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第七章 桐谷龍之介

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 扉をノックしてみたが、返事はなかった。緊張はしたが、僕は恐る恐る中へと入る。

 暗い室内。光源はテレビの明かりだけが唯一の、寒々しい室内とは不釣り合いなお笑い番組の音声が耳心地悪く感じてしまう。

「大吾、いるの?」

 返事を待たずして部屋の明かりを点けてみれば、大吾はソファに横となっていた。頭には雑誌が被っていて、寝ているのか起きているのかは分からない。それはそうとして、気がかりなことがあった。

 それは、ソファあたりに乱雑した雑誌にしてもそうだし、大吾の頭に乗っている雑誌にしてもそうだった。全てがヘアカタログ雑誌で、普段の大吾であれば決して読まなさそうなものばかりだった。

 以前来た時は、そんなものはなかった。だったらここ最近集めたものだろうか。でも、なぜだろうか──

「勝手に入って来んじゃねーよ」

 大吾は雑誌を僅かにずらしながら、目だけを出して僕を見つめてくる。いや、睨みつけていると言った方がいいのか。目の下にできた深いクマを相まって、少しだけ怖かった。

 だけどここまで来たら、後に引き下がるわけにはいかない。僕は「ちょっと様子を見に来ただけだよ」と、大吾の了解もなくソファの脇に座った。ふと、床に散らばっていた雑誌の一つに目がいく。

「あ、これ……」

 まさかこんな場所で見つけるなんて思わなかった。かつて僕が監修したヘアアレンジが載っているヘアカタログ雑誌だ。もともとは「アテナヘアー」に舞い込んだ依頼だったが、美麗先輩の推薦もあり僕が担当したのだ。

「懐かしいな。もう、何年前になるかな……」

 ぱらぱらとページをめくると、当時の24歳頃の僕が目に飛び込んでくる。カメラ慣れしてなかったせいか、笑顔が少しぎこちない。そんなかつての自分を見ては、自然と笑みが溢れてしまっていた。

「大吾も、こういうの読むんだね」

「嫌味のつもりか?」

「そうじゃなくて、ただ、ちゃんと勉強してるんだなって感心しただけ」

 少なくとも、以前の大吾はこうではなかった。自分の技術にこそ重きを置いていて、あまり他人のカットを気にするタイプではなかった。

「誰かの、髪を切るの?」

「……どうして、そんなこと聞く」

「いや、だってここにあるのって、全部女性ヘアカタログだから。それに」と、僕は違うヘアカタログのページをめくる。するとページの端が折られている箇所が自然と開いて、どれもショートカットの特集ページであった。

 大吾は「だから、勝手に触るな」と雑誌を取り上げてくる。乱れた髪の毛を更に掻き乱し、ボソボソと言ってきた。

「用がないなら、帰れよ」

「用なら、あるよ」

「なんだ」

「いやさ、ここ最近、大吾元気がないから、なにかあったのかなって、そう思って。それを聞きに来たんだ……もしかしてだけど、24の日に、なにかあったんじゃないの?」

 思えば、いろんなものが狂ってしまったのは全てあの日が始まりであった。

「大吾の様子も変だし、蘭子ちゃんも、あの日から顔すらも出さない。連絡しても、全然出てくれないし。なんかおかしいなって、ずっとそう思ってたんだ。だからこれは……僕の勝手な想像なんだけどさ、本当はあの日、蘭子ちゃんのデートはうまくいってたわけじゃなくて、あの日、雨が降ったのは──」

「龍之介」

 大吾は、顔を手のひらで覆いながら言った。

「部外者のお前が、余計な詮索してんじゃねえよ」

 雷に打たれた気分だった。なにかの聞き間違いだと、そう思い込みたい自分がいる。

「なんで、そんなこと言うの? 僕、なにか大吾を傷つけるようなことした? それとも、僕のせいで蘭子ちゃんのデートが失敗したとか、そうなの?」

「違う、そうじゃねえ」

「だったら、なに。はっきり言ってくれないと、分かんないよ」

「……」

「なんで、いつも大吾はそうなんだよ。少しくらい、僕に話してくれたっていいじゃないか。涼子さんたちのことにしたって、僕はなにも知らなかったし」

「……」

「僕ら、友達でしょ! それなのに、どうして──」

「だから、そういうのがうぜぇんだよッ!」

 大吾の叫び声が室内に木霊した。初め、僕はなにが起こったのか分からず、ただ呆然と大吾を見つめることしかできなかった。

 大吾が顔から手を払って、僕を見る。その表情には、怒りとか、悲しみとか、とにかくいろいろ感情を混ぜ合わせたような、よく分からない顔つきであった。

「なんでなんでって、龍之介……たかだか数ヶ月一緒にいたくらいのお前に、俺たちのなにが分かるんだよ」

 耳を塞ぎたかった。

「哀れだから、教えといてやるよ。あやかしはな、人間社会に順応できるよう、子供の頃から教育され、学習してんだ。じゃなきゃ、人間たちの輪には溶け込めねーからな。そういうことに関しては、人間なんかよりもずっと長けてるんだよ。だから、たまにいるんだ。お前みたいな、勘違い野郎が」

 胸の奥底が、じくじく痛かった。

「蘭子がなんで連絡寄越さないかって? はん、んなもん決まってんだろうが。余計なお世話だって、そういうことだよ。涼子の件にしてもそうだ。話さなかったのは、話す必要がなかったからだよ。いついなくなるかもしれねえ他所モンに、しかも人間に、そんな義理はねえってことだ」

 もしもそれが事実だとしたら、そんなの悲し過ぎる。認めたくない。

「……大吾も」

「なんだよ」

「大吾だって……人間じゃないか。桐枝おばあちゃんだって、そうでしょ。だったら、僕もそうだよ。確かにはじめはあやかしだって聞かされてびっくりしたけど、でも今は心から、あやかしみんなの髪を切ってあげたいと思ってるし、仲良くなりたいって、そう思ってるよ。なのに、そんなのあんまりじゃないか」

 みんなの役に立っていると思っていた。花ちゃんにしても、湖太郎くんの時にしても、ぽんぽこ園のおじいちゃんおばあちゃん、それに蘭子ちゃん。そんな彼らと寄り添えていると感じていたのは、なにも僕の勘違いだったとは思わない。

「僕は、確かにあやかしの気持ちをすぐには理解できないかもしれないけど、でも理解できるよう努力はしてるよ。桐枝おばあちゃんや、大吾、きみがそうであるように……僕も、みんなと一緒にいたいから」

 気付いた時には既に、僕は泣いてしまっていた。こんなはずじゃなかったのに、もっと楽しい話がしたかったはずなのに、涼子さんたちを暖かく送り出してあげたかっただけなのに、空回りしてばかり。そんな自分がもどかしくて、涙が溢れてきた。

 大吾は、ただ黙って僕を見ている。慰めてくれることもなければ、前のように「泣くな」と言ってもくれない。ただ推し量るように僕を見て、口を真一文字に結んだままだった。

 そして、

「龍之介……お前もう、辞めろよ」

 はっきりとした口調で、大吾はそう宣告してくる。

「そもそもが、間違いだったんだ。お前みたいな部外者がここにいること自体、おかしな話だったんだ。それを今、ようやく理解した。東京に、帰れよ。お前にはお前の、活躍できる場所があるはずだろ。少なくとも、ここじゃねーよ」

 死刑宣告でも受けた気分だった。

「おかしいよ、こんなの。もしも僕に悪いところがあるなら、ちゃんと謝るから。みんなを傷つけていたんだったら、ちゃんと謝るから……」

「そういう問題じゃ、ねえ」

「だったら、僕のなにがいけないの。大吾、酷いよ。僕たち……友達、だよね」

 初めてだった。心から、この人となら一生友達でいられるかもしれないと思えたのは、大吾がはじめてだったんだ。

 それに、母さんのいなくなった穴をこの商店街のみんなが埋めてくれた。僕をもう一度美容師として在らせてくれたのは、あやかしみんなのおかげだった。

 だからこそ失いたくなかった。やっと見つけた、僕が本当にいたいと思える場所。北鎌倉の神童でもなければ、カリスマ美容師でもない。ただ一人の桐生龍之介としていられる、やっと見つけた居場所。

 だから、嫌だ。

「龍之介」

 大吾が、僕の名前を呼んでくる。心なしか、その瞳は涙が滲んでいるよう見えた。ただ、そう思いたいだけかもしれない。

 そのことを、僕は次の瞬間にも如実に悟ってしまっていた。

「俺は、お前のことをダチだと思ったことは……一度もねーよ」

 それが現実だった。

 僕は涙を拭って、立ち上がる。そのまま帰ろうとしたが、でもやっぱり最後になにか言っておきたくて、大吾へと向き直った。けれど結局はなにも言えなくて、僕は逃げるようにその場を後にした。
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