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4巻
4-3
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「ふざ、けるな……俺は……俺は死ぬわけには、いかないん、だッ……!!」
腹が立ってきて、俺はニコに文句を言うため立ち上がろうとする。
しかし、身体には力が入らない。
先ほどまでの状況に加えて、激痛が身体中を襲っているのだ。
それでも、無理にでも這いずって、ニコの腕を掴んだ。
ニコは不思議なことに逃げなかった。
そして、腕を、おそらくは彼女からすればすぐに振り払えるだろうくらいの力で掴む俺を見て、面白そうに笑う。
「ケルケイロ……あなたは、やっぱり、根性が、ある。特別に、もう一つだけ、ただで約束してあげてもいい。その痛みに耐えきったら」
「耐えきったら……? いつまで、続く、……んだ、これは……」
「分からない……だいたい、みんな半刻くらいで狂う」
ふざけた回答だった。
しかし、よかったことも一つある。
こいつがどういう存在であるとしても、仮に悪魔だったとしても、こいつは今、俺に何か約束をするといった。
まぁ、もしかしたらまた今みたいな状況に陥る可能性もゼロではないが、今より悪くなることはそうそうないだろう。
また同じような目に遭って、結果として俺がどうにかなってしまったとしても、そもそもこいつが現れなければ俺は死んでいたのだ。
今さら何か惜しむようなことはない、という結論が頭の中で出る。
「……半刻か……その半分だって、耐えきれる気はしな、いんだ、が……耐えて、やる、さ……耐えてやる! そのときは……お前には、死ぬまで、力を、貸してもらう……」
特別な力を持っていることは間違いないだろう相手だ。
こんな存在を、俺は見たことがない。
魔の森の地下に自力で来てうろうろしているような奴だから、相当な力を持っていると考えていいだろう。
だから、もし、こいつが俺の力になってくれるなら……
そう思っての台詞だった。
ニコは俺の言葉に口を曲げた。
「分かった……ケルケイロが、耐えたら、ニコは、あなたが、ケルケイロが死ぬまで、力を貸すことにする……」
「よし、言質は、とったぞ……踏み、倒すな、よ……」
「ニコはいつも公平。耐えられないのは人が弱いから……あなたには期待してる……見ててあげる。ケルケイロ」
そう言ったニコの目には自ら言ったように、どこか期待のようなものが宿っているのが見て取れた。
先ほどまでのがらんどうの瞳ではない。
なぜか、楽しそうですらある。
もしかしたらそれは単に嗜虐趣味がニコにあるだけかもしれなかったが、そうではないと信じることにした。
体力も魔力も命も尽きかけている俺が唯一すがれるものがあるとしたら、ただ信じることだけだろう。
希望的な未来。
きっとこの危機も抜けられると信じること。
ただそれだけ。
そのためには、この痛みに耐えるしかない。
そう思って、俺は改めて半刻後も、そしてそれより後も正気でいられるよう、心を強く保つことにした。
容赦なく痛みが襲ってくる。死よりも重く辛い、巨大な痛みの嵐が。
「ぐああぁぁぁぁぁああああ!」
「あはははははは!」
俺の悲鳴と、ニコの場違いに明るい笑い声が暗い地下に響いた。
第4話 目覚め
耳元でパチパチと音がした。
薪が燃えている、そんな音だった。
目をつぶったままでも、何か暖かいことが分かる。
俺は――ジョン・セリアスは、それを感じながらゆっくりと目を開いた。
「……ジョン。起きたか」
起き上がった俺に、安心したようにそう声をかけてきたのは、ケルケイロだった。
その顔には少し擦り傷があるが、体は何も問題がなさそうに見える。
しかし、不思議なことに彼の身に着けているチェインメイルは一部が裂けおり、そこに付着した血液が乾いて赤黒くなっていた。
この様子からして無傷だったとは思えないのだが、現実にケルケイロにどこか不調があるようには感じられない。
一体何があったのか、気になった。
そもそも、あの後どうなったのか。
俺の記憶は竜の吐息を防いだ直後で途切れている。
まずは状況の確認をしなければ。そう思い、ケルケイロに話しかけた。
「あぁ……体の調子も悪くないな。何がどうなったのかは全く分からないけど、まず、ここはどこだ?」
俺は喋りながらきょろきょろと周りを見渡す。
すると、まず岩壁が目に入った。地面は土だ。おそらく俺たちがいるのは崖の下なのだろう。
気絶する直前までは確か魔の森にいたはずだったのだが、これは一体どういうことなのか。
俺は思わず首を傾げる。
しかも妙に周囲が暗い。夜だから、なのだろうか。
森の中は確かに暗かったが、それにしてもここは暗すぎる気がする。たき火がなければ、真っ暗かもしれないというほどだ。
森には多少、月明かりが差していたはずだし、ここまで真っ暗なのはおかしい。
そんな風に不思議がっている俺に、ケルケイロは答えた。
「どこだ、と聞かれると俺にもよく分からないが……状況が一発で分かる方法がある。ジョン、上を見てみろ」
そう言われて俺は視線を上にやる。
頭上からは光が漏れていて、穴が空いているのだと分かった。
あまり明るい光ではない。薄青いわずかな光だ。
穴の先には空が見えた。
真っ暗、というよりはわずかに青みがかっている闇だが、あれは確かに空だ。
正確な時刻は分からないが、今は夜なのだろう。
なぜ、あんなところに穴が……と考えていると、次のケルケイロの言葉で今の俺たちの状況がある程度分かった。
「俺たちはあそこから落ちてきたのさ。それで、ここで立ち往生してる……」
俺は驚く。
あんなに高いところから落ちてきたのに、よく生きていたものだ、というのがまず一つ。
そしてもう一つ、ケルケイロの今の落ち着きようにも。
こんな状況に置かれたら普通の子供ならもっと焦るだろうに、ケルケイロにはそういうところがなかった。
やはり、大貴族の総領としての教養や振る舞いを叩き込まれているだけはあるのかもしれない。
冷静に周りの状況を見て行動できるのは前世でも彼の美点であったが、どうやら子供の頃からそうだったらしい。
俺は、さらにケルケイロに尋ねる。
「……俺もお前も怪我一つないみたいだが、あんなところから落ちてよく無傷で済んだな。生きているだけでも運がいいっていうのに……」
それに対して、ケルケイロは少し顔をゆがませた。
「……まぁ、色々あってな。別に無傷だったわけじゃないぞ。俺も、お前も」
その言葉にはかなり含むところがあるようで、どうしたのかと俺は不思議に思った。
すると、その瞬間――
「そこ、については、ニコが説明して、あげる?」
妙に片言な喋り方の少女の声が響いた。
周囲には俺とケルケイロ以外の気配は何もなかったのに、唐突に声が聞こえてきたのだ。
俺は驚いて、周りをきょろきょろと見回した。
すると、一体いつからそこにいたのか、ケルケイロの背後の闇からにゅっと少女が現れた。
見た瞬間、思ったことは、一つだ。
――浮いている。
こいつはどう考えても、ファレーナの仲間だということだ。
ファレーナは魂を糧として存在を維持していて、俺はあいつに魂を食わせてやる代わりに、彼女の力を貸してもらうという契約をした。
目の前の少女の雰囲気は、ファレーナとよく似ている。
ファレーナよりも冷たいというか、表情が豊かな感じではないが、その瞳の暗い光がそっくりだ。
なんでこんなものが、こんなところにいるのだろう。
こいつらは、そう簡単に見つかるものじゃない。
そもそも呼ぶためには〝皿〟がなければならないのだ。
それなのに……
ふとケルケイロを見ると、その首に俺が持っていたはずの〝皿〟が下げられていた。
「……おい、ケルケイロ。そいつは……」
〝皿〟を指で示して尋ねた俺に、ケルケイロはあっけらかんと答える。
「ん? これか。これはなぜか手に握ってたんだ……お前のだよな?」
「あぁ。しかし、おかしいな。渡した記憶はないんだが……落としたのかな?」
「まぁ、俺が持ってたんだから、そうなんだろう。落ちてくる途中で外れたんじゃないか? で、俺が無意識に手に取ったとか……何か掴もうと必死だったからな」
「そうか……そうだな」
いまいち納得できない部分はあるが、そういうこともあるのかもしれない。
ケルケイロは金持ちだから、わざわざ人からものを盗む必要などないだろう。
それに、そもそもそんな性格でもないし、俺から奪ったというのは考えられない。
その証拠、というわけではないが、俺の〝皿〟を大した執着もなく首から外し、渡してきた。
「もう、これがなくても平気なんだよな?」
その言葉は、俺ではなく浮いている少女に向かってのものだったようだ。
「……もう、契約は成立した。それがあってもなくても……だいじょうぶ」
少女が聞き捨てならないことをさらりと言った。
つまり、ケルケイロはこれを呼び、契約を結んでしまったというわけだ。
俺の意識が覚醒していたら、絶対にそんなことはさせなかったが……しかし、今さら言ってもどうしようもない。
こいつらとは……ファレーナたちとは、契約の解除ができない。
そもそも、しても無駄だ。
契約した時点で、こいつらは魂をいくらか持っていく。
それなのに、何もしてもらわないまま契約解除するのは、こちらの払い損以外の何ものでもない。
だから俺はケルケイロに、そいつを遠ざけろとも力を借りるなとも言う気はなかった。
ケルケイロは少女の言葉に頷き、俺に〝皿〟を差し出す。
「助かったぜ。たぶん、これのおかげでこいつに会えたんだからな」
さわやかな笑顔でそう言った。
その表情に、果たしてケルケイロはこの少女が一体どういう存在なのか正確に理解できているのか、と疑問に思ったが、すぐに言葉が付け足される。
「……幸運だったのか悪運だったのかは、何とも言えないところだけどな」
どうやら、ケルケイロも分かっているらしい。
「それで、そいつの名前は?」
〝皿〟を受け取りつつ俺が尋ねると、少女のほうが答える。
「ニコは、ニコだよ……〝もの病みのニコ〟。よろしく……」
手を差し出して、彼女はそう言った。
もの病み、と言う彼女――ニコの自己紹介を聞き、俺は納得した。
ケルケイロや俺に大した怪我がない理由、そして、ケルケイロが怪我をしたらしいのに今はすっかり癒えていることの理由を。
こいつらは、それぞれ独特の力を持っている。魔術とは異なる、ほとんど特殊能力と言ってもいい力だ。
そして、こいつらはその能力を象徴する二つ名を持っている。
二つ名そのものの能力と、それとは反対の能力の両方を使える場合が多いらしい。
ファレーナも何か二つ名があるはずなのだが、前世で彼女は「そんなことはどうでもいいじゃないか」と言って、最後までそれを教えてくれなかった。
何ができるのか知っておくことは重要だから教えてほしいと言っても、大概のことはできるから問題ないとも言っていた。
確かにその言葉通り、彼女は大抵のことができた。他の者と比べて、その能力の幅は恐ろしく広かった。
だからこそ、俺が最後まで生き残れたというのもある。
今世でもファレーナとは契約をしたが、おそらく今回も彼女は二つ名を教える気はないだろう。
ニコの場合は、〝もの病み〟ということだから、それに関係する能力があるに違いない。
二つ名とは反対の、怪我の治療などもできるはずだ。
つまり、俺とケルケイロの傷を治したのは、こいつなのだろう。
確かめるべく、俺はニコの手を握り返しながら尋ねる。
「俺と……ケルケイロの怪我を治してくれたのは、お前か?」
「うーん。何とも言えない。ケルケイロの怪我は治した……けど、ジョンの怪我は大したこと、なかったから。意識を覚醒に導く手伝いをした、だけ……」
ケルケイロの怪我は結構大きなものだった、ということなのだろう。
チェインメイルの裂け具合からも、そして出血の多さからもそれは推測できる。
「……ケルケイロ、お前大丈夫なのか?」
ニコの力によって治ったといっても、それは外見だけかもしれない。
失われた血が元に戻っているのかどうかは分からないし、内臓に問題がある可能性だってゼロではない。
俺は付き合いの長いファレーナは信用しているが、こいつら全体について信用しているわけじゃない。
そもそも、前世で会ったこいつらには色々な奴がいて、わざと人の言葉を曲解するような奴もいた。
だから、即座にニコを信用することはできなかった。
ケルケイロは俺の言葉に、腕を回したり、体を捻ったり、飛び跳ねたりしてから答える。
「見ての通り、ピンピンしてるぜ。まぁ……正直、お前が目覚める少し前までひどい状態だったがな。そのときの痛みやら意識の朦朧とした感覚からすれば、今は調子が良すぎるくらいだ。気のせいかもしれないが、怪我する前よりも体の調子がいいような気がする」
それは気のせいではないのだろう。
俺も、ファレーナと契約してから体の感覚が変わった。
「お前、ケルケイロの体に何かしたのか?」
俺がニコに尋ねると、彼女は微笑んだ。
「調子の悪そうなところは全部治した……それに、体と魔力のバランスも調整した。これからはこまめに調整する……」
恐ろしいことを言っている。
前世のような戦時中ならともかく、平時にやるようなことではないと俺には思えたからだ。
人の体をいじくりまわすなど、危険にもほどがある。
そう思って俺は眉をひそめたのだが、ニコは俺の言いたいことをすぐに察したらしい。
「ニコは、だれよりも人の体をいじくるのが上手。心配、しなくていい……健康は害しないし、人としての機能はすべて通常通り、維持する……」
ケルケイロはそんなニコの台詞に笑い、肩をすくめた。
「……ということらしい。俺もな、一応貴族だから将来のことを考えなきゃならないんでな。子供を作れなくなったりしたら困るんだ。ニコに聞いてみたら、そういうのは問題ないってさ」
本当か? と尋ねたいところだが、ここは信じるしかないだろう。
「そもそも、こいつがいなきゃ、俺は死んでいたしな。仮に嘘でも……まぁ、仕方ないさ……」
ケルケイロはそう呟いたが、ニコは心外そうに言う。
「ニコは、嘘、つかない……」
その表情は幼い顔立ちから素直なものに見えるが、こいつらは見た目通りの年齢であることなんてない。
そもそも、こいつらの形に意味はない。
人の形をとっているものもいれば、動物や魔物の形をとっているものもいる。
不定形のものだっていたくらいだし、常識で理解しようとすることは不可能な存在なのだ。
とはいえ、ケルケイロの言うことももっともである。
「まぁ……そうだな。死ななかっただけ、良しとするしかないか」
結局はそういうことだろうと思い、自分に言い聞かせるように言った。
「あぁ。そうだぜ。それに、そういう子供がどうとか体がどうとかは、ここを無事に出られてから心配したいな。さっきも言ったが、俺たちはあそこから落ちてきたんだ。どうにかして登らないとならねぇ」
上を見ながらケルケイロが言う。
遥か高いところに穴が見えるが、あそこまで登るのは簡単ではないような気がした。
壁にとっかかりもないのだから。
魔法を使えば何とかなるかもしれないが……
しかし、そんな俺の考えを見透かしたようにケルケイロが続ける。
「それに、お前が寝てる間に、この穴の上で何度か竜がうろついているのが見えたからな。できればあそこからは出ないほうがいいだろう」
第5話 怪しげな場所
「竜があの辺りに……?」
「あぁ。俺も一応、傷が治ってから登ろうとはしたんだけどな。登ってる途中、何度か竜がいるのが見えたから諦めた……」
すでに挑戦済み、ということらしい。
竜が倒せるなら登ってみてもいいだろうが、今のところ勝てるとはあまり思えない相手だ。
登りきった直後に竜に出くわしたのでは、また穴に突き落とされて終わりだろう。それも、あくまで一番マシな場合で、だ。
穴から出た途端に殺されるという可能性も十分に考えられる。
壁を登ってこの穴を出るのはどうやら諦めたほうがいいらしい。
とはいえ。
「他にやりようがないんじゃないか……? どこかに出口がありそうには見えないけどな」
視界の届く範囲を見渡す限り、周囲はどこも石壁だ。
暗がりで見えないところも多いが、それでも何となくは分かる。
まぁ、出口を探してみる価値がないとは言わないが、期待は薄いといえるだろう。
けれど、ケルケイロは俺の言葉ににやりと笑った。
「それが、そうでもないんだよ。ちょっとこっちに来てくれ」
そう言って立ち上がり、俺に手招きした。
そちらには何かあるらしい。
「これは……」
ケルケイロに連れて来られた場所にあったものに、俺は心の底から驚いた。
なぜなら、そこには大きな金属製の半楕円形の扉が存在していたからだ。
実に重そうであるが、しかし扉である以上、開くようにできているはずである。
つまり、この向こう側には少なくとも何かしらの空間が広がっているのは間違いない。
それが果たして出口なのかどうかは分からないが、期待せずにはいられなかった。
扉の向こう側は崩落しているかもしれないという、あまり考えたくない可能性も浮かばないではなかったが、それは実際に開けてみれば分かる話だろう。
腹が立ってきて、俺はニコに文句を言うため立ち上がろうとする。
しかし、身体には力が入らない。
先ほどまでの状況に加えて、激痛が身体中を襲っているのだ。
それでも、無理にでも這いずって、ニコの腕を掴んだ。
ニコは不思議なことに逃げなかった。
そして、腕を、おそらくは彼女からすればすぐに振り払えるだろうくらいの力で掴む俺を見て、面白そうに笑う。
「ケルケイロ……あなたは、やっぱり、根性が、ある。特別に、もう一つだけ、ただで約束してあげてもいい。その痛みに耐えきったら」
「耐えきったら……? いつまで、続く、……んだ、これは……」
「分からない……だいたい、みんな半刻くらいで狂う」
ふざけた回答だった。
しかし、よかったことも一つある。
こいつがどういう存在であるとしても、仮に悪魔だったとしても、こいつは今、俺に何か約束をするといった。
まぁ、もしかしたらまた今みたいな状況に陥る可能性もゼロではないが、今より悪くなることはそうそうないだろう。
また同じような目に遭って、結果として俺がどうにかなってしまったとしても、そもそもこいつが現れなければ俺は死んでいたのだ。
今さら何か惜しむようなことはない、という結論が頭の中で出る。
「……半刻か……その半分だって、耐えきれる気はしな、いんだ、が……耐えて、やる、さ……耐えてやる! そのときは……お前には、死ぬまで、力を、貸してもらう……」
特別な力を持っていることは間違いないだろう相手だ。
こんな存在を、俺は見たことがない。
魔の森の地下に自力で来てうろうろしているような奴だから、相当な力を持っていると考えていいだろう。
だから、もし、こいつが俺の力になってくれるなら……
そう思っての台詞だった。
ニコは俺の言葉に口を曲げた。
「分かった……ケルケイロが、耐えたら、ニコは、あなたが、ケルケイロが死ぬまで、力を貸すことにする……」
「よし、言質は、とったぞ……踏み、倒すな、よ……」
「ニコはいつも公平。耐えられないのは人が弱いから……あなたには期待してる……見ててあげる。ケルケイロ」
そう言ったニコの目には自ら言ったように、どこか期待のようなものが宿っているのが見て取れた。
先ほどまでのがらんどうの瞳ではない。
なぜか、楽しそうですらある。
もしかしたらそれは単に嗜虐趣味がニコにあるだけかもしれなかったが、そうではないと信じることにした。
体力も魔力も命も尽きかけている俺が唯一すがれるものがあるとしたら、ただ信じることだけだろう。
希望的な未来。
きっとこの危機も抜けられると信じること。
ただそれだけ。
そのためには、この痛みに耐えるしかない。
そう思って、俺は改めて半刻後も、そしてそれより後も正気でいられるよう、心を強く保つことにした。
容赦なく痛みが襲ってくる。死よりも重く辛い、巨大な痛みの嵐が。
「ぐああぁぁぁぁぁああああ!」
「あはははははは!」
俺の悲鳴と、ニコの場違いに明るい笑い声が暗い地下に響いた。
第4話 目覚め
耳元でパチパチと音がした。
薪が燃えている、そんな音だった。
目をつぶったままでも、何か暖かいことが分かる。
俺は――ジョン・セリアスは、それを感じながらゆっくりと目を開いた。
「……ジョン。起きたか」
起き上がった俺に、安心したようにそう声をかけてきたのは、ケルケイロだった。
その顔には少し擦り傷があるが、体は何も問題がなさそうに見える。
しかし、不思議なことに彼の身に着けているチェインメイルは一部が裂けおり、そこに付着した血液が乾いて赤黒くなっていた。
この様子からして無傷だったとは思えないのだが、現実にケルケイロにどこか不調があるようには感じられない。
一体何があったのか、気になった。
そもそも、あの後どうなったのか。
俺の記憶は竜の吐息を防いだ直後で途切れている。
まずは状況の確認をしなければ。そう思い、ケルケイロに話しかけた。
「あぁ……体の調子も悪くないな。何がどうなったのかは全く分からないけど、まず、ここはどこだ?」
俺は喋りながらきょろきょろと周りを見渡す。
すると、まず岩壁が目に入った。地面は土だ。おそらく俺たちがいるのは崖の下なのだろう。
気絶する直前までは確か魔の森にいたはずだったのだが、これは一体どういうことなのか。
俺は思わず首を傾げる。
しかも妙に周囲が暗い。夜だから、なのだろうか。
森の中は確かに暗かったが、それにしてもここは暗すぎる気がする。たき火がなければ、真っ暗かもしれないというほどだ。
森には多少、月明かりが差していたはずだし、ここまで真っ暗なのはおかしい。
そんな風に不思議がっている俺に、ケルケイロは答えた。
「どこだ、と聞かれると俺にもよく分からないが……状況が一発で分かる方法がある。ジョン、上を見てみろ」
そう言われて俺は視線を上にやる。
頭上からは光が漏れていて、穴が空いているのだと分かった。
あまり明るい光ではない。薄青いわずかな光だ。
穴の先には空が見えた。
真っ暗、というよりはわずかに青みがかっている闇だが、あれは確かに空だ。
正確な時刻は分からないが、今は夜なのだろう。
なぜ、あんなところに穴が……と考えていると、次のケルケイロの言葉で今の俺たちの状況がある程度分かった。
「俺たちはあそこから落ちてきたのさ。それで、ここで立ち往生してる……」
俺は驚く。
あんなに高いところから落ちてきたのに、よく生きていたものだ、というのがまず一つ。
そしてもう一つ、ケルケイロの今の落ち着きようにも。
こんな状況に置かれたら普通の子供ならもっと焦るだろうに、ケルケイロにはそういうところがなかった。
やはり、大貴族の総領としての教養や振る舞いを叩き込まれているだけはあるのかもしれない。
冷静に周りの状況を見て行動できるのは前世でも彼の美点であったが、どうやら子供の頃からそうだったらしい。
俺は、さらにケルケイロに尋ねる。
「……俺もお前も怪我一つないみたいだが、あんなところから落ちてよく無傷で済んだな。生きているだけでも運がいいっていうのに……」
それに対して、ケルケイロは少し顔をゆがませた。
「……まぁ、色々あってな。別に無傷だったわけじゃないぞ。俺も、お前も」
その言葉にはかなり含むところがあるようで、どうしたのかと俺は不思議に思った。
すると、その瞬間――
「そこ、については、ニコが説明して、あげる?」
妙に片言な喋り方の少女の声が響いた。
周囲には俺とケルケイロ以外の気配は何もなかったのに、唐突に声が聞こえてきたのだ。
俺は驚いて、周りをきょろきょろと見回した。
すると、一体いつからそこにいたのか、ケルケイロの背後の闇からにゅっと少女が現れた。
見た瞬間、思ったことは、一つだ。
――浮いている。
こいつはどう考えても、ファレーナの仲間だということだ。
ファレーナは魂を糧として存在を維持していて、俺はあいつに魂を食わせてやる代わりに、彼女の力を貸してもらうという契約をした。
目の前の少女の雰囲気は、ファレーナとよく似ている。
ファレーナよりも冷たいというか、表情が豊かな感じではないが、その瞳の暗い光がそっくりだ。
なんでこんなものが、こんなところにいるのだろう。
こいつらは、そう簡単に見つかるものじゃない。
そもそも呼ぶためには〝皿〟がなければならないのだ。
それなのに……
ふとケルケイロを見ると、その首に俺が持っていたはずの〝皿〟が下げられていた。
「……おい、ケルケイロ。そいつは……」
〝皿〟を指で示して尋ねた俺に、ケルケイロはあっけらかんと答える。
「ん? これか。これはなぜか手に握ってたんだ……お前のだよな?」
「あぁ。しかし、おかしいな。渡した記憶はないんだが……落としたのかな?」
「まぁ、俺が持ってたんだから、そうなんだろう。落ちてくる途中で外れたんじゃないか? で、俺が無意識に手に取ったとか……何か掴もうと必死だったからな」
「そうか……そうだな」
いまいち納得できない部分はあるが、そういうこともあるのかもしれない。
ケルケイロは金持ちだから、わざわざ人からものを盗む必要などないだろう。
それに、そもそもそんな性格でもないし、俺から奪ったというのは考えられない。
その証拠、というわけではないが、俺の〝皿〟を大した執着もなく首から外し、渡してきた。
「もう、これがなくても平気なんだよな?」
その言葉は、俺ではなく浮いている少女に向かってのものだったようだ。
「……もう、契約は成立した。それがあってもなくても……だいじょうぶ」
少女が聞き捨てならないことをさらりと言った。
つまり、ケルケイロはこれを呼び、契約を結んでしまったというわけだ。
俺の意識が覚醒していたら、絶対にそんなことはさせなかったが……しかし、今さら言ってもどうしようもない。
こいつらとは……ファレーナたちとは、契約の解除ができない。
そもそも、しても無駄だ。
契約した時点で、こいつらは魂をいくらか持っていく。
それなのに、何もしてもらわないまま契約解除するのは、こちらの払い損以外の何ものでもない。
だから俺はケルケイロに、そいつを遠ざけろとも力を借りるなとも言う気はなかった。
ケルケイロは少女の言葉に頷き、俺に〝皿〟を差し出す。
「助かったぜ。たぶん、これのおかげでこいつに会えたんだからな」
さわやかな笑顔でそう言った。
その表情に、果たしてケルケイロはこの少女が一体どういう存在なのか正確に理解できているのか、と疑問に思ったが、すぐに言葉が付け足される。
「……幸運だったのか悪運だったのかは、何とも言えないところだけどな」
どうやら、ケルケイロも分かっているらしい。
「それで、そいつの名前は?」
〝皿〟を受け取りつつ俺が尋ねると、少女のほうが答える。
「ニコは、ニコだよ……〝もの病みのニコ〟。よろしく……」
手を差し出して、彼女はそう言った。
もの病み、と言う彼女――ニコの自己紹介を聞き、俺は納得した。
ケルケイロや俺に大した怪我がない理由、そして、ケルケイロが怪我をしたらしいのに今はすっかり癒えていることの理由を。
こいつらは、それぞれ独特の力を持っている。魔術とは異なる、ほとんど特殊能力と言ってもいい力だ。
そして、こいつらはその能力を象徴する二つ名を持っている。
二つ名そのものの能力と、それとは反対の能力の両方を使える場合が多いらしい。
ファレーナも何か二つ名があるはずなのだが、前世で彼女は「そんなことはどうでもいいじゃないか」と言って、最後までそれを教えてくれなかった。
何ができるのか知っておくことは重要だから教えてほしいと言っても、大概のことはできるから問題ないとも言っていた。
確かにその言葉通り、彼女は大抵のことができた。他の者と比べて、その能力の幅は恐ろしく広かった。
だからこそ、俺が最後まで生き残れたというのもある。
今世でもファレーナとは契約をしたが、おそらく今回も彼女は二つ名を教える気はないだろう。
ニコの場合は、〝もの病み〟ということだから、それに関係する能力があるに違いない。
二つ名とは反対の、怪我の治療などもできるはずだ。
つまり、俺とケルケイロの傷を治したのは、こいつなのだろう。
確かめるべく、俺はニコの手を握り返しながら尋ねる。
「俺と……ケルケイロの怪我を治してくれたのは、お前か?」
「うーん。何とも言えない。ケルケイロの怪我は治した……けど、ジョンの怪我は大したこと、なかったから。意識を覚醒に導く手伝いをした、だけ……」
ケルケイロの怪我は結構大きなものだった、ということなのだろう。
チェインメイルの裂け具合からも、そして出血の多さからもそれは推測できる。
「……ケルケイロ、お前大丈夫なのか?」
ニコの力によって治ったといっても、それは外見だけかもしれない。
失われた血が元に戻っているのかどうかは分からないし、内臓に問題がある可能性だってゼロではない。
俺は付き合いの長いファレーナは信用しているが、こいつら全体について信用しているわけじゃない。
そもそも、前世で会ったこいつらには色々な奴がいて、わざと人の言葉を曲解するような奴もいた。
だから、即座にニコを信用することはできなかった。
ケルケイロは俺の言葉に、腕を回したり、体を捻ったり、飛び跳ねたりしてから答える。
「見ての通り、ピンピンしてるぜ。まぁ……正直、お前が目覚める少し前までひどい状態だったがな。そのときの痛みやら意識の朦朧とした感覚からすれば、今は調子が良すぎるくらいだ。気のせいかもしれないが、怪我する前よりも体の調子がいいような気がする」
それは気のせいではないのだろう。
俺も、ファレーナと契約してから体の感覚が変わった。
「お前、ケルケイロの体に何かしたのか?」
俺がニコに尋ねると、彼女は微笑んだ。
「調子の悪そうなところは全部治した……それに、体と魔力のバランスも調整した。これからはこまめに調整する……」
恐ろしいことを言っている。
前世のような戦時中ならともかく、平時にやるようなことではないと俺には思えたからだ。
人の体をいじくりまわすなど、危険にもほどがある。
そう思って俺は眉をひそめたのだが、ニコは俺の言いたいことをすぐに察したらしい。
「ニコは、だれよりも人の体をいじくるのが上手。心配、しなくていい……健康は害しないし、人としての機能はすべて通常通り、維持する……」
ケルケイロはそんなニコの台詞に笑い、肩をすくめた。
「……ということらしい。俺もな、一応貴族だから将来のことを考えなきゃならないんでな。子供を作れなくなったりしたら困るんだ。ニコに聞いてみたら、そういうのは問題ないってさ」
本当か? と尋ねたいところだが、ここは信じるしかないだろう。
「そもそも、こいつがいなきゃ、俺は死んでいたしな。仮に嘘でも……まぁ、仕方ないさ……」
ケルケイロはそう呟いたが、ニコは心外そうに言う。
「ニコは、嘘、つかない……」
その表情は幼い顔立ちから素直なものに見えるが、こいつらは見た目通りの年齢であることなんてない。
そもそも、こいつらの形に意味はない。
人の形をとっているものもいれば、動物や魔物の形をとっているものもいる。
不定形のものだっていたくらいだし、常識で理解しようとすることは不可能な存在なのだ。
とはいえ、ケルケイロの言うことももっともである。
「まぁ……そうだな。死ななかっただけ、良しとするしかないか」
結局はそういうことだろうと思い、自分に言い聞かせるように言った。
「あぁ。そうだぜ。それに、そういう子供がどうとか体がどうとかは、ここを無事に出られてから心配したいな。さっきも言ったが、俺たちはあそこから落ちてきたんだ。どうにかして登らないとならねぇ」
上を見ながらケルケイロが言う。
遥か高いところに穴が見えるが、あそこまで登るのは簡単ではないような気がした。
壁にとっかかりもないのだから。
魔法を使えば何とかなるかもしれないが……
しかし、そんな俺の考えを見透かしたようにケルケイロが続ける。
「それに、お前が寝てる間に、この穴の上で何度か竜がうろついているのが見えたからな。できればあそこからは出ないほうがいいだろう」
第5話 怪しげな場所
「竜があの辺りに……?」
「あぁ。俺も一応、傷が治ってから登ろうとはしたんだけどな。登ってる途中、何度か竜がいるのが見えたから諦めた……」
すでに挑戦済み、ということらしい。
竜が倒せるなら登ってみてもいいだろうが、今のところ勝てるとはあまり思えない相手だ。
登りきった直後に竜に出くわしたのでは、また穴に突き落とされて終わりだろう。それも、あくまで一番マシな場合で、だ。
穴から出た途端に殺されるという可能性も十分に考えられる。
壁を登ってこの穴を出るのはどうやら諦めたほうがいいらしい。
とはいえ。
「他にやりようがないんじゃないか……? どこかに出口がありそうには見えないけどな」
視界の届く範囲を見渡す限り、周囲はどこも石壁だ。
暗がりで見えないところも多いが、それでも何となくは分かる。
まぁ、出口を探してみる価値がないとは言わないが、期待は薄いといえるだろう。
けれど、ケルケイロは俺の言葉ににやりと笑った。
「それが、そうでもないんだよ。ちょっとこっちに来てくれ」
そう言って立ち上がり、俺に手招きした。
そちらには何かあるらしい。
「これは……」
ケルケイロに連れて来られた場所にあったものに、俺は心の底から驚いた。
なぜなら、そこには大きな金属製の半楕円形の扉が存在していたからだ。
実に重そうであるが、しかし扉である以上、開くようにできているはずである。
つまり、この向こう側には少なくとも何かしらの空間が広がっているのは間違いない。
それが果たして出口なのかどうかは分からないが、期待せずにはいられなかった。
扉の向こう側は崩落しているかもしれないという、あまり考えたくない可能性も浮かばないではなかったが、それは実際に開けてみれば分かる話だろう。
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