平兵士は過去を夢見る

丘野 優

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4巻

4-2

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 歴史がこの森について何も語っていないということは、あの扉が作られたのは既知の時代より過去ということになるのだろうが、そんなことが可能な文明が遥か昔に存在していたというのだろうか。
 それとも、魔の森があるこの土地は、その時代にはもっと平和な、人が手を入れやすい土地だったということか。
 答えは出ない。
 しかし、扉があるということは、あそこから魔の森の外に出られるかもしれない。
 もちろん、何かの入り口という可能性もあるが、今ここでじっとしているよりは余程マシな気がする。
 そう考えることは、何も希望的観測に過ぎないと切り捨てるものではないだろう。
 扉はここに入るため、あるいはここから出るために存在するものなのだから。
 俺は見つけた希望に向かって、体を引きずった。
 それほど遠くはない。十メルテほどの距離だ。
 歩けば十数歩で辿たどり着く。
 しかし、今の俺にとってそれは大陸を端から端まで一日で歩いてみろと言われているかのような、絶望を感じさせる距離であった。
 無理難題であると叫びたくなるくらいに遠いのだ。
 身体中に痛みが走り、血が噴き出て、骨が折れて動かない部分も多い。
 そんな状態で、どうやってあそこまで辿たどり着けるというのか。
 だが、それでも俺は辿たどり着かなければならない。
 確かにあの向こうに道が続いていると、この目で確認しなければならないのだ。
 そのために、俺は体を引きずりながら進んだ。

「……友達、なんだ……」

 ずりずりと這いずりながら、俺はつぶやく。

「貴族じゃなくて……平民の……」

 一歩分、進むごとに血が土の地面に染み出す。

「そんなものができるなんて、考えたこともなかったが……」

 大抵、恐れられるか、ひどく敬われるかのどちらかだった。

「できたんだ……俺にも。それに、他にもたくさん……」

 ジョンの友人の魔法学院生たち。
 今は俺の友人でもある。
 だから、俺はジョンを助けなければならない。
 俺は助けられたのだから。
 友達である、ジョンに。
 俺も、友達であるジョンを、助けなければ。
 そして、俺たちの友人のもとに、帰るのだ。
 ……できることなら、二人で。
 心の底から、そう思った。

「はぁっ……はぁ……」

 そして、俺は扉の前に辿たどり着いた。
 おそらく時間にすればそれほど長くはなかっただろう。
 けれど、それは俺にはえいごうにも等しい時間に感じられた。

「……開いてくれ」

 かなりの長い期間、放置されていただろうことは間違いない扉。
 びついて開かない可能性も十分にある。
 そもそも扉の向こう側の壁が崩落して封鎖されてしまっているとか、そういうことも考えられるだろう。
 俺は祈るように扉にすがり付いて、片足の激痛に耐えながら立ち上がる。
 何とか立てなくもなかったが、しかし大して力が入らない。
 そもそもこんな状態の俺に扉を開けることができるのか。
 こんな重そうな扉が。
 近くで見て分かったのだが、その扉は金属製の重厚なもので、ある程度の力を込めなければ開きそうもなかった。
 しかし、できないなんて言えない。
 やらなければならないのだ。

「頼む、開いてくれ……」

 俺はそっと扉に手を添え、そしてゆっくりと押し始める。
 一度に力を入れると、身体の傷が痛み、血も噴き出てしまう。
 だからこその慎重な力の入れ方だったが、どうもそれでは扉は開いてくれないらしい。

「は、ははっ……くそ……頼む……」

 痛みに耐え、自らの身体から血が流れ出るのも諦めて、俺は懸命に力を入れる。
 重厚な砦の扉くらいなら開くであろうほどの力を。
 けれど、現実は非情らしい。

「……あ、開かねぇ……くそ……ッ……」

 扉はびくともしなかった。
 やはり、壊れているのかもしれないし、何らかの理由によって封鎖されているのかもしれない。
 それでも俺は力を入れ続けるが、どうやっても開かなかった。


 ◇◆◇◆◇


 どれくらい力を入れ続けただろうか。
 意識がもうろうとして、感覚も鈍くなっていった。
 手に入る力もどんどん弱くなっていき、そしてついには、自分の体を支えることもできなくなってしまった。
 限界、というやつだ。

「げほっ……くそ……くそ……!!」

 扉に預けていた身体がずり下がっていき、頭が地面にがつりとぶつかる。
 起き上がろうとするが、もう指一本すら動かない。
 いや、指を動かそうとしても、左手の指はだいたい折れているのだが。
 右手を先ほどまで動かせていたのも、ほとんど奇跡だったのかもしれない。
 はっきりとは折れていなくても、ひびくらいは入っていた可能性はあるのだ。
 痛みは……あまりにも身体中に傷を負いすぎて、しているのかもしれなかった。
 どうせなら扉が開くまで俺の言うことを聞いてくれ、と自分の身体に文句を言いたくなったが、それこそ言っても仕方ないことだ。
 もう、すべては決した。
 どうにもならない。
 諦めるしか、ない。
 諦めるしか……
 心が死んでいくのを感じた。
 深い地の底で、こんな風に死ぬのが俺の人生の終わりなのかと、虚無感を抱いた。
 同時に、それもいいかもしれないという、解放感も。
 そうして黙ってしらむ視界を見つめていると、体の奥深いところから、何かが呼びかけてくるような気がした。
 ­――お前は、それでいいのか。
 そして、その呼びかけが新たな火種となって、感情が爆発したように頭の中を駆け巡った。

「いいはずが……ねぇ……! こんなんで……いいはずが……ッ……いいはずがねぇんだよ……!!」

 そうだ。
 俺はまだ、何もしていないのだ。
 ここに来た目的も果たしていないし、これだけ大きな傷を負った意味すら今や無に帰そうとしている。
 そんなのは、認められなかった。
 立ち上がるべく、俺はもう一度意識を覚醒させる。
 辺りが赤く見えた。
 怒りなのか、興奮なのか、それともそれ以外の何かなのかは分からなかったが、そういう何らかの感情が、俺を立ち上がらせる――そう思った。
 だが――

「……起きろ……起きろ、ケルケイロ……! 早く、起き上がって……動け……」

 喉は動くのだが、身体はやはり何も言うことを聞かない。
 これでもダメなのか。
 これだけ、力を入れても、心を燃やしても。
 何の意味もないのか。
 絶望感が、腹の底を深く覆った。
 そして、怒りと悲しみと無念と絶望がないまぜになり、ばらばらになりそうな感情の渦が俺の心の中に満ち満ちた瞬間、それは起こった。
 放したくても放しようがなかったジョンのアクセサリーが、妙な輝きを放ったのだ。
 それは徐々に大きくなり、辺りを光で覆っていく。

「こいつは……なんだ……?」

 もうろうとした意識の中でも、その光は美しいと感じた。
 死にぎわに見るにしては悪くない光景だ。
 そして光が収まったとき、そこに存在していたのは、妙な少女だった。
 ぼんやりとした、夢を見るような薄茶色の瞳を持った少女。
 少し寝ぐせついたのようにも見えるアイスブルーのショートの髪がつややかであった。
 総じて幼くも美しい少女であったが、それだけになぜこんなところにいるのか。
 そもそも、これはどういうことだ。
 どうして、あの少女は空中に浮いている?

「……こんにち、は……」

 場違いな、挨拶だった。
 しかし、俺はそれに返してしまう。
 その選択が必ずしも正しいものではなかったと、ほんの少し後に後悔することになるなどとは知らずに。

「あ、あぁ……こんな姿で悪い、が……はじめまして……お嬢、さん……」

 声がかすれてひどいものだが、出た言葉は貴族として身に着けた貴婦人に対するものだった。
 そんな俺の台詞せりふに少女は言う。

「……あなた、やっぱり……おも、しろい……」

 そして、口元を大きく、夜に浮かんだ三日月のような形にあやしく曲げたのだった。



 第3話 不公平な契約


「……面白い? は、ははっ……なるほど、いい趣味をしてるらしいな、お嬢さん……確かに、おも、しろいかも、な……」

 客観的に見れば、俺のこの状況は笑えるかもしれないと思っての言葉だった。
 友人の危機を一応回避したはいいが、その結果として自分は死にかけているし、肝心の助けた相手も意識不明で、さらには脱出方法が見当たらないときた。
 出入り口かもしれない扉は見つけたが、それも開かない。
 八方塞がりのこの状態、笑う以外にどうしろというのだ。
 しかし、俺の目の前に浮いている眠そうな瞳の少女は、何もそんな突き抜けた皮肉を口にしたわけではなかったようだ。
 細い首を少し傾げて、彼女は言う。

「……死んだ人は、いっぱい、いた……でも、あなたは、ちがう……」

 口を開いた当初から、随分と言葉足らずな少女だと思っていたが、その感覚は間違っていなかったらしい。
 少女の返答を聞き、俺は悩んだ。
 死んだ人がいっぱいいた?
 俺は違う?
 どういう意味だ。
 だが、そんな風に考える俺の表情を見てか、少女は周りをきょろきょろとうかがい、それから一点を凝視する。
 その視線の方向に何か意味があるようだと察して、彼女の視線の先を見てみると、そこにあったのは累々と積み重なったがいこつだった。

「……なるほど、ここに落ちて死んだ奴は俺の他にもいるって? きつい冗談だな……」

 このままでいれば、いずれ自分もああなるのは確実である。
 いや、でも……
 少女は、言った。
 俺は、違う、と。

「……俺はああならないって? そう言いたいのか、君は……」

 俺のかすれた声に、少女は微笑みながら頷く。

「……そう。あなたは、死なない……がいこつにはなら、ない……」
「そりゃ……また、面白い冗談だな……この状態で、どうしてそんなことが言えるんだ……」
「それは、ニコがいる、から……あなたが、ニコを呼んだから……」
「ニコ……?」

 それは何だ、と一瞬思ったが、ここにいるのは俺とジョン、そしてこの不思議な少女だけだ。
 ニコ、とは彼女の名前なのだろう。

「それが、君の、名前か?」
「そう。本当はもっと、ながい名前が、ある……でも、もういらない。ニコは、ニコ……そう決めた」
「名前がいらないって? どういう意味……!! ……げほっ。あぁ、こいつはもうダメ、そうだ、な……お嬢さん。用件があるなら早めに、お願いできないか。そろそろ俺は、死にそうなんだ、が、な……」

 これは冗談でなく本当の話だった。
 喉に血が絡んできているし、出血もしすぎた気がする。
 視界もかなりしらみがかってきているし、冷静に考えて、これは死ぬ直前だろうという気がした。
 なのに、少女と笑って話している自分はかなり異常なように思えたが、しかしもう他にどうしようもないのだ。
 最期くらい、こういうのもいいんじゃないか。
 諦めないと心の中で強く思いながらも、どこかでそう思っている部分もあった。
 この少女は変わっていて、どこにでもいるような普通の少女とは到底思えなかったが、仮に彼女が悪魔か何かだったとしても、死にゆく人間との会話に少しくらい付き合ってくれるんじゃないか、とも。
 しかし、少女の反応はそんな俺の弱気を吹き飛ばすようなものだった。

「……あぁ、そう、だった……ねぇ、。死にたく、ない?」

 何を馬鹿げたことを聞くのか、と思った。
 その質問に対する答えは決まっている。考えるまでもない。
 だから、どうして名乗ってもいない俺の名前を君は知っているんだとか、そういう疑問は、このときの俺の頭には上らなかったのだ。

「当たり、前、だろ……俺は、ジョンを、生きて帰さなきゃ、ならねぇんだ……それが……俺の……」

 徐々に声も出なくなってきた。
 決意を口に出すことすらできないのか。
 あまりの情けなさに、涙が出てきそうだ。
 すでに血や汗やらで汚れている顔だから、涙が加わったところでどうということもないが。
 しかし、最後まで言葉にできずとも少女は俺の言いたいことを理解したようだ。
 彼女は頷いた。

「そのためなら、、する?」

 極めて危険な質問だった。
 そう問われたら、どんなに事態がひっぱくしていようとも軽々しく返答してはならない、というたぐいの。
 けれど、この時の俺はただ、この少女に覚悟のほどを問われているだけだと思ったのだ。
 返答したところで、何も起こらない。
 そんな、さほど意味のない会話だと。
 だから俺は言った。

「あぁ、何でも、する……何でも……なん……でも……」
「じゃあ、魂も、くれる? ニコ、燃費がいいから、半分くらいで大丈夫……」
「はっ……それくらいならやるさ……やれるもんならな」

 魂なんて形のないものを差し出せといわれても困るが、それでどうにかなるなら、くれてやる。
 そういうつもりで言った。
 当たり前だが、そんなものを対価として差し出す方法なんて存在しないと思っていた。
 けれど、彼女は言った。
 あやしく、笑いながら。

「契約は成立した……あなたの魂をちょうだい……ケルケイロ。おいしそう……ほんとうはずっと、我慢していた……」
「なんの、話……」

 少女が近づいてくる。
 顔を寄せてくる。
 幼くも美しい、なぜかこれで完成していると思ってしまうような美貌が目に入った。
 さらりとした短めのあおい髪が血と汗と泥で汚れた俺の顔にかかり、そして、顔がさらに近づいて……

「……ん!?」

 少女の唇が俺の唇に触れた。
 いきなり何をするのか、と叫ぼうと思ったが、その声を出す気力も残っていない。
 体を動かす力もなく、されるがまま黙っているしかなかった。
 それに。
 まぁ……これから死ぬのだ。
 今は幼いとはいえ、十年たてば絶世の美女になるだろうと確信できるような少女の口づけを最期の記憶にできるなら、それはそれで幸福な結末というものではないか。
 冗談のように、そう思わないでもなかった。
 そして、確かにそれで終わったなら、多少は俺も幸せだったかもしれないと思いながら死んでいくことができただろう。
 できるとは思わなかった平民の友人ができ、その友人の命を守り、また妹とそのメイドの命も守って、最期に美人の口づけをもらって終わる。
 悪くない。
 悪くないはず、だったのだ。
 口づけをもらった、その瞬間までは。
 ゆっくりと口元に感じた圧力が引いていき、少女の顔が遠ざかっていくと同時に体を襲ったその感覚。
 それは、強烈な痛みだった。


 ◇◆◇◆◇


 脳天まで貫かれたかのような激痛だった。
 たまに小指を段差にぶつけたりして悶絶することがあるが、それの何十倍もの痛みが全身に襲ってきているような、そんな感覚が続く。
 腕も足も首も、万力で締め上げられながら、千切れるほどに引っ張られている感じがした。
 少し俺から離れた位置で、何の感情も映していない空虚な瞳で、ニコは俺を見ている。
 そんな彼女に向かって、俺は叫んだ。

「な、んだ……これは、何だっ……!」

 いや、叫びとは言えないかもしれない。
 喉から絞り出すような、情けない声ともいえない音しか出ていない気がする。
 けれど、ニコには俺の言いたいことが十分に理解できたようである。

「なんだ、って……さっき、ケルケイロは、ニコと、契約した。その、代償。あなたの魂が引き裂かれる痛み。ほら……」

 そう言ってから目を輝かせ、ニコは俺の口を指差す。
 すると、不思議なことに俺の口からふっともやのようなものが出ていくのが感じられた。
 一体何が、と思っていると、それは俺から離れていった。
 ニコに向かって導かれるように進んでいくそれは球形をしていて、あやしげな輝きを放っている。
 まるで意思を持った生き物みたいな動きをしているが、それでも進む方向は一定である。
 そして、ついにニコの目の前で静止した。
 ニコはそれを笑って見つめ、壊れやすいものを扱うように両手をあげてそっと包んだ。

「……やっぱり、とってもおいしそう。ケルケイロ、あなたの魂は、おいしそう……」
「たま、し、い……?」
「そう、魂。人の意思の源。生き物すべてに宿る、あらゆる力の根源……私たちはこれを食べて存在を、維持、する……」

 言われて、先ほどの自分の言動を思い出す。
 魂をやると、確かに俺はそう言った。
 ニコが俺に魂を求め、俺はそれに同意した。
 契約は成立した。
 つまりはそういう話なのだと、やっと理解した。
 しかし、契約というのなら、俺にだって彼女に約束を果たしてもらう権利があるだろう。
 俺はためなら、魂でも何でもやると言ったのだ。
 今の状況を見ろ。
 俺は死にそうではないか。
 だから、こんな文句が出てくるのも当然だ。

「はなし、は……分か、った……だが、俺は、死にそう、だ、ぞ……ニコ」

 その言葉の意味をニコは少し考え、まるで明日の天気でも聞かれたかのように軽い口調で返答する。

「死にそう? だいじょうぶ……ケルケイロは、死なない……でも、死なない、だけ。それ以外は、保証、しない……」

 その軽さは、むしろきわめて恐ろしく、俺は背筋を凍らせた。

「それ、いがい、だと……?」
「あそこで骨になっている人たち。何人か、契約、した。でも、みんな、頭がおかしくなって、ものを考えられなくなった……ケルケイロも、そうなる?」

 こてりとかわいらしく首を傾げて言ったが、冗談ではない。
 ただこの場で死なないことだけ保証されても困るのだ。
 ここを出なければ何にもならない。
 これは、悪魔の取引だった。
 俺だけが負担を強いられ、こいつは何も支払いやしない。
 そういう取引だったのだと、そのとき気づいた。
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