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第二章 ペットがいなくなった独身女性・佐藤久美

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 昔から、久美は子供が好きだった。漠然と「保育士免許」を取っておこうと思ったのも、保育園で働くことを視野に入れてのこと。

 案の定、久美は保育士の道を進むこととなる。

 短大卒業後、久美は地元福岡の高宮にある、『苑流保育園』に就職した。だが、想像以上のハードな日々。また他人のお子さまを預かるため、なにからなにまで気を遣う。一番堪えたのは、園長からの小言だ。保育園はパワハラが多いと聞いていたが、確かにその通りだった。

 心身共に、疲れていくのを感じる日々。

 きっと、ながくは勤められない──

 働き出したばかりの、一年目の夏頃。久美は当時付き合っていた彼氏に、「もう辞めたい」と弱音を吐いた。

 消防士だった彼は、「結婚するまで待ってほしい」と優しく宥め、久美を抱いた。

 筋骨隆々とした彼の体に、安心感を抱く。また夢を見る。一年後か、二年後か、それは分からない。だが彼の発した『結婚』という二文字が、久美の不安を取り払ってくれた。

 久美は、彼を信じて働き続けた。

 三年が経過。その頃にもなれば、あんなにも苦痛だった職場にも慣れ、園長の期待を勝ち取るまでに成長していた。ママたちからの信頼も厚く、仕事に対する責任感や充実感も芽生え始めた。

 佐藤久美、25歳。思いの他、仕事は快調。
 問題は、恋愛面の方である。付き合っていた消防士の彼だったが、彼の浮気が発覚。飲み会で知り合った看護師と良い感じになったという。別れを切り出したのは、久美の方からだった。長年連れ添い、ゆくゆくは結婚を考えていただけに、苦渋の選択であった。

 それから、瞬く間に時は過ぎていく。

 久美は、今年で32歳となる。

 保育士生活は一〇年目。今ではすっかり、園内の最古参となっていた。

 久美と同じ時期に入ってきた同僚も、その後に入ってきた新人も、今ではもういない。皆、それらしき理由をつけて保育園を去っていた。最初は戦友を失っていくようで寂しかったが、出会いがあるように別れがあるのは仕方のないこと。卒業していく園児たちを見送り続けた結果、久美はえらく達観した女性となっていた。

 ただ問題は、やはり私生活の方である。

 もしかして、自分はこのまま孤独に死んでいくのではなかろうか?

 一度考え始めると、悪い妄想は止まらない。睡眠薬を飲まないと眠れない夜も、だんだんと増えてきた。あまり好きではなかったアルコールも、気付いたら毎晩飲んでいる。

 パートナーがいれば、こんな不安を抱かなくて済むのだろうか。

 別に、言い寄ってくる男がいないわけでもない。それこそバーなどに行けば、声をかけられることが多々ある。ただ、いまいちピンとこないのだ。そもそも飲み屋でナンパをしてくるという行為自体が、軽薄に思えて仕方がない。誰にでもそういうことやっているのだろうと、昔付き合っていた彼の姿が脳裏を過る。

 恋愛って、本当に面倒だ。でも、したくないわけでもない。そう思うわたしは、変なのかな──

 現状、彼氏は求めていない。だけど、いらないわけではない。また現実問題として、子供を作るならば今からパートナーを見つけておかないといけない年齢ではなかろうか? 

 女性としての様々な不安が、久美を苛む。こんなことならば、男に生まれた方が楽だった。

 そんなことを考え始めた、2020年の春。じわじわと蔓延する未知の病原菌に、次第に日本の社会が危機感を抱きはじめた、四月の上旬頃。

 久美は、運命の出会いを果たす──

     ※   ※   ※

「では、豆シバのプルを飼い始めたのが四月のはじめで、いなくなったのは六月の終わり頃。実質、一緒に過ごしたのは三ヶ月間というわけですね?」
「はい、そうです」

 天神福岡銀行の脇道を入ってすぐにある老舗『菴道喫茶店』に、土曜日の平日頃だ。久美は迷った挙句、綾野と直接会うことを決めた。

 ヤクザみたいな人が来たらどうしようと警戒したこともあり、初対面の綾野はかなりの好印象だった。優しそうな雰囲気に、目鼻立ちの整った色男。女性をたぶらかすタイプという可能性も考えられるが、話している感じでは女性慣れしているとも思えない。

 なかなかに、魅力的な男性だ──

「佐藤さん」
「……えっ? ああ、すみません」
「どうかされましたか?」
「いえいえ、なにも」

 久美は、ホットコーヒーに生クリームを入れながら平然を装う。菴道喫茶店の名物、生クリームコーヒーだ。

 綾野は、ふっと穏やかに微笑んだ。

「ここのコーヒー、美味しいですよね」
「えっ。綾野さん、この店のこと知ってたんですか?」

 菴道喫茶店を指定したのは久美の方だった。

「ええ。実を言うと、大学生だった頃、友達がここでバイトをしていまして。よく遊びに来てたんです」
「失礼ですけど、綾野さんって、お幾つなんですか?」
「今は29ですけど、世代は今年30の人たちと同じです。早生まれなんですよ、自分」
「……なら、もしかして綾野さんの友達って、田中くん、だったりします?」
「えっ、はい。もしかして、田中を知ってるんですか?」
「知ってるもなにも、一緒に働いていたので。あっ、ちなみにわたし、昔この店でアルバイトしていたんですよ」
「そうだったんですか! いやぁ、こんな偶然もあるんですね」
「世間は狭い、そういうやつですね」

 二人は、顔を見合わせて笑った。
 和やかな雰囲気に、久美の綾野に対する印象は良くなっていく一方だ。

「あっ、申し訳ありません。話が脱線してしまいましたね。それで久美さん、プルちゃんの行方は、その後どうですか?」
「それが、全くの進展なしで……」

 綾野からの電話を受けてからのここ丸五日間、めぼしい情報はまるでなし。

「まあ、今に始まったことではないんですけどね……もう無理なのかもって、諦めかけてきた頃合いで」
「諦められるんですか?」
「そういうわけでは、ありません。ただ本当に、打つ手なしって状態なんですよ」

 明るい雰囲気から一転、久美の表情に曇りが生じる。諦めきれるわけがない。久美にとって、メス犬のプルは娘のような存在だった。

 飼い始めた当時は、まだ生後二ヶ月。ぬいぐるみのように小さかった。それから少しずつ成長して、最近やっと散歩に出かけ始めた頃合いだった。公園に連れて行くと、誰かしらがプルに近寄ってくる。プルの愛らしい仕草に、皆がメロメロとなる。本当の娘ができたようで、久美は本当に嬉しかったのだ。

 緊急事態宣言が発令されてからは、保育園もしばらく閉園されることとなり、家で過ごす時間がかなり増えた。もしもあのとき家にプルがいなかったら、わたしは孤独感に押しつぶされていたかもしれない。久美はプルの世話をしながら、いつもそんなことを思っていた。

 でもだからこそ、その愛娘を失ったときの反動は激しい。

 プルとの日々を思い出す久美の瞳に、自然と涙が溜まっていく。初対面の綾野を前にしていたとしても、平常心は保てない。

「つらい、ですよね。それなのに『諦められるんですか?』なんて、大それたことを……ごめんなさい、佐藤さん」

 綾野は、申し訳なさそうに頭を下げる。心の優しい人なのだろう。綾野の飾らない態度、優しさに、久美の悲しみも幾分落ち着きを取り戻していく。

「突然泣いたりして、ごめんなさい」
「とんでもない。むしろ佐藤さんに対する配慮が足りていなかったと、反省しています」
「そんなこと、ありませんよ。わたし、これまで出会った男性の中で、綾野さん程優しい男性を見たことありませんし」
「えっと。それは少し、いやかなり、言い過ぎでは?」
「……かも、しれません」

 綾野は「ですよね」と微笑んだ。久美も、口元に手を当ててクスクスと笑う。

「では佐藤さん、改めて提案させて下さい。プルちゃんの捜索を、なんでも屋に依頼してみませんか?」
「そのことなんですが、綾野さん」
「はい、なんでしょう?」
「この前、電話で『一〇〇%見つかります』って、そう言っていましたが……」
「ええ。一〇〇%、見つけますよ」

 綾野は、にっこりと笑った。

「プルちゃんの捜索依頼を受けてから、三日間です。必ず佐藤さんの元へ、プルちゃんをお連れしましょう」
「でも、そんなこと、本当にできるんですか?」

 綾野を信じたいのは山々だが、久美とてここ半月、プルの捜索に心血を注いできたのだ。その大変さは、誰よりも理解している。

 それがたったの三日間とは、ビッグマウスにしても些か誇張が過ぎると思うのだが──

「もちろん、信用できないってことは重々承知しています。その気持ちは、自分がよく分かりますから」
 「どういうこと、ですか?」
「いや、実はですね、元はと言えば、自分も依頼する立場だったんですよ。つい、一ヶ月前の話です」
「えっ、そうだったんですか?」
「はい。その時ですね、うちの代表である西京さんに救って頂いてですね……まあ、今はこの通りです」

 そう言って、綾野は自身のスーツ姿へと目線を落とした。「まさか自分が背広を着ることになるなんて」と、苦笑い。

「そんなわけですので、西京さんに任せれば問題ありません。彼ならば、必ずやプルちゃんを見つけ出すことでしょう」
「はぁ、西京さん、ですか」
「はい。そして佐藤さん、これは西京さんからのご好意で、依頼料は後払いでもいいとのことです。つまりですね、もしもプルちゃんが見つからなかったら、依頼料を支払う必要はありません」

 久美は、「えっ」と目を見開いた。

「大丈夫なんですか、それで」
「構わない、とのです。『どうせ見つかりますから』と、西京さんならそう言うに違いありません。その上で、改めてお尋ねします。プルちゃんの捜索を、依頼しますか?」

 余程の自信があるのだろう。綾野の瞳、言葉には、戸惑い一切見受けられなかった。その真摯な態度に、久美の心が揺れ動く。

 ただ一番肝心なことは、まだ聞いていない。

「ちなみに、依頼料はいくらになるのでしょう」
「あー、そのことなんですが、久美さん……」

 と、綾野は急にバツの悪そうな顔を見せる。「ちょっと、待っていて下さい」と、スマホを耳に当てながら入り口の方へと向かった。

 聞かれたくない内容なのだろう。しかし、久美はこれが結構な地獄耳だ。また、綾野は感情的な男である。「いややっぱり、ちょっと高過ぎますよ……」「可哀想です」「いや、でも」「うーん、もうちょっと」と、渋い顔で話している。どうやら、依頼料についてを話し合っているらしい。綾野は、どうも久美の依頼料を値下げさせたいらしい。

「佐藤さん、お待たせしました」

 綾野が帰ってきた。表情は芳しくない。どうやら、あまり良い結果は得られなかったようだ。

「西京さんと話し合ったのですが、やはりですね、いろいろと経費がかかるとのことでして、そのぉ……」
「いくらですか?」
「あー、それはですね、ちょっとお高いのですが、五〇万程、頂戴する感じでして、」
「いいですよ」
「えっ?」
「プル、絶対帰ってくるんですよね?」
「まあ、その辺は安心してよろしいかと」
「だったら、全然安いくらいです。独り身の貯金、あなどってはいけませんよ」

 綾野は固まってしまう。その後にも口を開いたかと思えば、「えっと……ははは、これは耳が痛い」と。もしかしたら、貯金は苦手なタイプなのかもしれない。子供みたいな人。子供は、嫌いじゃない。

 依頼内容についての話し合いはひと通り終わり、その後は軽い世間話を交わす。コーヒーもすっかり空となった頃合いだった。「名残惜しいですが」と、綾野が伝票を持って立ち上がった。

 久美は「そうですね」と笑う。

 もう少し、一緒にいたかった──

「では佐藤さん、本日はわざわざお時間を作っていただき、ありがとうございます。後日、またこちらからご連絡させていただきます」
「はい」
「三日後、楽しみにしといてくださいね」

 と、綾野は穏やかな笑みとともに去っていく。

 本当にプルは見つかるのか、それは分からない。だが、信じてみよう。久美は綾野の背中に、僅かな希望を抱く。

 そして、その希望の真価が試される、三日後のこと──

 綾野から、着信が入る。

『プルちゃん、見つかりましたよ』

 綾野の優しい声音を受けて、久美の瞳から透明な水滴が流れ落ちる。キラリと輝く、それは希望に満ちた涙であった。
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