カクリヨ美容室の奇譚

泥水すする

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第四章 誰そ彼とき

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「ちょっと結衣、結衣っ!」
「はぁ、はぁ、はぁ……あれ、つむぎ?」

 目の前にいる、それは赤くなったおでこを撫でるつむぎであった。場所は自室で、わたしはベッド上にいる。全身は、汗でぐっしょりと濡れていた。

 どうやら、先ほどのあれは夢だったらしい。かなりリアルな夢で、まるで本当にその世界にいるみたいだった。

 つむぎはやれやれと言いたげに肩を竦める。また、重たい溜め息を吐いた。

「結衣、あんた突然なんなの……いつまでも起きないから起こしにきたらうなされてるし、起こしたら起こしたで頭突きしてくるし、ほんと、勘弁してよ」
「あ、ごめん……変な夢、見ちゃってさ」
「なにそれ。また、例のやつ? お父さんの」
「いや、違うやつ。もうそれは……見てないから」

 つむぎは遣る瀬なさそうに鼻息を鳴らし、わたしのこめかみに伝う汗を手のひらで拭ってくれた。

「だったら変な声出さないでよね。心配するじゃない」
「ごめん。わたし、そんなに変なこと言ってた?」
「ええ、それもとびっきりのやつね。『あー』とか『うー』とか。あとは、そうだね」と、つむぎは小首を傾げながら。
「『行きたくない』とか、そんなこと言ってたけど」
「行きたく、ない? どういう意味?」
「いや、それこっちが聞きたいっての。『こっちはいやだ』とか、『まだ行きたくない』とか、そんな訳の分からないことばっかり」

 そのあたりのことは、よく覚えていなかった。ただわたしは誰かを追いかけていて、なにかに追われているような気はする。

「(まぁ、夢のことなんて、考えても仕方ないか)」

 そんなことよりも、今考えないといけないのは天童さんのことだ。普段、わたしが接している彼は、何者なんだろうか。もしくは「黄昏 薫」と「天童 薫」──その二人が同一人物だったとして、何故2年前に亡くなったはずの彼が、未だにこの世にいるのだろうか? 成仏していないから? でも、ほだか先生はいつも普通に天童さんと接している。

 一体全体、どういうことなんだろうか……。

「結衣、どした?」
「え? いや、なんでもないけど」
「?」
「…………あのさー、つむぎ。突拍子もないこと、聞いてもいいかな」
「? 別にいいけど、なによ改まって」
「いやさ、人って死んだら、どこに行くと思う?」

 つむぎは口をあんぐりと開けて「ほんとに突拍子もないな」と、ちょっと呆れていた。

「どこって、そりゃあアレでしょ? あの世とか、黄泉の国とか、そういう場所なんじゃない? ま、あたしはそういうスピリチュアルな話、信じてないけど」
「あの世って、本当にあるのかな……」
「だから知らないってば。幽霊じゃあるまいし、そんなの死んでみないと誰にも分からないでしょ。仮にも分かる人がいたとしたら、霊感の強い人が幽霊から直接聞くしかないんじゃない」
「でもさ、わたしの知ってる限りだと、幽霊って自分が亡くなっていることに気付いてないことが、ある、から……」
「?」
「気付いて、ない?」

 その言葉を呟いた、次の瞬間──心臓が飛び出そうなくらい、強く高鳴った。そうだ、気付いてないんだ。

 スマホで時間を確認してみる。午後3時半。そして日付は、7月6日。2年前、「黄昏 薫」が亡くなったとされる命日。そして、ほだか先生は言っていた。臨時休業だと。仮にも予定があるとするならば──もしかしたら、今日、あの場に行けば。

「つむぎ、ごめん! わたし、友達と約束してるんだった!」

 布団を勢いよく剥がして、そのまま部屋を出ようとする──が。

「身嗜みくらいちゃんとしろ! あと、頭! あんた髪、ボサボサ」

 ちょっと待ってなさい。そう言い残し部屋を出て行ったつむぎ。一分くらいして帰ってきたその手には、橙色の小さな小瓶が握られていた。美容室で買ったオーガニック系のヘアワックスだと説明される。指にすくった少量のクリームを手のひらで馴染ませたつむぎが、わたしの髪に塗ってくれる。甘い、お菓子のような匂いが漂ってきた。

「あんたの髪って、ほんといいわよね。猫っ毛」つむぎは猫を撫で回すように、わたしの頭をくしゃくしゃに乱してくる。「あたしはお父さん譲りだから髪が硬いけど、結衣はお母さん似だからね。柔らかくて、艶々してて羨ましいわ。それに……ほら、この通り」

 手鏡を見せられて、驚いた。鏡に映っていたのは──パーマをかけたみたく毛先のうねった、別人みたいなわたしだった。

「あんたみたいな猫っ毛はこういうセットもできるのよ。あんまりベタつかないワックスを手でよく馴染ませて、髪の毛先全体にまんべんなく付ける。するとあらびっくり、なんちゃって勘違いモデルの誕生ってわけ」

 また、しっとりとしたワックスをつければ艶感や濡れ髪が出て、フェミニン感(これは女性らしさって意味らしい)が増すなどの、そういった美容知識を熱心に語ってくれた。猫っ毛は髪にコシがない分、その可能性は無限大だとも。

「でも一番は、あんたのその髪を切ってくれた美容師さんのおかげなんだから、その人にちゃんと感謝することね」

 全くだ。ほだか先生がいなければ、今こうして鏡を眺めるこのニヤケ面もなかったことだろう。いつまでもうだつの上がらない自身の髪と睨めっこして、いつまでも憂鬱な気分だったに違いない。それに──

「このワックスあげるから、自分で覚えなさい」

 つむぎとこうして髪のことについて気兼ねなく話せる機会は訪れなかっただろう。全部全部、彼のおかげ。だったら尚更に、放ってはおけない。行かないと。あの場所へ。
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