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最終章〜唯一の未来〜
二百六十六話
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――陽平なんか……!
涙を堪えて、瞼が燃えるように熱い。ぼくは、廊下をやみくもに走りながら、心の中で陽平を呪った。
『晶に騙されていたんだ』
『野江とお前が怪しいって――』
どうして、今になってそんなことを言うの。
ぼくは、あの時……陽平に、信じて欲しかったのに!
奥歯をきりきりと噛み締めて、心の痛みに耐える。
ぼくが何を言っても、蓑崎さんばっかりで、聞く耳を持たなかったくせに。どうして、今さら――!
俯いたまま、角を曲がったとき、正面から誰かにぶつかってしまう。
「……あっ!」
「成?」
たたらを踏んで立ち止まれば、穏やかな声に呼ばれる。
はっとして顔を上げると、穏やかな眼差しが見つめていた。
「宏ちゃん……」
「どした、成。急いで、走って来てくれたのか?」
優しい温かい手のひらが、頭を撫でる。その瞬間――胸の中で凝っていた陽平への怒りが、ぶわりとほどけてしまう。
「ひろちゃん」
「ん?」
やわらかに聞き返されて、声が詰まった。堪えていた堰が決壊し、ぽろりと涙が溢れだす。
「成」
「ごめん、ぼく……」
慌てて顔を覆って、目を閉じる。
――……ダメ。宏ちゃんには言えへん。
偶然でも、陽平と会って。よくわからない後悔をぶつけられて……こんなに動揺していることなんて。そんなのは、こんなに優しい宏ちゃんに対して、あまりにも不誠実で、無神経だ。
嗚咽を堪えて震える肩を、逞しい腕に引き寄せられる。
「どうしたんだ。そんなに悲しい顔して」
問いながら、ぎゅうと結ぶように抱きしめられた。
宏ちゃんの胸にぴったりくっついていると、お湯に浸かっているように温かい。ぼくは、大きな背にしがみついた。
「宏ちゃん、帰りたい……お家に帰りたい」
とにかく、はやく家に帰って、二人になりたい。今は、それしか考えられない……
そう伝えると、宏ちゃんは「うん」と頷いて、ぼくを抱く腕に力を込めた。
その日の夜――
「……ふぅ」
ベッドの側に、膝を抱えて座り込んだ。
湯上りで火照った頬を、冷たい膝の上に置きながら――ぼうっと床の目を眺める。宏ちゃんがいないと、どうしても考えずにはいられなかった。
――陽平は……どうして、あんなことを言ったんだろう?
あいつの切羽詰まった顔や、声を思い出す。
蓑崎さんに騙されたんだ、と訴えていた。
どうして、今さら――あんな風に、後悔するようなことを言ったのか。あれだけ、蓑崎さんを守ると言っていたのに、どうして。
ぼくに未練がある、という事はないはずだ。このところ、ずっと憎しみをぶつけられてきたんやもの。流石にそれほど、自惚れるつもりはない。
「ひょっとして……蓑崎さんと上手く行かなくなった、とか。あの人には、椹木さんがいるんやもんね」
呟いた自分の声が暗くて、ぎょっとする。
慌てて、ぶんぶんと頭を振る。ひとの不幸を喜ぶような自分の醜さに、少しぞっとした。陽平が、蓑崎さんとどうなろうが、ぼくには関係ないはずなのに……
「――もうっ、考えたくない!」
立ち上がって窓を開くと、生温い空気が入り込んでくる。――車の音がする。蝉の声は、しない。昼間は喚くようなのに、今は何も聞こえない。
「……」
雲があるせいで、薄明るい夜空を見上げた。夜風が頬を撫でてゆき、たったそれだけで、泣きたい気持ちがぶり返す。
――騙されたなんて、どうでもいい。ぼくには、関係ないんよ……
なんでわからへんの、バカ。
窓枠に縋って、睨むように外を眺めていると――手の上に、浅黒い大きな手が重なった。
「成。湯冷めするぞ?」
「あ……」
振り返ると、後ろから覆いかぶさるように、宏ちゃんが立っていた。湯上りの熱気を孕んだ肌から、ボディソープとフェロモンの混じり合った香りがする。
じん、と後頭部が痺れて、強張った頬が緩む。
「宏ちゃん……」
「ほら、駄目じゃないか。髪が冷えちまってる」
宏ちゃんはからからと窓を閉めると、ぼくのこめかみをそっと撫でつけた。湿った髪を梳く、熱い指先に唇がほころんだ。
「つい、ぼうっとしちゃって」
「成は、自分のことは後回しだからなぁ」
「そんなこと……」
と、首にかけていたタオルで頭を包まれた。わしわしって、子犬を撫でるように水気を拭われてしまう。
「……!」
「じっとしてな」
穏やかな声が、降ってくる。
見上げた先の、宏ちゃんの笑んだ口元。パジャマ代わりの白いTシャツの柔らかい感触も、すべてうっとりするほど優しい――
「……っ」
胸がぎゅうって、締めつけられる。
――やっぱり、ぼくは罰当たりや。こんなに優しくされといて……いまだに、陽平のことで、傷つくなんて。
泣きたい気持ちを堪えていると……Tシャツの胸にぽふんと額が当たって、目を瞬く。
「宏ちゃん?」
宏ちゃんは、黙ったままぼくを抱きしめていた。温かい腕が、しっかりと体に絡んで、鼓動がどきん、と跳ねる。
耳朶に唇がくっついて、やわらかな吐息が触れていた。
「ぁ――」
ついと仰向かされたと思うと、唇が重なった。
湯上りのせいか、宏ちゃんの唇はしっとりと熱い。優しく包まれて、頭の芯がじんと痺れていく。
「ま、待って……」
切れ切れに声を上げると、そっと滑り込んできた舌に言葉をさらわれた。
怪我をしてから、初めての深いキス。溶けるように中を探られて、何も考えられなくなる。
夢中になって、大きな体にしがみついていると……抱き上げられた。
――……あ。
そっと、ベッドに横たえられる。
寝室の天井が、見えた。冷房で冷えたシーツを背に感じたと思うと、宏ちゃんが覆いかぶさって来た。
「怖くないから……」
大きな手に包まれて、頬が燃える。
ぼくは両手を差し伸べて、宏ちゃんの背を抱いた。
涙を堪えて、瞼が燃えるように熱い。ぼくは、廊下をやみくもに走りながら、心の中で陽平を呪った。
『晶に騙されていたんだ』
『野江とお前が怪しいって――』
どうして、今になってそんなことを言うの。
ぼくは、あの時……陽平に、信じて欲しかったのに!
奥歯をきりきりと噛み締めて、心の痛みに耐える。
ぼくが何を言っても、蓑崎さんばっかりで、聞く耳を持たなかったくせに。どうして、今さら――!
俯いたまま、角を曲がったとき、正面から誰かにぶつかってしまう。
「……あっ!」
「成?」
たたらを踏んで立ち止まれば、穏やかな声に呼ばれる。
はっとして顔を上げると、穏やかな眼差しが見つめていた。
「宏ちゃん……」
「どした、成。急いで、走って来てくれたのか?」
優しい温かい手のひらが、頭を撫でる。その瞬間――胸の中で凝っていた陽平への怒りが、ぶわりとほどけてしまう。
「ひろちゃん」
「ん?」
やわらかに聞き返されて、声が詰まった。堪えていた堰が決壊し、ぽろりと涙が溢れだす。
「成」
「ごめん、ぼく……」
慌てて顔を覆って、目を閉じる。
――……ダメ。宏ちゃんには言えへん。
偶然でも、陽平と会って。よくわからない後悔をぶつけられて……こんなに動揺していることなんて。そんなのは、こんなに優しい宏ちゃんに対して、あまりにも不誠実で、無神経だ。
嗚咽を堪えて震える肩を、逞しい腕に引き寄せられる。
「どうしたんだ。そんなに悲しい顔して」
問いながら、ぎゅうと結ぶように抱きしめられた。
宏ちゃんの胸にぴったりくっついていると、お湯に浸かっているように温かい。ぼくは、大きな背にしがみついた。
「宏ちゃん、帰りたい……お家に帰りたい」
とにかく、はやく家に帰って、二人になりたい。今は、それしか考えられない……
そう伝えると、宏ちゃんは「うん」と頷いて、ぼくを抱く腕に力を込めた。
その日の夜――
「……ふぅ」
ベッドの側に、膝を抱えて座り込んだ。
湯上りで火照った頬を、冷たい膝の上に置きながら――ぼうっと床の目を眺める。宏ちゃんがいないと、どうしても考えずにはいられなかった。
――陽平は……どうして、あんなことを言ったんだろう?
あいつの切羽詰まった顔や、声を思い出す。
蓑崎さんに騙されたんだ、と訴えていた。
どうして、今さら――あんな風に、後悔するようなことを言ったのか。あれだけ、蓑崎さんを守ると言っていたのに、どうして。
ぼくに未練がある、という事はないはずだ。このところ、ずっと憎しみをぶつけられてきたんやもの。流石にそれほど、自惚れるつもりはない。
「ひょっとして……蓑崎さんと上手く行かなくなった、とか。あの人には、椹木さんがいるんやもんね」
呟いた自分の声が暗くて、ぎょっとする。
慌てて、ぶんぶんと頭を振る。ひとの不幸を喜ぶような自分の醜さに、少しぞっとした。陽平が、蓑崎さんとどうなろうが、ぼくには関係ないはずなのに……
「――もうっ、考えたくない!」
立ち上がって窓を開くと、生温い空気が入り込んでくる。――車の音がする。蝉の声は、しない。昼間は喚くようなのに、今は何も聞こえない。
「……」
雲があるせいで、薄明るい夜空を見上げた。夜風が頬を撫でてゆき、たったそれだけで、泣きたい気持ちがぶり返す。
――騙されたなんて、どうでもいい。ぼくには、関係ないんよ……
なんでわからへんの、バカ。
窓枠に縋って、睨むように外を眺めていると――手の上に、浅黒い大きな手が重なった。
「成。湯冷めするぞ?」
「あ……」
振り返ると、後ろから覆いかぶさるように、宏ちゃんが立っていた。湯上りの熱気を孕んだ肌から、ボディソープとフェロモンの混じり合った香りがする。
じん、と後頭部が痺れて、強張った頬が緩む。
「宏ちゃん……」
「ほら、駄目じゃないか。髪が冷えちまってる」
宏ちゃんはからからと窓を閉めると、ぼくのこめかみをそっと撫でつけた。湿った髪を梳く、熱い指先に唇がほころんだ。
「つい、ぼうっとしちゃって」
「成は、自分のことは後回しだからなぁ」
「そんなこと……」
と、首にかけていたタオルで頭を包まれた。わしわしって、子犬を撫でるように水気を拭われてしまう。
「……!」
「じっとしてな」
穏やかな声が、降ってくる。
見上げた先の、宏ちゃんの笑んだ口元。パジャマ代わりの白いTシャツの柔らかい感触も、すべてうっとりするほど優しい――
「……っ」
胸がぎゅうって、締めつけられる。
――やっぱり、ぼくは罰当たりや。こんなに優しくされといて……いまだに、陽平のことで、傷つくなんて。
泣きたい気持ちを堪えていると……Tシャツの胸にぽふんと額が当たって、目を瞬く。
「宏ちゃん?」
宏ちゃんは、黙ったままぼくを抱きしめていた。温かい腕が、しっかりと体に絡んで、鼓動がどきん、と跳ねる。
耳朶に唇がくっついて、やわらかな吐息が触れていた。
「ぁ――」
ついと仰向かされたと思うと、唇が重なった。
湯上りのせいか、宏ちゃんの唇はしっとりと熱い。優しく包まれて、頭の芯がじんと痺れていく。
「ま、待って……」
切れ切れに声を上げると、そっと滑り込んできた舌に言葉をさらわれた。
怪我をしてから、初めての深いキス。溶けるように中を探られて、何も考えられなくなる。
夢中になって、大きな体にしがみついていると……抱き上げられた。
――……あ。
そっと、ベッドに横たえられる。
寝室の天井が、見えた。冷房で冷えたシーツを背に感じたと思うと、宏ちゃんが覆いかぶさって来た。
「怖くないから……」
大きな手に包まれて、頬が燃える。
ぼくは両手を差し伸べて、宏ちゃんの背を抱いた。
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