いつでも僕の帰る場所

高穂もか

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第二章~プロポーズ~

八十五話 ■【SIDE:中谷先生】 

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 やわらかな相槌が聞こえなくなって、私は会話の相手が眠ってしまったことを知った。
 
「成己くん?」
「……すぅ」
 
 成己くんは、診察台に身を横たえ、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
 せっかくだから、具合を診よう――と、私の診察室にやってきたのが、十数分前のことだった。
 立花くんが目を丸くし、声を潜める。
 
「あら。成己くん、寝ちゃったんですねぇ……」
「うん。起きて動いて、疲れたんだろう」
 
 成己くんと顔を合わせた時から、病み上がりの体をおしてセンターに来たと、すぐにわかった。診察と称し、休ませてあげたい気持ちもあったのだ。
 
「……」
 
 気を利かせた立花くんが、奥の部屋へブランケットを取りに行っている間――私は、診察台の脇に座って、成己くんを見守った。
 淡い色彩の、少年のあどけなさを残した、美しい顔だち。……派手さはないけれど、清楚で瑞々しい花のような男の子だ。
 オメガはその性質上、人を強く惹きつける容姿をしているものだが、成己くんも例外ではなかった。
 とはいえ、
 
「……よくお休み」
 
 小さく丸まって眠る成己くんに、目尻が下がる。
 私や立花くん……このセンターに勤めているものには、「彼がオメガであること」は表面的なことだった。
 成己くんは、小説と美味しいものに目がなくて。人懐っこくて、素直な……優しい子だ。
 ただ、幸せになって欲しい。
 子どもの頃と変わらず、あどけない表情で眠る成己くんの顔は、青白い。頬のラインも、痩せて尖っていた。――ここ何週間で、この子の身に起こった不幸を思い、目頭が熱くなる。
 
 ――いや……まだ、終わってはいないのか……?
 
 私は、昨日……野江さんの家を出て、センターへ戻ってからの出来事を思い起こした。
 
 
 
 
 
「何ですって!」
 
 電話口に向かって、私は驚愕の声を上げた。
 
『――ですから、見合いの話は無かった事にしていただきたいと』
「それが、何故ですか。そちら様が、春日を大変気に入ってくださっていたはずで……」
『では、今はもうお気に召さないというわけでしょう』
 
 冷酷に感じるほど、淡々とした声音で言い切り、「代理人」と名乗るものは通話を切った。ツー……と無機質な音が響く。
 
「どうして……!」
 
 私は受話器を投げ捨てるように置き、頭をかきむしった。
 仕事相手などの伝手を頼り、必死にかき集めた、成己くんの見合いの相手が……突然、続々と断りの連絡を寄こしてきている。
 しかも、先ほどの相手で、まだマシな方なのだ。こちらを罵倒するものもいる。
 事務長の山村くんが応対した相手など、「素行の悪いオメガを斡旋するなど、センターの信用問題だ」とまで、言ったらしい。
 
「今更、どういうつもりなんだ。成己くんの事情は、納得済みだったはず……それがどうして、今になって、手のひらを返すんだ?」
 
 もろもろの事情を汲んだ上で、「是非に」と申し出てくれたんじゃなかったのか。大体、素行が悪いなどと失礼千万だろう。
 焦りと困惑で、頭が熱くなる。

「せっかく……成己くんが頷いてくれたのに」

 野江さんの家で、顔を合わせた成己くんは……霞のようだった。
 あの子は、いつも通りに振る舞おうとしていたけれど……酷い打撃を受けているのは明白だった。
 この上、夢破れてはどうなるのかと……怖くて堪らなくて。必死に焚き付けて、「見合いをする」と約束してもらったのだ。
 それが――

「!」

 また、電話の着信音が鳴る。
 私は恐る恐る受話器に手を伸ばした。

「もしもし。中谷です――」

 それは予想通り、また断りの電話だった。
 しかし、今までと様子が、違った。――断りの理由が、わかったのだ。

『お力になれず、申し訳ない』

 通話の相手は、上原さんと言う実業家で……以前、私が受け持っていたオメガの患者の縁者だった。彼は私に信頼を置いてくれ――今回のことも、積極的に力になると申し出てくれていた。

「何故か……聞いても構いませんか?」
『……すみません。それは……』
「どうか、お願いします。大切なことなんです。理由もなく、見合いが断られていて……」

 さんざん食い下がると、彼は躊躇ったあと……「自分が言ったと他言しないで欲しい」と前置きし、話してくれた。

『城山家の元婚約者は……不品行甚だしい毒婦であり、さらに、肉体的欠陥を隠していたことが発覚し、離縁されたのだと……社交界でもちきりです』
「……なっ!? 馬鹿な、事実無根だ!」

 私はかっとなって叫んだ。
 成己くんは、包み隠さず身体的な事情を伝え、城山さんと婚約した。
 それに、不品行などと。他のオメガと関係を持ち、成己くんを追い出したのは、どこの誰だと言うのか――
 そこまで考えて、私は気づいた。

「上原さん。この噂の出処は……」
『……はい。城山の奥方様が……話好きのご友人方に、説明しておられました。噂は広まり……春日さんのことを、庇う方はいないようです』
「……なんてことを」

 絶句だった。
 あれほどの不貞を働きながら……さらに、成己くんを貶めようと言うのか?

――一度は、家族になろうと思った相手じゃないのか!?

 憤りに、息が詰まる。

『申し訳ない、先生。春日さんには、お会いしたことがありますし、噂は事実無根だと、わかっています。ですが、うちは……城山家とは、取引を続けていかないといけないんです。本当に、情けない限りですが……』

 沈痛な声の上原さんに、私は絶望的な気持ちになる。
 いつ通話を切ったか、わからないまま……呆然と頭を抱えた。

「どうしよう……」

 城山家は、どうしてこんなことを……。
 わからない。はっきりしているのは……成己くんに知られてはいけないことだ。
 あれほどの目に合わされたのに、こんな不名誉な噂を立てられているなんて……今度こそ、壊れてしまう。

「だが、どうしたら? 見合いができなければ、同じだ……」

 私は難題を受け――全身から、しとどに冷や汗を噴いた。
 不眠不休で、心当たりを当たった。それでも、増えていくのは、断りの電話だけだった……




「……今朝、君がセンターへ来たと聞いたとき、本当に辛かった」

 武士なら、切腹していたと思う。
 今朝のことを思い出していると……診察室のカーテンが開く。立花くんの後ろから、聳えるような長身の若者が現れ、私は目を見開いた。

「中谷先生、お疲れ様です。成はどうですか?」
「あ……野江さん! お疲れ様」

 威圧的なまでの美貌だが、大らかな笑みのためか、ただ好ましい印象を与える。野江さんは、幼いときからそういう子だった。

「成己くんは、そこで眠っているよ。疲れたみたいなんだ」
「ああ、本当ですね。お待たせ、成。――」

 いそいそと、診察台に近づいた野江さんが跪く。成己くんの頬を、驚くべき優しさで、撫でているのを見て……安堵に胸がはち切れそうになる。

――ああ、よかった……!

 絶望の感慨だったけれど。
 成己くんと、野江さんが結婚するのを聞いて、本当に嬉しかった。これで、成己くんに辛い思いをさせずに済むんだと――

「……いや」

 穏やかな気持ちで、寄り添う二人を見ていた私は、はっとする。

――野江さんにも、話しておいたほうがいいだろう。

 城山家が、成己くんに嫌がらせしていること……どうか知って、あの子の耳を塞いでほしい。
 成己くんの手を握る野江さんに、私は意を決して切り出した。

「野江さん、大事なお話があるんです。成己くんには絶対に言わないでほしいのですが、実は――」

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