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第四章 誰そ彼とき
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嗚咽が止まる。時間も、止まった気がした。静謐とした中、ほだか先生の声だけが生きている。緊迫とした空気感の中で。
「だから、もう無理なんです。僕たちが一緒に働くことは……できません」
どうして、なんで──
「薫、ごめんなさい……ずっと黙っていて、本当に……」
違う、そうじゃない。
「…っ! 薫!」
突然、ほだか先生の声が張り上がる。その時その瞬間、わたしの体は無自覚だった。泣きじゃくった顔はそのままに、一階に降りた瞬間にも叫んでいた。
「違います! 天童さん! これはっ、ほだか先生の冗談で──」
ぱたん──扉が閉まる。天童さんの姿は、もうどこにもいなかった。足元から崩れ落ちたほだか先生が、その場に残されているだけだった。
「ほだか先生……どうして」
「結衣くん、やってしまいました」
ほだか先生はわたしの方へと頭を傾かせて、なぜか笑っていた。笑いながら、なぜか泣いていた。そんな喜怒哀楽すべてを混ぜ合わせたかのような、つまりはよく分からない表情で、やはり泣いていた。掛ける言葉が、見つからない。でも、やることは決まっている。
「天童さんを、見つけなきゃ……」
「もう、無駄ですよ」
ほだか先生の冷ややかな声音が、本能的に動きはじめていたわたしの体を硬直させる。ほだか先生は、言った。
「薫は、このカクリヨ美容室でしか実体を保てない。生きているという薫自身の強い思い込みが、かろうじて魂をこの世界に繋ぎ止めているに過ぎません」
「でも、ほだか先生の、その眼ならっ──」
「僕が、それを試さなかったと思いますか?」
ほだか先生は、手のひらで顔を覆った。
「もしも見えていたのなら、薫の無念を晴らす証拠が掴めるかもしれない。そう思い、もう何回、何十回、何百回と試しました。天候、時刻、時期、タイミング……それら条件を考慮して、全て試した。でも、駄目だった……薫だけは、どうしても見えない」
だったらどうして、こんなこと──その焦燥じみた言葉は、喉の直ぐそこまで出ていたけれど。
「分からない」
わたしが言うよりも先、ほだか先生は残酷に打ちのめされたかのような口振りで、ぼそぼそと呟いた。
「なぜ、僕はあんなことを……薫、ごめんなさい……ごめんなさい……」
わたしはそのとき、彼、黄昏ほだかに対して抱き続けた自分の勘違いなるものに、ようやく持って気付かされた。
彼は、困っている人がいるならば黙って手を差し伸べる。彼は、泣いている人がいるならば黙ってその隣に寄り添ってくれる。憎しみや、悲しみを凌駕する無限の愛で包み込んでくれる。そのための代償を厭わない。彼はそんな、生きる仏さま、人身御供のような存在であると、そのように思っていた。
でも、違った。彼は、なにも仏ではなかった。その思想こそ高尚な領域に達しているが、その本質はわたしたちとなに一つ変わらない。転んでしまえば、傷つきもする。自身の大切なものを奪った誰かを、憎しみもする。つきたくもない嘘をつけば、悲しみもする──彼はそんなにもごく自然な感情を抱く、わたしと同じ、人だったのだ。
なぜ、ほだか先生がこのとき、天童さんに真実を打ち明けたのか──それは、もう苦しみに耐えきれなかったからだ。苦しかったのだ、ずっと誰にもその苦しみを打ち明けられず、一人で悩んで、悩んで、悩んで、苦しみ抜いて、そしてその苦しみに、彼はようやく終止符を打った。
でも、それで彼は本当に報われたのか? ──否、そんなことは絶対ない。ほだか先生の苦しみは、これからより一層酷くなるに違いない。彼は、そういう人間だ。天童さんに抱く罪悪感を払拭する日は、訪れない。
そんなにも、彼は優しい人だった。三觜のときにしても、紅麗亜ちゃんにしても、それにわたしのときにしたって、彼はずっと苦しそうだった。無敵の英雄ではなかった。こうなることは、ずっと前から薄々と分かっていた。だから支えたいと思った。その枯れ木のような体に寄り添ってあげたいって、それが全ての始まりだったじゃないか。それなのに、どうしてそれを見てみないフリなんかしたのよ……。
ほだか先生は、わたしに「辞めてくれ」だなんて、ひと言も言ってない。わたしが勝手に、そう判断しただけ。その隣に寄り添え続ける選択もあったはずだ。それに、決して弱み一つ吐き出さないほだか先生の「SOS」かもしれないって、どうして思えなかったの……。
どうして、「わたしのことも頼ってください」って、素直にそう言わなかったのよ──
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「ほだか先生」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ほだか先生、お願い。もう、泣かないで」
恐る恐る、ほだか先生の肩に触れてみる。わたしよりも、少し大きな肩幅。だけどその垂れ下がった肩は、わたしよりずっと小さく思えた。
「ほだか先生。大丈夫、大丈夫ですから」
彼が、泣いている。ずっと誰かのために、一人で戦ってきた孤高の人が、今この瞬間、泣いているんだ。そんな、最後まで戦い抜いた男の涙は、ダサい? 男の人が泣くのって、かっこ悪い?
ううん、そんなことはない。わたしは、絶対にそうは思わない。
一生懸命頑張って、それでもどうしようなくて、わたしはそんなほだか先生と一緒の側にいられたことを、誇りに思う。
だからまだ、終わってない。終わらせない。
まだ、やり直せる──寄り添える。
「ほだか先生」
こんな気持ちは、生まれてはじめてだった。恋とか、愛とか、わたしにはよく分からない。だけれど、そんなことはどうだっていい。わたしは自分の意思で、ほだか先生の側にいてあげたいって、心の底からそう思った。
「わたしが……結衣が、ついています」
ほだか先生の震える体を、そっと抱きしめてみる。小刻みに揺れる背中を、さすってみる。暖かい。男の人の体温が、こんなにも温いものなんだって、生まれて初めて知った。こんなにか細いほだか先生でさえ、わたしよりずっとたくましかった。全身で、ほだか先生の息遣いを感じる。
春の日差しを浴びているような、暖かな気持ち。
捨てられた仔犬を抱きしめているような、切ない気持ち。
運命の王子さまに巡り合うシンデレラのような、愛おしい気持ち。
それら全ての感情が、わたしの心を満たしてくれる。
わたしは、やっぱり……
「わたしは……ほだか先生、あなたことが、好きです」
ようやく、伝えたその気持ち。また溢れ出した感情には。
「ほだか先生の、髪を切っている姿が好きです。ほだか先生の、笑った顔が好き……わたしの作った料理を『美味しい』って言ってくれるほだか先生が好き……わたしね、ほだか先生。あなたのことが、好きなんです」
なぜか、溢れ出した好きとともに、涙が湧き出していた。ずっと後ろ髪を引かれていた自分の感情に素直となるのは、こんなにも恥ずかしくて、でも心の底から幸せだと思えた。
「だけど一番は……優しく笑ってる、ほだか先生が大好きなんです」
わたしは、ほだか先生からゆっくりと体を離す。顔を覆い隠すその手を、優しく取り払う。そして、その赤らんだ瞳から流れる涙を、指先でそっと拭った。
「だからほだか先生、わたしは……あなたにはずっと優しく、笑っていて欲しいんです」
「結衣くん……」
「大丈夫。わたしが、天童さんを連れてきます。わたし、図々しさには人一倍自信があるんです。嫌だって言われたって、引きずってでも必ず連れて来ます」
「でも……」
「大丈夫」
わたしは、もう迷わない。
「わたしは、絶対に帰ってきますから──」
湧き立つ情熱に鼓舞されて、わたしは店を飛び出した。妙な万能感に満たされていた。鉛玉のような雨に体を打たれたって、底無し沼のような水溜りに足を取られたって、そんなにもみっともない姿になったって、わたしの思考、気持ちは強く激しく躍動し続けている。
考えろ、考えろ──天童さんは、今、どこにいる。
ほだか先生は、カクリヨ美容室でなければ天童さんは実体を保てないと言っていた。また、自分ですら見えないとも。どうして? どうして、ほだか先生ですら見えないの? もしもそれが事実だとして、ならわたしはどうすればいいの? それにわたし一人では、霊の姿までは捉えられない。そんなわたしに、なにができると言うのか。そもそも天童さんとわたしに、繋がりなんてものはなにもない。
次第に気持ちが焦っていく。さいわいだったのは、雨の強さが次第に落ち着きはじめていることくらいのものだった。ただその一方で、夜の真っ暗闇が、すぐそこまで迫っていた。この光を失ってしまえば、もう二度と天童さんには逢えない、そんな予感がわたしの心を虐めてくる。
闇に追われている──もう駄目かもしれない──迫り来る絶望に心が敗北しかけた、そのときだった。
空を覆う分厚い雲の切れ間から、僅かに夕日が顔を覗かせた。ひと筋の光が、それは闇をさまようわたしを導いてくれるかのように、目の前に広がる世界を明るく照らした。刹那。ふと、昨日の夢を、思い出す。わたしはその夢の中で、誰かに追われて、誰かを追っていた。確か、つむぎはこんなことを言っていた。
──『行きたくない』とか、そんなこと言ってたけど。
──『こっちはいやだ』とか、『まだ行きたくない』とか、そんな訳の分からないことばっかり。
理解不能な、夢の話。雷鳴轟く雨の夜に見た、単なる悪夢──では、なかったとしたら? そして、今にして思えばおかしな話だ。わたしはあの夢の中で、なにかに追われていた。また、探してもいた。なにか救いのあるものを。光を。闇に追われ、光を求める存在──闇は死、光は生。もしもそんな単純な考えを、働かせるとするならば……。
足が、止まった。無限に広がる闇の中に、光が差したような気分。繋がり。救いを求める誰か──霊と呼ばれる存在と、わたしはあのとき繋がっていたとしたら?
そんな都合の良い解釈。だけれど、今はそれだけが頼りの綱だ。そう考えたとして、どうして。思い出せ。霊との繋がり。繋がっている。
そして、わたしと天童さん──黄昏薫の繋がりは、どこかにある。どこに。わたしに天童さんの姿が見えていたのだとしたら、必ずなにか、繋がりがあるはずだ。美容室? ほだか先生? いや、そうじゃなくて……
「……神社?」
ほだか先生に切ってもらった髪を、供養した神社。あのときから、わたしたちの繋がりははじまった……そう、髪だ。ほだか先生は言っていた。わたしの髪は、元旦に行われる「お焚き上げ」という行事にて焼かれてしまうのだと。思いがこもっている物に、礼を尽くして天界に還す儀式だと。心を込めて使い続け大切にしてきたものに、感謝の気持ちを込めて供養する風習だと。だとすれば、まだあそこにあるのだろう。ずっとずっと、呪われたと思い込んでいた、わたしの髪が。とある兄弟の繋がりが切れたとされる、あの神社に。天童さんが眠っているのも、あの神社だ。
そして、今は──
──ははは、そうでしたか。じゃあ、余計についでに。ほだか先生の名前も、『黄昏』ですよね。これも、夕方って意味なんですか?
──はい。そういう意味でも、あります。ですが、もう一つだけ、違う意味もあるんですよ。
──黄昏のもう一つの意味は、盛りが終わる頃。今この瞬間、僕と結衣くんの関係、みたいなことです。なんの因果でしょうか、薫が亡くなる前日も、ここで二人、並んで夕陽を眺めていたんです。薫は、この場所を気に入っていましたから。
──始まりと終わりの場所……ここは、そういった土地なのかもしれませんね。
朱を滲ませた色彩の空へ、次第に薄く鮮明な紫が広がっていく。行く手を阻む茨道のような雨は、いつの間にか失せ切っている。世界が、赤と黒のコントラストに彩れていく。横一列に並んだカラスの群れが、鳴き声を上げている。町から漂う食卓の香りが、腹の虫を煽り立ててくる。泥に塗れた少年が、声を嬉々弾ませ通り過ぎていく。世界の暗さに、彼の顔がボヤけて見える。そんな七夕の訪れ、夕暮れ時は──
「……誰そ彼、時」
わたしは、ゆっくりと踵を返した。誰かに、呼ばれているような気がした。
「ほだか先生、まだ……終わってないよ」
わたしは、額に張り付いた濡れ髪を掻きあげて、わたしとあなたが始まり、あなたと彼が終わった場所へ、全力で駆け出した。
始まりがあれば、終わりもなく等しく訪れる。そんな当たり前から逃れられないことは、髪とともにそのしがらみを断ち切ってもらったわたしが、一番よく理解していた。そしてその悲しみの連鎖は、これから何度も訪れることだろう。だけれど、その別れが悲しみのまま終わらなくたっていい。それを、わたしはほだか先生に教わった。
みんながみんなを、ほだか先生は救ってあげられるわけではないけれど、でも、その救われたみんなが、また誰かを救ってくれる。そんな気がするのだ。それでも、誰かは言うのだろうか。生きとし生けるもの、死は必ず訪れる。そこへ足を踏み入れるのは、生に対する冒涜だって。そんなにもまじめ腐ったことを言う人が、この世の中にはいるのだろうか。
でも、もしもそんな正論の刃を振りかざして彼を虐めてくるのであれば、わたしが盾になる。戦い続けるあなたに降りかかる矢を、わたしが全て受け止めてあげる。あなたの強さと弱さを、わたしは守ってあげたい。
あなたが断ち切って、わたしが繋ぐ。
わたしたちは、髪を通して繋がっている──
だから、お願い。まだ、行かないで。
彼が目指したあなたの生き様を、今一度あなたが彼に見せてあげて。
あなたたちの黄昏は、まだ終わってない。
「だから、もう無理なんです。僕たちが一緒に働くことは……できません」
どうして、なんで──
「薫、ごめんなさい……ずっと黙っていて、本当に……」
違う、そうじゃない。
「…っ! 薫!」
突然、ほだか先生の声が張り上がる。その時その瞬間、わたしの体は無自覚だった。泣きじゃくった顔はそのままに、一階に降りた瞬間にも叫んでいた。
「違います! 天童さん! これはっ、ほだか先生の冗談で──」
ぱたん──扉が閉まる。天童さんの姿は、もうどこにもいなかった。足元から崩れ落ちたほだか先生が、その場に残されているだけだった。
「ほだか先生……どうして」
「結衣くん、やってしまいました」
ほだか先生はわたしの方へと頭を傾かせて、なぜか笑っていた。笑いながら、なぜか泣いていた。そんな喜怒哀楽すべてを混ぜ合わせたかのような、つまりはよく分からない表情で、やはり泣いていた。掛ける言葉が、見つからない。でも、やることは決まっている。
「天童さんを、見つけなきゃ……」
「もう、無駄ですよ」
ほだか先生の冷ややかな声音が、本能的に動きはじめていたわたしの体を硬直させる。ほだか先生は、言った。
「薫は、このカクリヨ美容室でしか実体を保てない。生きているという薫自身の強い思い込みが、かろうじて魂をこの世界に繋ぎ止めているに過ぎません」
「でも、ほだか先生の、その眼ならっ──」
「僕が、それを試さなかったと思いますか?」
ほだか先生は、手のひらで顔を覆った。
「もしも見えていたのなら、薫の無念を晴らす証拠が掴めるかもしれない。そう思い、もう何回、何十回、何百回と試しました。天候、時刻、時期、タイミング……それら条件を考慮して、全て試した。でも、駄目だった……薫だけは、どうしても見えない」
だったらどうして、こんなこと──その焦燥じみた言葉は、喉の直ぐそこまで出ていたけれど。
「分からない」
わたしが言うよりも先、ほだか先生は残酷に打ちのめされたかのような口振りで、ぼそぼそと呟いた。
「なぜ、僕はあんなことを……薫、ごめんなさい……ごめんなさい……」
わたしはそのとき、彼、黄昏ほだかに対して抱き続けた自分の勘違いなるものに、ようやく持って気付かされた。
彼は、困っている人がいるならば黙って手を差し伸べる。彼は、泣いている人がいるならば黙ってその隣に寄り添ってくれる。憎しみや、悲しみを凌駕する無限の愛で包み込んでくれる。そのための代償を厭わない。彼はそんな、生きる仏さま、人身御供のような存在であると、そのように思っていた。
でも、違った。彼は、なにも仏ではなかった。その思想こそ高尚な領域に達しているが、その本質はわたしたちとなに一つ変わらない。転んでしまえば、傷つきもする。自身の大切なものを奪った誰かを、憎しみもする。つきたくもない嘘をつけば、悲しみもする──彼はそんなにもごく自然な感情を抱く、わたしと同じ、人だったのだ。
なぜ、ほだか先生がこのとき、天童さんに真実を打ち明けたのか──それは、もう苦しみに耐えきれなかったからだ。苦しかったのだ、ずっと誰にもその苦しみを打ち明けられず、一人で悩んで、悩んで、悩んで、苦しみ抜いて、そしてその苦しみに、彼はようやく終止符を打った。
でも、それで彼は本当に報われたのか? ──否、そんなことは絶対ない。ほだか先生の苦しみは、これからより一層酷くなるに違いない。彼は、そういう人間だ。天童さんに抱く罪悪感を払拭する日は、訪れない。
そんなにも、彼は優しい人だった。三觜のときにしても、紅麗亜ちゃんにしても、それにわたしのときにしたって、彼はずっと苦しそうだった。無敵の英雄ではなかった。こうなることは、ずっと前から薄々と分かっていた。だから支えたいと思った。その枯れ木のような体に寄り添ってあげたいって、それが全ての始まりだったじゃないか。それなのに、どうしてそれを見てみないフリなんかしたのよ……。
ほだか先生は、わたしに「辞めてくれ」だなんて、ひと言も言ってない。わたしが勝手に、そう判断しただけ。その隣に寄り添え続ける選択もあったはずだ。それに、決して弱み一つ吐き出さないほだか先生の「SOS」かもしれないって、どうして思えなかったの……。
どうして、「わたしのことも頼ってください」って、素直にそう言わなかったのよ──
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「ほだか先生」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ほだか先生、お願い。もう、泣かないで」
恐る恐る、ほだか先生の肩に触れてみる。わたしよりも、少し大きな肩幅。だけどその垂れ下がった肩は、わたしよりずっと小さく思えた。
「ほだか先生。大丈夫、大丈夫ですから」
彼が、泣いている。ずっと誰かのために、一人で戦ってきた孤高の人が、今この瞬間、泣いているんだ。そんな、最後まで戦い抜いた男の涙は、ダサい? 男の人が泣くのって、かっこ悪い?
ううん、そんなことはない。わたしは、絶対にそうは思わない。
一生懸命頑張って、それでもどうしようなくて、わたしはそんなほだか先生と一緒の側にいられたことを、誇りに思う。
だからまだ、終わってない。終わらせない。
まだ、やり直せる──寄り添える。
「ほだか先生」
こんな気持ちは、生まれてはじめてだった。恋とか、愛とか、わたしにはよく分からない。だけれど、そんなことはどうだっていい。わたしは自分の意思で、ほだか先生の側にいてあげたいって、心の底からそう思った。
「わたしが……結衣が、ついています」
ほだか先生の震える体を、そっと抱きしめてみる。小刻みに揺れる背中を、さすってみる。暖かい。男の人の体温が、こんなにも温いものなんだって、生まれて初めて知った。こんなにか細いほだか先生でさえ、わたしよりずっとたくましかった。全身で、ほだか先生の息遣いを感じる。
春の日差しを浴びているような、暖かな気持ち。
捨てられた仔犬を抱きしめているような、切ない気持ち。
運命の王子さまに巡り合うシンデレラのような、愛おしい気持ち。
それら全ての感情が、わたしの心を満たしてくれる。
わたしは、やっぱり……
「わたしは……ほだか先生、あなたことが、好きです」
ようやく、伝えたその気持ち。また溢れ出した感情には。
「ほだか先生の、髪を切っている姿が好きです。ほだか先生の、笑った顔が好き……わたしの作った料理を『美味しい』って言ってくれるほだか先生が好き……わたしね、ほだか先生。あなたのことが、好きなんです」
なぜか、溢れ出した好きとともに、涙が湧き出していた。ずっと後ろ髪を引かれていた自分の感情に素直となるのは、こんなにも恥ずかしくて、でも心の底から幸せだと思えた。
「だけど一番は……優しく笑ってる、ほだか先生が大好きなんです」
わたしは、ほだか先生からゆっくりと体を離す。顔を覆い隠すその手を、優しく取り払う。そして、その赤らんだ瞳から流れる涙を、指先でそっと拭った。
「だからほだか先生、わたしは……あなたにはずっと優しく、笑っていて欲しいんです」
「結衣くん……」
「大丈夫。わたしが、天童さんを連れてきます。わたし、図々しさには人一倍自信があるんです。嫌だって言われたって、引きずってでも必ず連れて来ます」
「でも……」
「大丈夫」
わたしは、もう迷わない。
「わたしは、絶対に帰ってきますから──」
湧き立つ情熱に鼓舞されて、わたしは店を飛び出した。妙な万能感に満たされていた。鉛玉のような雨に体を打たれたって、底無し沼のような水溜りに足を取られたって、そんなにもみっともない姿になったって、わたしの思考、気持ちは強く激しく躍動し続けている。
考えろ、考えろ──天童さんは、今、どこにいる。
ほだか先生は、カクリヨ美容室でなければ天童さんは実体を保てないと言っていた。また、自分ですら見えないとも。どうして? どうして、ほだか先生ですら見えないの? もしもそれが事実だとして、ならわたしはどうすればいいの? それにわたし一人では、霊の姿までは捉えられない。そんなわたしに、なにができると言うのか。そもそも天童さんとわたしに、繋がりなんてものはなにもない。
次第に気持ちが焦っていく。さいわいだったのは、雨の強さが次第に落ち着きはじめていることくらいのものだった。ただその一方で、夜の真っ暗闇が、すぐそこまで迫っていた。この光を失ってしまえば、もう二度と天童さんには逢えない、そんな予感がわたしの心を虐めてくる。
闇に追われている──もう駄目かもしれない──迫り来る絶望に心が敗北しかけた、そのときだった。
空を覆う分厚い雲の切れ間から、僅かに夕日が顔を覗かせた。ひと筋の光が、それは闇をさまようわたしを導いてくれるかのように、目の前に広がる世界を明るく照らした。刹那。ふと、昨日の夢を、思い出す。わたしはその夢の中で、誰かに追われて、誰かを追っていた。確か、つむぎはこんなことを言っていた。
──『行きたくない』とか、そんなこと言ってたけど。
──『こっちはいやだ』とか、『まだ行きたくない』とか、そんな訳の分からないことばっかり。
理解不能な、夢の話。雷鳴轟く雨の夜に見た、単なる悪夢──では、なかったとしたら? そして、今にして思えばおかしな話だ。わたしはあの夢の中で、なにかに追われていた。また、探してもいた。なにか救いのあるものを。光を。闇に追われ、光を求める存在──闇は死、光は生。もしもそんな単純な考えを、働かせるとするならば……。
足が、止まった。無限に広がる闇の中に、光が差したような気分。繋がり。救いを求める誰か──霊と呼ばれる存在と、わたしはあのとき繋がっていたとしたら?
そんな都合の良い解釈。だけれど、今はそれだけが頼りの綱だ。そう考えたとして、どうして。思い出せ。霊との繋がり。繋がっている。
そして、わたしと天童さん──黄昏薫の繋がりは、どこかにある。どこに。わたしに天童さんの姿が見えていたのだとしたら、必ずなにか、繋がりがあるはずだ。美容室? ほだか先生? いや、そうじゃなくて……
「……神社?」
ほだか先生に切ってもらった髪を、供養した神社。あのときから、わたしたちの繋がりははじまった……そう、髪だ。ほだか先生は言っていた。わたしの髪は、元旦に行われる「お焚き上げ」という行事にて焼かれてしまうのだと。思いがこもっている物に、礼を尽くして天界に還す儀式だと。心を込めて使い続け大切にしてきたものに、感謝の気持ちを込めて供養する風習だと。だとすれば、まだあそこにあるのだろう。ずっとずっと、呪われたと思い込んでいた、わたしの髪が。とある兄弟の繋がりが切れたとされる、あの神社に。天童さんが眠っているのも、あの神社だ。
そして、今は──
──ははは、そうでしたか。じゃあ、余計についでに。ほだか先生の名前も、『黄昏』ですよね。これも、夕方って意味なんですか?
──はい。そういう意味でも、あります。ですが、もう一つだけ、違う意味もあるんですよ。
──黄昏のもう一つの意味は、盛りが終わる頃。今この瞬間、僕と結衣くんの関係、みたいなことです。なんの因果でしょうか、薫が亡くなる前日も、ここで二人、並んで夕陽を眺めていたんです。薫は、この場所を気に入っていましたから。
──始まりと終わりの場所……ここは、そういった土地なのかもしれませんね。
朱を滲ませた色彩の空へ、次第に薄く鮮明な紫が広がっていく。行く手を阻む茨道のような雨は、いつの間にか失せ切っている。世界が、赤と黒のコントラストに彩れていく。横一列に並んだカラスの群れが、鳴き声を上げている。町から漂う食卓の香りが、腹の虫を煽り立ててくる。泥に塗れた少年が、声を嬉々弾ませ通り過ぎていく。世界の暗さに、彼の顔がボヤけて見える。そんな七夕の訪れ、夕暮れ時は──
「……誰そ彼、時」
わたしは、ゆっくりと踵を返した。誰かに、呼ばれているような気がした。
「ほだか先生、まだ……終わってないよ」
わたしは、額に張り付いた濡れ髪を掻きあげて、わたしとあなたが始まり、あなたと彼が終わった場所へ、全力で駆け出した。
始まりがあれば、終わりもなく等しく訪れる。そんな当たり前から逃れられないことは、髪とともにそのしがらみを断ち切ってもらったわたしが、一番よく理解していた。そしてその悲しみの連鎖は、これから何度も訪れることだろう。だけれど、その別れが悲しみのまま終わらなくたっていい。それを、わたしはほだか先生に教わった。
みんながみんなを、ほだか先生は救ってあげられるわけではないけれど、でも、その救われたみんなが、また誰かを救ってくれる。そんな気がするのだ。それでも、誰かは言うのだろうか。生きとし生けるもの、死は必ず訪れる。そこへ足を踏み入れるのは、生に対する冒涜だって。そんなにもまじめ腐ったことを言う人が、この世の中にはいるのだろうか。
でも、もしもそんな正論の刃を振りかざして彼を虐めてくるのであれば、わたしが盾になる。戦い続けるあなたに降りかかる矢を、わたしが全て受け止めてあげる。あなたの強さと弱さを、わたしは守ってあげたい。
あなたが断ち切って、わたしが繋ぐ。
わたしたちは、髪を通して繋がっている──
だから、お願い。まだ、行かないで。
彼が目指したあなたの生き様を、今一度あなたが彼に見せてあげて。
あなたたちの黄昏は、まだ終わってない。
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