ワカミヤさま

楓屋ナギ

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第六話

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 図書館からの帰り道。

 まだ日は高いのに、私たちのまわりにだけぼんやりと黄昏の影が降りているような気がした。

「――先の学者どのには、おやかたさまの面影があった」
 ぽつりと四郎さまが言う。
 その声を背中で聞きながら、私はゆっくりと自転車を漕ぐ。
「わしは、生まれて間もない姫に対面してよりこの方、おそばを去らずお守りしてきた」
 しばらく間を置いて、またぽつり。
「いつであったか。自転車に乗れるようになった、とおっしゃるのを聞いた」
 ふっくらとした頬を上気させ、目をまんまるにして四郎さまの祠に報告する少女。
 それは彼がお仕えした姫君ではあり得ない。北岡の家に生まれた女の子のひとりだ。きっと姫君によく似た、可愛らしい少女だったのだろう。
「わしは今、その自転車に乗っているのだな」

 亡き人の時間の感覚は、生きている者には分からない。亡き人にこの世がどのように見えているのかも。
 はるか昔から現在に至るまで、たくさんの女性があの祠の世話をしてきたのだろう。彼女たちは入れ替わり立ち替わり、現れては去って行った。過去から未来へとつながる一連の流れ。幾人もの女性たちとの思い出が、姫君との思い出として四郎さまの記憶に紛れ込んでいる。
 ――糸の切れたビーズのネックレス。
 時の流れから切り離されて、ばらばらになって散らばって、それぞれが愛おしい輝きを放っている。 
「わしは――。わしには、もう分からぬ」

 彼が今どんな顔をしているのか。前を向いている私には見えない。
「もし、もう一度会いたいのなら」
 背中に感じる気配が薄れてゆくのを感じて、私はたまらずに言った。
 ちょっと強引ではあるけれど、従姪いとこめいさんから直接話を聞きたいと岩崎さんに頼めば、引き合わせてもらえるかもしれない。
 そう提案してみると、
「不要」
 きっぱりと四郎さまは答えた。
 いくら姫君そっくりでも、たとえ生まれ変わりであったとしても、やはりその人は姫君ではない。
「他家にとつがれたのなら、姫をお守りするのは夫君たる男の務め。わしはお役御免だ」 
 それきり若君は何も言わなかった。私も何も言わなかった。

 前方にアパートが見えてきた。
 祠の前にさしかかると、すっと四郎さまが離れた。
「恩義、忘れぬ」
 ささやくような声が耳のそばを通り過ぎる。
「この礼は、いずれ必ず……」
 若い落ち武者の姿が菜の花に囲まれた祠に重なり、溶ける。私は自転車から降りて膝をつき、祠に手を合わせた。

 週が明けて、月曜日。私は朝7時にアパートを出た。
 祠の前に人影はなく、摘んだばかりらしい花が供えられていた。
 夕刻。仕事を終え、久しぶりに辺りが明るい内に帰路につく。
 祠の前の花はまだ瑞々みずみずしい。
 次の日も、またその次の日も。
 種類の違う新しい花が祠の前に飾られていたけれど、四郎さまの姿を見ることはなかった。
 毎日出勤して、自分のデスクに座って。先輩に仕事を教えてもらいながら、よたよたと業務をこなす。時間がくれば退社して、電車に乗って自宅に帰る。一週間も経つとそれなりに生活のリズムができあがった。



 桜は散り、気の早い藤がつぼみをつけ始めている。

 夕暮れの道を歩きながら、私はこの週末をどう過ごすか考えていた。
 食材の買い出しに行きたい。お店めぐりをしよう。スーパーやドラッグストア、感じのいい個人商店があるといいな。品揃えやお値段を見て、どこで何を買うか考えよう。
 日用品も買い足さないといけないし、一人分とはいえ荷物は重くなるだろう。
(お給料が出たら、自転車を買おうかな)
 自転車を一台と、ヘルメットをひとつ。

 一人暮らしのアパート。
 ドアの鍵を開け、玄関で靴を脱ぎながら「ただいま」と帰宅の挨拶をする。単に、実家で暮らしていたときの習慣が身に染みついているから、というだけのこと。返事を期待してでのことではない。なのに。
 
「おお、無事帰ったか」

 ――中から返事が返ってきた。
 ぎくっと顔を上げると、部屋の真ん中、小さなテーブルの傍に時代劇の人が座っている。私は軽いデジャヴを覚えた。
「思うていたより早かったな」
 黒い烏帽子えぼしに白く千鳥を染め抜いた紺の直垂ひたたれ。おどろおそろしい落ち武者から一転、見違えるように凜々しい若武者ぶり。
 忘れもしない。佐伯さえきの四郎しろう公郷きみさと、その人だった。
 どうせなら最初からこの格好で出てくれればよかったのに、と恨めしく思う。どちらにしろ、ありがたくはないけれど。
「何という顔だ。わざわざ足を運んでやったというに」
 四郎さまはぷくっと不服そうに頬を膨らませた。霊の訪問が嬉しい人はいないと思う。たぶん。
「何のご用でしょう」
「そなたに恩を返そうと思ってな」
「恩、ですか」
 そういえば、あの日の別れ際にそんなことを言っていたような。
「うむ。姫のご無事をお守りするというご下命を果たし、わしは今や自由の身。そこで世話になったそなたに報いるため何ができるか、じっくり考えてみたのだ」
 軽く咳払いすると、若君はすっと膝を進めた。
 何をしてくださるおつもりか。嫌な予感しかない。
「聞いて喜べ。わしはこれから、そなたを守護することにした」
「な、なん――?」
 声が上ずった。おのれ、余計なことを思いつきなさって。
「あの、成仏はしなくていいのですか?」
「急ぐこともあるまい」
「それに、私などのためにそこまでしていただくのは……」
「姫には遠く及ばぬが、そなたもなかなかに見所みどころのある女子おなごぞ。わしの目に狂いはない。自信を持て」
 若君が胸を張る。いや、そうじゃなくてですね。
「この佐伯四郎公郷、そなたがこの世にある限り全力を尽くして守る所存」
 いらない。全力でいらない。
 享年、御年十五か十六か。すっと背筋を伸ばして座る若君は、年のいった座敷童のよう。脱力した私を曇りなき眼で見上げている。
 ――だめだ。お断りの仕方が分からない。

「ところで、だな」
 夕飯の支度に逃げようとしたところを引き留められる。
 四郎さまは私から視線をそらし、その先を言いよどんでいる。
「なんでしょうか」
「その、他意ははないのだ。深い意味はないのだが、守るからには知らねばならぬと思うのだ」
 整った横顔。白い頬に赤みがさす。私は体の向きを変えて、もじもじとためらっている四郎さまの顔を正面から覗き込んだ。
 四郎さまは目を閉じ、大きく息を吸い込む。そうして、勇をして、といった風情で一気に私への問いを吐き出した。
「聞いてもよいだろうか。そなたの名を」 
「はあ……」
 そこまで聞きにくいことだろうか。
(ああ、そうか)
 古典だったか、歴史だったか。高校の授業で聞いたことを思い出した。昔の女性は家族と夫以外には本名を明かさないとか。男性が女性に名を尋ねるのが、求婚を意味する時代があったのだとか。
 四郎さまの顔は真っ赤だ。年頃の少年にとってはこんなに勇気のいることだったのだなあ。
 私はしばしためらった。実は、今までわざと黙っていたのだ。
 名乗らなかった理由はふたつある。ひとつは、霊に名前を知られたら大変なことになるかも、と思ったから。
 もうひとつは――。
七海ななみ
 小さく息をついて名乗る。名字を、それから名前を。
「七海奈央なおです」
「ななみ、なお……」
 四郎さまははっと目を見開き、そのあとくしゃっと泣き笑いのような表情になった。
「よき名だな」
 

 社会人一年目の四月。
 私の一・五人暮らしが始まった。
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感想 2

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みんなの感想(2件)

玄未マオ
2024.07.07 玄未マオ

姫様をめぐる人々の温かい心がほっこりするお話でしたね。

名前を聞くときにはにかむイケメン若武者がツボにはまりました。

2024.07.14 楓屋ナギ

ほっこり要素を見つけてくださって、ありがとうございます。よかった。ほんとうによかった。

解除
にゃんこぷ
2024.06.29 にゃんこぷ

^・_・^ 猫は?と私も思っちゃいました。いえいえ何でもないです。

2024.06.29 楓屋ナギ

登場場面はありませんが、たぶん道ばたですれ違っていると思われます。

解除

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