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第19話 事務所
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伊月さんと初めて「セックスをしなかった日」から、仕事はさらに忙しくなった。
お家に行く余裕がなく、メッセージアプリでのやりとりが続く。
そんな状況でも、伊月さんはマネージャーの遠野さんを通して差し入れをくれたり、仕事に必要なレッスンの講師を探してきてくれたり、スポンサーの権限でスペシャルドラマの撮影現場に豪華すぎるケータリングやマッサージなんかを用意してくれたり……陰ながら俺を支えてくれた。
セックスしていないのに。
会ってもいないのに。
なんでここまでしてくれるんだろう。
ファンで恋人だから?
ファンは、恋人は、なんでここまでしてくれるんだろう。
打算的に「会わないのに色々してもらえるなんてラッキー!」とでも考えればいいのかもしれないけど、妙に落ち着かない。
「……会って、お礼を伝えるくらいはすべきだよね」
今日も、港区のキレイなオフィスビルに移転した事務所に顔を出すと、伊月さんからの差し入れとして高級な入浴剤のセットが届いていた。
「遠野さん、次の撮影まで二時間ありますよね? 俺、レッスン室で台本とフリの確認をしています」
「あぁ、四番が空いてるよ」
壁一面が鏡になった小さめのレッスン室に移動して、スマートフォンの画面に触れる。
「……位置情報……あ」
伊月さんと共有している位置情報アプリを立ち上げると、俺のアイコンと伊月さんのアイコンがほぼ重なっていた。
同じビルにいる。
伊月さんは位置情報アプリを入れているのに、事務所を伊月さんのビルに呼んだのに、俺の仕事中に急に会いに来るようなことは一度も無かった。
なんとなく、仕事中は遠慮してくれているのかなと思う。
それはとてもありがたいことだけど……
「なんて送ろう……えっと……」
少し迷って『今、事務所にいます』とだけ送った。
スケジュールを共有しているので、詳しい仕事のタイトルは書いていなくても次の仕事まで二時間あることは伊月さんも把握しているはず。
だから……これで、伝われ。
――コンコン
「アオくん?」
「伊月さん!」
メッセージを送ってから十分ほどでレッスン室のドアがノックされ、伊月さんが入って来た。
横に遠野さんもいたけど「時間になったら迎えに来るから」とだけ笑顔で言い残して、すぐに出て行ってしまった。
「急にすみません。お仕事中でしたよね?」
「大丈夫。俺の仕事はアオくんみたいに代わりのきかない仕事じゃないから。それよりも……」
伊月さんがそっと俺の体を抱きしめる。
「アオくんから呼び出してくれるなんて嬉しくて……走ってきちゃったよ」
スーツ越しだけど、体温が高い気がする。
「なにかあった?」
「あの……なにもないんです」
そうだよね。なにかあったと思うよね。
だから駆けつけてくれたんだろうけど……
「なにもないけど……伊月さんに会ってお礼を言いたくて」
たったそれだけで申し訳ないなという気持ちと、伊月さんならこれだけですごく喜んでくれるんじゃないかという気持ちがあって……あぁ、正解だ。
伊月さんが今までで一番かなと思うほど嬉しそうに笑って、俺を抱きしめる手を強くする。
「そっかぁー……呼んでくれてありがとう。でも、俺がしたくてしていることだからいいんだよ。たまにメッセージアプリで『ありがとう』のスタンプをくれるだけで充分。気を遣わなくていいからね?」
「はい。でも、とても助かっているので、ありがとうございます」
「うん……」
伊月さんは嬉しそうに抱きしめた俺の背中を撫でる。大きな手が、嬉しそうに、愛おしそうに触れてくれるの……落ち着く。
「アオくん。他に欲しい物とか、して欲しいこと、ある? 俺、まだまだアオくんのこと甘やかし足りないし応援したりない。もっともっとしてあげたい」
「それは……」
もう充分してもらっているのにこれ以上?
俺、なにも返せないのに?
戸惑っていると、伊月さんが少しだけ腕の力を緩めて顔を覗き込んだ。
「ねぇ、アオくん。恋人には、遠慮なく甘えていいんだよ」
「甘えていい……?」
「うん。甘えていい。甘えられたい。対価なんかいらない。俺が、甘やかしたいだけ」
対価がいらない……?
「俺のためにも、甘えて?」
伊月さんのため?
甘えることが?
甘える……甘えるって、例えば……
「あ……じゃ、じゃあ……頭撫でてほしい……とか?」
「うん。それはいくらでも」
試しに言ってみると、伊月さんはすごく嬉しそうに頷いて、優しく頭を撫でてくれる。
してくれるんだ。
俺が、褒められるようなことをしなくても、してくれるんだ。
「アオくん、えらいね。いつも頑張っていて、えらい。誰よりもお仕事に一生懸命で、最高の俳優さんだよ」
「あ……」
別に、なにも伊月さんにしてあげていないのに、特別なことはしていないのに、褒め言葉もくれるんだ。
欲しい言葉ばかり、伊月さんの口から出てくる。
「見た目もかっこいいしかわいい。スキンケアもヘアケアも努力していて触れると幸せな気持ちになる。声も好き。俺の名前を呼んでくれるときの声、最高」
「伊月さん……」
「そうそれ。名前を呼ばれるだけで心が満たされる。ありがとう」
伊月さんはいっぱいしてくれて、俺はただ名前を呼んだだけなのに。
こんなに喜んでくれるんだ。
ファンの人は、俺が名前を呼ぶだけで喜ぶって知っているけど。
それにしても、こんな……
「アオくん、生まれてきてくれて、俺の側に居てくれて、ありがとう」
「……っ」
こんな、慈しむような視線で俺の全てを受け入れてくれる人、今までにいた?
飛び跳ねて叫ぶように喜ぶファンとも、満足そうにいやらしく笑う枕営業の相手とも、呼んでも俺を見てくれない家族とも違う。
伊月さん、俺の欲しい物はなんでもくれる。
欲しかった仕事、お金、セックス……愛情。
恋人って……こういうこと?
「……アオくん、大好きだよ」
その後も、時間が許す限り伊月さんに撫でてもらって、抱きしめてもらって、褒めてもらった。
これだけしてもらってズルいのかもしれないけど、伊月さんのことを好きかどうかはまだなんとも言えない。
だって、伊月さん怖いし。
でも……
伊月さんに好かれることは……恋人でいることは……いい、かも。
愛情に飢えていて、ほだされているだけかもしれないけど、伊月さんの重い愛情を、少し受け入れられそうな気がした。
お家に行く余裕がなく、メッセージアプリでのやりとりが続く。
そんな状況でも、伊月さんはマネージャーの遠野さんを通して差し入れをくれたり、仕事に必要なレッスンの講師を探してきてくれたり、スポンサーの権限でスペシャルドラマの撮影現場に豪華すぎるケータリングやマッサージなんかを用意してくれたり……陰ながら俺を支えてくれた。
セックスしていないのに。
会ってもいないのに。
なんでここまでしてくれるんだろう。
ファンで恋人だから?
ファンは、恋人は、なんでここまでしてくれるんだろう。
打算的に「会わないのに色々してもらえるなんてラッキー!」とでも考えればいいのかもしれないけど、妙に落ち着かない。
「……会って、お礼を伝えるくらいはすべきだよね」
今日も、港区のキレイなオフィスビルに移転した事務所に顔を出すと、伊月さんからの差し入れとして高級な入浴剤のセットが届いていた。
「遠野さん、次の撮影まで二時間ありますよね? 俺、レッスン室で台本とフリの確認をしています」
「あぁ、四番が空いてるよ」
壁一面が鏡になった小さめのレッスン室に移動して、スマートフォンの画面に触れる。
「……位置情報……あ」
伊月さんと共有している位置情報アプリを立ち上げると、俺のアイコンと伊月さんのアイコンがほぼ重なっていた。
同じビルにいる。
伊月さんは位置情報アプリを入れているのに、事務所を伊月さんのビルに呼んだのに、俺の仕事中に急に会いに来るようなことは一度も無かった。
なんとなく、仕事中は遠慮してくれているのかなと思う。
それはとてもありがたいことだけど……
「なんて送ろう……えっと……」
少し迷って『今、事務所にいます』とだけ送った。
スケジュールを共有しているので、詳しい仕事のタイトルは書いていなくても次の仕事まで二時間あることは伊月さんも把握しているはず。
だから……これで、伝われ。
――コンコン
「アオくん?」
「伊月さん!」
メッセージを送ってから十分ほどでレッスン室のドアがノックされ、伊月さんが入って来た。
横に遠野さんもいたけど「時間になったら迎えに来るから」とだけ笑顔で言い残して、すぐに出て行ってしまった。
「急にすみません。お仕事中でしたよね?」
「大丈夫。俺の仕事はアオくんみたいに代わりのきかない仕事じゃないから。それよりも……」
伊月さんがそっと俺の体を抱きしめる。
「アオくんから呼び出してくれるなんて嬉しくて……走ってきちゃったよ」
スーツ越しだけど、体温が高い気がする。
「なにかあった?」
「あの……なにもないんです」
そうだよね。なにかあったと思うよね。
だから駆けつけてくれたんだろうけど……
「なにもないけど……伊月さんに会ってお礼を言いたくて」
たったそれだけで申し訳ないなという気持ちと、伊月さんならこれだけですごく喜んでくれるんじゃないかという気持ちがあって……あぁ、正解だ。
伊月さんが今までで一番かなと思うほど嬉しそうに笑って、俺を抱きしめる手を強くする。
「そっかぁー……呼んでくれてありがとう。でも、俺がしたくてしていることだからいいんだよ。たまにメッセージアプリで『ありがとう』のスタンプをくれるだけで充分。気を遣わなくていいからね?」
「はい。でも、とても助かっているので、ありがとうございます」
「うん……」
伊月さんは嬉しそうに抱きしめた俺の背中を撫でる。大きな手が、嬉しそうに、愛おしそうに触れてくれるの……落ち着く。
「アオくん。他に欲しい物とか、して欲しいこと、ある? 俺、まだまだアオくんのこと甘やかし足りないし応援したりない。もっともっとしてあげたい」
「それは……」
もう充分してもらっているのにこれ以上?
俺、なにも返せないのに?
戸惑っていると、伊月さんが少しだけ腕の力を緩めて顔を覗き込んだ。
「ねぇ、アオくん。恋人には、遠慮なく甘えていいんだよ」
「甘えていい……?」
「うん。甘えていい。甘えられたい。対価なんかいらない。俺が、甘やかしたいだけ」
対価がいらない……?
「俺のためにも、甘えて?」
伊月さんのため?
甘えることが?
甘える……甘えるって、例えば……
「あ……じゃ、じゃあ……頭撫でてほしい……とか?」
「うん。それはいくらでも」
試しに言ってみると、伊月さんはすごく嬉しそうに頷いて、優しく頭を撫でてくれる。
してくれるんだ。
俺が、褒められるようなことをしなくても、してくれるんだ。
「アオくん、えらいね。いつも頑張っていて、えらい。誰よりもお仕事に一生懸命で、最高の俳優さんだよ」
「あ……」
別に、なにも伊月さんにしてあげていないのに、特別なことはしていないのに、褒め言葉もくれるんだ。
欲しい言葉ばかり、伊月さんの口から出てくる。
「見た目もかっこいいしかわいい。スキンケアもヘアケアも努力していて触れると幸せな気持ちになる。声も好き。俺の名前を呼んでくれるときの声、最高」
「伊月さん……」
「そうそれ。名前を呼ばれるだけで心が満たされる。ありがとう」
伊月さんはいっぱいしてくれて、俺はただ名前を呼んだだけなのに。
こんなに喜んでくれるんだ。
ファンの人は、俺が名前を呼ぶだけで喜ぶって知っているけど。
それにしても、こんな……
「アオくん、生まれてきてくれて、俺の側に居てくれて、ありがとう」
「……っ」
こんな、慈しむような視線で俺の全てを受け入れてくれる人、今までにいた?
飛び跳ねて叫ぶように喜ぶファンとも、満足そうにいやらしく笑う枕営業の相手とも、呼んでも俺を見てくれない家族とも違う。
伊月さん、俺の欲しい物はなんでもくれる。
欲しかった仕事、お金、セックス……愛情。
恋人って……こういうこと?
「……アオくん、大好きだよ」
その後も、時間が許す限り伊月さんに撫でてもらって、抱きしめてもらって、褒めてもらった。
これだけしてもらってズルいのかもしれないけど、伊月さんのことを好きかどうかはまだなんとも言えない。
だって、伊月さん怖いし。
でも……
伊月さんに好かれることは……恋人でいることは……いい、かも。
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