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第19話 報告(1)
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彼の熱意に負けて……というのは無責任か。
一度緊張の糸が切れた状態で今の会社に居続けられる気もしなかったし、提示された条件が魅力的だし、彼の与えてくれる癒しが魅力的だったから転職を決めた翌日。
気まずいながらもいつもの時間に出社した。
昨夜あのまま泊った浅野さんの家から会社の前まで、浅野さんが運転する車で送ってもらったため、満員電車を降りた後のような疲労感は無い。
「いってらっしゃい」
車を降りる直前に、浅野さんが優しくぽんぽんと頭を撫でてくれた。
あぁ、やっぱりこの人の笑顔も触れてくれる手も癒される。
「いってきます」
昨日、浅野さんに見守られながら書いた辞表が入ったビジネスバッグを肩にかけて、オフィスビルに入っていった。
「おはようございます!」
「あ、おはようございます!」
「桜田さん! もう大丈夫なんですか?」
部署につくと、後輩の男女二人が駆け寄ってきてくれた。
心配も迷惑も沢山かけたよな……もう来ないんじゃないかと思われていたかもしれない。
だって、俺ならそう思う。
「心配も迷惑もかけてごめん。体調はもう大丈夫なんだけど……」
「「あ……」」
俺の曖昧な笑顔に何かを察したのか、二人が視線を逸らしたり唇をかんだりする姿に心臓の辺りが苦しくなった。
「あの、無理は、しないでください」
「仕事は、わかる範囲で分担したので……」
俺が辞めたら、この二人にどれほどの負荷がかかるか解っている。
でも……
「……」
浅野さんの笑顔や頭をポンポンと叩く優しい手の感触を思い出すと、鞄の中の辞表を掴むことができた。
「課長、あの、お話が……」
その後、課長が来るまではややこしい伝票処理を中心に仕事を進めて、始業一五分前にやってきた課長が席に着いた瞬間声をかけた。
「あぁ……会議室行くか」
課長も、俺の顔か声か解らないけど、話かけただけ一瞬で察してくれたようだった。
◆
「お前に辞められると困る。辞めないでくれ……とは思うけど、七年我慢できた桜田が辞表まで用意して言って来るなんて、もう引き留められないんだろうな」
狭い会議室で課長の前に置いた辞表は、すんなり受け取ってもらえた。
課長は俺より一〇年以上長くこの会社に勤めているから、もう何人も何十人も社員を見送ってきているはずだ。
よく続くな……。
「実は、桜田が昨日休んだ時点でもう来ないと思って、来週から派遣社員を二人増やしてもらうように人材派遣会社に頼んでいたんだ」
「え?」
山口さんが正式にやめたこともあって、すでに派遣社員は二人入っているし、吉野の分としてもう一人増やそうという話はしていた。
ただ、多岐にわたる業務の全てを経験している人なんてなかなかいないから教えることが多いし、派遣社員は九時五時の定時という契約なのに、社長が「業務の三〇分前に来て掃除しろ」「周りが大変なのを解っていて帰れるなんて人の心が無い」なんて余計なことを言うせいで折角仕事を覚えても期間満了で更新ナシが多い。
ただ、求人の募集ではなかなか人が集まらないから、貴重な存在ではある。
「……お前のことを見くびっていた。きちんと出社してけじめをつける奴だよなお前は……そんな桜田だから、ずっと頼り切っていた。悪かった」
課長が机に額が付くほど頭を下げてくれる。
薄い頭頂部が目立つ。
……一見頼りないけど、部下のことはよく理解してくれている課長だ。こんな課長だから今日までなんとかやってこれたんだ。
「あとは上手くやっておくから、今日中に引継ぎ資料を作って、明日からもう出社するな。〆日まで有休消化で……全部は消化できないと思うが、さっさと退職しないと社長が面倒なこと言って来るから」
「課長……ありがとうございます!」
本当ならもう少し時間をかけてきちんと辞めるのが筋だと思う。
有休だって使い切りたい。
でも……今まで辞めていった人たちを見ると、うちの会社でそれは難しい。
今度は俺が頭を下げると、課長は少し寂しそうな神妙な顔から、笑顔に変わっていた。
「ここだけの話な、俺も夏までに辞めるんだ。嫁が妊娠したんだけど、向こうの方が収入多いからさ、俺が家庭に入ろうかなって」
「それは……おめでとうございます!」
「結婚一五年目でやっとなんだ……今まで子供のできない寂しさを俺も嫁も仕事の忙しさで誤魔化してきたけど……もう、俺も充分働いたよな」
いつも課長は歳よりも老けた弱々しいおじさんという印象だったのに。
家族のことを語る課長は、子供のように屈託のない笑顔だった。
一度緊張の糸が切れた状態で今の会社に居続けられる気もしなかったし、提示された条件が魅力的だし、彼の与えてくれる癒しが魅力的だったから転職を決めた翌日。
気まずいながらもいつもの時間に出社した。
昨夜あのまま泊った浅野さんの家から会社の前まで、浅野さんが運転する車で送ってもらったため、満員電車を降りた後のような疲労感は無い。
「いってらっしゃい」
車を降りる直前に、浅野さんが優しくぽんぽんと頭を撫でてくれた。
あぁ、やっぱりこの人の笑顔も触れてくれる手も癒される。
「いってきます」
昨日、浅野さんに見守られながら書いた辞表が入ったビジネスバッグを肩にかけて、オフィスビルに入っていった。
「おはようございます!」
「あ、おはようございます!」
「桜田さん! もう大丈夫なんですか?」
部署につくと、後輩の男女二人が駆け寄ってきてくれた。
心配も迷惑も沢山かけたよな……もう来ないんじゃないかと思われていたかもしれない。
だって、俺ならそう思う。
「心配も迷惑もかけてごめん。体調はもう大丈夫なんだけど……」
「「あ……」」
俺の曖昧な笑顔に何かを察したのか、二人が視線を逸らしたり唇をかんだりする姿に心臓の辺りが苦しくなった。
「あの、無理は、しないでください」
「仕事は、わかる範囲で分担したので……」
俺が辞めたら、この二人にどれほどの負荷がかかるか解っている。
でも……
「……」
浅野さんの笑顔や頭をポンポンと叩く優しい手の感触を思い出すと、鞄の中の辞表を掴むことができた。
「課長、あの、お話が……」
その後、課長が来るまではややこしい伝票処理を中心に仕事を進めて、始業一五分前にやってきた課長が席に着いた瞬間声をかけた。
「あぁ……会議室行くか」
課長も、俺の顔か声か解らないけど、話かけただけ一瞬で察してくれたようだった。
◆
「お前に辞められると困る。辞めないでくれ……とは思うけど、七年我慢できた桜田が辞表まで用意して言って来るなんて、もう引き留められないんだろうな」
狭い会議室で課長の前に置いた辞表は、すんなり受け取ってもらえた。
課長は俺より一〇年以上長くこの会社に勤めているから、もう何人も何十人も社員を見送ってきているはずだ。
よく続くな……。
「実は、桜田が昨日休んだ時点でもう来ないと思って、来週から派遣社員を二人増やしてもらうように人材派遣会社に頼んでいたんだ」
「え?」
山口さんが正式にやめたこともあって、すでに派遣社員は二人入っているし、吉野の分としてもう一人増やそうという話はしていた。
ただ、多岐にわたる業務の全てを経験している人なんてなかなかいないから教えることが多いし、派遣社員は九時五時の定時という契約なのに、社長が「業務の三〇分前に来て掃除しろ」「周りが大変なのを解っていて帰れるなんて人の心が無い」なんて余計なことを言うせいで折角仕事を覚えても期間満了で更新ナシが多い。
ただ、求人の募集ではなかなか人が集まらないから、貴重な存在ではある。
「……お前のことを見くびっていた。きちんと出社してけじめをつける奴だよなお前は……そんな桜田だから、ずっと頼り切っていた。悪かった」
課長が机に額が付くほど頭を下げてくれる。
薄い頭頂部が目立つ。
……一見頼りないけど、部下のことはよく理解してくれている課長だ。こんな課長だから今日までなんとかやってこれたんだ。
「あとは上手くやっておくから、今日中に引継ぎ資料を作って、明日からもう出社するな。〆日まで有休消化で……全部は消化できないと思うが、さっさと退職しないと社長が面倒なこと言って来るから」
「課長……ありがとうございます!」
本当ならもう少し時間をかけてきちんと辞めるのが筋だと思う。
有休だって使い切りたい。
でも……今まで辞めていった人たちを見ると、うちの会社でそれは難しい。
今度は俺が頭を下げると、課長は少し寂しそうな神妙な顔から、笑顔に変わっていた。
「ここだけの話な、俺も夏までに辞めるんだ。嫁が妊娠したんだけど、向こうの方が収入多いからさ、俺が家庭に入ろうかなって」
「それは……おめでとうございます!」
「結婚一五年目でやっとなんだ……今まで子供のできない寂しさを俺も嫁も仕事の忙しさで誤魔化してきたけど……もう、俺も充分働いたよな」
いつも課長は歳よりも老けた弱々しいおじさんという印象だったのに。
家族のことを語る課長は、子供のように屈託のない笑顔だった。
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