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9巻
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仕方なく、話を本題に戻すことにする。
「……それで、俺をわざわざ呼んだのはどういった理由でしょうか? 自分で言うのもなんですが、俺は一兵士にすぎません。英雄の一人である精霊王アーク殿に呼ばれる理由など、さっぱり浮かばないんですが……」
「何を言う。なぜか今、私は精霊王などと呼ばれているが、もともとは森の奥深くで自給自足の生活をしていたただの田舎者だ。誰かと世間話がしたいと思ってもおかしくはあるまい?」
アークはそう言って、意外なほどに温かい笑みを俺に向けた。
確かに、精霊王アークは貴種たちの住まう森の奥深くで、長い間、隠棲していたと聞く。
そのため、本人の言う田舎者、というのもあながち間違いではない。
しかし、アークの言に首肯するには、彼の持つ強大な精霊力が邪魔をする。
歴史上、彼ほど優れた精霊術師はいない。
精霊術師を多数輩出する貴種がそう断言するほどの使い手が、ただの田舎者のわけがないのだ。
ともあれ、ただ世間話がしたいだけなら、モルスやミレイア、ナコルル相手でもいいはずだ。
モルスがアークの性格を知っているのも、普段、彼らがよく話す間柄だからだろう。
にもかかわらず、わざわざ俺を呼んだのだから、何か他の用件があるに違いない。
「世間話の相手なら、モルスやミレイアでも構わないでしょう。それに、ナコルルもいますし……」
ナコルルは、精霊王アークとは精霊術と魔法という、分野の異なる技術を持つ者同士だから、話が尽きないのではないだろうか。
だが、ナコルルの名前が出たと同時に、アークは眉をひそめた。
「……あやつは若干、うるさいのでな。森の奥の深閑とした場所で暮らしていた私の耳には負担が大きく、世間話の相手として適切ではない。その点、ジョン。君ならば、なかなか有意義な話ができそうだと感じているよ」
ナコルルが、うるさい?
その指摘を俺は奇妙に思う。
なぜなら、大魔導ナコルルと言えば美しくお淑やかな貴種であり、うるさいという評価とはかけ離れた存在だと思うからだ。
多くの将兵とコミュニケーションを持ち、話し好き、という部分は否定できないが、かといってうるさいかと言われると……
むしろ穏やかに、そして極めて巧みに会話を主導する人だと思う。
それなのになぜ……
そんな俺の疑問を知ってか知らずか、アークは本題に話を移す。
「ま、とはいえ、だ。確かに君の察しの通り、今日は別に雑談をしようと呼び立てたわけではない。さらに言えば、君自身に用があったわけでも、ない。君との雑談はまた次の機会にとっておくとして……私は君に取り憑いている存在と話をしたいのだ」
アークの言葉には、別段驚きはなかった。
まぁ、どう考えても、平兵士にすぎない俺に用はないよな。モルスから聞いていた通りだし。
俺はすぐに体の内側にいる存在に呼びかける。
「……ファレーナ。呼ばれてるぞ。出てこい」
すると、面倒くさそうな声とともに、あくびをしながらファレーナが俺の体から這い出てくる。
「……はぁ、しかたないなぁ。こんかいはとくべつだよ?」
それからアークを見て、意外な台詞を言った。
「……お、アークがいるね。こんにちは」
初対面とは思えない物言いである。
そしてアークも頷いて応える。
「……あぁ、ファレーナ。久しいな。今日は聞きたいことがある。答えてもらえるか?」
お前ら知り合いだったのか、と聞きたかったが、二人の話は俺を置いて進んでいく。
「うーん、それははなしのないようによるなぁ。なにをききたいの? きみがわざわざぼくにきかなきゃいけないことなんてないだろうに」
ファレーナの言う通り、アークは極めて博学な男であり、この世のことをすべて知っているのではないかと思えるほどだ。
しかし、そんなファレーナの言葉にアークは難しい顔をした。
「……それは感覚の相違だ。私にはお前に聞きたいことがたくさんあるよ、ファレーナ」
そんなアークの台詞を聞き、ファレーナは少し考える仕草をする。
そして、奇妙な沈黙がその場を支配した。
一体、二人は何の話をしているのか。
今から何を話そうとしているのか。
それが気になって、たまらなくなり、俺が口を開こうとしたその時――
「……ま、いいよ。とりあえずいってみるといい。こたえるかどうかは、しつもんをきいてからきめよう」
そうファレーナが言ったので、アークはふっと口元を和らげた。
「……ありがたい。正直、逃げられる可能性すら考えていたからな。聞いてもらえるだけ、マシというものだ」
「ぼくはにげたりなんてしないさ。それに、ジョンが、アークのしつもんにこたえてほしそうなかおをしてるんだもの。だから、しかたないかな」
そんなファレーナの言葉に、アークは眉を上げる。
「……意外だな。お前が人に肩入れするとは。ま、いい……それで、尋ねてもいいか?」
「いいよ。なにをききたいの? えらいえらい、アークはさ」
「茶化すな……私が聞きたいのはな。私が、この戦争に加担することが許されるかどうか、だ」
……?
奇妙なことを聞くものだ、と思った。
アークはここまで、かなりの戦いに参加している。その中で、数多くの魔族を葬ってきたはずだ。
魔族は人と姿がほとんど同じだし、極めて残忍ではあっても、知能や感情を持っている。
だから、そんな相手を滅ぼさんと戦うのは果たして正しいだろうか、という意見は、常に人類の中でも存在していた。
そんな主張をする者たちは戦争には参加せず、魔族を説得しに行ったり、あるいは戦場を避けて後方に逃げたりするのが常で、まぁ、そういう生き方も全く理解できないわけではない。
ただ、大半の人間は、魔族は滅ぼすべし、という考えだけどな。
魔族のせいで、家族や仲間を殺されたのみならず、自らの生存すら危ういのだ、人類は。
そんな中、彼らと共存する道を模索すべきである、なんて考えは異端でしかない。
だからこそ、俺たちは戦っているし、戦うしかないと思っている。
その点、アークはどうなのか、と言えば……アークもまた、魔族を説得すべきとか、できるだけ戦わずに逃げるべきとか考えているわけではないだろう。
それはこれまで彼が積み上げてきた戦果が物語っている。
共存や逃亡なんて考えを持っていたら、とてもではないが上げることなどできない功績だ。
なのに、なぜ、戦争への加担が許されるかどうかなんて聞くのか……
俺には分からなかった。
勇者モルスも同様らしい。一体どういう意図の質問なのか、という表情をしている。
しかし、そんな俺やモルスの疑問にアークが答えることはなく、ファレーナの返答だけが響く。
「ゆるされる? ゆるされるだって? あはは。おもしろいことをいうね、きみは」
それは、笑い声だった。
嘲りと言ってもいい、酷く滑稽なものを見たときに浮かべるような、そんな笑いである。
アークは当然、これに憤った。
「何がおかしい?」
唸るみたいに低い声で尋ねるが、ファレーナは少しも怯えたりしない。
それどころか、笑いすぎて目に涙を浮かべていた。
「すべてにきまっているじゃないか。いまさらそんなことをいうのも、きみがきくのも、そしてそのしつもんじたいもね。アーク、はっきりいおう。きみは、おろかだ」
ここまで断言されたら、人は怒り狂う。普通はそうだろう。
自制に長けた人間であっても、怒りの感情は少なからず瞳に表れるはずだ。
しかし、である。
アークはそんなファレーナの言葉を噛み締めるように言う。
「……愚か、か。確かに、そうかもしれない……私は、今日まで生き延びてしまった。すべてを知っていながら……」
「こんどはじぶんをせめるのかい? それもまた、おろかだとぼくはおもうけどね。ま、きみがどんなふうにかんがえて、どんなふうにこうどうするとしても、ぼくはすきにしたらいいとおもうよ。ぼくは、ジョンの……ジョンたちのみかたをする。こうかいはしない。ただしさ? そんなことは、きみにとってはどうでもいいのさ。ぼくは、ジョンがすきだからジョンのためになることをする。それだけだよ」
「……随分とはっきりしているな、ファレーナ。そこまで、きっぱりと何かを言うことは、私にはできん……」
そう言って、アークは頭を抱える。
この反応から、どうやらファレーナはアークにきついことを言ったらしい、ということは分かるが、しかしやはり、彼らが何について話しているのかは、さっぱりだった。
ファレーナは、落ち込んだらしいアークを見てふっと笑う。
「……アーク。きみが、はっきりするひつようなんてないんだ。だって、それはぼくらのわがままなんだからね。さっきもいったけど、きみはすきにしたらいいのさ。だれもきみをゆるしはしないけれど、だれもきみをせめもしないよ。そんなことをするけんりのあるやつなんて、どこにもいないんだから。そうじゃないかい?」
「いや、しかし……」
「きみは、いきている。それは、きみのせきにんじゃない。すきにいきなよ、アーク。ぼくがいえるのは、それだけだ」
ファレーナは困惑するアークにそう告げて、ぱっと姿を消してしまった。
といっても、どこかに行ったわけではなく、俺の中に戻ったのだが。
ただ、体に入っただけではなく、完全に寝ている。
俺がいくら呼びかけても起きようとしない。
もう誰の質問にも答える気はない、という意思表示なのだろう。
こうなったファレーナには何を聞いても無駄なことを、俺は経験上知っていた。
だから、代わりにアークに尋ねる。
「……今の話は、どういう意味だったのですか?」
「……さぁ、な。強いて言うなら、〝責任〟の話だろうか。悩むだけ、無駄だったのかもしれないな……」
アークはそれだけ答えると、今から用事があるから一人にしてくれ、と俺とモルスに告げ、部屋から追い出した。
俺はモルスと、たった今、ファレーナとアークの間で交わされた話について議論したが、結局どういう意味かは分からず、まぁ、アークの悩みは解決したらしいし、いいんじゃないのか、ということで落ち着いた。
アークとファレーナの両方に話す気がない以上、俺たちがあれこれ考えても無駄だ。
そろそろ魔族の襲撃が再開されるだろうし、いずれ戦いが収まったら改めて聞けばいい。
そんな話をして別れ……この後、何度となく続いた厳しい戦いの中で、俺もモルスもファレーナたちの会話のことを忘れていった。
第3話 貴種と精霊王
外から鳥の鳴き声が聞こえてくる。
王都の魔族討伐軍の宿舎で聞くそれとは若干異なり、力強い声が多いように感じた。
それで俺は、あぁ、そういえば今、自分は王都ではなく貴種たちの都である、千年王国に来ているのだったか、と思い出す。
まだ頭がぼんやりしているが、また前世の夢を見ていたらしい。
聴覚に続き、瞼を開いて視覚に入ってきた情報を整理すると、石造りの建物ではなく、床や壁など、構造材のすべてが樹木でできているのが分かった。
木材として切り出され、加工されている部分もあれば、植物が自らの意思で成長し、建物の一部を構成しているように思えるところもある。
こんな建物の作り方は、祖種にはどうやっても不可能で、精霊術を使える貴種特有の技術の面白みがあった。
世界が平和になったら、こういう建物を各地に作ってくれたりすると嬉しいな、とちょっとだけ思う。
気が早いかもしれないが……いずれ来るであろう平和な時代、そのときには今よりも種族間の距離は縮まっているのではないか、という気がするのだ。
辺りには、おそらくは植物のものと思われる落ち着く香りが漂っており、樹木のフレームのベッドから下りると、足の裏に柔らかい感触が伝わってきた。
足元にあったのは、芝の絨毯。踏みつけるとふわりとして軽い感触だ。
しかも、生命力に満ちあふれており、俺が足を上げると、すぐに元通りになる。
これも精霊術の賜物なのか、それとももともとの植物の性質なのか。
どちらにしろ、貴種の植物に関する造詣の深さは、祖種とは比べるのも烏滸がましいほどだった。
その代わりと言ってはなんだが、貴種は鉱物の扱いにはかなり疎く、鏃を作ることすら難儀するらしい。
貴種も森とそこに住む生き物を愛しているとはいえ、生きていく以上は食物確保のための狩猟は必須だ。
その際に使う武器は、主に弓矢であるという。
魔法や精霊術ももちろん使うのだが、魔法の場合、どうしても威力や規模が大きくなりがちで、たとえば野鳥を狩ろうとすると、肉を大きくえぐり取ってしまい、非効率だったりする。
だからといって精霊術を使うとなると、精霊たちは自然の味方であるために鳥獣の狩りを嫌がって力を貸してくれない場合もあるらしく、思いのほか不便なのだそうだ。
その点、弓矢での狩りは、獲物の肉を必要以上にえぐることもなく、また弓矢自身が狩りを忌避する、なんてことはありえないので、重宝しているらしい。
ただ、その際に問題になるのが、鏃である。金属製が望ましいとのことだが、森で火を使うのは可能な限り避ける文化があるために、冶金技術が低いのだという。
だから、金属製の鏃は諦めて、簡素な木の矢で妥協しているようだ。まぁ、それでも狩りは十分に可能だからな。
もちろん、金属製の鏃を輸入できなくはない。
ただ、冶金といえば匠種であるが、彼らと貴種の住処は離れているし、種族間の反りが合わないため、交流は少ないそうだ。
では、祖種との取引はどうかといえば、祖種の商人の中には貴種を利用しようという邪な考えを持っている者が少なくないため、安全面を考えるとこれも難しい。
他にも色々な方法や手段が考えられたが、いずれも貴種の長い歴史の中で試され、断念されて、結果として今の状況になっているようだ。
このことからも、種族間の距離の微妙さが分かるだろう。
別にいがみ合っているわけではないものの、文化や性質の問題で歩み寄るのは難しい。
とはいえ、俺の場合は状況が異なる。
「……あら、起きたの? 一階で朝食ができてるけど、もう食べる?」
そう言って俺の寝室に入ってきたのは、黒貴種の姫であるトリスだ。
今日も浅黒い肌と銀髪のコントラストが美しい。
ここは彼女の祖父ラーカーの自宅であり、俺、勇者モルス、聖女ミレイアが泊まらせてもらっている宿でもある。
本来なら、貴種の都であるこの千年王国に長居するつもりはなかったのだが、俺たちが用事のある精霊王アークは思った以上に連絡のとりにくい人物だったらしく、気長に待たなければならなくなった。
数日で返事が来る、とのことだが、どうだろうか……
先ほど前世のアークを夢で見て懐かしく思ったものの、あの性格がすでにある程度、矯正されたものだった――少なくとも、人嫌いの彼が人類とともに戦おうとするくらいには心境が変化していた――とすると、今のアークはかなり難しい気がする。
前世において、俺はそこまで精霊王アークと深く関わってはいないが、モルスと一緒にあの後何度か話す機会もあった。
その中で得た印象は、かなり後ろ向きな考えの男で、いつも何かに後悔しているといった感じだ。
普段、他の兵士たちの前にいるときはそういう部分は見せなかったのだが、モルスやミレイアと一緒にいるときは……
そういえば、ナコルルと一緒にいるときは、しっかりとした精霊王様だったな。
当時はどうしてなのか理由がよく分からなかったが、今にして思えば……
ナコルルは、俺たち兵士の前では猫をかぶっていたのだ。
そういうナコルルに影響されて、アークも自然と猫をかぶってしまっていた、ということではないかと思う。
ナコルルはうるさくて耳につらい、とアークが言っていたのは、本来の姿のほうだろう。
知れば知るほどかつての大英雄たちの真実の姿に幻滅しそうだが、本来の性格がどうであろうとも、彼らの成した偉業は何一つ霞みはしない。
魔王を倒した――それが、すべてだ。
今回も同じようにしてくれれば、それでいい。
……他力本願すぎるかな。
俺は命をかけて血路を拓くつもりだから、そのあたりは大目に見てほしいところだ。
おっと、つい考え事をしてしまったな。
それより、トリスへの返事だ。
「モルスとミレイアはまだ起きてないのか? どうせならみんなで食事をとりたいところだが」
「ミレイアは疲れていたみたいで、まだね。モルスは起きているわ。どうする?」
ミレイアは聖女であり、前世において大活躍した英雄であるが、今は体力がない。
魔王のもとにたどり着いた時点では、それまでの激戦をいくつも乗り越えた結果として、一般の成人男性を優に上回る体力がついていたが、今の彼女は少し訓練を積んだ少女、という程度だ。
千年王国までの道のりは大して険しかったわけではないとはいえ、それでも疲労が溜まっていたのだろう。
それに加えて、ほとんど祖種と交流することのない貴種の国である。精神的にも緊張していたのかもしれない。
実際に会ってみれば、貴種たちは祖種を避けるどころか、むしろ親切なくらいだったから、張りつめていたものが緩んだ、というのもあるだろう。
となると、しばらく起きないかもな……
そこまで考えて、俺は答える。
「そうだな、先に食べることにしよう。ミレイアがあとでひとりぼっちで食べるのは可哀想な気はするが……」
すると、トリスが首を横に振る。
「私はこれから二度寝するから、そうはならないわ」
そう言って、なぜか胸を張った。
「……お前、実家に帰ってきたからってだらけてるのか?」
俺が呆れて言うと、トリスは口を尖らせる。
「ちょっと、心外ね。そういうわけじゃないわよ」
「……じゃあ、どういうわけだよ?」
「それはね……まぁ、実家に帰ってきたから、っていうところまでは正しいけど。だらけているわけじゃなくて、昨日は夜中まで挨拶回りをしていたのよ。ほら、私、これでもここではそこそこ偉い立場だから」
「あぁ……お姫様だもんな。とてもそうは見えないけど」
「でしょうとも。ま、祖種のお姫様とは、そもそも全然違うものだからね。少なくとも淑やかさとかは期待されてないし」
祖種の場合、あまりおおっぴらには言わないが、基本的に王族の女性は他国との婚姻のための道具、という意味合いが強い。特に王女となると、なおさらだ。
教養としてマナーやら貴婦人としての立ち居振る舞いやらを叩き込まれるので、必然的に、俺たち庶民がイメージする〝お姫様〟ができ上がる。
しかし、貴種には祖種のような政略結婚の慣例はないのだろう。
したがって、王女様に必要なマナー教育というものもないと思われる。
実際、そのことについてトリスに尋ねてみると――
「ええ、そうよ。ま、代わりに別のものが求められるけどね」
「たとえばなんだ?」
「祖種をはじめとする他種族に対する理解とか、魔法や技術を学ぶこととかね。要は、貴種がその他の種族にどうにかされないようにするために、知識と経験を蓄えておけってことよ」
「ああ、そういえば、だから魔法学院にいたんだったよな」
知識と経験を得るためにという話は聞いた覚えがある。
まぁ、そのときは貴種の内情を知らなかったので、そうかと思っただけだったが。
前世における知識も、貴種についてはそれほど役に立っていない。
なにせ、前世では貴種の集落である千年王国は滅びていたからな。
もちろん、俺が兵士になったばかりの頃は健在だったが、そのときは俺の国とはさして交流がなかった。
貴種が魔族との戦いにぽつぽつと参加し始めた理由は千年王国が滅びたからで、彼らがそれまでどんな文化を育んできたのかは、もはやどうでもよくなってしまっていたのだ。
だから俺も、そのあたりについて深く知ろう、という気にはならなかったんだよな。
基本的な知識はあるが、それは俺みたいに過去に戻るという特別な経験をせずとも、魔法学院の講義などで教わることができるものだ。
つまり、ここ、千年王国に滞在することは、珍しく俺にとっても新鮮な経験である。
「魔法学院に入った結果、なぜか魔族と戦う羽目になったけど。まぁ、何にも知らないで、急に魔族に襲撃されるよりはマシよね」
笑いながら言ったトリスであるが、そうなるのが歴史上は正しかったのだから、俺にとっては笑えない話である。
前世のトリスがどうなったのかは謎だ。
少なくとも、俺はかつての魔族討伐軍でトリスに会った記憶はない。
それはつまり……という可能性もある。
全然そんなことはなくて、どこかに逃げ延びて隠れ住むことを選んだ、というのも十分あり得るけどな。
前世の貴種には少なからず、そういう人々もいたらしいと聞いたことはある。
そんなことを考えつつも、俺は表情には一切出さず、普通に答えた。
「まぁ、そうだな……とはいえ、魔族との戦いに勝たないと、その僥倖も無駄になるかもしれないが。精霊王と連絡は取れそうなのか?」
あの男が出てきて、北の結界を越える方法を教えてくれるか、それが無理なら破壊してくれないと、魔族とはまともに戦えない。
「……それで、俺をわざわざ呼んだのはどういった理由でしょうか? 自分で言うのもなんですが、俺は一兵士にすぎません。英雄の一人である精霊王アーク殿に呼ばれる理由など、さっぱり浮かばないんですが……」
「何を言う。なぜか今、私は精霊王などと呼ばれているが、もともとは森の奥深くで自給自足の生活をしていたただの田舎者だ。誰かと世間話がしたいと思ってもおかしくはあるまい?」
アークはそう言って、意外なほどに温かい笑みを俺に向けた。
確かに、精霊王アークは貴種たちの住まう森の奥深くで、長い間、隠棲していたと聞く。
そのため、本人の言う田舎者、というのもあながち間違いではない。
しかし、アークの言に首肯するには、彼の持つ強大な精霊力が邪魔をする。
歴史上、彼ほど優れた精霊術師はいない。
精霊術師を多数輩出する貴種がそう断言するほどの使い手が、ただの田舎者のわけがないのだ。
ともあれ、ただ世間話がしたいだけなら、モルスやミレイア、ナコルル相手でもいいはずだ。
モルスがアークの性格を知っているのも、普段、彼らがよく話す間柄だからだろう。
にもかかわらず、わざわざ俺を呼んだのだから、何か他の用件があるに違いない。
「世間話の相手なら、モルスやミレイアでも構わないでしょう。それに、ナコルルもいますし……」
ナコルルは、精霊王アークとは精霊術と魔法という、分野の異なる技術を持つ者同士だから、話が尽きないのではないだろうか。
だが、ナコルルの名前が出たと同時に、アークは眉をひそめた。
「……あやつは若干、うるさいのでな。森の奥の深閑とした場所で暮らしていた私の耳には負担が大きく、世間話の相手として適切ではない。その点、ジョン。君ならば、なかなか有意義な話ができそうだと感じているよ」
ナコルルが、うるさい?
その指摘を俺は奇妙に思う。
なぜなら、大魔導ナコルルと言えば美しくお淑やかな貴種であり、うるさいという評価とはかけ離れた存在だと思うからだ。
多くの将兵とコミュニケーションを持ち、話し好き、という部分は否定できないが、かといってうるさいかと言われると……
むしろ穏やかに、そして極めて巧みに会話を主導する人だと思う。
それなのになぜ……
そんな俺の疑問を知ってか知らずか、アークは本題に話を移す。
「ま、とはいえ、だ。確かに君の察しの通り、今日は別に雑談をしようと呼び立てたわけではない。さらに言えば、君自身に用があったわけでも、ない。君との雑談はまた次の機会にとっておくとして……私は君に取り憑いている存在と話をしたいのだ」
アークの言葉には、別段驚きはなかった。
まぁ、どう考えても、平兵士にすぎない俺に用はないよな。モルスから聞いていた通りだし。
俺はすぐに体の内側にいる存在に呼びかける。
「……ファレーナ。呼ばれてるぞ。出てこい」
すると、面倒くさそうな声とともに、あくびをしながらファレーナが俺の体から這い出てくる。
「……はぁ、しかたないなぁ。こんかいはとくべつだよ?」
それからアークを見て、意外な台詞を言った。
「……お、アークがいるね。こんにちは」
初対面とは思えない物言いである。
そしてアークも頷いて応える。
「……あぁ、ファレーナ。久しいな。今日は聞きたいことがある。答えてもらえるか?」
お前ら知り合いだったのか、と聞きたかったが、二人の話は俺を置いて進んでいく。
「うーん、それははなしのないようによるなぁ。なにをききたいの? きみがわざわざぼくにきかなきゃいけないことなんてないだろうに」
ファレーナの言う通り、アークは極めて博学な男であり、この世のことをすべて知っているのではないかと思えるほどだ。
しかし、そんなファレーナの言葉にアークは難しい顔をした。
「……それは感覚の相違だ。私にはお前に聞きたいことがたくさんあるよ、ファレーナ」
そんなアークの台詞を聞き、ファレーナは少し考える仕草をする。
そして、奇妙な沈黙がその場を支配した。
一体、二人は何の話をしているのか。
今から何を話そうとしているのか。
それが気になって、たまらなくなり、俺が口を開こうとしたその時――
「……ま、いいよ。とりあえずいってみるといい。こたえるかどうかは、しつもんをきいてからきめよう」
そうファレーナが言ったので、アークはふっと口元を和らげた。
「……ありがたい。正直、逃げられる可能性すら考えていたからな。聞いてもらえるだけ、マシというものだ」
「ぼくはにげたりなんてしないさ。それに、ジョンが、アークのしつもんにこたえてほしそうなかおをしてるんだもの。だから、しかたないかな」
そんなファレーナの言葉に、アークは眉を上げる。
「……意外だな。お前が人に肩入れするとは。ま、いい……それで、尋ねてもいいか?」
「いいよ。なにをききたいの? えらいえらい、アークはさ」
「茶化すな……私が聞きたいのはな。私が、この戦争に加担することが許されるかどうか、だ」
……?
奇妙なことを聞くものだ、と思った。
アークはここまで、かなりの戦いに参加している。その中で、数多くの魔族を葬ってきたはずだ。
魔族は人と姿がほとんど同じだし、極めて残忍ではあっても、知能や感情を持っている。
だから、そんな相手を滅ぼさんと戦うのは果たして正しいだろうか、という意見は、常に人類の中でも存在していた。
そんな主張をする者たちは戦争には参加せず、魔族を説得しに行ったり、あるいは戦場を避けて後方に逃げたりするのが常で、まぁ、そういう生き方も全く理解できないわけではない。
ただ、大半の人間は、魔族は滅ぼすべし、という考えだけどな。
魔族のせいで、家族や仲間を殺されたのみならず、自らの生存すら危ういのだ、人類は。
そんな中、彼らと共存する道を模索すべきである、なんて考えは異端でしかない。
だからこそ、俺たちは戦っているし、戦うしかないと思っている。
その点、アークはどうなのか、と言えば……アークもまた、魔族を説得すべきとか、できるだけ戦わずに逃げるべきとか考えているわけではないだろう。
それはこれまで彼が積み上げてきた戦果が物語っている。
共存や逃亡なんて考えを持っていたら、とてもではないが上げることなどできない功績だ。
なのに、なぜ、戦争への加担が許されるかどうかなんて聞くのか……
俺には分からなかった。
勇者モルスも同様らしい。一体どういう意図の質問なのか、という表情をしている。
しかし、そんな俺やモルスの疑問にアークが答えることはなく、ファレーナの返答だけが響く。
「ゆるされる? ゆるされるだって? あはは。おもしろいことをいうね、きみは」
それは、笑い声だった。
嘲りと言ってもいい、酷く滑稽なものを見たときに浮かべるような、そんな笑いである。
アークは当然、これに憤った。
「何がおかしい?」
唸るみたいに低い声で尋ねるが、ファレーナは少しも怯えたりしない。
それどころか、笑いすぎて目に涙を浮かべていた。
「すべてにきまっているじゃないか。いまさらそんなことをいうのも、きみがきくのも、そしてそのしつもんじたいもね。アーク、はっきりいおう。きみは、おろかだ」
ここまで断言されたら、人は怒り狂う。普通はそうだろう。
自制に長けた人間であっても、怒りの感情は少なからず瞳に表れるはずだ。
しかし、である。
アークはそんなファレーナの言葉を噛み締めるように言う。
「……愚か、か。確かに、そうかもしれない……私は、今日まで生き延びてしまった。すべてを知っていながら……」
「こんどはじぶんをせめるのかい? それもまた、おろかだとぼくはおもうけどね。ま、きみがどんなふうにかんがえて、どんなふうにこうどうするとしても、ぼくはすきにしたらいいとおもうよ。ぼくは、ジョンの……ジョンたちのみかたをする。こうかいはしない。ただしさ? そんなことは、きみにとってはどうでもいいのさ。ぼくは、ジョンがすきだからジョンのためになることをする。それだけだよ」
「……随分とはっきりしているな、ファレーナ。そこまで、きっぱりと何かを言うことは、私にはできん……」
そう言って、アークは頭を抱える。
この反応から、どうやらファレーナはアークにきついことを言ったらしい、ということは分かるが、しかしやはり、彼らが何について話しているのかは、さっぱりだった。
ファレーナは、落ち込んだらしいアークを見てふっと笑う。
「……アーク。きみが、はっきりするひつようなんてないんだ。だって、それはぼくらのわがままなんだからね。さっきもいったけど、きみはすきにしたらいいのさ。だれもきみをゆるしはしないけれど、だれもきみをせめもしないよ。そんなことをするけんりのあるやつなんて、どこにもいないんだから。そうじゃないかい?」
「いや、しかし……」
「きみは、いきている。それは、きみのせきにんじゃない。すきにいきなよ、アーク。ぼくがいえるのは、それだけだ」
ファレーナは困惑するアークにそう告げて、ぱっと姿を消してしまった。
といっても、どこかに行ったわけではなく、俺の中に戻ったのだが。
ただ、体に入っただけではなく、完全に寝ている。
俺がいくら呼びかけても起きようとしない。
もう誰の質問にも答える気はない、という意思表示なのだろう。
こうなったファレーナには何を聞いても無駄なことを、俺は経験上知っていた。
だから、代わりにアークに尋ねる。
「……今の話は、どういう意味だったのですか?」
「……さぁ、な。強いて言うなら、〝責任〟の話だろうか。悩むだけ、無駄だったのかもしれないな……」
アークはそれだけ答えると、今から用事があるから一人にしてくれ、と俺とモルスに告げ、部屋から追い出した。
俺はモルスと、たった今、ファレーナとアークの間で交わされた話について議論したが、結局どういう意味かは分からず、まぁ、アークの悩みは解決したらしいし、いいんじゃないのか、ということで落ち着いた。
アークとファレーナの両方に話す気がない以上、俺たちがあれこれ考えても無駄だ。
そろそろ魔族の襲撃が再開されるだろうし、いずれ戦いが収まったら改めて聞けばいい。
そんな話をして別れ……この後、何度となく続いた厳しい戦いの中で、俺もモルスもファレーナたちの会話のことを忘れていった。
第3話 貴種と精霊王
外から鳥の鳴き声が聞こえてくる。
王都の魔族討伐軍の宿舎で聞くそれとは若干異なり、力強い声が多いように感じた。
それで俺は、あぁ、そういえば今、自分は王都ではなく貴種たちの都である、千年王国に来ているのだったか、と思い出す。
まだ頭がぼんやりしているが、また前世の夢を見ていたらしい。
聴覚に続き、瞼を開いて視覚に入ってきた情報を整理すると、石造りの建物ではなく、床や壁など、構造材のすべてが樹木でできているのが分かった。
木材として切り出され、加工されている部分もあれば、植物が自らの意思で成長し、建物の一部を構成しているように思えるところもある。
こんな建物の作り方は、祖種にはどうやっても不可能で、精霊術を使える貴種特有の技術の面白みがあった。
世界が平和になったら、こういう建物を各地に作ってくれたりすると嬉しいな、とちょっとだけ思う。
気が早いかもしれないが……いずれ来るであろう平和な時代、そのときには今よりも種族間の距離は縮まっているのではないか、という気がするのだ。
辺りには、おそらくは植物のものと思われる落ち着く香りが漂っており、樹木のフレームのベッドから下りると、足の裏に柔らかい感触が伝わってきた。
足元にあったのは、芝の絨毯。踏みつけるとふわりとして軽い感触だ。
しかも、生命力に満ちあふれており、俺が足を上げると、すぐに元通りになる。
これも精霊術の賜物なのか、それとももともとの植物の性質なのか。
どちらにしろ、貴種の植物に関する造詣の深さは、祖種とは比べるのも烏滸がましいほどだった。
その代わりと言ってはなんだが、貴種は鉱物の扱いにはかなり疎く、鏃を作ることすら難儀するらしい。
貴種も森とそこに住む生き物を愛しているとはいえ、生きていく以上は食物確保のための狩猟は必須だ。
その際に使う武器は、主に弓矢であるという。
魔法や精霊術ももちろん使うのだが、魔法の場合、どうしても威力や規模が大きくなりがちで、たとえば野鳥を狩ろうとすると、肉を大きくえぐり取ってしまい、非効率だったりする。
だからといって精霊術を使うとなると、精霊たちは自然の味方であるために鳥獣の狩りを嫌がって力を貸してくれない場合もあるらしく、思いのほか不便なのだそうだ。
その点、弓矢での狩りは、獲物の肉を必要以上にえぐることもなく、また弓矢自身が狩りを忌避する、なんてことはありえないので、重宝しているらしい。
ただ、その際に問題になるのが、鏃である。金属製が望ましいとのことだが、森で火を使うのは可能な限り避ける文化があるために、冶金技術が低いのだという。
だから、金属製の鏃は諦めて、簡素な木の矢で妥協しているようだ。まぁ、それでも狩りは十分に可能だからな。
もちろん、金属製の鏃を輸入できなくはない。
ただ、冶金といえば匠種であるが、彼らと貴種の住処は離れているし、種族間の反りが合わないため、交流は少ないそうだ。
では、祖種との取引はどうかといえば、祖種の商人の中には貴種を利用しようという邪な考えを持っている者が少なくないため、安全面を考えるとこれも難しい。
他にも色々な方法や手段が考えられたが、いずれも貴種の長い歴史の中で試され、断念されて、結果として今の状況になっているようだ。
このことからも、種族間の距離の微妙さが分かるだろう。
別にいがみ合っているわけではないものの、文化や性質の問題で歩み寄るのは難しい。
とはいえ、俺の場合は状況が異なる。
「……あら、起きたの? 一階で朝食ができてるけど、もう食べる?」
そう言って俺の寝室に入ってきたのは、黒貴種の姫であるトリスだ。
今日も浅黒い肌と銀髪のコントラストが美しい。
ここは彼女の祖父ラーカーの自宅であり、俺、勇者モルス、聖女ミレイアが泊まらせてもらっている宿でもある。
本来なら、貴種の都であるこの千年王国に長居するつもりはなかったのだが、俺たちが用事のある精霊王アークは思った以上に連絡のとりにくい人物だったらしく、気長に待たなければならなくなった。
数日で返事が来る、とのことだが、どうだろうか……
先ほど前世のアークを夢で見て懐かしく思ったものの、あの性格がすでにある程度、矯正されたものだった――少なくとも、人嫌いの彼が人類とともに戦おうとするくらいには心境が変化していた――とすると、今のアークはかなり難しい気がする。
前世において、俺はそこまで精霊王アークと深く関わってはいないが、モルスと一緒にあの後何度か話す機会もあった。
その中で得た印象は、かなり後ろ向きな考えの男で、いつも何かに後悔しているといった感じだ。
普段、他の兵士たちの前にいるときはそういう部分は見せなかったのだが、モルスやミレイアと一緒にいるときは……
そういえば、ナコルルと一緒にいるときは、しっかりとした精霊王様だったな。
当時はどうしてなのか理由がよく分からなかったが、今にして思えば……
ナコルルは、俺たち兵士の前では猫をかぶっていたのだ。
そういうナコルルに影響されて、アークも自然と猫をかぶってしまっていた、ということではないかと思う。
ナコルルはうるさくて耳につらい、とアークが言っていたのは、本来の姿のほうだろう。
知れば知るほどかつての大英雄たちの真実の姿に幻滅しそうだが、本来の性格がどうであろうとも、彼らの成した偉業は何一つ霞みはしない。
魔王を倒した――それが、すべてだ。
今回も同じようにしてくれれば、それでいい。
……他力本願すぎるかな。
俺は命をかけて血路を拓くつもりだから、そのあたりは大目に見てほしいところだ。
おっと、つい考え事をしてしまったな。
それより、トリスへの返事だ。
「モルスとミレイアはまだ起きてないのか? どうせならみんなで食事をとりたいところだが」
「ミレイアは疲れていたみたいで、まだね。モルスは起きているわ。どうする?」
ミレイアは聖女であり、前世において大活躍した英雄であるが、今は体力がない。
魔王のもとにたどり着いた時点では、それまでの激戦をいくつも乗り越えた結果として、一般の成人男性を優に上回る体力がついていたが、今の彼女は少し訓練を積んだ少女、という程度だ。
千年王国までの道のりは大して険しかったわけではないとはいえ、それでも疲労が溜まっていたのだろう。
それに加えて、ほとんど祖種と交流することのない貴種の国である。精神的にも緊張していたのかもしれない。
実際に会ってみれば、貴種たちは祖種を避けるどころか、むしろ親切なくらいだったから、張りつめていたものが緩んだ、というのもあるだろう。
となると、しばらく起きないかもな……
そこまで考えて、俺は答える。
「そうだな、先に食べることにしよう。ミレイアがあとでひとりぼっちで食べるのは可哀想な気はするが……」
すると、トリスが首を横に振る。
「私はこれから二度寝するから、そうはならないわ」
そう言って、なぜか胸を張った。
「……お前、実家に帰ってきたからってだらけてるのか?」
俺が呆れて言うと、トリスは口を尖らせる。
「ちょっと、心外ね。そういうわけじゃないわよ」
「……じゃあ、どういうわけだよ?」
「それはね……まぁ、実家に帰ってきたから、っていうところまでは正しいけど。だらけているわけじゃなくて、昨日は夜中まで挨拶回りをしていたのよ。ほら、私、これでもここではそこそこ偉い立場だから」
「あぁ……お姫様だもんな。とてもそうは見えないけど」
「でしょうとも。ま、祖種のお姫様とは、そもそも全然違うものだからね。少なくとも淑やかさとかは期待されてないし」
祖種の場合、あまりおおっぴらには言わないが、基本的に王族の女性は他国との婚姻のための道具、という意味合いが強い。特に王女となると、なおさらだ。
教養としてマナーやら貴婦人としての立ち居振る舞いやらを叩き込まれるので、必然的に、俺たち庶民がイメージする〝お姫様〟ができ上がる。
しかし、貴種には祖種のような政略結婚の慣例はないのだろう。
したがって、王女様に必要なマナー教育というものもないと思われる。
実際、そのことについてトリスに尋ねてみると――
「ええ、そうよ。ま、代わりに別のものが求められるけどね」
「たとえばなんだ?」
「祖種をはじめとする他種族に対する理解とか、魔法や技術を学ぶこととかね。要は、貴種がその他の種族にどうにかされないようにするために、知識と経験を蓄えておけってことよ」
「ああ、そういえば、だから魔法学院にいたんだったよな」
知識と経験を得るためにという話は聞いた覚えがある。
まぁ、そのときは貴種の内情を知らなかったので、そうかと思っただけだったが。
前世における知識も、貴種についてはそれほど役に立っていない。
なにせ、前世では貴種の集落である千年王国は滅びていたからな。
もちろん、俺が兵士になったばかりの頃は健在だったが、そのときは俺の国とはさして交流がなかった。
貴種が魔族との戦いにぽつぽつと参加し始めた理由は千年王国が滅びたからで、彼らがそれまでどんな文化を育んできたのかは、もはやどうでもよくなってしまっていたのだ。
だから俺も、そのあたりについて深く知ろう、という気にはならなかったんだよな。
基本的な知識はあるが、それは俺みたいに過去に戻るという特別な経験をせずとも、魔法学院の講義などで教わることができるものだ。
つまり、ここ、千年王国に滞在することは、珍しく俺にとっても新鮮な経験である。
「魔法学院に入った結果、なぜか魔族と戦う羽目になったけど。まぁ、何にも知らないで、急に魔族に襲撃されるよりはマシよね」
笑いながら言ったトリスであるが、そうなるのが歴史上は正しかったのだから、俺にとっては笑えない話である。
前世のトリスがどうなったのかは謎だ。
少なくとも、俺はかつての魔族討伐軍でトリスに会った記憶はない。
それはつまり……という可能性もある。
全然そんなことはなくて、どこかに逃げ延びて隠れ住むことを選んだ、というのも十分あり得るけどな。
前世の貴種には少なからず、そういう人々もいたらしいと聞いたことはある。
そんなことを考えつつも、俺は表情には一切出さず、普通に答えた。
「まぁ、そうだな……とはいえ、魔族との戦いに勝たないと、その僥倖も無駄になるかもしれないが。精霊王と連絡は取れそうなのか?」
あの男が出てきて、北の結界を越える方法を教えてくれるか、それが無理なら破壊してくれないと、魔族とはまともに戦えない。
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