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第二章~プロポーズ~
九十話
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「じゃあ、行ってくるからな」
靴を履いた宏兄が、ドアの前で振り返る。今日は半袖シャツに、ゆったりしたパンツを合わせたシンプルな出で立ち。体格が良い宏兄は、作家さんって言うより、アスリートのオフスタイルみたいやった。
ぼくは、笑顔でバッグを渡す。
「はい。行ってらっしゃい、宏兄」
「くれぐれも、無理しないように。具合が悪くなったら、すぐに連絡するんだぞ」
しつこく念を押されて、あっけにとられる。ドアノブに手をかけたまま、ちっとも出発しないから、おかしい。
――宏兄ったら、心配性のお父さんみたいやねぇ。
笑いをこらえて、大きな背中を押す。
「もう、わかりました。大丈夫ですっ」
「そ、そうか。じゃあ、遅くならんようにするからな」
「気をつけてねー」
笑顔で手を振ると、ドアを押して出て行こうとした宏兄が、ふと振り返る。ん? と思ったら、
「忘れ物」
ぎゅ、と正面から抱きしめられる。頭のてっぺんに、やわらかな感触が落ちてきて……ぱっと頬が熱くなった。
「……ぁ……」
「行ってきます」
石みたいにカチンコチンに固まっていると、宏兄がにっと笑う。あっはっは、と上機嫌な笑い声が、ドアの向こうに消えて――ぼくは床に崩れ落ちた。
「え~……!?」
どっどっど、と心臓がうるさい。やりばのない感情を抱えて、ぼくは床をぽかぽか叩いた。
バケツに水を入れながら、ぼくはぼうっとしていた。
――『行ってきます』
そっと額と、髪に触れて……ぽわと頬が熱くなる。
「もう……宏兄、どうしちゃったの……?」
熱い頬を覆って、うーと唸る。
あんな、行ってきますのキスとか……よくある新婚さんみたいやん。
「いや、新婚さんなんやけど! でも、宏兄はお兄ちゃんで……急に、だって……」
ぐだぐだ呟きながら、布巾かけから外した布巾を、ぱぱぱと放り込む。蛇口から落ちてくる水に揉まれて、布巾がくるくるとバケツを踊った。
見るともなしに、眺めながら……なんだか、しっちゃかめっちゃかになりそう、って思う。
「だって……陽平のときは、こういうんと違ったもん……」
ひとりごちて、膝を抱える。
ぼくと陽平は、友達やったせいか……婚約しても、恋人らしくならなかった。――だからキスも、数えるほどしかしなくて。それ以上のことなんて、全然なかった。
――『だって、お前と俺だぞ? なんか、面白ぇじゃん』
一度、「そういうこと」をしないのかと尋ねてみた時に、陽平は笑いながら言った。「面白いって何?」ってムッとしなくもなかったんやけどね。ぼくも、まだ未熟なからだを見せるのが、怖かったのもあって……ホッとして、思ったん。
友達同士でつきあったら、そこに恋人って肩書が増えるだけで。甘い空気になることは、無いんやって。
「お付き合いってそういうものなんや」って……
――やから、てっきり宏兄も……変わらへんと思ってて……
熱い頬を、抱えた膝にくっつける。
もちろん、夫婦になったんやから。いずれは……宏兄のために、オメガとして出来ることは全部しようって、覚悟は決めてるけど。……あんな風に、甘く接されるなんて、思ってなかったんやもん!
すごく戸惑ってるし、恥ずかしくて……どうしていいか、わからない。
「ううう」
うんうんと呻いていると、だばば……と水の溢れる音がした。はっと顔を上げると、バケツから水が溢れている。
「あっ、いけないっ!」
慌てて、きつく蛇口をしめる。たぷたぷ揺れる水面を見て、ふうと息を吐いた。
ぱちん、と頬を叩く。
「……うだうだしてても、仕方ないよねっ。お掃除しよう! 探検も兼ねてっ」
せっかく、引っ越してきたんやし。宏兄には、どの部屋にも入って構わへんて言ってもろたことやし。
ぼくは、よいしょとバケツを持ち上げて、もう一方の手にハンディタイプの掃除機を構える。
「よしっ、しゅっぱつ!」
ぼくは、意気揚々と洗面所を出て、廊下を突き進んだ。
靴を履いた宏兄が、ドアの前で振り返る。今日は半袖シャツに、ゆったりしたパンツを合わせたシンプルな出で立ち。体格が良い宏兄は、作家さんって言うより、アスリートのオフスタイルみたいやった。
ぼくは、笑顔でバッグを渡す。
「はい。行ってらっしゃい、宏兄」
「くれぐれも、無理しないように。具合が悪くなったら、すぐに連絡するんだぞ」
しつこく念を押されて、あっけにとられる。ドアノブに手をかけたまま、ちっとも出発しないから、おかしい。
――宏兄ったら、心配性のお父さんみたいやねぇ。
笑いをこらえて、大きな背中を押す。
「もう、わかりました。大丈夫ですっ」
「そ、そうか。じゃあ、遅くならんようにするからな」
「気をつけてねー」
笑顔で手を振ると、ドアを押して出て行こうとした宏兄が、ふと振り返る。ん? と思ったら、
「忘れ物」
ぎゅ、と正面から抱きしめられる。頭のてっぺんに、やわらかな感触が落ちてきて……ぱっと頬が熱くなった。
「……ぁ……」
「行ってきます」
石みたいにカチンコチンに固まっていると、宏兄がにっと笑う。あっはっは、と上機嫌な笑い声が、ドアの向こうに消えて――ぼくは床に崩れ落ちた。
「え~……!?」
どっどっど、と心臓がうるさい。やりばのない感情を抱えて、ぼくは床をぽかぽか叩いた。
バケツに水を入れながら、ぼくはぼうっとしていた。
――『行ってきます』
そっと額と、髪に触れて……ぽわと頬が熱くなる。
「もう……宏兄、どうしちゃったの……?」
熱い頬を覆って、うーと唸る。
あんな、行ってきますのキスとか……よくある新婚さんみたいやん。
「いや、新婚さんなんやけど! でも、宏兄はお兄ちゃんで……急に、だって……」
ぐだぐだ呟きながら、布巾かけから外した布巾を、ぱぱぱと放り込む。蛇口から落ちてくる水に揉まれて、布巾がくるくるとバケツを踊った。
見るともなしに、眺めながら……なんだか、しっちゃかめっちゃかになりそう、って思う。
「だって……陽平のときは、こういうんと違ったもん……」
ひとりごちて、膝を抱える。
ぼくと陽平は、友達やったせいか……婚約しても、恋人らしくならなかった。――だからキスも、数えるほどしかしなくて。それ以上のことなんて、全然なかった。
――『だって、お前と俺だぞ? なんか、面白ぇじゃん』
一度、「そういうこと」をしないのかと尋ねてみた時に、陽平は笑いながら言った。「面白いって何?」ってムッとしなくもなかったんやけどね。ぼくも、まだ未熟なからだを見せるのが、怖かったのもあって……ホッとして、思ったん。
友達同士でつきあったら、そこに恋人って肩書が増えるだけで。甘い空気になることは、無いんやって。
「お付き合いってそういうものなんや」って……
――やから、てっきり宏兄も……変わらへんと思ってて……
熱い頬を、抱えた膝にくっつける。
もちろん、夫婦になったんやから。いずれは……宏兄のために、オメガとして出来ることは全部しようって、覚悟は決めてるけど。……あんな風に、甘く接されるなんて、思ってなかったんやもん!
すごく戸惑ってるし、恥ずかしくて……どうしていいか、わからない。
「ううう」
うんうんと呻いていると、だばば……と水の溢れる音がした。はっと顔を上げると、バケツから水が溢れている。
「あっ、いけないっ!」
慌てて、きつく蛇口をしめる。たぷたぷ揺れる水面を見て、ふうと息を吐いた。
ぱちん、と頬を叩く。
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ぼくは、よいしょとバケツを持ち上げて、もう一方の手にハンディタイプの掃除機を構える。
「よしっ、しゅっぱつ!」
ぼくは、意気揚々と洗面所を出て、廊下を突き進んだ。
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