いつでも僕の帰る場所

高穂もか

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最終章〜唯一の未来〜

三百二十一話【SIDE:陽平】

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 ――しばし、呆然としていた。
 
「……ぁ……」
 
 気が付くと、野江の姿は消えていた。使用人達も引き上げたのか、誰の姿もない。
 家の中には、しんと静寂が戻っている。
 
 ――成己……
 
 心の中で、あいつの名前を呼ぶ。
 ふらりと立ち上がる。……何をしようと思ったわけでもない。ただ、静寂が恐ろしく、座っていられなかった。
 
 ――……成己。
 
 がらんどうの、成己の部屋には入る勇気がない。よろよろとリビングに行くと、むわりと濃い酒の臭いが鼻を突いた。
 酷い有様なのに、掃除する気力もない。逃げても、問題は先送りになるだけだって、わかってる。もう、俺以外にやる奴はいないのに……
 
 ――でも、疲れた。
 
 ソファに座り込むと、横ざまに倒れた。
 四肢を縮め、体を丸める。頬に当たる、レザーの感触が冷たい。なのに、どこにも現実感が無くて、夢の中にいるようだった。
 
「なるみ……」
 
 小さく呟いた名に、応えはない。
 そのことが、急に胸に堪えて――きつく目を閉じる。
 
 ――成己の匂いが、しない。
 
 頭を抱え込み、身体を丸める。成己の部屋が空っぽになっただけで……この家から、あいつの気配が薄れてしまった。このまま、日々を過ごすごとに、全部消えてしまうのか?
 考えるだけで、腹の底から凍える。
 
「成己……!」
 
 俺は、がばりと身を跳ね起こす。
 とても、此処に居たくない……成己の気配が無い部屋には。
 外に出よう。逃げるような気持ちで、玄関に向かって歩みだす。
 
 ――あ……!?
 
 シューズボックスの上の、鍵に手を伸ばし――ハッと目を瞠る。
 空っぽの花瓶の横に、銀色の鍵が一つ、置き去りになっていた。
 
――『ただいま、陽平』
 
 成己のやわらかな声が、甦ってくる。
 安っぽいキーホルダーのついた鍵……成己の持っていたものだった。震える手のひらに納めると、ひんやりと冷たい。
 いつから、ここにあったんだろう。
 俺は、呆然と玄関に立ち尽くす。
 思い出していたのは――初めて、ここの扉を二人で開いた日のことだった。
 
 
 
『ほら、成己』
 
 この家に引っ越して来た日――俺は、成己に鍵を渡した。
 あいつは目を丸くして、何を差し出されたか、解らないみたいな顔をした。
 
『……いいの?』
『いいのも何も、お前も持ってないと不便だろ。いらねえの?』
『ううん、いるっ。めっちゃ嬉しい……!』
 
 成己は、頬を真っ赤にして笑った。あんまり嬉しそうで、面食らうほどに。
 
『……大げさなやつ』
 
 成己の手に、半ば強引に鍵を押し付ける。ただの伝達行動なのに、やたら照れくさくて……ぶっきらぼうになってしまった。
 
『ありがとう、陽平。ぼく、ずっと大切にするね!』
 
 成己はただの鍵を、宝物のように胸に抱いた。
 
 
 
 ――成己は、鍵も持たずに出てったのか……?
 
 それとも、成己の荷物から見つけた野江が、置いて行ったのか。
 真偽はわからない。
 ただ……わかるのは一つだけ。
 
 もう、成己がこのドアを開くことは、無いということ。
 
「……成己!」
 
 俺は、手のひらに顔を埋めた。
 鍵からは、冷たい金属の匂いしかしなかった。当たり前だ。鍵は……誰の手にあるかで、意味を成すのに。
 
「う……うああああ!!!」
 
 深い悔恨が、胸を破る。
 鍵を渡したとき、成己の顔は……明るい希望に満ちていたのに。
 
 ――『お願い。陽平の側に居たいんよ! 離れたくないよ……!』
 
 ここを出て行った日の、成己の叫びが耳に甦る。あの時は、何にも思わなかった。今なら、死にたくなるくらい、悲しい声だとわかるのに。
 あんなに嬉しそうだったあいつを……あんなに傷つけて、追い出した。
 
 ――馬鹿だ、俺は……この家を……成己と二人、分け合っていくはずだったのに!
 
 全部、踏みにじってしまった。俺が壊してしまったんだ。
 
「あああ……」
 
 俺は玄関に崩れ、叫び続けた……
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……陽平! 陽平……!」
 
 名を呼ばれて、意識が浮上する。
 うっすらと目を開けると、霞んだ視界に人影が映る。
 
「陽平! 気が付いたのか」
 
 ぼんやりとした影が、次第に像を結ぶ。
 
 ――父さん?
 
 酷く心配そうな顔をした父が、俺を覗き込んでいた。その背後に、母さんらしき影も見える。
 父さん、と声を上げようとして咳き込んだ。喉がガラガラして、声が出ない。
 
「陽平。無理しなくていい……マンションで倒れていたのを、連れて帰って来たんだ」
「心配したのよ。ずっとうなされて……」
 
 その言葉に、ここが実家であると気付く。――天井が高い。
 あの家……俺と成己の家じゃない。その事実に、胸の底が抜けたような、恐怖が襲った。
 
 ――ここじゃない!!!
 
「……うっ、ゲホッ、ゴホ……!」
「陽平ちゃん!」
 
 焼けんばかりに痛む喉が、悲鳴をせき止める。ベッドの中で体が弾むのを、母さんが心配そうに押しとどめた。
 小さくて柔らかい手が、胸を擦り――違う、と涙がこみ上げる。
 
 ――成己……!
 
 成己じゃない。成己の手は、もっとひんやりしていた。
 
「陽平、大丈夫か!」 
『陽平、大丈夫?』
 
 成己の声は、もっと優しかった。
 ひいひいと喉が嗚咽をならす。みっともない真似をする息子に、両親はオロオロとするばかりで、怒鳴ったり喚いたりもしない。
 
 ――……なるみ……!
 
 いまだかつてないほど優しい親に抱かれて、俺はガキみたいに頭を振る。
 成己じゃないと、いやだった。
 成己がいないと、何も意味がない、のに……どうして、俺はあんなことをしてしまったんだろう。
 
 ――『お前が、成から全てを奪ったんだろう……!!』
 
 ううう、と喉から獣のような呻き声が漏れる。歯をギリギリと食いしばって痛みに堪える。
 
「どうしたんだ、陽平。どうした……」
 
 父さんの太い腕が、俺の肩を抱く。涙がのどに詰まり、ぜいぜいと息を吐く。
 
 ――成己がいない。成己がいないんだよ、父さん……!!!
 
 今、初めて気づいた。
 俺は……成己を失ったんだと。かけがえのない人を失ったんだと――ようやく。
 
 ――成己、好きなんだ。お前じゃないと駄目なんだ……! 何でもするから、戻って来てくれ……!!
 
 愚かな俺は、恋しい人の面影を浮かべ、咽び続けた。

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