ANGEL ATTACK

西山香葉子

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第4章 SKETCHBOOK——退職金の使い途

第4章 SKETCHBOOK——退職金の使い途

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「毬ちゃん、店、辞めてくれるかな……?」
 勤務する店「YASKO」にて解雇を告げられた瞬間、ふと見たカウンターに、花束があるのに気付いた毬子。
 赤と黄色の薔薇を中心にした花束。
 あれはあたしのものなのか。
 という毬子のココロ知らずに泰子ママは続ける。
「毬ちゃん長く働いてくれたから、退職金は弾むし、7月分までお給料払う。漫画好きなお客さんがいらした時は活躍してくれたものねえ。
 なんか最近、心ここにあらずっぽいな、と思ってたんだ。かといって相談してくれるでもなし」
「ブラック・ジャック」や「アドルフに告ぐ」の話ができるホステスなんて他にいないものね。と思いながら、
「わかりました。ありがとうございます」
「もともとこの仕事に執着してないっぽかったし、向いてないなとは思ってたのよ」
「よく素人臭いと言われました。お客さんじゃなくても」
 それも懐かしくなってきた。
 執着はなかったわけではない。子供を育てなきゃいけないんだから。
「まあ、頑張ってくれたから。今月いっぱいは店に在籍してることにして、7月までお給料払うからね。退職金も……8月に振り込むから」
 と言って、泰子ママは、少し離れたところにあるメモ用紙とボールペンを取って、かなり大きな数字を書いた。
 家賃2年分払っても2年以上暮らしていけるよコレ……
 毬子は思った。
「長い間、お疲れさまでした。
 今日店にいる? 帰ってもいいし、どっちでもいいよ。新人もいるし」
 ママは、お疲れさまでしたと言いながら、毬子に例の花束を手渡した。
「じゃあ、最近疲れ気味なので、帰ります、荷物は今出せるだけ出しますけど、残ったらまた、この時間でいいですか?」
 ぶっちゃけ居づらいっつーの。
「先にあたしに電話1本ちょうだい。そしたら開けてあげるから。あ、宅配って手もある! あと、鍵返してね」
 あたしが鍵開けてたのを思い出したか。
「わかりました」
 
 荷物をまとめるのに30分かかった。同じくらいの身長の仲の良い後輩がいないので、置いてあったハイヒールやスーツはまとめて宅配を頼むことにした。古い服や靴も一度持ち帰って、家や近所で着られるようなら着る。これからの季節、ノースリーブもいいものね。
 あ、りんだの結婚式、ノースリーブ使えるか?
 ハイヒールを履くと面白くない顔をするお客さん居たっけ。あたし背高いから。
 タクシーで帰るか電車で帰るか迷って、車窓からの景色を見たかったのもあるし、節約もすることにして、電車で帰ることにした。
 夏至直前の東京、夕方6時、まだ外は明るい。

「ただいまー」
「あれ? どうしたん? その花束」
 花束を持って、まず帰宅した。
 祐介に聞かれる。
 そりゃ当然だわな。
「クビになった」
「えーっ!
 どうすんだこれから」
「退職金がいっぱい出るって言ってくれたし、りんだが手伝ってって言ってたから、その話に乗る。他にもアシ先ないか調べてさ」
「ふーん」
「あんたもボクシング頑張ってよ」
「へーい」
「化粧直したら藤花亭行ってくる」
「あいよー」
 今日は祐介にお金を置いておいたので、彼はそれで食べることになっている。

 藤花亭に行く前に自室のベッドに座って、りんだの電話番号を呼び出して。
 RRRRR
『はい、先輩?』
「うん、こないだの、あんたを手伝う話、マジで乗らせてもらう。絵で食ってけるようになりたいから、いろいろ教えて?」
『ありがとうございます。お店辞めたんですか?』
「クビになっちゃってさ」
『えーっ!』
 それまでより大きなボリュームで聞こえたが、ちょうどいいくらいになっているあたり、辺りはうるさいらしい。
「退職金が出るらしいのよかなり」
『ほほう、それは。
 式の前に由美先輩も混ぜて一度飲みましょうね』
「おっけ。じゃあ……仕事再開するの何月?」
『8月1週目です』
「じゃあその時はよろしくね」
『はーい』
「式の準備は進んでる?」
『今までのツケが回ってきてますよー。手帳に毎日今日やることを書き出して、片付いたら潰してます。今日はブライダルエステ行ってきました』
「あたしは経験ないからこれしか言ってあげられないけど、頑張れ」
『はーい。じゃあそのうち』
 3人での飲みは多分実現しないな、と毬子は想像しながら、電話のために座っていた。

 一度、店用に施した化粧を落として、眉書いて口紅だけ塗って、藤花亭へ行った。口紅は地味目なピンク、グレーとの境目な色かもしれない。紫にも見える。
 いつもの通りを歩いて。
「こばわー」
「え? 毬ちゃん? お店どうしたん?」
 絢子が驚いて迎えてくれた。
「クビになった」
「えー、労働問題にならんかそれ」
 隆宏が口を挟みつつ、お客さんのイカ玉を焼き上げる。
「じゃあ今夜は飲みな! ほれビール!」
「はい」
「何食べる?」
「ミックス」
「ビールはうちで奢るから」
 と言ったきり藤井夫妻は、新顔のお客さんの相手ばかりで毬子の方を振り返りはしなかったけど、ふたりが働いているのを初めてじっくり見た気がした。
 前に見た時は子供の社会科見学だったような記憶で。

 翌日。
 電卓をたたいて、捕らぬ狸の皮算用をした後、家にあるものいろいろをデッサンすることにした。
 果物の入った籠、壁にかかった時計、ダイニングのテーブル。昨日もらって早速活けた花束。
 これからは漫画の模写もやってみるし、祐介や明日香たちもモデルにさせる。退職金が残ってるうちに絵をなんとかせねば。
 すぐ目に付く本棚に刺さっていたクロッキー帳は、開いてるページは残り2枚。
 よし。
 心機一転だもんね。画材屋行って買って来よう。

 りんだがまだアナログだから気付かなかったけど、世の中の漫画にデジタル=パソコン作画のものが出始めていた時代。単行本の空きスペースに作家が書き込むあとがきだと、Windowsで絵が描けるとか。だけどパソコンはまだ新調しなくていいでしょう。
 翌日は、自転車で浅草へ。
 とりあえず、鉛筆とつけペンとペン軸(クロッキー帳をチェックした後奥にを探したら、ペン軸はあったが古くなっていたので)、クロッキー帳5冊、漫画用原稿用紙(投稿サイズ)、墨汁、2Bのシャーペンの芯などなどいろいろ買いこんだ。スクリーントーンはまだいらないだろう……りんだの手伝いの予習にやるか?
 小さなメモ帳も1冊籠に放り込む。話のネタ帳にする。

 良い風景があったら撮るために、デジカメも買って。
 買い物をたくさんした翌日は、長い髪をまとめて、エプロンをして、机に向かって、昨日買ってきた漫画用原稿用紙と、墨汁と、ペンとペン軸を出す。
 軸にペンを刺して、墨汁に浸して、縦に1本、線を引いてみた。
 年賀状以外で、ほぼ15年ぶりに引く線。
 ふらふらした線。
 祐介が生まれた年の夏は、今より狭いアパートで、昼間はりんだたち漫画仲間に部屋を貸しながら、祐介が寝返りするのを待ってたな。5,6人いる時に寝返りして、みんなで拍手したっけ。当時はみんな高校生で。
 拍手した仲間には同人誌の世界で売れっ子になってる者もいる。ひとり商業デビューしたとも言ってたな(りんだ以外に)。ライトノベルのカバーを描いたり。男性向けの女の子の薄着の絵を描いてたり、男性同士のツーショットを描いてたり、いろいろだけど。
 その子たち、りんだの結婚式に来るよね。
 とても楽しみ。
 などと考えながら、何本も線を引く。
 忘れてたと、途中から定規もあてる。
 やることはいっぱいある。できるうちにやらなきゃ。

 R~
 携帯電話が鳴った。
 知らない番号。
 誰だ?
「はい」
『もしもし、毬子先輩の携帯ですか?』
「ああー。ユーコ」
 後輩だった。りんだと同じ年の、売れっ子同人作家。作風はこの頃出始めた言葉で言えば腐女子寄り。イラストレーターでもあり、有名な少女小説のカバーを描いている。
「久しぶり~」
『昔の携帯にあった番号にかけてるんですけど、良かったー』
「どうしたの?」
 話すのは久々だった。何故連絡してきた?
『あ。そうそう。りんだの結婚のお祝いに本つくるんですよ。りんだの漫画の二次創作、サプライズで』
 二次創作とはおおむね、勝手に番外編・スピンオフや、活動する作品のキャラクターでオリジナルストーリーを描くことを指す。今回はお祝い目的の散発的なもののようだが。
「え、あたし最近絵始めたばっかだからとても間に合うもの描けないよ」
 声を聞いた瞬間浮かんだ笑顔が曇る毬子。
『また始めたんですか? 嬉しい! 先輩の絵可愛いもん。 
 で、その同人誌に毬子先輩と由美先輩からお祝いコメント欲しいんですよ』
「それならやる」
 他にできることないもんね。
『やった』
「メルアド代わってないね」
『はい。
 また漫画始めたんですか?』
「りんだが仕事再開したらアシやるしね。仕事辞めたところで」
『うわ、楽しみだな』
「印刷所の締め切り近いんじゃないの?」
『あ、はいお願いします』
 それから電話を切って、1時間考えてコメントを送った。

 午後3時半になった。
 壁を隔てて複数人のおしゃべりの声がする。
 ドアの開く音の後で。
「ただいまー」
 祐介の声。続いて。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔しまーす」
「ただいまー」
「違うでしょっ」
 最後のただいまはアスカで、みゆきあたりが頭を軽くはたいたところだろうか。漫才の呼吸で。
「あついー」
 とうめくアスカは無視して、
「漫画読みに来たの?」
「うん」
 うを伸ばし気味に言うみゆき。
「ジュースあるから入れて持ってくから。その代わり4人適当に同じ方向向いて並んで」
「なんでですか?」
 一哉が口を開いた。
「デッサンのモデルになってもらう」
 空気がざわついた気がした。4人顔を見合わせる。

 毬子の年賀状は例年、毬子と祐介の親子写真に、ひとことメッセージと、その横に、毬子が描く、その年の干支にかかわる簡単そうなイラストがボールペン描きでつく習慣である。
 それで片鱗の見えていた毬子の絵の腕が、封印を解かれるのか。
 などと明日香は考えた。
 来年から年賀状もイラストにしよう、などと考えながら、既に8ページほど埋まったクロッキー帳を自室から出してくる毬子である。
「ここにクッション置いて、アスカ座って。向こうから椅子持ってきて奥に一哉くん、真ん中に祐介、一哉くんの前にクッション置いてみゆきちゃん、でいいかな?」
 言って、昨日買ったデジカメで4人を1枚撮ってから、
「じゃあ始めるね。ページをめくる以外動いちゃやだよ。カメラ目線はしなくていい」

 皆真面目に漫画を読んでる。アスカは大人向け少女漫画、みゆきは4コマ漫画、祐介はスポーツ漫画、一哉はバトル漫画。をそれぞれ読んでいる。
 30分経った。
 RRRRR
「あれ?」
「アラームかけといたんよ。早い奴はそろそろ1冊読み終わる頃やん」
「祐介やるじゃん」
「そろそろひと休みしねえ?」
「わかった! 10分休憩。トイレ行きたい人は行ってきて。読み終わったら別の選んで」

 よく考えたら、みんな受験生なのに、絵のモデルになんかなってる場合じゃないよね。
 しかし、10分経って、さらに描き続けて、30分経った。アラームが再び鳴った。祐介が立ち上がって言う。
「俺これからボクシングだわ。行ってくる」
「タオル多めに持っていくのよ」
「えー、聞いてないー」
「悪ィ、アスカ」
「勉強しようか、3人で」
「図書館じゃ6時に締め出されるぜ」
 ゲーセン、カラオケボックス、図書館、コンビニのイートインスペース、その他さまざまな遊べる場所は、午後6時過ぎは中学生は居られないのである。保護者付きなら居られるけど。18歳未満は8時まで。
「いいよ、6時から塾だから」
「ネモちゃん家にする? いつも片付いてるから」
 3人とも親が商売をやっているから散らかっていそうだが、一哉の家庭はそうでもないようだ。
「お邪魔しましたー」
「お邪魔しましたー」
「お邪魔しましたー」
 4人が出ていった。

 午後5時20分。
 話は札幌時計台に飛んで。
 観光客はびっくりするほど小さな建物。
 時計台の前にいるのは沢村文佳だ。
 今日も化粧ばっちり。白いブラウスに水色のフレアスカート。ショートカット。
「おっす、久しぶり」
 と言ってずんぐりむっくり気味の若い男性が現れた。
「山本くん」
「じゃあ行こうか」
 肩を抱くでもないが、ふたり、足並みを揃えてススキノの方へ歩いていく。

 毬子はさっき撮った写真をもとに、更に2時間絵に向かう。
 今回描き始めて一番のが出来た。

 扉の横に縦に看板があり、「浅草小此木ジム」というジムの名前が大書きされている。建物が密集している地域で、壁の切れ目から淡いブルーの自転車の後輪が飛び出している。
 中は、コンクリート打ちっ放しの、真ん中に四角いリング。
 リングの外で縄跳びをする祐介。
 若い左目の腫れたコーチに、
「あと200回な」
 と言われてちっ、と思うも、表面上は文句を言わず、縄跳びを続ける祐介。

 午後6時40分。
 藤花亭行くか。と毬子は決めて立ち上がった。 

 桜の季節はピンク色になる歩道も、今は鮮やかな緑色。曇りがちな空が赤く焼け始めている。
 やがて目的地にたどり着き、自動ドアがガラララッと開く。
「いらっしゃい、おー、毬ちゃん、そのエプロンは何のためなん? 自炊してないだろう」
 と言った隆宏は今日は、真っ白いタオルでねじり鉢巻きをしている。
 エプロンをしたまま来てしまったことに今気づいた毬子は、
「はははっ。絵を描くのにね。
 今は毎日でもここのお好みが食べたい気分。今日祐介居ないしね。ミックスとビール」
「ありがとう。祐ちゃんボクシング?」
「そう」
 これらのやり取りをしながら、カウンターの中の藤井夫妻は、具材を混ぜたり、これから出すコップにビールを注いだりしている。
 毬子はエプロンを外してくるっと巻き、カウンターに置きつつ椅子に掛けた。

 自動ドアの音がした。
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
「こんばんわー」
 夫婦の声に迎えられて頭を軽く下げながら入ってきたのは八木だった。後ろに、髪をかなり短くしている八木の友人らしい男性がいる。彼は頭を下げるにとどめる。2人とも私服で、ポロシャツにチノパン姿(色は、八木がブルー、友人がうぐいす色)。
「八木さんいらっしゃい。今日はお友達も一緒で?」
「はい、前に話した、高校時代のバンドのエンターテイナーってこいつなんすよ。今月の終わりににうちの姉が結婚するんで、新婦のリクエストでバンドを再結成することになって」
「じゃあ座敷ですか? あれ、今月終わりって、何日で?」
「お願いします。良かった、開いてた……」
 と言って更に続けたた日付けはりんだの結婚式と同じ日であった、
「おー、りんだちゃんと同じ日かー、めでたいねえ」
「中学の後輩で少女漫画家やってるのが結婚するの」
 と藤井夫妻と毬子もつられて盛り上がった後。
「よろしくお願いします」
 と、八木の友人が言いながら出した名刺には、大手スポーツ新聞社の名前と肩書、「矢沢勝則」という名前。
「あ、俺ここに名刺渡してなかったわー、あったかな……」
「いいですよ。何にします?」
「豚玉、あとビール」
「僕も」
 何が語られるのか、気になる夫婦と毬子である。

「ほいで、マチコ先輩ギリギリに広島に帰ると? ワレも準備始めちょるん違うのかね」
 と八木の声が聞こえる。
 矢沢氏の方は言葉少なだ。
 スポーツ新聞社、激務で疲れてるんだろうな。
「東京にいるのがわしらと及川と……ハチは? どこだっけ?」
「ハチは静岡。久住は群馬」
 重い口が開かれた。
「最低でも東京で1回は練習できるん違うか?」
「すいませんミックス1つ」
「おまえ新ネタつくっちょるか?」
「ネタつくっとる暇ないっちゅうの」
 矢沢氏は俯いた。

 そのうち、プレスリー爺さんというあだ名の常連の禿げ親父(カラオケでプレスリーが十八番だから、こんなあだ名になった)をはじめ、他にお客がカウンターにも座敷にも入ってきて、八木の声を聞いていられなくなり、毬子も中学生たちをモデルに絵を描いたら会心の出来だった、見せて、という話になってしまった。
 午後9時、
「ただーいまー、やっぱりここにいた、あ、八木さんこんばんは」
 と祐介が現れた。挨拶を受けた八木は座敷から会釈した。
「お疲れー、祐ちゃん」
「イカ玉ちょうだい。あとウーロン茶」
「練習してきたか?」
 見上げる毬子。まだ祐介は隣に立っていて、額の汗を右手で拭いながら注文した。拭ってから座る。
「まだ基礎体力が足らんってさ」
「まあ、プロデビューできるのは17歳からやて、そこにある漫画にも書いてあるけえ、焦るな焦るな。祐ちゃん3月生まれじゃけえ、3年近くある」
 と、隆宏が指さす先にあるのは「ろくでなしBLUES」全42巻である。毬子が手を出さなかった作品で、藤花亭で見つけると、ここで読んだものだ。中学生やりんだも由美も、みんなここで読破済みである。読んでいないのは香苗と絢子くらいだろうか、趣味に合わないらしい。
 もっとも香苗は、ほとんど本や漫画を読まないが。
「はははっ、大将の言う通り……ろくブル久しぶりに貸してー」
 と言って毬子は、隆宏が指さしてた方角へ歩く。
「殴られるにも体力要るんと違うか?」
 と隆宏が口を挟んだ。

 八木のテーブルからは、
「てをつーないだらいいって……」
「稲葉の真似昔も受けたことねえじゃろ」
 座敷で八木たちの相談がかすかに聞こえる。
 有線からは宇多田ヒカルの「CAN YOU KEEP A SECRET?」が流れている。
 祐介がイカ玉を食べたら帰ることにしよう。と思ったら、ほとんど食べ終わろうとする頃祐介は口を開いた。
「なあなあ、カラオケ行かねえの大将? 香苗ねえの就職祝いしちょらんし」
「ああ、そろそろええねえ……やっちょらんかったっけ就職祝い」
 2家族合同カラオケである。年に3回くらいの割合で行われる恒例行事だ。香苗や明日香は新ネタの練習の場にしており、大人3人はこのカラオケで新しいヒット曲を知ることが多い。
 藤井家は、商売をやってて、子供たちをなかなか遠くへ連れてってやれないので、せめてその代わりにと香苗が小学校5年生くらいの頃から始まった。
 ちなみに、子供3人が小さい頃の夏には、頻繁に区民プールへ行っていた。大人は、毬子ひとりのこともあれば、3人のこともあった。毬子ひとりで3人の世話をするのは正直大変であった。
「7月に入ってからか」
「ほじゃねえ」
「今年まだ1回もやっとらんやん。やろうやろう」
「え、そうだっけ?」
「そうかもしれんのう」
 隆宏が一度、タオル鉢巻を外して考える顔になる。
 その時、扉ががらっ、
「ただいまー」
「あーアスカおかえりー。定例カラオケやるって」
「えらい遅くないか」
「うんわかった」
 父親の心配げな声をよそに、アスカは言う。
「んじゃそろそろ帰る? 祐介」
「おお」
「じゃあお疲れさまでーす。八木ちゃんもお疲れさまー」
 店を出ていく七瀬親子に、厨房から藤井夫妻が手を振った。

 八木は藤花亭でお金を支払って、矢沢氏と別れると携帯電話を見た。
 着信が多い。
 全部文佳ちゃんから。
 RRRRR
 また鳴った。
『もしもし、八木ちゃん?』
「あー、どした?」
『どした? じゃないよ。カラオケ屋の救急車の真相どうなったの? 何も聞いてないの?』
 あー、わかったら教えてと言われてたんだっけ、忘れてたぜ。
「悪ィ。
 あのカラオケ屋の1階は居酒屋で、居酒屋が終わってバルサン炊いて、そこの店長が、カラオケ屋の店長に何も言わん警備会社に連絡もせん、で帰ったんじゃと」
『あっそ』
 この発言に少しカチンときた八木である。
「聞きたかったんじゃないの?」
『いつ電話しようかこっちはタイミング測ってるのに、なかなか出てくれないしさ、連絡するのはいつもあたしからばかりだし、それからそれから……』
「悪かったよ……」
 本気でそう思ってんのかしら、と文佳は思う。
 山本くんのこと、考えようかな。
 八木ちゃんには今は言わないけど。
 秘密が出来た。

 八木は、電話しながら歩いてる間に、自宅アパートに着いた。

 毬子は、帰宅から30分後、由美に電話をした。
「ユーコがつくる本にコメントくれって電話来たでしょ」
『うん。来た』
 りんだやユーコがとあるロックヴォーカリストの同人誌をつくった際に、由美がアルバムレビューを書いたりしていたのである。由美は毬子の親友ということで、高校が離れてもりんだ達とつながりがあり、なおかつ小学生時代から作文が得意だったからだ。
「由美は送った?」
『送ったよ』
「印刷所の締め切り間に合うかな」
『間に合わせるでしょ、というかまだ余裕じゃない?』
「そっか」
『ところで毬子、何着てくか決めた?』
「店で着てたやつか黒のフォーマルにしようかと思って。あー、思い出した! 前に瑞絵ちゃんが言ってたけど、りんだのヘアメイク根本美容室でやるって言ってたからあたしたち頼れるかな?」
『りんだは琴子さんがやってあたしらは瑞絵ちゃんができるんじゃない? って振袖や打掛着るなら人手がいるか、ってお店どうしたのあんた』
 琴子さんとは、瑞絵や一哉の母親で、根本美容室の主のことだ。年齢は実は50に届く。
 携帯で話しながら冷蔵庫へ移動して、アイスを出そうとする毬子。
 由美は目の前のパソコンをシャットダウンし始めた。
「それも考えなきゃいけなかったんだ、油断した。店はやめた」
『髪にコサージュだけ付けたら?』
「あ、それもらいっ」
『悪い、そろそろファッションショーするわ』
「わかった。そういえばりんだが式の前に3人で飲もうとか言ってたけど」
『無理無理。あたしそんなに暇じゃないのよ。あんただってそうでしょ、ってあんたそろそろ誕生日じゃん、りんだそのことを言ったのかね』
「聞いてない。ごめん、あたし店辞めたからなあ」
『それを突っ込もうと思ってたんだよ』
 由美はメンソールの煙草を1本咥えてあ?火をつける。
「8月からりんだのアシストやる」
『そうなんだ。あーあと、同人誌のサイズいくつだろ。バッグのサイズどうするよ。入るサイズのバッグ持たないと、ひと駅とはいえ電車でご開帳したくない。特にパロディは』
 会場は浅草だ。改まった格好で自転車に乗って髪をぐちゃぐちゃにもしたくないし。
 パロディとは、今でいう二次創作だ。二次創作とは、制作元に無断でスピンオフや番外編を描いてしまうこと、と描けば伝わるだろうか。俗に言う「公式」が容認している作品もあるけれど。
「あーそれもあったか。明日ユーコに電話して聞いとくわ」
『頼むね』
「んじゃおやすみ」
『おやすみ。結婚式で』
 と言って2人は電話を切った。
「さて。今日こそは決めないと」
 と言って毬子は、クロゼットを開ける。
「……」
 店から持ち帰ってきた服で最近新たに膨れたクロゼットと箪笥。
 子供いて30過ぎだからね。
 やっぱりフォーマルかな。
 りんだの友達は派手に決めるかな。
 それもついでに聞いてみよう。

「もしもし、ユーコ? 遅くにごめん、ちょっといい?」
『あ、先輩。何かありました?』
 なんだかユーコは嬉しそう。
「うん、質問なんだけど、あたしらがコメントした本、完成サイズいくつなの?」
『A5です、どうかしました?』
 言いながらユーコは、左手に携帯、右手はロットリングで文字を書いている。
「A5ね、バッグのサイズがね。あと、あんたは当日何着てく?」
『……オレンジのワンピースですね。まあ、白じゃなきゃなんでもいいんじゃないですか?』
「あんたたち派手なの着るのかなとか思ってさ。まああたしは祐介居るからフォーマルかなとか」
『気にし過ぎじゃないですかね」
「そお?」
『今本にあとがき書いてたとこなんですよ。60Pになりましたよ。コミケの原稿も始めてるし』
「やる気のとこごめんね、切るね、おやすみ」
 ユーコの現在の、コミケにおけるジャンルが気になったが、電話を切った。
「今夜はもう寝よう」
 つぶやいて毬子は、立ち上がる。
 バスルームからは祐介が入浴する水音が小さい音で聞こえていた。

 翌週。昼間。
 毬子は藤花亭で。
「今日はジュースとイカ玉ね」
「今日はどうしたの」
「絵を真面目に描こうと思って」
 と言ったところで、扉ががらっ。
 八木だった。ギターのソフトケースを肩に担いでいる。
「こんにちは。
 七瀬サンは最近いつ来てもいる気がする」
「気のせい気のせい」
「いや、毬ちゃん確かに、毎日昼か夜に来ちょる気がするぞ?」
「あ、バンドの練習ですか?」
 毬子はギターのソフトケースを見つけて、無理矢理話題をそらせる。
「そうなんですよ。なんとか3回ほど練習する機会が持てることになって……実家から楽器送ってもらった奴もいて、練習にかかるのに時間かかったりなんかして……」
 音楽が好きなのだろう。話は尽きない。合間に、座りなさいよ、と隆宏が言って、八木は毬子の隣に座る。座ってネギ焼きを注文した。
 有線からは、KINKI KIDSの「全部だきしめて」がかかっている。

 1週間以上経っても文佳は悩んでいた。
 飲みに行って、山本幸治に告白もされたし。
 八木に連絡するのがいつも自分からというのもムカつく。
「俺じゃダメか? 逢いたい時に逢えないなんて辛いだろ」
 という山本の言葉が頭に残る。
 八木ちゃんの態度は悪いし。
 やっぱり相談してみよう。
「もしもし、美紗子?」
『あ、文佳? 仙台はやっぱり暑いね。なかなかきついよー。なんかあった?』
「う、うん、ちょっと……」
 異動したばかりの美紗子に甘えちゃまずいという気が、突然文佳に起きた。
 それからしどろもどろになっていたが結局、
「もう1か月八木ちゃんと逢ってないや」
 と口にする。
『遠距離恋愛なら仕方ないでしょ。有給だって無限にあるわけじゃないんだしさ』
「こないだ山本くんに告白されたんだ」
『相談するってことは、あんたは揺れてて迷ってるってことだね。八木さんに何か不満もある』
「うっ……だって、あたしばっかり連絡するんだもん……たとえば、こないだ東京行った時、八木ちゃん家の最寄り駅のそばにカラオケボックスがあるんだけど、そのカラオケ屋の周りが朝から消防車でいっぱいだったことがあって、真相わかったら教えてもらう予定だったのに、あたしから連絡取らなきゃ教えてくれないんだもん」
『まあ悩みなさい。遠距離恋愛が世間が教える良い恋愛でないことは確かだけどさ』
「……」
 そのまま二の句が継げない文佳に、
『悩んで結論出したら教えてね。おやすみ」
 と言って、美紗子は電話を切った。

 翌日の夕方、と言ってもまだ空は赤くないどころか雨が降っている。
「こんにちはー」
「毬ちゃんいらっしゃい」
 言われてカウンターに座る。
「今日は毬ちゃん誕生日じゃけえ、特別にビール飲み放題ね、今日だけ」
「うわあ、すみません」
「いつも来てくれるからね、わしらにはこれくらいしかできんし」
「こんにちはー。どうかしたんですか?」
「毬ちゃん誕生日なんですよ」
 八木の疑問に、笑顔で絢子が言う。
「……おめでとうございます」
 少しの間が気になるが、まあ、いいだろう。
 この後家に帰ったら、ボクシングから帰った祐介が肩揉んでくれて、いい1日だった。

 そして10日ほど経って、結婚式当日になった。日本晴れである。
 根本美容室はスタッフ総出だった。店には瑞絵だけが残って、黒のフォーマルワンピースを着た毬子と由美の髪に淡いピンクの薔薇のコサージュを挿した。由美は誕生石であるダイヤモンドのピアスに、やはり誕生石のキュービックジルコニアのネックレスをしている。毬子も誕生石の真珠の三連ネックレスだ。2か月違うだけで不公平だ、なんであたしは石でさえないんだ、と誕生石については愚痴の種なのだが。
 式場の入り口には中谷家・佐藤家と書いてある。
 店で着ていたノースリーブは、フォーマルな席にはやはり安いかなと思って。
 母親に送ってもらった(借りた)真珠のネックレスをして。
 式場に着いて、受け付けに御祝儀を出し、受け付けに居たりんだの妹に、控室に皆さんいらっしゃってますよ、と言われて行ってみる。
「おはようございまーす。この度はおめでとうございます」
「おめでとうございます」
 新婦控室入り口で頭を下げる。
「聞いてくださいよ毬子先輩由美先輩、ユーコたちが本つくってくれて……」
 と鏡の前に白無垢姿で座ったりんだは泣きそうだ。感激で毬子たちに駆け出したい気持ちなのだが衣装が重くてできないのである。
「あーりんだちゃん泣かないの! 化粧落ちちゃう!」
 と、瑞絵と一哉の母親で根本美容室の主の琴子が叫ぶ。
「知ってるよあたしたちもコメントしたもん」
「間に合いましたよ先輩方!」
 と言って、茶封筒に入れた同人誌を持ってくるユーコは妙にテンションが高い。肌艶が良いのは懸命にパックしたんだろうか。
 封筒から少し出すと、表紙は派手だ。
「みんなお疲れさん」
「中身は後で楽しませてもらうわ」
 と言って、毬子と由美は本をバッグにしまった。

 ロビーで煙草を吸う由美に付き合ってたら崎谷を見つけた。
「こんにちは、七瀬さん。岩渕、久しぶり、ってなんで二人一緒にいるの?」
「あ、こんにちは崎谷さん」
「崎谷おひさー。友達だもの一緒に来るよ。昔からあんたたちに話してた友達ってたいていこいつの話だもの」
 という由美の発言を聞いて、毬子は真顔で由美を見た。由美は口笛を吹くが久々過ぎてキレイに音が出ない。舌打ちをしたくなる。
 りんだの、ドーリアン・マガジンズ少女漫画雑誌「まりあ」における担当編集の崎谷だった。由美は元同僚を見て、少し太ったな、などと思っているが口には出さない。漫画編集者としての彼は初めて見る。
「花嫁綺麗でしたよ」
「もう見られたんですか」
 さすがに男性が控室入るわけにいかないもんね。
「あ、私8月からりんだのアシスタントとして正式に入ることになったので、よろしくお願いします」
「絵はしばらく引退されてたんですよね。佐藤先生から少し聞きましたよ」
「現役復帰、と言っていいのかな……いろいろご指導よろしくお願いします」
「いや、僕も文章書く方は少しはだけど、絵についてはまだまだですから……」
 その時、
「おーい崎谷ー」
 と崎谷を呼ぶ声がする。
「すいません呼ばれたんで。岩渕じゃあな。そのうち三村と3人で飲もうや」
「では……」
 と言って崎谷と毬子は頭を下げ合った。

 崎谷の背中を見ながら。
「崎谷あたしには申し訳程度に最後に、でやんの。毬子気に入られたんじゃない?」
 由美が毬子の肘をつっつきながら言った。
「まさか」
 ありえない、とでも言いたげに、毬子は短く返す。
 披露宴は12時からだ。

 式はつつがなく進む。
 りんだの同級生たちは声を揃えて、「てんとう虫のサンバ」を歌った。

 同じ頃、広島市内某所。
 西野家、八木家結婚披露宴、と出ている。

「ワントゥースリー」
 眼鏡をかけたドラマーがスティックを合わせてカウントを取る。
 八木は真ん中から背後を振り返ってそれを見て。
 ウルフルズの「バンザイ」のイントロが流れ始めた。

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