いつでも僕の帰る場所

高穂もか

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第一章~婚約破棄~

四十二話 

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「おいしかったぁ。宏兄、ごちそうさまでしたっ」
 
 ぺこりと下げた頭を、ぽんぽんと撫でられる。
 
「美味かったなあ。腹いっぱいになったか?」
「うんっ、ありがとう」
 
 懐かしいカレーライスに舌鼓をうって、ほがらかな気持ちで食堂を出た。
 甘くてやさしい味のカレーに、たくさん思い出話に花が咲いちゃって。陽平のことで、落ち込んでた気持ちを忘れられた。歩きながら、ぽんぽこになったお腹を擦っていると、宏兄がからかうように言う。
 
「成、眠いんじゃないか? 目がぽーっとしてる」
「なっ。浸ってるだけやもん」
 
 ぽか、と肩を叩いても、笑うだけでこたえてない。肩、固すぎやない?
 玄関ロビーにさしかかったとき、宏兄のスマホが着信音を鳴らした。
 
「やばい、成。ちょっと出てくるな」
 
 宏兄は、しかめ面でスマホを振る。ぼくは笑って、背を押した。
 
「わかった。じゃあ、あそこで待ってるね」
 
 窓際に並んだソファを指すと、宏兄は「悪い」と言って、外に出ていった。と言っても、入り口付近はガラス張りやから、姿ははっきり見える。
 
「よいしょっ」
 
 ぼくも、ソファに腰を下ろした。
 鞄からスマホを取り出して、連絡がないか確認する。
 
「……陽平め……なんも無いとか……」
 
 スマホを握りしめ、ムッと唇を尖らせる。
 今朝の態度といい、ぼくが謝るまでアクションせえへんつもりやろうか。
 
 ――ほんまに、そんなつもりやったらどうしよう……?
 
 ぼくだって、さすがに「ごめんね」と言える気分じゃない。でも、それで陽平がずっと怒り続けたら……? 胸の中に暗雲が垂れ込めて、ぼくはため息をつく。
 
「……今日こそ。なんとしても、話し合わなきゃ」
 
 昨夜だって、結局ゴタゴタしちゃって。抑制剤のこと、相談するのもできひんかったし。
 途方に暮れちゃいそうやけど――このままじゃまずいのはわかる。
 
「ともかく……今日は、一人で帰って来てって連絡しとこ」
 
 アプリを立ち上げて、陽平にメッセージを送ってみる。今は、四限の最中やから――返事はまだ帰ってこないやろう。そう思った瞬間、ぱっと「既読」の印がつく。
 
「えっ、なんで!?」
 
 びっくりして、思わず立ち上がる。――と、ガラスの向こうで、宏兄が吃驚してるのが見えた。「どうした?」と手振りで確認され、「大丈夫!」とハンドサインで知らせる。
 まだ訝しそうに、こっちを見ている宏兄に、にっこりと笑顔を見せ……ぼくはソファに腰を下ろす。
 
 ――なんで、既読がつくんやろ……真面目な陽平が、珍しい……
 
 なにか返信がくるんやろうか、ってドキドキしながら、しばらく待ってみる。カチカチ、とロビーに設置してある、大きなデジタル時計の音が、耳朶を打つ。
 
「……何も、来いひん」
 
 うんともすんとも言わへんスマホに、ぼくは肩を落とした。ただ、間違えて開いてしまったとか、そう言う事やったんかもしれへん。がっかりして、鞄にスマホをしまったとき……香り止めのクリームが目に入る。
 
「あっ!」
 
 そういえば、朝に家を出るときに塗ったきりやった。あんまりにも迂闊な自分に、さあっと青ざめる。
 
 ――今日は、宏兄とずっと一緒やったから……完全に油断してたっ。
 
 今からでも、すぐに塗り直さなきゃ。慌てて立ち上がって――入口の宏兄を見れば、まだ通話が終わる様子がなさそうで。たまたま、こっちを見ていた宏兄が、「どうした?」と言いたげに眉を寄せる。ぼくは、トイレの方向を指さして、手を合わせる。無事、伝わったらしく、頷いた宏兄にホッとして、ぼくはトイレに急いだ。

 
 
 
「……ふう、危なかった」
 
 水に濡れた手をハンカチで拭きながら、スカーフをまき直す。布地が触れるたびに、ちりちりと肌が痛んだ。強いクリームでのかぶれが、酷くなってるんやと思う。さっき確認したら、昨日より真っ赤になって、ところどころ破れた皮膚が、潤んでた。
 
 ――二日目で、こんなんなるとは……でも、自衛はしないと、危ないし。
 
 昨夜の事故が思い起こされて、ぶんぶん頭を振る。
 
「しっかりしなきゃ」
 
 いっつも、今日みたいに宏兄といられるわけやないんやから。買い物とか……家に居たとして、来客もあるし。このクリームを使わないわけには行かへん。
 
「せめて、かぶれに効くお薬がもらえれば……でも、中谷先生に黙って、こういうの使っちゃってるんやもん。言いにくいなあ……」
 
 ひとりごち、ため息をつく。……使ってるうちに、肌が慣れてくれることを祈ろう。
 首輪がきちんと隠れたか、鏡で確認して――うんと頷く。
 
「よしっ」
 
 勢い込んで、トイレから出たとき――隣の男子トイレに入ろうとしてる人と、ぶつかってしまった。
 
「わあっ」
「!」
 
 転びそうになったぼくの肩に、しっかりとスーツの腕が回る。そのおかげで、なんとか転ばずにすみ、ぼくはドキドキする胸を押さえた。
 
「大丈夫ですか?」
「あ……はいっ」
 
 落ち着いた声に訊ねられ、ぼくは慌てて頷いた。自分の足でしっかり立って、頭を下げる。
 
「ありがとうございます。ぶつかってしまって、すみませんでした」
「いえ。私も不注意でしたので」
 
 スーツの男性は静かに微笑んで、鷹のような目を和らげた。――その目に既視感を覚えつつ……ぼくはもう一度頭を下げて、その場を後にした。
 
 
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