平兵士は過去を夢見る

丘野 優

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2巻

2-2

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 第3話 魔法実技と悪ふざけ


 闘技場は広く、全クラスの生徒が集まっても全く満ちることはない。それもそのはず、時期が来れば、ここでは全校生徒が魔術の実力を存分に披露する魔術大会が開かれるのだ。
 余談だが、その際には王国の騎士団や軍など、外部からも人を招き、学院生徒の力を観覧してもらうことになる。この魔術大会で実力を示せたならば、卒業前に騎士団や軍などへの配属が内定することも間々ままある。したがって、多くの学院生徒がそれを目的に魔術大会の頂点を目指すのである。
 そんな広大な闘技場の中で、俺たちはいま、魔法実技の授業を受けている。
 俺の所属するクラスであるアチェールニの魔法実技の担当教官は、いかにも魔術師然とした老人だった。長くゆったりとしたローブを痩身そうしんに纏い、トンガリ帽子を被り、真っ白で立派なひげを伸ばしたその老人は、あのナコルルですら認めるほどの実力を持つ、偉大な魔術師の一人であった。
 常人には難しい四大属性全ての扱いをマスターし、元素使いマギステル・デ・エレメントゥムと呼ばれた彼は、かつての大戦において多大なる戦果を上げ、相手国を震え上がらせた。彼にとっては砦などいい的でしかなく、いくつもの砦が彼の魔法によって文字通り崩壊したというのは有名な話だ。
 そんな勇猛な経歴を持つ彼も年をとって丸くなったのか、今はこの学院で教師をしている。魔法学院の教師、特に実技を指導する教師には「教導魔術師」という特殊な資格が必要とされるが、もちろん彼も所持していた。彼が得られないのなら誰にも得られないだろう。

「さて、では始めるかのう」

 長い髭を伸ばすようにいじりながら、彼――モラード・ガラクルシアはそう呟いた。


 未だ魔力触媒が手に馴染まない眼前の生徒たちを見て、彼は目を細める。

「いやはや、初々しい限りじゃ。諸君、これから諸君には魔法を使ってもらうが、その前に年寄りの忠告じゃ。魔法を、いたずらに使うでないぞ」

 彼の授業は、そんな注意から始まった。
 いわく、魔法というのは強力な力であり、行使すればたとえ子供であろうと簡単に人を傷つけることができてしまう。しかも、直接その感触が手に残ることがなく、自分が人を傷つけたという自覚を得にくい。だから、魔法で人を傷つけることは恐ろしいことなのだと、しっかり自分の心に刻みつけなければならない――そういう話だった。

「……それができぬ者に、わしは魔法を伝えることなどできぬ。わしは殺人鬼を作りたいわけではないからのう」

 少し遠くを見つめるような目でそう言ったモラードは、いったい何を思い出していたのだろう。
 かつて敵国から実際に殺人鬼扱いされていた本人の言葉には、生々しさが感じられる。
 もしかしたら、彼がこうやって学院で教師をしているのは、過去に自分が行った所業に対する懺悔ざんげなのかもしれなかった。
 前世の戦場で戦い続けて、ふと、自分の手を見たとき。そこは直視できないほど血で真っ赤に汚れていることがある。鮮やかな赤ではない。どす黒く汚らしい赤だ。それを見るたび、思ったものだ。俺は、正しいのだろうかと。
 目の前の老人も、同じように思ったことがあるのかもしれない。まっすぐに彼の目を見つつ、話を聞けば、彼の心が分かる気がした。彼の心を裏切らぬよう、真剣に授業に取り組もうと思った。
 そんな俺の心が伝わったのかは分からないが、モラードはこちらを見て、少し笑った。

「では、忠告はこんなところで終わりにしておこう。皆も、魔法を使いたくてうずうずしておるのじゃろう? わしもその気持ちは分かるからの。らすのはここまでじゃ。皆、魔力触媒は持っておるな? 忘れている者はおらんか?」

 こう言われて、自分が忘れていることに気付いたある生徒が、慌てて教室に取りに戻ろうとした。しかしモラードは彼を呼び止め、それから自分の魔力触媒を振ると、闘技場の端の方から魔力触媒が飛んできて、その生徒の手元に収まった。

「学院の備品じゃ。次からは忘れんように気を付けて、今日のところはそれを使うと良い。触媒は使えば使うほど馴染むでな、できる限り自分のものを使った方がよいぞ」

 早速新たな教えを授けつつ、モラードはチャーミングな笑顔を見せる。

「では……魔法実技の授業を始める。今日は全員に初級魔術を使ってもらうのが目標じゃ。おそらく、魔法を使うのは初めてという者が大半じゃろうから……まずは、貴族の誰かに手本でも見せてもらうかの」

 そう言って、モラードは生徒たちの顔を見比べ始めた。
 基本的に魔法は国家の秘匿技術であり、特に攻撃魔法については特例を除いて伝承を禁じられている。だが、貴族は貴族たる権利の一つとして、自らの子息に魔法を伝承することを許されているのだ。これは、他国との戦争の際、貴族は軍を率いて戦うことから、剣技や戦術と並んで、魔法についても小さな頃から学んでいくためである。ゆえに、ある程度の年齢になった貴族はすでに魔法を使えることが多い。だからこそモラードも、貴族に手本を、と言ったのだ。
 ちなみにであるが、貴族には魔力を持つ者が生まれやすく、それは昔から魔術師の血を取り入れ続けた結果ではないかと言われている。実際、強力な魔術師は貴族と婚姻することが多く、その説はおそらく正しいのだろう。
 モラードの呼びかけに従い、数人の手が上がる。おそらくそいつらは魔法を行使できる貴族ということなのだろう。魔法を使えない貴族も入れると、アチェールニに所属する貴族の数は十人前後だったはずだ。学院全体でも、貴族の生徒はだいたい三分の一くらいだ。
 そのうちのひとり、今年度の学院首席、フラー・エルミステールがモラードより指名される。彼もアチェールニの所属である。さらさらとした金髪に白い肌、青い瞳と、典型的な貴族の容姿だ。立ち居振る舞いもどことなく洗練されていて、気品がある。ただし瞳の輝きが皮肉げで、微笑みもほがらかというよりは何か腹に抱えていそうな感じであるのが、少しいただけないが。

「ではフラー。お主は魔法が使えるかね」

 手を上げた時点で使えるのだろうが、モラードの問いにフラーが答える。

「ええ。基本的なものは父に教わりました。問題ありません」
「では、使ってみせてもらおうかの……まずは、わしが手本を見せよう。お主、属性は?」
「水です」
「では……〝静寂で清らかなる水よ、我が要請に応え、今ここに顕現せよ。アクア〟」

 モラードがそう言うと同時に、モラードの持つ杖型の魔力触媒の先端辺りから水色の光がほわりと放たれ、それから空中に浮かぶ水が出現した。
 生徒たちは、その様子を興味深そうにじっくりと見つめている。ほとんどの生徒は、初めて目にする、生活魔法とは異なる規模の、まさに魔法というべき現象に面白さを感じているようである。
 そんな生徒たちとは正反対に、いかにも鼻白はなじろんだ表情で見ているのが、おそらく魔法をすでに使える貴族たちだ。その顔は、そんな簡単な魔法などつまらない、と言っているようである。
 まぁ、今モラードが見せたのは初歩の初歩であるから、その気持ちは分かる。平民の生徒たちも、すでにこの魔法を知っていたのなら、彼らと同じような顔をしたであろう。かく言う俺自身にとってもあまり珍しいものではなく、どちらかと言えば貴族たちの心境に近いものを感じている。それを顔に出さないのは、普通の子供らしさというものを前世で捨ててしまっているからにすぎない。
 貴族も平民も、子供の性質に変わったところはあまりない。これから成長していくにつれて軋轢あつれきが生じるかもしれないが、なんとかなるだろう。
 それからモラードは、魔法で生み出した水をふらふらと様々な場所に飛ばしたりして操った後、空中で霧散させて魔法を終了させた。
 水を出したことよりも、そちらの方が驚きで、俺はモラードの技量に感嘆した。すでに完成してしまっている魔法に干渉することはそれほど容易ではない。誰でもやろうと思えばできなくはないが、かなり単純な干渉しかできないのが普通なのだ。
 にもかかわらず、モラードはかなり複雑な命令を出現した水に与え、なめらかな挙動を実現していた。これは恐るべき技量の表れである。そのことがわからない生徒たちは、ぼんやりとその様子を見ていた。いずれ自分がある程度魔法を使えるようになったとき、今日のモラードの技術を思い出し、戦慄することになるだろう。あれは、無理だと。
 フラーはどうか。彼は、はじめから特に何の感情も顔に出してはいなかった。興味も、またその正反対の退屈さもなく、ただ観察している、といった風情だった。貴族のたしなみとして、自分の感情をあまり表情に出さないようにしているのかもしれない。
 それから、モラードはフラーに、魔法を披露するように伝える。

「では、フラー。お主の番じゃ……」
「はい……〝水よ、現れよ。ここに顕現し、水泡を形作れ、アクア〟」

 フラーが唱えると、先ほどのモラードと同じように、水色の光が彼の魔力触媒から発せられる。少しずつ水の球体ができ上がっていき、最終的に先ほどのモラードのものより二周り程度小さな水の球体が、空中に浮かぶことになった。
 その後、水の球体はモラードの魔法のような挙動を披露することなく、ぱん、とはじけるように空気に溶けて消えていった。
 それを見て、モラードは拍手をする。

「うむ! よくできておる。基本を学んだという言葉には相違ないようじゃ。皆、拍手を!」

 そう言われて、フラーが少しだけ顔をほころばせた。
 見ていた生徒たちは、今の魔法がどれだけすごいのかよく分かっていないようだが、モラードに促されて拍手を始める。
 実際、モラードと比べれば稚拙なものにすぎなかっただろう。発動速度も、規模も、魔力効率も、段違いに低い。だが、子供の使う基礎魔法としては十分なレベルに達している。皆、自分で今の魔法を試すことになれば、今の拍手の意味が理解できることだろう。
 モラードとフラーの詠唱が異なっていたが、それがこの時代の魔法の特色だ。未来でスタンダードとなるナコルル式魔法に対し、この旧式魔法はまず詠唱が必要であり、その詠唱は個人の想像を象徴するものなので、一人ひとり異なる。最後に唱えた起動語キーと呼ばれる魔法言語のみが共通する部分である。旧式魔法は、詠唱と起動語キーを組み合わせて口に出さなければ発動しない。不便なことである。
 起動語キーについてはこの時代も研究は盛んであるが、ナコルル式はこの起動語キーについての理解を発展させた先にある。だからこそ、ナコルル式は一語のみの詠唱や無詠唱を可能にしているのだ。
 ただ、旧式魔法も悪いことばかりではない。詠唱部分は自分の母語で唱えることが可能で、その部分にオリジナリティを出して、魔法自体を改良することも比較的簡易にできるという利点がある。後の世界において旧式魔法は戦闘用の魔法としては放棄されたが、それ以外の場面では必ずしもそうはならなかった。工業用の魔法としてならば、それなりに優秀なのである。


 属性ごとに作ったグループに分かれた生徒たちは、モラードから詠唱と起動語キーの組み合わせを書いた羊皮紙をもらい、各々魔法の練習を開始した。当然のことながら、属性が異なれば詠唱と起動語キーも異なる。四大属性を全て扱えるモラードといえど、派生属性や特殊属性の全てを使うことはできない。
 モラードがグループごとに練習している生徒たちの間を回り、たまに指導を加える、という形で授業は進行していった。
 やがて、事件が起こった。

「……やめ、やめろ!」

 一人の生徒が、そんなことを叫ぶのが聞こえた。
 見れば、走って逃げるノールを追いかけながら、魔法を唱えている者がいるではないか。
 たまにいるのである。こんな風に、魔法を悪ふざけに活用しようというやからが。
 俺はそれに気付くと同時に、ノールのもとに向かって走り出した。



 第4話 魔力切れ


 本来、こんなことは授業の責任者であるモラードに収めてもらいたいところだが、モラードは少し離れた位置にいた。ノールを追いかけている生徒は、今にも魔法を放ちそうである。すぐに助けなければならない以上、モラードに期待するのは難しそうだ。だから俺はすぐにノールのもとへと走り、ノールを追いかけている生徒の前に立ちふさがった。

「……なんだよお前。そこをどけよ。それともお前が的になるか?」

 案の定、目の前の奴はろくでもないことを言う。見るからに高そうな魔力触媒を持ち、どことなく退廃的な雰囲気のそいつは、明らかに貴族の子息である。人を見る視線にあなどりというか、さげすみというか、そういう色を感じる。
 俺は呆れたように言った。

「お前、何を聞いてたんだよ。モラード先生が言ってたろ、いたずらに魔法を使うなって。今何をしようとしてた、お前」

 貴族男子は一瞬言葉に詰まったが、すぐに顔を赤くして反論してきた。それは反論とは呼べない、ただの文句だったのだが。

「うるさい! 平民に何をしようが俺の勝手だろう! 今すぐそこをどけ。そうしないなら、お前も的にするまでだ!」
「勝手じゃないから言ってるんだろ? さっきも言ったが、モラード先生はいたずらに魔法を使うなって言ったんだ。お前はそれを破ってる。そのことをよく考えろ」

 俺がなんでこんなに根気よく説得するかと言えば、相手が子供だからだ。貴族の子息というのは結構な権威主義者というか、色々頭が凝り固まっている奴が少なくない。だが、所詮子供である。親の背中を見て育った結果、そうなったにすぎない。ちゃんとした環境と教育が与えられれば、まともな方向へと向かって育つのだ。
 前世の戦争で、俺はそのことを知った。当たり前だが、前世においては平民も貴族も共に戦争に参戦していたから、交流もあった。ケルケイロについては少し特殊だが、それ以外のいわば一般的な貴族とも関わりがあったのだ。彼らは、戦争当初はそれこそ一生懸命に権力闘争を行い、誰が戦争の主導権を握るだかとか、戦争が終わった後のパイの取り合いとか、そういうものに腐心していた。
 けれど徐々に戦争が激化し、そんなことも言っていられない事態に陥ると、意外にも彼らは真面目に戦い始めた。元々、公平無私な人間として知られていた貴族だけなら驚きはしなかったが、とんでもない性格だと評判だった貴族の中にも、まるで人が変わったかのように真剣に戦う者が現れたのだ。
 はじめは疑ったものだ。あれは、何かよからぬことを企んでいるのではないかと。
 だが、そうではなかった。彼らは本当に改心していた。そのことがはっきり分かったのは、戦争の最後のほう、もはや貴族も平民もなくなり、周りにいる人間を〝戦友〟としか言えないような特殊な関係になってしまったときのことだった。
 彼らはそれぞれの口で語った。魔王城突入前の最終キャンプの、天幕の内側で。自分がかつてどういう貴族であり、そして今はどういう人間であるのかを。
 もちろん、彼らが一様に同じ理由で改心したわけではなかった。ただ、方向性は似通っていた。つまり苦境に置かれていた彼らを平民が救った、という話だ。それによって、彼らの価値観は変わったらしい。
 加えて、同輩が戦争で次々と命を落としていく中、貴族だろうと平民だろうと、顔なじみが生きていることに安心を覚えたことも、影響しているようだった。
 滅びの危機に至り、彼らは身分がどうであろうと、人には何の変わりもないということに納得したのだ。ただし、そうではない貴族は、平民に殺されたり、誰にも助けられずに魔族に滅ぼされたりしてしまったので、そもそもそういう貴族はあまり残らなかったという事情もあったが。
 それでも、人が変わることがあるというのは事実なのだと、今の俺は理解している。
 ノールを憎々しげに睨んでいるこの幼い貴族だって同じことだ。こいつはまだ子供だ、頭も柔軟にできているはず。だから今すぐとは言わなくても、こういうことを繰り返しているうちに、改心することはあり得る。だからこそ俺は立ちはだかり、そして説得を試みた。
 けれど今回のところは、俺の思いが功を奏することはなかったようだった。
 貴族子息は、魔力触媒を差し出し、そして言った。

「……もう知らないからな、お前が悪いんだ。〝巻け、風よ、吹け、風よ。我が眼前の敵を傷つけよ、ウェントゥス〟」

 貴族子息の持つ杖型の魔力触媒から、鎌鼬かまいたちのような風が吹きすさび、俺の身体を傷つけた。俺の後ろにいるノールは無事であるが、俺は無事とは言い難かった。
 正直、何の方策もなくここにいるのだ。こんな場でナコルル式魔法を使うわけにはいかないし、旧式魔法は正直得意じゃない。というか、ここ二年は一切練習していないので、まだ使えない。覚えないで入学した方が自然に見えるだろう、と思っていたからだ。その選択のせいで、今結構な傷を身体に負っているわけだ。
 しかも、貴族子息の魔法は中々終わらない。こんなに長時間続く魔法だったかという気すらしてきた。彼が使ったのは案の定、初歩的なもので、一瞬の風を引き起こすことを目的とした起動語キーを使っているため、そんなに長く持続するようなものではないはずだ。だがもう十数秒は経過しているのに、彼の魔法は止まらない。
 おかしいと感じた俺は、目の前にいる貴族子息の表情をよく見つめてみた。
 すると、先ほどまで紅潮していたその顔は青くなっており、息も苦しげで、明らかに尋常な様子ではない。これは……

「……魔力の制御に失敗してるな、まともに集中できていない……おい、もうやめろ、魔力をそそぎ込むな!」

 そう言ってはみるが、目の前の少年は聞く耳を持たない。

「……うるさい……これ……くらい……げほっ」

 言い返す気力もないようで、咳込せきこんだ口元には少し血がにじんでいた。これはかなりまずい。俺の話を聞きたくないのか、それとも自分で魔力を止められないのか。おそらくは後者で、反論は単なる減らず口の類なのだろうが……
 早く止めなければと、吹きすさぶ鎌鼬の中、俺は貴族少年に近づこうとした。

「……やれやれ。さすがにこれはまずいのう」

 すると、後ろから声が聞こえた。そこには、今の今まで闘技場の端にいたはずのモラードの姿があった。痩身のモラードがどれほど急いで走り寄ったとしても、いくらなんでも早すぎる。
 そんな俺の疑問を感じたのか、モラードは少し髭をいじりながら答えた。

「この闘技場の中ならどこからでも一瞬で来れるよ、わしは」
「だったらもっと早く来てくれても」
「いや、お主が何かしそうだったでのう。じゃまするのも悪いかと。学院長からも色々言われておっての。ただ、さすがに許容範囲を超えたので、来たまでじゃ。止めるが、文句はないな?」
「当たり前です」

 モラードはすぐに何かを唱えて、貴族子息の風を完全に停止させた。早い。口元の動きが全く見えなかった。
 この時代の魔法は呪文を唱えなければ発動しない。その前提を受け、できるだけ早く魔法を発動させる手法として、高速詠唱の技術の研究が盛んだ。どれだけ早く呪文を唱えられるか、どうやってそれを実現するか。高位の魔術師は、それこそ一瞬で詠唱を完成させられるレベルだと聞いていたが、それはほんの一部の話で、滅多に見られるものではなかったはず。だが、モラードがその使い手だったらしい。
 風が停止すると同時に、貴族子息はゆっくりと崩れ落ちる。
 それを抱き留めてから、モラードは授業の中断を宣言し、貴族子息を医務室へ連れていった。
 当たり前だが、あの状態の人間を正座させて叱るとか延々と注意するとか、そういうことは流石さすがにできない。彼がある程度復調してから、そういった懲罰が行われるはずだ。
 貴族だろうがなんだろうが、学院で何か悪事を行ったならば、何も処罰されないということにはならない。とは言え、年齢が年齢だけにいきなり退学になったりはしないとみられる。もう一度同じようなことがあれば分からないが。
 俺は振り返って、おびえるノールに話しかける。

「大丈夫だったか?」
「あ、あぁ……わるい。助けてもらって……」
「気にすんな。結局何もしてないしな、俺」
「そんなこと……っていうか、お前も医務室に行けよ。傷だらけだ」

 確かに身体中に小さな切り傷がある。医務室に行くほど深い傷はないのだが、一つ一つが地味に痛い。ノールがこうならなくてよかったものだ。

「ほっとけば治ると思うけどな……」
「だめだ。ほら、行くぞ!」

 そう言うとノールは俺の腕をひっつかみ、医務室まで引っ張っていった。
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