び合っていたけれど、いつしかわたしのことを『ハル』と呼び、彼女のことを『シズ』と呼び合う仲になっていた。わたしにとって心から親友と呼べるのはシズが初めてだった。それが純粋にうれしかった。
二年生になると、わたし達は同じクラスになった。心の底からうれしかった。もっとシズと絵の話しが出来る。そのことで頭の中がいっぱいだった。でもそんな幸せな時間が長く続くことはなかった。わたしは佐倉さんのグループに目をつけられてしまったのだ。佐倉さんは見た目が派手で気の強いことで有名であった。最初は教科書に『バカ』とか『ブス』など落書きされたり程度で、シズも「気にすることはないよ」と声をかけてくれていた。シズだけがわたしの味方でいてくれていた。そのはずだったのに、シズは佐倉さんのグループと行動するようになっていた。佐倉さん達に便乗するように、わたしのヒソヒソと悪口を言ったり、階段から突き落とされることもあった。シズの裏切りが、絶望の淵へと突き落とされたのだ。そしてわたし学校に行けなくなった、一番の事件が起きた。わたしは佐倉さん達に無理やり人気のない裏倉庫へと連れて行かれた。わたしは彼女達に囲まれ、逃げ道がなく、ただただ恐くて震えることしか出来なかった。
「あんたさ、いつも目障りだったんだよね。男子達にさ媚び売るような話し方するところとかさ。はっきり言って上目づかいとかキモチ悪かったんだよねぇ」
「そ、そんな! こ、媚びなんて売ってないです! わ、わたし、ただ男の子と話すのが苦手なだけで…」
「うちらは、あんたの言い分なんて聞いてないんだよ」
佐倉さんはそう言って、わたしの左頬を叩いたのだ。わたしの怯える表情を見て、佐倉さんはいいことでも思いついたかのように笑みを浮かべた。佐倉さんはわたしの両側にいた女子生徒とアイコンタクトを取った。わたしはより恐くなって、やっとの思いで足を動かしたけれど、すでに時が遅く、わたしは二人の女子生徒に羽交いじめにされてしまい、逃げ出すことが出来なかった。
「月城、何ぼさっとしてんのよ。あんたがやるんだからね」
「や、やるって…、な、何を…」
「何をって。本当にどんくさいんだから。あんたが、こいつのブラウスを破くんだよ」
「は…?」
「いいから早くやれよ。あんたがやられたっていいんだぞ」
佐倉さんの言葉にシズは顔を青くさせて、首を横に振って、恐る恐るとこっちに足を運んでいた。
――お願い、やめて。あなただけにはそんなことをしてほしくない。やだやだ!
そんな願いも儚く、シズはわたしのブラウスに手をかけ、力いっぱいに引きちぎった。わたしの上裸が露わとなり、手を離されるまま床へと崩れ落ちた。声を殺しながら泣いているわたしに対し、佐倉さん達は嘲笑いながら写真を撮っていた。そのとき、わたしの中で何かが切れてしまった。周りがまっ暗になっていった。わたしは独りぼっちになってしまったのだ。あのときの様子を見れば、シズが自分の意志でやって来ていないということはわかっている。だけれど、それでも彼女がしたことは許されることではない。どんな理由があったとしても、彼女がした行為は裏切りだ。
わたしは暗い空間の中、独り塞ぎ込んでしまった。そんなとき、わたしに一つの手が指し伸ばされた。顔を上げると、そこ立っていたのは楓ちゃんだった。わたしに絵を描く楽しさを教えてくれて、そしてわたしが独りぼっちにならないように駿人くん達に出会わせてくれた人。指し伸ばされた手を掴むと、まっ暗の世界に光が差しかかり、少しずつ明るくなっていった。今のわたしの周りにはたくさんの人がいる。楓ちゃんだけではない、駿人くんやヒナちゃん、藤堂くん、野田先生、そして美術部のみんながいる。もう独りぼっちなんかじゃない。たくさんの人に支えられている。だからもう大丈夫だといのは知っている。わたしは少しずつでも前に進むことが出来ている。
わたしはゆったり目を覚まし「シズ」と届くことない名前を呟いた。
もうあの頃の関係には戻れないわたし達。でも心のどこかで彼女と繋がりたいと思っている自分もいる。あのとき、どんなキモチでわたしを抱きしめたのだろう。シズもわたしと繋がりたいと思ってくれていたのかもしれない。わたしはぐったりと体を起こし、窓から見える空を見た。もう夜になっていて、幾千の星がキラキラと光らせていた。その光がどことなく切なくて、今のわたしの感情と似ていた。手を伸ばせば届きそうなのに届くことのない距離。わたしは深く息を吐いた。
「ハル、宿題のほうは大丈夫かい」
「うん。大丈夫。きちんとやっているよ」
「まぁ、あんたは勉強出来るから。心配はいらないか」
楓ちゃんはとなりに座って、お茶を啜った。
彼女自身も、ここのところ仕事が立て込み、徹夜が続くことがあった。昨晩もあまり眠れていないようで、クマが出来ていて、少しやつれたようにも見える。ごはんのときは、いつも一緒に食べるけれど、食べ終えるとすぐに書斎へと戻ってしまうことが多かった。お茶を持って行ったときも、行き詰っている表情をしていることもあった。楓ちゃんはずっと一人で戦っていたのだと気づかされる。そして仕事に向けている顔が紛れもなくプロのイラストレーターそのものであった。わたしはその楓ちゃんに甘えてばかりいた。いつか彼女のようにやさしくて強い人になりたい。そして独りではないと知った今、前へと歩いていくことを決意した。少しでも強くなれるように。両親とも少しずつではあるが、連絡を取るようにしている。明るくなったわたしの声に、母は泣いて喜んでいた。わたしはそれだけ心配をかけてしまっていたのだと反省した。辛いことがあったら、殻に閉じこもることはせずに打ち明けようと思う。そしてこれからは心配かけた分を、恩返しをして行きたい。
「ねぇハル。久しぶりに帰省してみるかい」
「えっ」
楓ちゃんの提案に、わたしは目を大きく見開いた。
帰省しようだなんて考えてもいなかった。むしろ、考えようともしていなかった。わたしは言葉を失いつつ、わたしは自分の絵を見つめた。自分はどうしたいのか。両親のもとに帰って、平常心でいることが出来るのか。元同級生と出くわしたとき取り乱してしまわないか。恐怖心や不安感が膨らんで行った。今でもイジメを行っていた佐倉さん達のことを思い出すと震えがとまらなくなってしまう。前に進むと決めたというのに、未だに恐怖心で苛まれている。わたしはどうすれば。震える手にキレイな手が添えられた。怯えた表情でわたしは楓ちゃんを見た。わたしとは対照的に安らかに微笑んでいた。風が吹き、わたし達の髪を揺らした。
「ハル。泣いたっていい。怒ってもいい。取り乱しだっていい。だってそれがハルの本音なんだから。親友だった子がどう考えているかはあたしにもわからない。だけれど、もし許してほしいと思っているのであれば、本音をぶつけてやればいい。その子が罪を償うのはそれからでいい」
「楓ちゃん、わたしね恐いんだよ。恐くて仕方がないの。またイヤなことをされるんじゃないかって。また立ち向かえないんじゃないかって。そう考えると、震えが止まらないの。弱い自分がイヤなの」
「うん。だけれど今のハルにとって乗り越えなくちゃいけない壁なのかもしれないね。だからさイヤなことをして来た奴らに見せつけてやんな。強くなったんだぞわたしはって。それが最高のやり返しだと思うな。あたしは」
楓ちゃんは二ッと笑った。
彼女の笑顔はやっぱり好きだ。前に進めなくなったときに、再び足を前へ前へと進めるように導いてくれているように感じる。殻に閉じこもったとき、あのときの温もりを思い出す。わたしが抱いていた恐怖心が、少し和らいだ。わたしは楓ちゃんにとびっきりの笑顔を向けた。そんなわたしに楓ちゃんはやさしく包み込んで頭を撫でてくれた。
「うん。やっぱりハルは笑顔が似合う」
「ありがとう。わたしもね、楓ちゃんの笑顔がすごく好きだよ」
「うれしいことを言ってくれるじゃない」
青い空の下、二人で笑い合った。
*
帰省すると決めた週の土曜日にわたし達は両親のもとへ向かった。
空は快晴。とてもおでかけ日和であった。運転をする楓ちゃんの傍ら、わたしは車窓の外を眺めていた。懐かしい風景が広がっている。最寄り駅に広がるたくさんのビル。何度も通りかかったチェーン店。よく買いに行っていた文房具店。家に近づけば、見慣れた住宅街。変わらぬ風景に、どこか安心している自分がいた。でも不安があるのも事実だ。胸のあたりがざわざわとしている。
「ハル、どうだい。久しぶりの地元は」
「まだ数ヶ月しか経ってないのに、すごく懐かしい」
「そうだね。駿人達と出会って、ハルはどんどん明るくなっていく。まだ不安定なところもあるかもしれないけれど、少しずつ変わって来ていると思うよ」
「うん。そうだといいんだけれど…」
わたしの煮え切れない答えに、楓ちゃんはクスリと笑った。
変われている自信はまだない。だけれど、以前のように笑えるようになって来ているように思える。むしろ以前よりも笑っている気がする。それも楓ちゃんのおかげだ。楓ちゃんのおかげで駿人くん達と出会えた。そして恋を知ることが出来た。感謝をしてもしきれてないぐらいだ。徐々に両親が住む家が見えてくる。楓ちゃんはウィンカーを出し、減速しつつ敷地内へと入って行った。二階建ての黄緑がかかったマイホーム。車から降り、ぼんやりとその光景を眺めている。玄関が勢いよく開き、母さんがわたしに向かって駆け寄り、力いっぱいに抱き締めた。久々に感じる懐かしい温もり。花のような甘くやさしい匂い。離れていた時間を埋めていく。そんな感じがした。
「母さん、苦しい」
「あっ、ごめんなさい。えっと、そのおかえりなさいハル」
「ただいま。母さん」
「見間違えるぐらい、明るくなって…」
「そ、そんなことないよ。それでさ父さんは…?」
「中でテレビ見ているわ。帰省するって連絡あってから、ずっとそわそわしているわよ。晴香はまだか。まだ帰ってこないのかって。そればかりなんだから」
「父さんらしい」
二人でクスクスと笑った。
「お二人さん。そろそろ中に入りましょ」
楓ちゃんはわたしと母の肩に手を回し、玄関へと足を運ばせた。
父さんが仕事で履いて行く革靴や普段履いている運動靴、母さんがよく履いている桃色のパンプスがキレイに並べてあった。下駄箱に上にはキレイなガラス細工の細い花瓶に一輪の花が添えられていた。きっと母さんだろう。母さんは玄関を大切にしている。『帰って来たときに安心することが出来るでしょ』といつも言っている。で確かに玄関に花が添えられていると、キモチがいい。脱いだ靴を揃え、リビングに向かった。父はソファーに座り、バラエティー番組を視聴していた。普段観ていないくせに、今日に限って観ているだなんて、明らかに落ち着きがないのがわかる。いつもだったら、ニュースや刑事ドラマ、時代劇などを好んで視聴している。父さんの新しい一面を見れた気がする。
「た、ただいま、父さん」
「あぁ、おかえり」
父さんはこちらを向かず、挨拶を返した。威厳を保ちたいのだろう。わたしが部屋に引きこもってしまったとき、父さんは何度もドアを叩き、何度もわたしに呼びかけた。何があったのか。顔を見せてくれないか。何度も何度も。あのときのわたしは、恐くて、心配をかけたくなくて、両親に壁を作ってしまった。余計に心配をかけてしまう結果になってしまったけれど。だけれど、こうしてまた顔を合わせることが出来ている。
「あ、あの。と、父さん。その…」
「なんだ」
「コーヒー淹れようか」
「いや、いい。大丈夫だ」
「うん。わかった」
父さんはどちらかというと寡黙な人だ。家でもあまり話さないし、いつも読書をしているか、書斎で仕事をしているかだ。家族に興味がないのかと思いきや心配性な面も見せてくる。わたしが体調を崩したときも母さんよりもそわそわしているし、ショッピングモールで迷子になったときも走って探し回ってくれたこともあった。きっと不器用な人なのだろう。だからこそ、わたしは父さんのことをキライになることはなかったし、反抗期らしい時期もなかった。
「やぁ兄さん」
「楓、お前、何しに来たんだ」
「冷たいわねぇ、兄さん。愛しいハルを送って来たんじゃない」
「あぁ、それはすまなかったな。ありがとう」
「どういたしまして。それより兄さん。愛しの娘がコーヒーを淹れてくれるっていうのに断る阿呆がどこにいる?」
「うるさい。お前に関係ないだろう」
「そうだねぇ。でもいいのかなぁ。ハルが結婚とかしたらもう淹れてもらえなくなるかもねぇ」
「け、結婚なんてまだ早い! 晴香はまだ中学二年生なんだぞ!」
「そんなこと言っているうちに、あっという間にハルが結婚相手連れてくることになるよぉ。に・い・さ・ん」
楓ちゃんの言葉に言い返せず、父は小さく唸っていた。わたしのこともあって、父さんは楓ちゃんには弱いようだ。わたしのこともあって、あまり強くは言えないのだろう。父さんは気まずそうにこちらを見て「晴香、コーヒーを頼めるか」と口にした。大きな子どもみたいなところがおかしくなってしまい、思わず噴き出してしまった。そのことに父さんはムッとした。父さんと楓ちゃんは本当に仲のいい兄妹だなと感じる。
「なんだ?」
「ううん。なんでもない。コーヒー淹れてくるから。待ってて」
「わかった」
肩を落とす父さんを横目にわたしは再び微笑みをこぼして、キッチンへと足を運んだ。
*
翌日、わたしは一人で町を歩いていた。小学校や以前通っていた中学校、よく通っていた文房具店、親友とときどき行った駄菓子屋、そしてよくスケッチしていた公園。どれも懐かしく思えるのと同時にやはり辛いと感じている。公園の隅あるベンチに腰を下ろした。夏休みということもあり、幼児や小学生の楽しげな声や保護者のおしゃべりをする声、ブランコなどの擦れる音が聞こえてくる。とても平穏な日常だ。まるであの出来事がなかったかのように思わされる。同じことをやってありたいとは思わない。だけれど、なんだか虚しく思えてしまう。わたしだけが取り残されてしまったように感じる。きっとみんなはわたしのことを忘れて、新しい日常を送っている。それが許せない自分がいるのだ。ざわざわする胸にそっと手を添えた。悔しくて苦しい。どうしよもならないこの感情は、ずっと抱くことになるのだろう。きっと大人になってもずっと。わたしは帰路に就こうとベンチから立ち上がった。公園の門から出て少し歩いたところで、わたしは聞き覚えのある声で呼び止められた。
「ハル…? ハルでしょ!」
今一番に聞きたくはなかった声、出くわしたくはなかった人物。わたしはみるみると顔を青く染め、ゆったりと振り返った。わたしよりも少し高くすらりとしたスタイル、茶色かかったボブカット、横髪に黄色の髪留めを付けた少女、『シズ』こと月城雫が戸惑った表情で立ち尽くしていた。お互いに信じられない様子であった。体が硬直してしまい、動くことが出来なかった。足ががくがくと震えていた。彼女がいるということはリーダー格の女子生徒・佐倉さんも近くにいる可能性だってある。恐くて苦しくて逃げたいというキモチがいっぱいになった。それなのに足が鉛のように重たい。力いっぱいにスカートを握りしめていた。恐くて恐くて仕方がなかった。
「ハル、大丈夫だよ。佐倉さん達はいないから。あたし、今一人だから…」
「し…ず」
「ハル、ハル、ハル、ハル」
シズは駆け寄って、わたしを抱きしめた。彼女が震えていて泣いているのがわかった。
「あたし、ハルに謝らなきゃってずっと思ってた。親友だったのに、一緒に戦わなきゃいけなかったのに。あたし恐くて、イジメられたくなくて、一緒になってハルのことを遠ざけてイジメをしちゃってた。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
彼女が発する言葉にウソを吐いているようには聞こえなかった。もともと大人しくて性格で純粋な女の子だ。ウソを吐けない子だというのはわかっている。だけれど、わたしは彼女に対し、まっ黒な感情を抱いていた。シズのことを強く押し離し、わたしは自分の想いを全部彼女にぶつけた。
「今さら、何? 許せるわけないじゃない。だって、裏切られたんだよ。信じていたあなたに。親友だと思ってたあなたに。言い訳なんか聞きたくない。わたしは…わたしは…」
大好きなあなたに手を汚してほしくなかった。
その言葉を発することが出来ず、わたしは鉛のように重たくなった足を必死の思いで走らせた。何度も躓きつつも走り続けた。走馬灯のように思い出していく。彼女との思い出。お喋りをしたこと、一緒にスケッチしていたこと、共にお弁当を食べたこと、二人で笑い合ったこと、下校中に見たオレンジ色の空を。泪があふれた。もっと一緒にいたかった。もっと笑い合いたかった。もっと一緒に絵を描いて行きたかった。もっと一緒に歩んで行きたかった。それがもう叶うことがないのだと。わたしは、もう彼女と親友には戻れないのだと思い知らされる。彼女自身、たくさんの葛藤があっただろう。とは言えども、イジメに加担したことへの事実は変わりはしない。もうあの頃のわたし達には戻ることは出来ないのだ。わたしはまた悲しみの海へと潜っていた。住宅街の曲がり角、わたしは誰かとぶつかり、派手に尻餅をついた。わたしは慌てて顔を上げて謝罪をした。
「ご、ごめんなさい!」
そこには楓ちゃんが心配な表情を浮かべて立っていた。
「か、楓ちゃん…。…楓…ちゃん…」
「ハル、あたしね。胸騒ぎをしていたんだ。ハルに何かあったんじゃないかって、あなたを探していたの」
「楓ちゃん楓ちゃん」
「大丈夫。がんばったんだね。いいんだよ。泣いても」
楓ちゃんはやさしくわたしを包み込んだ。彼女の温もりを感じながら、わたしは声を出して泣き出した。怒りや悲しみ、寂しさや虚しさ、たくさんの感情がわたしの心をいっぱいにしていた。シズが逆らうことが出来なかったのはわかっている。だけれど、もうわたし達の友情が繋がることはないのかもしれない。あふれるばかりの泪。わたしは楓ちゃんの腕の中で泣き続けた。
* 楓視点
泣き疲れたのかハルは、自室のベッドで横になっていた。
理由は聞かなくとも、なんとなくわかる。おそらくだが、以前通っていた中学校の同級生と出くわし対峙したのだろう。そのときにどんなやりとりがあったかまではわからない。しかし、彼女なりに過去と決着をつけようとしたのかもしれない。あたしは今のこの子に見守ることしか出来ないのだろうか。まだハルは十三歳の子どもだ。未熟なところはたくさんある。あたしは、この子ために何かしてあげられないのだろうか。何もしてあげられない自分の無力さを思い知らされる。机に置かれている写真立てに目をやった。その写真には小恥ずかしそうにしているハルと笑顔の女子生徒。二人は親友同士だったのだろう。いつしか、二人はすれ違ってしまい、お互いに立つ位置が変わってしまったのかもしれない。
「楓、大丈夫?」
声をかけて来たのは、ハルの母親である陽子だ。あたしの幼なじみであり、一番の親友であり、そして今は義姉にあたる人物だ。彼女はハルとよく似ている。引っ込み思案で、よく人の影に隠れてしまうような人物で、かなりの美人であった。学生時代では、男子達から言い寄られることも何度もあった。その度、あたしが間に入り、守ってきた。いつからだっただろうか。兄に想いを寄せるようになっていた。引っ込み思案の彼女のことだ。うまく話せずすぐにうつむいてしまっていた。兄が都心の大学に進学することになり、陽子は表情を曇らせることが多くなり、好きだった絵も気が乗らない様子であった。卒業する間際になり、あたしは陽子の背中を押して、兄のもとへと連れて行き、想いを伝えさせ、二人はめでたく両想いになることになった。しばらく遠距離恋愛が続き、お互いに社会人へとなって数年したところで結婚をし、ハルを授かった。兄も陽子も幸せそうな表情を浮かべて、こちらも暖かいキモチにさせられる。それは今も変わらない。
「うん、あたしは大丈夫」
「ハルのこと、いろいろありがとう。わたし達じゃ、あんなに明るくさせることは出来なかったから」
「別にあたしだけの力じゃないよ。近所に住む少年に協力をしてもらってね。今じゃ友達と寄り道をして来るぐらいさ」
「そう。そっちで友達が出来たのね。そっちでも自分の殻に閉じこもってしまってないか心配だったの」
「大丈夫よ。この子はまだまだ子どもなところはあるけれど、あたし達が思っている以上に大人なんだよ。それに今、絶賛初恋中だから」
「あら」
陽子はポッと赤くなり、そしてやさしく微笑み、ハルを見つめた。すぐに赤くなるところも、やはり母娘だなと思ってしまう。あたしはおかしくなって、思わず声を出して笑ってしまった。陽子は頬を膨らませて、あたしを睨みつけた。
「何よ。もう」
「いやなんでもない。陽子、少し飲まないかい」
「そうね。まだおやつどきだけど、ハルの様子とか聞きたいし」
「どこから話そうかしら」
二人して笑い合った。
ハルの頭をやさしく撫で、あたし達は部屋をあとにした。
ハルには幸せになってもらいたい。あの子はあたしの希望の光なのだから。
*
夢を見た。
わたしとシズが親友として生活をしていた頃だろうか。学校近くにある公園で、わたし二人、よく写生会を行っていた。色鮮やかなコンビネーション遊具やかわいらしいパンダや馬のスプリング遊具、ブランコなどがあって、子ども連れが多くにぎやかであった。その風景を描き合っては、二人で観せ合っていて、その時間がとても楽しくて幸せな瞬間であった。
「ハルは本当に絵が上手だよね。あたし、どんなに描いても,ハルのようには描けないよ」
「そ、そんなことないよ。わたし、シズの絵、すごく好きだよ。シズが描く人達の表情、すごく楽しそうなんだもん。たしとは見ているんだって思わされるもん。それにシズの絵はこっちまでもが笑顔になるんだよ。なかなか出来ないよ」
「ハルは本当にやさしい子だよね。そこがハルのいいところで、あたしの好きなところではあるけどね」
シズは切なそうな笑みを浮かべて、わたしの絵をまじまじと観ていた。今思えば、これが彼女と距離が出来てしまうきっかけになってしまったと思う。けれど、それからもわたし達二人は一緒に絵を描き続けていた。人間関係に不器用な二人だ。シズと出会ったのは美術部だった。当時はクラスも別々でお互いに初対面に等しかった。話すきっかけになったのはペアにになって似顔絵を描くことになって、わたし達はペアを組めておらず、気まずさを感じつつも、わたし達はペアとなった。シズは本当にキレイな絵を描いていた。わたし達は緊張しつつも会話をしながら交流を深めていった。最初はお互いに苗字に『さん』づけで呼び合っていたけれど、いつしかわたしのことを『ハル』と呼び、彼女のことを『シズ』と呼び合う仲になっていた。わたしにとって心から親友と呼べるのはシズが初めてだった。それが純粋にうれしかった。
二年生になると、わたし達は同じクラスになった。心の底からうれしかった。もっとシズと絵の話しが出来る。そのことで頭の中がいっぱいだった。でもそんな幸せな時間が長く続くことはなかった。わたしは佐倉さんのグループに目をつけられてしまったのだ。佐倉さんは見た目が派手で気の強いことで有名であった。最初は教科書に『バカ』とか『ブス』など落書きされたり程度で、シズも「気にすることはないよ」と声をかけてくれていた。シズだけがわたしの味方でいてくれていた。そのはずだったのに、シズは佐倉さんのグループと行動するようになっていた。佐倉さん達に便乗するように、わたしのヒソヒソと悪口を言ったり、階段から突き落とされることもあった。シズの裏切りが、絶望の淵へと突き落とされたのだ。そしてわたし学校に行けなくなった、一番の事件が起きた。わたしは佐倉さん達に無理やり人気のない裏倉庫へと連れて行かれた。わたしは彼女達に囲まれ、逃げ道がなく、ただただ恐くて震えることしか出来なかった。
「あんたさ、いつも目障りだったんだよね。男子達にさ媚び売るような話し方するところとかさ。はっきり言って上目づかいとかキモチ悪かったんだよねぇ」
「そ、そんな! こ、媚びなんて売ってないです! わ、わたし、ただ男の子と話すのが苦手なだけで…」
「うちらは、あんたの言い分なんて聞いてないんだよ」
佐倉さんはそう言って、わたしの左頬を叩いたのだ。わたしの怯える表情を見て、佐倉さんはいいことでも思いついたかのように笑みを浮かべた。佐倉さんはわたしの両側にいた女子生徒とアイコンタクトを取った。わたしはより恐くなって、やっとの思いで足を動かしたけれど、すでに時が遅く、わたしは二人の女子生徒に羽交いじめにされてしまい、逃げ出すことが出来なかった。
「月城、何ぼさっとしてんのよ。あんたがやるんだからね」
「や、やるって…、な、何を…」
「何をって。本当にどんくさいんだから。あんたが、こいつのブラウスを破くんだよ」
「は…?」
「いいから早くやれよ。あんたがやられたっていいんだぞ」
佐倉さんの言葉にシズは顔を青くさせて、首を横に振って、恐る恐るとこっちに足を運んでいた。
――お願い、やめて。あなただけにはそんなことをしてほしくない。やだやだ!
そんな願いも儚く、シズはわたしのブラウスに手をかけ、力いっぱいに引きちぎった。わたしの上裸が露わとなり、手を離されるまま床へと崩れ落ちた。声を殺しながら泣いているわたしに対し、佐倉さん達は嘲笑いながら写真を撮っていた。そのとき、わたしの中で何かが切れてしまった。周りがまっ暗になっていった。わたしは独りぼっちになってしまったのだ。あのときの様子を見れば、シズが自分の意志でやって来ていないということはわかっている。だけれど、それでも彼女がしたことは許されることではない。どんな理由があったとしても、彼女がした行為は裏切りだ。
わたしは暗い空間の中、独り塞ぎ込んでしまった。そんなとき、わたしに一つの手が指し伸ばされた。顔を上げると、そこ立っていたのは楓ちゃんだった。わたしに絵を描く楽しさを教えてくれて、そしてわたしが独りぼっちにならないように駿人くん達に出会わせてくれた人。指し伸ばされた手を掴むと、まっ暗の世界に光が差しかかり、少しずつ明るくなっていった。今のわたしの周りにはたくさんの人がいる。楓ちゃんだけではない、駿人くんやヒナちゃん、藤堂くん、野田先生、そして美術部のみんながいる。もう独りぼっちなんかじゃない。たくさんの人に支えられている。だからもう大丈夫だといのは知っている。わたしは少しずつでも前に進むことが出来ている。
わたしはゆったり目を覚まし「シズ」と届くことない名前を呟いた。
もうあの頃の関係には戻れないわたし達。でも心のどこかで彼女と繋がりたいと思っている自分もいる。あのとき、どんなキモチでわたしを抱きしめたのだろう。シズもわたしと繋がりたいと思ってくれていたのかもしれない。わたしはぐったりと体を起こし、窓から見える空を見た。もう夜になっていて、幾千の星がキラキラと光らせていた。その光がどことなく切なくて、今のわたしの感情と似ていた。手を伸ばせば届きそうなのに届くことのない距離。わたしは深く息を吐いた。
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