ANGEL ATTACK

西山香葉子

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第14章 Return to Japan

第14章 Return to Japan

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「毬ちゃん? ああやっとつかまった」
『どうしたの? 絢子さん』
 りんだの仕事に来るとよくなんか起きるな、などと毬子は思いながら絢子に聞く。
「よく聞いて、今日の夕方うちの店に白石……? さんて人現れたんよ」
『白石……?』
「祐ちゃんのおとっつあんじゃ! 忘れたんかい」 
 早く毬子と連絡取らなきゃと意気込んでいた女将・絢子は電話口で叫んだ。
 閉店後、夜更けの、藤井家のリビングである。
『え? なんで? なんで? どういうこと?』
「成田から直接うちへ来たんじゃて、青砥で乗り換えたとか言ってたかな」
『まいったなあ……ライヴの日の朝まで出れないよ……』
 広島流お好み焼き屋「藤花亭」の女将・藤井絢子が七瀬毬子と連絡がついたのはその日の夜だった。毬子がいるのは、りんだのスタジオ兼旧宅の洗面所である。隣に洗濯機があるが今日これは使われていない。
 凱旋帰国してライヴをやる予定と聞いていた元恋人・白石エータローが帰国即藤花亭に現れたという話は、りんだのアシスタントの仕事に入っていた毬子を驚かせた。エータローは、毬子の息子・祐介の父親である。
「うちに来れば毬ちゃんに会えると思ったらしいんよ。引っ越したと聞いたから今の家はわからないし、わかってても家に行ったらまずいと思ったし、じゃて」
『その程度の常識はあったのね』
「少しはまともなところもあるんやな、ともあたしは思ったけね。うちの大将がえらい怒ってたんよ。祐ちゃんと明日香は店と家の間で盗み見してて白石さんとは会ってない」
『祐介隠れてたの』
「そう」
 心は早く決まった。
『……凱旋ライヴに行くから今は会わなくていいや。心の準備が出来てないと人前で罵倒語ぶつけかねないし』
「それがええね。明日も来たら言っとく。毬ちゃんは泊まり込みの仕事で凱旋ライヴまであなたには会えませんて」
『ありがとうございます。よろしくお願いします。おやすみなさい』
「おやすみ。無理するんじゃないで」
 さ、もう1件電話じゃ。

 RRRRR
 由美の現在の着メロはアヴリル・ラヴィーンの「SK8ER BOi」だ。
「はい」
『もしもし、由美ちゃん? 夜分ごめん。よく聞いて。祐ちゃんの父親の白石エータロー……さん、今日の夕方うちの店に現れた』
「マジですか」
『大マジよ。成田から直接うちに来たんじゃて。引っ越したんなら家はわからんし、わかってても行くのは失礼じゃけえ、うちに行ったら会えそうだと思ったから来た、言うてたわ』
『そんな帰国即会いたいほど毬子に本気だったんなら、毬子が高校卒業するの待って連れてけばよかったん違うか。毬子はどうしたんです?』
 由美は、左足で右足の向う脛をひっかくという行儀の悪いことをしながらたたみかけた。
「りんだちゃんの仕事で凱旋ライヴ当日の朝まで空かないて。ほじゃからライヴで会うって」
『それか……』
 周囲の人間たちは、毬子の新しい仕事にまだ慣れていないようで。
 由美は自分の額を一発叩くと、
『あたし、とりあえず明日のどこかの時間に店に顔出しますよ。ライヴハウスの地図印刷したの、預かってもらえませんか? 当日会場行くまで毬子に会えないから』
 と言った。
 今日なら添付ファイルで送ってしまえるが、この時の由美は確実に届く方法を考えたのだ。
「わかった。由美ちゃんも仕事頑張りい」
『はい、おやすみなさい』
「おやすみ」 
 絢子との電話を切った後由美は、足の爪を切った。まだ、これをするのに不便を感じないプロポーション。

 翌日、よく晴れた午後0時45分。再びエータローは藤花亭に現れた。
「毬ちゃんと連絡はついたけど、泊まり込みの仕事だから凱旋ライヴまであなたには会えませんて伝えて、と昨夜伝言を受けました。由美ちゃんはこれから、ライヴハウスの地図を預けるのも兼ねてうちに来るそうやて」
 と絢子が言うと、
「泊まり込みって……あいつ何やってんです?」
「少女漫画家のアシスタントじゃ」
 と言ったのは隆宏だ。
 客の入りは9割である。客の多くの注目を浴びている。
「……良かった……夢に近づけたんやな……」
 エータローは、そばにあるカウンターに左手をついて、身体を支えているようだ。
「毬ちゃんと由美ちゃんの後輩に少女漫画家になった子がいて、その子の手伝いを夏からやっとるんよ」 
 と隆宏が言ったその時、ガラッと藤花亭の扉が開いた。
「エータロー来ちょるっ!?」
 淡いグレーのパンツスーツ姿の由美は、中ヒールにもかかわらず走って来たのか、息が上がっている。
「由美ちゃん……」
「由美か? オレエータロー! ひっさしぶりやなあ」
 外国でついた癖か、ハグしようとするエータローの右腕を、由美はひっぱたいた。
「毬子に1人で育児させてどう思ってるのよ」
「そ、それは……」
「そうや、毬ちゃん、今年の初夏まで銀座の女をやっちょったんで。祐ちゃんが生まれる時に分娩室の廊下にいたのワシら一家じゃて、由美ちゃんも……いたな?」
 隆宏が会話に入った。たたみかけた。
「間に合ったのは春休みじゃったけえ」
 生まれたのは午後0時過ぎである。
 由美は広島風の言葉を使った。一応故郷の言葉なのだ。
「え……」
 自分が渡英した裏で、日本では恋人がそんなことになっていたとは夢にも思わなかったエータローである。
「焼けぼっくいに火を狙ったって無駄じゃけえね」
「凱旋ライヴ来てもらえるだけでありがたいと思いなさいよ」
「はい……」
「この辺でやめとくか。お好み食べてく? どうする?」
 昨日の夕方は混んでいて、エータローは食べて行かなかった。だから余計に商売っ気が出ている藤井夫妻である。
「豚玉ください……」
「あいよっ」
 カウンターの開いてる場所に座って力なく注文するエータローに、大将こと隆宏がイキの良い相槌を打った。 

 土曜日。凱旋ライヴの日である。
 親子そろってデニムパンツを履いていた。祐介はそれにダンガリーシャツ。毬子はカウガール風のフリンジのついたシャツである。
 場所は六本木の、ベテランや、ジャズ畑のミュージシャンががよく演奏するライヴハウスだ。
 毬子は午前5時に自転車を漕いで帰宅すると、午後2時に目覚ましをかけて起き、シャワーを浴びて着替えて、まず藤花亭に目的のライヴハウスへの地図を取りに行った。由美が預けたものだ。昨夜宵の口の時間に由美から「忘れるな」とメールが来ている。
 信宏とは六本木の駅で待ち合わせである。急遽祐介も、保護者がいるので参加することになった。律子は来なかった。
「よ、絵、出来てる?? あ、これにデータ入れて提出して」
 と言って信宏が毬子に渡したのは16GB入るUSBメモリだった。初めて見る。
「今朝まで仕事行ってたんだから勘弁してよ。
 でもありがと、後でこれの使い方教えて」
「しっかし、祐介の親父とご対面かー。15年経ったんだよなー、夏休みだから家族全員で東京来て、うちの親は2人とも怒り心頭で藤井夫妻がカウンターの中で小さくなってて……結局俺と律子ねえは香苗と奥で遊んでたんだよな。由美さんも小さくなって」
「うちの親がいないところでは藤井夫妻だって由美だって怒り心頭だったよ」
「まあなあ、あんとき姉ちゃん……17?」
「藤井一家と由美には分娩室の廊下にいてもらったんだもんね……」
「ところでどんな音楽やるんだろうね」
 ここで、業平橋からここまでずっと黙ってた祐介が口を開いた。
「映画音楽もやるらしいよ」
「映画音楽って……?」
「そのまんまやん。たまにフィギュアスケートでも使う人いるけど」
 トリノ冬季五輪で荒川静香選手が金メダルを取ったのと、浅田真央選手の登場で盛り上がっていた時である。毬子も冬になるとよく中継を見てる。
「由美さんに地図貰って来たんじゃないの?」
「あ、うん」
 バッグから茶封筒を出して更に中身を出し、広げる。日比谷線六本木駅が起点になっていた。
「まだ余裕なんじゃないの?」
「とりあえず行こうか。着いたら由美に電話することになってんだ」 
「じゃあ行くか」
 歩き出す3人。

 到着して電話をかけると、ちょっとの着信音で由美はすぐに出た。
『はい、毬子?』
「あたし。着いたよ」
『すぐ行くわ』
 というと由美は本当にすぐに来た。首からかけるPASSを3つ持っている。生成りのパンツスーツ姿だ。
 ライヴハウスのオーナーとプロモーターは、由美の友人とエータローの関係に驚いていたが、そういう事情なら、と閉演後に楽屋に入れる許可を出していた。由美は持ってる交渉術をフル活用だった。 
 関係者パスで入ったものの客席の方へ行かされた。
 母子でドリンクを3人分買っていると。
「毬子? 毬子じゃない?」
「冬美! 来てたの? 久しぶり!」
 かつての、エータローの追っかけ仲間である。
「あんた変わらないねー。あれ、こちら……」
「うん、息子。弟も来てる」
「えーっ。もう結構大きくないって、あれ? あんたそんな年だっけ?」
 毬子に冬美と呼ばれた女は、目の前の祐介の容姿に引っかかるものを感じたが、その違和感には蓋をして、
「中3なの」
「それにしても懐かしいー。由美は来てないの?」
「あいつライターになったからね、取材でここのどこかには居るよ」
「これ終わったらあんただけでも一杯どう?」
「いいねえ」
 と乗りかけたら、祐介に肘を小突かれた。
「ごめん、今絵の仕事貰ってて、締め切りまずいの」
「へえー、絵で食べてゆけるようになったんだ、良かったじゃん。あんたたちすごいね。何処の雑誌に載るの?」
「いや、弟が新しく出す店の看板なんだ」
「場所どこ? 見に行くよ、あ、連絡先交換しようよ」
 家族でドリンクを飲む間に、毬子がこれと似たやり取りをあと2回繰り返したら、開演時間になっていた。
 
 ライヴが始まって、3曲目。
「これ、なんかBOOWYの〈わがままジュリエット〉に似てねえ?」
 信宏が小声で言った。
「どっちにも失礼だよそれ」 
 毬子も小声で返す。
 メロウというか、トロピカルというか、甘いトーンはBOOWYの有名な曲と共通している1曲だった。
 ヴォーカリストはイギリスから一緒に来たらしい。日本人はエータローだけのバンド。
 毬子はBOOWYは世代なので、ちょっと嫌だなと弟の暴言を思った。
 祐介は無言で音楽を聴いている。さすがに、14年間写真でしか見たことのなかった父親なので、思うところはあるだろう。 
 祐介の父親=元恋人の問題さえなかったら八木ちゃんと来たかったな、と漠然と思って、ハッとした。
 しかし、エータローがかつて所属していたバンド・PLASTIC TREEのメジャーデビュー曲が、インストゥルメンタルでアンコール1曲目に演奏されたので現実に帰った。
 2年で解散してしまったバンド。
 メイン・コンポーザーだったエータロー。
「仲間たちにはすまなかったと思っています。でもあのままバンドに居たら、俺はこの年まで音楽を続けていれなかったように思います。
 焦ってイギリスに渡った理由は、どうしても受けたかったオーディションが1991年の夏にロンドンでしか開かれなかったからなんですけどね。落ちたけど。受かってから喋りたかったんで今まで誰にも黙ってました」
 初耳だよそんなの、と毬子は内心複雑だ。
「イギリスへ行って、はじめは英語もヘタクソで大変な思いもしたけど、プロモーターがいいひとで、イギリスのバンドにも入れてもらえたし、映画のスコアも書くことが出来たし、でも寂しさもありました。恋人を日本に置いて行ったから」
 ワッと大声が沸いた。純粋な客より関係者取材者の方が多いとも見えかねないライヴでこれは、さっき会った面々が騒いでるんだな、と毬子は思う。
「今回帰ってくることになってわかったんですが、なんか俺、14年前に父親になってたらしいです。彼女たちにも悪いことしました。
 生活の基盤はもうロンドンにあるので変えれないけど、彼女たちにはできるだけのことをしたいです。次でラスト、『LOVE SONG』!」
 エータロー作詞作曲・英語でヴォーカルまで取っている曲を演奏して、一夜の宴は終わった。 

 由美が間に入って、父子の対面は行われた。
「はい、はじめまして!」
「……」
「……」
 居ると聞いてはいたものの、祐介の容姿の特徴を聞いていなかったせいか、今の自分と変わらない身長で自分によく似ていて茶色い髪をオールバックにした少年が目の前に現れて、エータローは固まっている。エータローはあまり背が高くない。毬子や由美の方がエータローよりはっきり高いくらいだ。信宏は180あるので、彼や祐介と並ぶと差はすごい。
「ホントは殴りたいっすよ」
「ダメよ、あんたプロ修行してるんだから」
 ここで出た、「問題はそこか?」という信宏のツッコミは無視された。
「まだサンドバック殴らせてももらえてないよ由美さん」
「春からボクシングジム通ってるのよ」
 と毬子が付け足し、そんな話聞いてねえよ、と、エータローは精神的に逃げ腰になりかけていた。
 エータローの両腕が、2人を抱擁しようという姿勢から、だらんと降りた。しかし、
「……俺が日本にいる間に3人でどっか行かね? 花やしきとか……あさってとかに」
 今日は3連休の初日なのである。
 花やしきと言われて、毬子と祐介は顔を見合わせた。
「ちょっと電話していいっすか?」
「へ?」
 と毬子が間抜けな顔をしていると、祐介は既にガラケーを持って耳に当てていた。
「もしもし、アスカ?」
 明日香の声は、大人4人には聞こえない。「彼女なのよ」と毬子が補足を入れた。エータローは口笛を吹きそうになって、やめた。
「うん、あさって、俺とおふくろと……親父らしい……ヒトと、花やしき付き合ってくれん?」
 また祐介は黙る。
「サンキュー。じゃあ明日な」
 P! と電話を切って。
「彼女なんすけど、付き合ってくれるそうっす。行きます」
「ありがとう!」
 完全に外国ナイズされたのか、今度は祐介の頭をぽんぽんと撫でた。
 ちなみにこれは、1年半後に流行る。

 月曜日、エータローとは浅草で待ち合わせなので、明日香が自転車で現れた。3人とも自転車で行く。
「悪いね、アスカ」
「しょうがないよ、毬子さんと白石? さんが出逢ってなければ祐介は生まれてなくてここに居なくって、あたし一緒にやったこと何もできてないんだもん。どこまでもつきあいますって」
「ホント、恩に着る」
「でもこれから宿題は自分でやってよ」
「最近は自分で勉強もしてるんだぜ」
 と祐介が言ったところで3人は行こう、と自転車を漕ぎ始めた。
「そうよ、今は律子がいるからね」
「そっか」
 と言うと、明日香は2人から目を離して、見慣れた景色に目をやった。

「ご無沙汰してます、藤井明日香です」
 3台の自転車を一度花やしきの駐輪場に置いてから、浅草駅で顔を合わせたエータローに、明日香ははきはきと挨拶をした。
「こんなに大きくなったんだー……生まれたばかりの君と毬子と撮った写真あるんだよ」
 明日香も祐介もエータローも身長が同じくらいなので、驚きもひとしおだ(だいたい165センチ)。
「知ってます。さんざん見せられてきましたから」
 アラそうなのね、と内心でつぶやいたエータローは、
「そういえば浅草をちゃんと歩くの初めてかもしれない」
 と言った。
「イギリスへのお土産をまとめて浅草で買ったらどうですか? いろいろ日本ぽくて、外国の人にウケそう」
 と明日香が返す傍らで、「ナイスアスカ!」と毬子は思っていた。
 キョロキョロするエータローに3人でいろいろ教え、浅草雷門の前に来た。
「ここで写真撮っとこうよ、あたし最新のデジカメ持ってんだ」
「そうだね」
 と思いつつ、感動していたエータローである。 
 エータローを除いた3人が代わりばんこにカメラマンになり、何枚も撮ったところで、エータローが毬子とツーショットを撮りたいと言い出した。
「ダメか?」
「それは勘弁して」
 毬子の眼の光り方に少し、意志の強さが見えた。
「わかった」
 祐介とはツーショットを撮ったが、なんともぎこちない関係がそのまま写真に出ていた。 
 いくら近いとはいえ、ひと月と経たぬ間に花やしきにまた来るとはしかも違う男性と。
 などと思いつつ、入場料をエータローが持ってくれたので、心おきなく遊ぶことにする。
 昼食後。 
「ちょっと話したいことがあるからふたりずつで観覧車乗るか」  
 とエータローが言ったので、大人組と子ども組に分かれた。 

 エータローは、上がっていく景色をしばらく見つめた後、切り出した。
「今まで全然養育費とか払ってやれなかったろ」
「うん」
「出来るだけ出すから、今回」
「え!? 話ってそれだったの? いいよぉ」
 と毬子が驚くと、エータローは暖かくも真面目な瞳で毬子をじっと見つめた。
「ああ。15年間……祐介これから高校受験なんだろう?」
「あたしに似て頭は悪いよ」
 と言って毬子は笑った。
「俺も頭悪いからどっちに似たってダメじゃん。毬子都立行けなかったろ」
 言いながらエータローは、毬子の笑顔が昔とはなんとなく違うのを感じていた。大人になったかのような。
「……」
 そして、本当のことを言われて笑顔が消えた毬子である。真顔になった。
「だからある程度お金あった方がいいだろう?」
「わかりました。お受けします」
 そして小声でエータローが言った数字に、
「8月に振り込まれた退職金より少ないね」
 と言い、
「え? 俺これ以上無理だよ!」
 と観覧車の中でのけぞったエータローだった。 
「冗談だよぉ」
 金額的には真実なのだが、そこには蓋をする。空気読めない発言をしてしまったから。

 少しの間の後、エータローは回復し、
「あと、認知っていうの? するから。今回調べてきた。明日役所に行くよ」
「ほんと!?」
「うん」
「遅いよ」
「言ってくれれば2人ともロンドンに呼んだのに」
「連絡する手段が何もなかったじゃん」
「そういう時代だったもんな……
 お疲れさんです、毬子」
 と言ってエータローは、隣に腰かけて毬子の頭を、観覧車が地上に着く少し前まで撫でていた。

 頭を撫でるのをやめさせて、観覧車の中で手帳を割いて口座番号とメールアドレス電話番号を書いた紙を渡し、夕日が落ちる前に、と、仲見世通りへ行って、エータローはいろいろ買い物をする。
 そして、夕食は蕎麦屋だった。全員天ぷらそばの定食を食べる。
「3年に1回くらいは会わせてよ」
「気が向いたらね。あんたなんかもう過去の人よ」
 という毬子の台詞で、祐介と明日香は顔を見合わせた。
「言われちまったなあ、バンドのメンバーにも言われたんだ、その娘はおまえのことをまだ好きとは限らないぞって」
 少しの沈黙の後、ここもエータローが持った。

 蕎麦屋の前で。
「じゃあ、元気でね。写真は締め切り終わったらメールで送る」
「そっちこそ」
 と言ったエータローは、毬子たち3人を1回だけ振り返ると、ずんずん歩き始めた。 

「さー、やるぞっ、と、その前に」
 エータローと子連れダブルデートをした翌日、ひとつ気がかりが終わったので、信宏担当の絵に取り掛かるために、八木に繋いでもらったパソコンにお絵描きソフトをインストールしながら、律子用に、電話の出方や対来訪者用のマニュアルをつくる。電話は留守番電話に任せても良いのだが、今後就職した際に必要とされるスキルだから。他に、営業電話などのあしらい方も覚えておいた方が良いし。 
「……ハイこれ、電話の出方と、宅配便とかが来た時用のマニュアルね。うちに来た人はドアを閉じたままとかインターフォンで応対して、宗教とか聖書のおハナシとか牛乳屋の営業とかだったら勝手に処理して追い返していいから。新聞は朝日以外は追い返せ。朝日なら要件は聞くこと。契約継続と支払いの時とあるから」 
「わかった……」
 メモを律子に渡すと、ノートパソコンのデータを新パソコンにインストールしていく。
 30分で済んだ。続いて原稿に取りかかる。
「よっし、線画終わりっ」
 やべ……ひとりごとじゃん、と思い、口を引き結んで作業を続ける。
 とりあえず、どの程度任せておけるのかまだ未知数だが、集中して、信宏の絵と崎谷に渡す原稿はやってしまいたいと思った。
 色塗りは……レイヤー分けって言うんだっけ。
 後輩たちに聞いたり、ネットでやり方読んだりしながら進めていこう。 
 と思ったところで、RRRRR。
「はい」
『おれ』
「どちらのおれさんでしょうか」
『エータローだよ、つれないなあ。
 認知されたよ、おれと祐介、親子だよ、届け出したら即受付されるんだな。時間かからな過ぎて驚いた』
「了解ですー。おつかれさま。今原稿やってるので」
『自分の原稿も描いてるの? 昔より真面目に取り組んでねえ?』
「弟の店の看板絵よ。悪いけどほんとに忙しいの、じゃあね」
 と言って切った後で、ちょっと冷たかったかな、と思った。
 しかし、目の前のディスプレイを見て、急ぐんだったと我に帰る。

 更に翌週は、りんだの「サヨナラの翼」の仕事だった。
 それぞれの机に散る前に、りんだがこう言った。
「『サヨナラの翼』の担当の崎谷さんがここにいるアシスタンツみんなの原稿を見るって言ってるので、気軽に完成させて渡してくださいとのことです」
 後からスタジオアップルの一員になった毬子だけ見てもらってずるい、という反発を抑え込むためにりんだがした入れ知恵かもな、と、りんだの言葉を聞きながら毬子は思っていた。
「じゃあみわちゃん来て」
 と言うと、みわちゃんとりんだはりんだの部屋へ。
 残る6人はそれぞれの席について、仕事が割り振られるのを待つ。 
 今日は主線が18枚と割と入っている方だった。毬子に割り振られた仕事は、カイエというロボットにベタを塗る。塗ったらリョータくんに回してトーンを貼ってもらう。この新ロボットはみわちゃんがペン入れするらしい。直線的だから、本人がペン入れしなくても何とかなるだろうという判断のようだ。これは吉と出るか凶と出るか。
 仕事が始まった翌日、崎谷がケーキを持って現れた。
 毬子が筆ペンでベタを塗っている原稿のギリギリ近くに、背後からスーツのジャケットの腕が伸びて、ぽとりとメモが落ちた。4つ畳みにされた小さいもの。
 危ないな、筆ペン使ってるのになんだと思いつつ畳まれた紙を開けると、見慣れた崎谷の文字で、「この仕事終わったら飲みにでも行きませんか?」というメモだった。
 次回だけ付き合って、崎谷さんはないことにしよう。やっぱり、しがらみがある上にこういうことをするのでは今後有能な漫画編集者になっていくか微妙かもしれないと思った。 
 りんだの仕事が月曜に終わって毬子は八木ちゃんに会いたいなあと思ったものの、崎谷と翌火曜の夜、おてんば屋業平橋店にいた。ポテトにほっけにサーモンの刺身にシーザーサラダに唐揚げに、と様々な料理とビールふたつプラス、毬子はライムハイ、崎谷はウーロンハイを頼む。
「白石エータローの凱旋ライヴ行ってきましたよ」
「どうでした?」
「インスト多かったですね。イギリスから連れてきたヴォーカリストさん声がよく出ててなかなか上手かったですけど。弟は失礼なこと言ってましたが」
「何を言ってらしたんです弟さん」
「とある曲がBOOWYの『わがままジュリエット』に似てるなって」
「それは双方に失礼でしょう……」
 という崎谷の言葉でふたりともクスリと笑った。
「あと、ライヴの次の次の日に、エータローと私、祐介と祐介の彼女ちゃんと4人で花やしき行きました」
「……」
「そこでやり直したがってるような態度の彼にハッキリ言いました。あなたは過去のひとだと」
「そうですか……」
 崎谷の表情が晴れやかになっていくのが見えるけれど、毬子はここで決定的なひとことを言う勇気が出た。
「でもあたし、崎谷さんともお付き合いしませんよ。今は、崎谷さんに原稿渡して大丈夫かなとも少し思わなくもないので」
「えっ……なにかやらかしましたか僕……」
 崎谷の表情が変わった。うろたえているような。
「作業中にあんな近くにメモ入れられては、ね。あぶないし、メモも原稿も無駄に汚れかねないから」
「そうでしたか……」
「だから、漫画の仕事絡み以外ではもうふたりでは会いませんよ」
「そうですか……早く意思を伝えたいと思った気持ちが仇になったんですね……」
「すみません、あと、あたし、好きなひといるし」
 そうだ。
 あたし、八木ちゃんが好きなんだ。
 ちょっと躊躇いはあるけど。 
「今後とも佐藤先生のスタジオではよろしくお願いします」
 という崎谷の言葉で8時に彼と別れて、その足で毬子は藤花亭に行った。
「毬ちゃんどうしたの、憑き物が落ちたような顔してるね」
「へへっ」
 短期間で2人男性を断ったのは体力はいるかもしれないが、心のわだかまりは取れる。
 9時半に。
「いらっしゃい!」
 八木が現れた。
 なんだか疲れた顔をしている。
「八木さん大丈夫ですか?」
 と絢子がお冷を出しながら聞いた時、続いてガラッと扉が開いた。
「いらっしゃ……」
 三村だった。
 八木がミックスを注文する声をボリュームで凌駕している。

「お久しぶりです……」
 と言って彼は頭を下げた。 
「義姉さんお久しぶりです……」
「あ……どうも……」
 と、唐突に表れたので、毬子は間抜けな反応をするが、親友と妹と双方を傷つけた男である。
 そういや三村さんに義姉さんなんて呼ばれたの初めてだな。毬ちゃんと呼ばれてたから。
「どうなさったんです? まりあなら忙しいんじゃないですか」
「律子に会いたくて……謝りたくて来ました。ただ、アポなしで義姉さんのお宅へ伺うのも失礼なのでまず藤花亭かなと」
 七瀬姉妹に関わる男たちはうちの店を男女関係の窓口だと思っちょるんかい、と文句が浮かんだ隆宏だが、口をつぐむ。 
「律子にあてにされ過ぎて求められ過ぎて、疲れてて由美に逃げたのかなと想像はできますよ。そこは少しだけは三村さんに同情できます。あたしも律子が負担になることがあるので」
「義姉さん……」
 うなだれていた三村が少し晴れやかな表情を浮かべて顔をあげた。
 八木と、他に座敷に居るカップルひと組がドン引いているが、八木が注文したミックスがまだ来ていないこともあって、彼は動けない。座敷にもうひと組いる女性2人組客は藤花亭が初めてで毬子と面識がなく、背景が全くわからないのに、2人ともわくわくしたような表情を浮かべている。
「律子を呼んでもらえますか?」
「いいですよ……でも来るとは保証できませんよ」
 と言いつつ、バッグから携帯電話を出して、右耳にあてた。
 三村さんは恥も外聞もなくなってるなとも感じてはいる。
 この時、中学生4人はまたも藤花亭の2階で勉強をしていたのだが、三村のかすれた特徴ある声を祐介が耳に引っ掛けて、
「俺、下がなんか気になるんだけど……」
 と言った。 

「ハイ」
 携帯の出方も毬子がつくったマニュアル通りになったね、と思いながら、
「もしもし、三村さんがあんたに会って謝りたいって藤花亭まで来てるけど、来る?」
 律子は、少し迷ったが、
「行きます」
「鍵持ってる?」
「こないだ作ったじゃん」
「かけて来てね」
「15分で行きます」
 と言って電話は切れた。 

「いらっしゃ……」
 隆宏は、言いかけた出迎えの言葉を、目が律子を認めた瞬間黙った。隙なく化粧をした律子は、カウンターの中の藤井夫妻に会釈をして、三村を睨む。藪にらみでなく(七瀬姉弟は視力には恵まれているのだ。毬子の息子である祐介も視力は良い)。 
「律子……。
 俺が悪かった!」
 三村は藤花亭の床に膝と手をついて頭を下げた。
 律子以外の人物……店と家の境目に降りてきていた中学生4人までもが息を呑んだ。
「よく聞きなさいよ。
 あたしはあんたに対する信頼はこれっぽっちもなくなったから。
 あたしは変わるの。お姉ちゃんとあんたに頼ってばっかりいる生活を変えるの。
 もうあんたなんかいらないから。
 だから別れる、
 もう信用できない男と暮らしていくの嫌だから。
 岩渕さんにノシ付けてくれてやるわよ」
 恐ろしく強気な、この頃もう出てきていた「ドS」と言う表現がふさわしい、いやそれを上回る態度の律子だった。
 背景のわからない者は、律子が今でも、初対面の人に対して極端なほど怯えることは想像できないだろう。
 それほど強気な態度だった。
「弁護士さん探すから、見つかったら弁護士さんとだけやり取りして、アンタとは二度と口もききたくないから。
 サヨナラ」
 律子はひどく冷たい目をしていた。
「もう出て行って、この店にも2度と来ないで」
 そんなことを勝手に言われてもな……と隆宏も絢子も思っている。
「すみません、豚玉食べさせていただいていいですか……?」 
 うつむいたまま、蚊の鳴くような声で三村はこれだけ言った。
 相変わらず冷たい瞳で、律子は三村を見下ろしている。 
「ただいまーっ……律子さんこばわーっ……て、え? え? え? どうなってんのこれ?」
 残業から帰宅して店に回った香苗が声をあげた。
 その瞬間、店内に、携帯電話の着メロという音質で安室奈美恵の「CAN’T SLEEP CAN’T EAT I’M SICK」が響く。
 祐介が香苗の携帯電話に、「家に回って!」とメールを入れたのだ。
 香苗は回れ右をして、店から出て行った。
 八木は、このまま雰囲気がぶち壊れればいいと顔色がすぐれない中思っていたが、店内は重いままだった。 

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