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最終章〜唯一の未来Ⅱ〜
三百四十四話【SIDE:晶】
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「大丈夫ですか?」
椹木さんが、問いかけてくる。――この状況に、いっそ不自然なほど穏やかな声だった。
ベッドの傍らに膝をついて、俺を覗き込んでいる。きっちりと撫で上げた髪と、常通り、地味だけれど品の良いスーツ姿の彼は、ラブホのテカテカした安っぽい内装に、不釣り合いだった。
「ぁ……」
俺は、はっと我に返る。自分の酷い有様を、見られてしまっていることに気づいて。
かあ、と羞恥に全身が燃え上がり、身体を背けた。
「ヤダっ……!」
他の男に散々弄ばれ、どろどろに汚れた裸身を、見られてしまった。
形式上の婚約者で、俺に感情のない相手だと知ってはいても……死にたいくらい恥ずかしい。
「み、見ないで……汚いから……」
「晶君……」
背を背けたまま、身体を丸めると、足の間をぬるい液体が伝う。生臭い性臭が立ち上り、それは当然、椹木さんにも知られているはずで。情けなくて、涙を溢れさせていると――衣擦れの音がした。
「……?」
不思議に思ったのもつかの間、ぱさりと体に布がかけられる。見れば、シーツらしい。
「晶君、すこし堪えて下さい」
「え――あっ!」
シーツに包まれたまま、身体が宙に浮かんだ。
思わず見上げた椹木さんは、ジャケットを脱いだ姿で、俺を抱えあげていた。静謐な白檀の香りが鼻腔をくすぐって、ひくりと喉が鳴る。
――……あたた、かい。
石のように固まった俺を、椹木さんは浴室まで運んだ。湯を張るスイッチを押し、湯船の縁に凭れさせるよう、そっと下ろされる。
趣味の悪い内装の浴室に、白い湯気が上り始める。
「あ、の……?」
わけがわからなくて、見上げる。
鷹のような目は、穏やかな光を宿し見下ろしていた。
「大丈夫ですよ。泣かないで下さい」
「……ぁ……」
子供に言い聞かせるような、優しい口調。いつもと変わりない婚約者の姿に、混乱してしまう。
――なんで。軽蔑したんじゃないの……?
陽平とのことだけじゃない。今まさに、他の男と寝ていたのを目の当たりにしたはずなのに。普通は俺を罵倒して、殴ったりするところなんじゃないのかよ。
「晶君」
シーツをかき合わせて、俯く。
椹木さんは、シャツの袖をまくると、俺の前に膝をついた。
「泣かないで。綺麗にしますから……」
「……っ」
親指で涙を辿られて、眦を見開く。男の精液で汚れているはずなのに……優しい手つきに涙が溢れる。
まるで、いつもの性行為の後のようだった。俺は……他の男に抱かれてしまったのに、どうして。
「ううっ……」
「……体を見ても構いませんか?」
ぐすぐすと啜り泣いていると、抱きしめられる。「はい」なんて言えない。けれど、頭を振ることも出来なくて、糊のきいたシャツに頬をすりつける。椹木さんは、ほっと安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます」
……なんで、あんたがお礼言うんだよ。
そんな憎まれ口が浮かんだけれど、嗚咽に紛れて言葉にならなかった。
「……大丈夫ですか?」
湯で火照った体を、椅子にぐったりと預けていると、心配そうに尋ねられた。俺は、濡れた手足をタオルで拭っている彼を見られずに、そっぽを向いて頷く。
「良かった」
「……っ」
穏やかな声は、本当に嬉しそうに聞こえて、混乱する。
さっきだって――汚い体を、丁寧に洗ってくれた。俺の肌は、他の男に触れられた証のように、キスマークだらけで……絶対に、軽蔑すると思っていたのに。
『晶君。自分を傷つけないで下さい』
そう言って――ただ、悲しそうに目を伏せただけで。
――いったい、何なんだよ……?
バスローブに包まれた体を抱きしめる。でないと、あまりに現実感が無くて、信じられなかった。
だって、どうせ婚約破棄になるのに。どうして、こんな風にするのか、わからない。
「……あの」
「はい」
「どうして、俺がここに居るってわかったんですか」
なんて、どうでもいい事を訊く。確かに疑問ではあったけど、大して知りたくない。核心を突いて、片が付くのが怖かったからかもしれない。
椹木さんは俺の思惑も知らず、丁寧に答えた。
「勝手ながら、君の大学の友人に尋ねたんです。よく飲みに行くのだという店を教えてもらいまして……その近辺で、一人で飲んでいる若いオメガが居ないか、うちのものに探らせていました」
「なっ」
俺の大学にまで行ったのか。
多忙なこの人が――愕然としていると、椹木さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「勝手なことをしてすみません。ですが……どうしても、会わなければと思いました。君がやけを起こしている気がして……」
「……っ」
真摯な声で謝られて、胸が詰まる。
――今さら、そんなこと言われても遅いよ。
冷たく言ってやりたいのに……こんなことで、胸が震える。
探し回っていてくれたなんて、まるで心配されているみたいだって、感激してしまっていた。
――馬鹿だな、俺。婚約破棄するのが、後ろめたいからに決まってるだろ。
どうせ口だけなんだって、必死に言い聞かせた。次に来る痛みに耐えるために、心を凍らせる。
「……手間を掛けさせてすみません。用件は、婚約のことですよね」
「晶君」
「ちゃんと話し合います。迷惑かけてすみませんでした」
ちゃんと家にも帰る。
父さんには見放されてるだろうし……ついにセンター行きかもね。
――この人とも、おさらばだ。
声が滲まないよう、できるだけ淡々と言葉を紡ぐ。
すると、近寄ってきた彼が、足下に屈んだ。大人が小さな子に諭すときのように、見上げてくる。
「晶君。私は君とちゃんと話がしたいんです」
「……だから、しようって言ってます」
真っすぐな目を見られず、顔を背けると、手を取られた。
「いいえ。私は今まで、君と向き合えていませんでした。だから、知りたいんです」
「……」
何を言っているのか解らなかった。まるで、関係を継続するみたいな口ぶりだと思ったから。
――なんで……
これ以上、期待をするのは疲れた。
手を振りほどくと、唇を噤む。長い沈黙の後――何も話したくないという意思をくんでくれたのか、椹木さんは穏やかに頷いた。
「……急ぎ過ぎましたね。今夜は、家に送りますから……話の続きは次の機会に」
どうせ次なんてないくせに。
俺は、唇を噛み締めて、頷いた。
椹木さんが、問いかけてくる。――この状況に、いっそ不自然なほど穏やかな声だった。
ベッドの傍らに膝をついて、俺を覗き込んでいる。きっちりと撫で上げた髪と、常通り、地味だけれど品の良いスーツ姿の彼は、ラブホのテカテカした安っぽい内装に、不釣り合いだった。
「ぁ……」
俺は、はっと我に返る。自分の酷い有様を、見られてしまっていることに気づいて。
かあ、と羞恥に全身が燃え上がり、身体を背けた。
「ヤダっ……!」
他の男に散々弄ばれ、どろどろに汚れた裸身を、見られてしまった。
形式上の婚約者で、俺に感情のない相手だと知ってはいても……死にたいくらい恥ずかしい。
「み、見ないで……汚いから……」
「晶君……」
背を背けたまま、身体を丸めると、足の間をぬるい液体が伝う。生臭い性臭が立ち上り、それは当然、椹木さんにも知られているはずで。情けなくて、涙を溢れさせていると――衣擦れの音がした。
「……?」
不思議に思ったのもつかの間、ぱさりと体に布がかけられる。見れば、シーツらしい。
「晶君、すこし堪えて下さい」
「え――あっ!」
シーツに包まれたまま、身体が宙に浮かんだ。
思わず見上げた椹木さんは、ジャケットを脱いだ姿で、俺を抱えあげていた。静謐な白檀の香りが鼻腔をくすぐって、ひくりと喉が鳴る。
――……あたた、かい。
石のように固まった俺を、椹木さんは浴室まで運んだ。湯を張るスイッチを押し、湯船の縁に凭れさせるよう、そっと下ろされる。
趣味の悪い内装の浴室に、白い湯気が上り始める。
「あ、の……?」
わけがわからなくて、見上げる。
鷹のような目は、穏やかな光を宿し見下ろしていた。
「大丈夫ですよ。泣かないで下さい」
「……ぁ……」
子供に言い聞かせるような、優しい口調。いつもと変わりない婚約者の姿に、混乱してしまう。
――なんで。軽蔑したんじゃないの……?
陽平とのことだけじゃない。今まさに、他の男と寝ていたのを目の当たりにしたはずなのに。普通は俺を罵倒して、殴ったりするところなんじゃないのかよ。
「晶君」
シーツをかき合わせて、俯く。
椹木さんは、シャツの袖をまくると、俺の前に膝をついた。
「泣かないで。綺麗にしますから……」
「……っ」
親指で涙を辿られて、眦を見開く。男の精液で汚れているはずなのに……優しい手つきに涙が溢れる。
まるで、いつもの性行為の後のようだった。俺は……他の男に抱かれてしまったのに、どうして。
「ううっ……」
「……体を見ても構いませんか?」
ぐすぐすと啜り泣いていると、抱きしめられる。「はい」なんて言えない。けれど、頭を振ることも出来なくて、糊のきいたシャツに頬をすりつける。椹木さんは、ほっと安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます」
……なんで、あんたがお礼言うんだよ。
そんな憎まれ口が浮かんだけれど、嗚咽に紛れて言葉にならなかった。
「……大丈夫ですか?」
湯で火照った体を、椅子にぐったりと預けていると、心配そうに尋ねられた。俺は、濡れた手足をタオルで拭っている彼を見られずに、そっぽを向いて頷く。
「良かった」
「……っ」
穏やかな声は、本当に嬉しそうに聞こえて、混乱する。
さっきだって――汚い体を、丁寧に洗ってくれた。俺の肌は、他の男に触れられた証のように、キスマークだらけで……絶対に、軽蔑すると思っていたのに。
『晶君。自分を傷つけないで下さい』
そう言って――ただ、悲しそうに目を伏せただけで。
――いったい、何なんだよ……?
バスローブに包まれた体を抱きしめる。でないと、あまりに現実感が無くて、信じられなかった。
だって、どうせ婚約破棄になるのに。どうして、こんな風にするのか、わからない。
「……あの」
「はい」
「どうして、俺がここに居るってわかったんですか」
なんて、どうでもいい事を訊く。確かに疑問ではあったけど、大して知りたくない。核心を突いて、片が付くのが怖かったからかもしれない。
椹木さんは俺の思惑も知らず、丁寧に答えた。
「勝手ながら、君の大学の友人に尋ねたんです。よく飲みに行くのだという店を教えてもらいまして……その近辺で、一人で飲んでいる若いオメガが居ないか、うちのものに探らせていました」
「なっ」
俺の大学にまで行ったのか。
多忙なこの人が――愕然としていると、椹木さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「勝手なことをしてすみません。ですが……どうしても、会わなければと思いました。君がやけを起こしている気がして……」
「……っ」
真摯な声で謝られて、胸が詰まる。
――今さら、そんなこと言われても遅いよ。
冷たく言ってやりたいのに……こんなことで、胸が震える。
探し回っていてくれたなんて、まるで心配されているみたいだって、感激してしまっていた。
――馬鹿だな、俺。婚約破棄するのが、後ろめたいからに決まってるだろ。
どうせ口だけなんだって、必死に言い聞かせた。次に来る痛みに耐えるために、心を凍らせる。
「……手間を掛けさせてすみません。用件は、婚約のことですよね」
「晶君」
「ちゃんと話し合います。迷惑かけてすみませんでした」
ちゃんと家にも帰る。
父さんには見放されてるだろうし……ついにセンター行きかもね。
――この人とも、おさらばだ。
声が滲まないよう、できるだけ淡々と言葉を紡ぐ。
すると、近寄ってきた彼が、足下に屈んだ。大人が小さな子に諭すときのように、見上げてくる。
「晶君。私は君とちゃんと話がしたいんです」
「……だから、しようって言ってます」
真っすぐな目を見られず、顔を背けると、手を取られた。
「いいえ。私は今まで、君と向き合えていませんでした。だから、知りたいんです」
「……」
何を言っているのか解らなかった。まるで、関係を継続するみたいな口ぶりだと思ったから。
――なんで……
これ以上、期待をするのは疲れた。
手を振りほどくと、唇を噤む。長い沈黙の後――何も話したくないという意思をくんでくれたのか、椹木さんは穏やかに頷いた。
「……急ぎ過ぎましたね。今夜は、家に送りますから……話の続きは次の機会に」
どうせ次なんてないくせに。
俺は、唇を噛み締めて、頷いた。
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