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第四章
第4話 王女さまのステップ
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「どうかゆっくりと滞在なさってくださいね。兄もわたしも、精一杯おもてなしさせていただきますから」
その言葉通り、オルフェンは大切な客人をもてなすために早朝から全力で城内を駆け巡った。
ファリアスの王宮と季節ごとの離宮しか知らない王女にとって、地方の城館は未知の領域だった。
兄を引き連れ、家令に案内をさせて、城で働く者たちに片っ端から声をかけた。
ぐるりと一回りして内部の有りようを把握すると、その後はひとりで動いた。
エレインのために湯浴みの支度をさせ、若い娘の中から世話係を選んだ。料理人には事細かに要望を伝え、小皿の色まで指定した。庭園で庭師に声をかけたと思うと、灯台のある東の塔まで足を延ばす。
城中が上を下への大騒ぎになった。
「こんなに忙しく働くのはいつ以来だろうねえ」
皆の喜びようときたら、大変なものであった。
料理人たちは久しぶりに腕を揮う機会を与えられて張り切っていたし、庭の常緑樹は可愛らしい形にカットされた。王女が通りすがりに下っ端の兵士にまで眩しい笑顔を向けるものだから、兵たちの心はざわめき、自然と訓練にも熱が入った。
「私どもはよい城主に恵まれました」
家令などは感極まって目頭を押さえる始末だ。
ダナンの王子がこの城の主になると聞いた時、皆が、新しい城主がこの地を踏むことはあるまいと思った。年に数回使者を遣わす程度で、さほど関心を払わないのではないか、と。
「まさか殿下みずからこちらにお運びくださるとは。しかも王女殿下まで。このように気にかけていただけて、我々は幸せでございます」
(まさか、と言いたいのは僕の方だ)
アリルは複雑な気持ちだった。
わずらわしい宮廷を離れて、心穏やかな毎日を過ごすことができればそれでよかった。ここからなら足しげく庵へと通っても、文句は言われまい。いかにもな親切面をして王族の心得を説く血縁もいない。
と、思っていたのに。
オルフェンの来訪によって、アリルの平穏な日々は終わりを告げた。
『兄さま、ご一緒にお茶はいかがですか?』
『兄さま、チェスをしましょう』
『兄さま、部屋の模様替えを手伝ってくださいな』
『兄さま、町に出かけますよ』
『兄さま?』
どこにいても自分を呼ぶ声がする。
朝には灯台のてっぺんに上って景色を楽しみ、午後は馬で遠乗り。
天気がよければヒースの野でピクニック。
一刻たりとも思い通りになる時間はない。
なんでこんなことに、とアリルは嘆いた。
「僕はもともとそんなアクティブな人間じゃないんです。こう毎日毎日何かあると身がもちませんよ」
オルフェンの『精一杯のおもてなし』に付き合わされている者たちは、皆楽しそうだ。音を上げているのはアリル一人である。
ずっと、エレインに普通の娘らしい生活をさせてやりたいと願っていたフランは満足げだった。
「災い転じて何とやら。こっちに来たのは正解だったな。あいつが一緒なのは気に食わないが」
あいつというのはキアランのことだ。キアランの方はフランに何を言われても全く意に介さない。涼しい顔でさらりと受け流している。
「あたたた……。もう少し左です」
やっとのことで隙間を見つけて、シャトンに全身をマッサージしてもらう。そんな王子の姿は、少々――どころか、かなり情けない。
「いい若い者が、これくらいでへたばってどうするんだい」
ベッドの上にぐったりとうつぶせになったアリルの背中の上で、シャトンが足踏みをしている。
「このあたりかい?」
「もう少し下……、あっ、そこ! そこです! くう~…、気持ちいい」
ふみふみふみ。
小さな猫の足がかちかちに固まった背中をほぐしていく。
「極楽極楽。幸せですね~」
オルフェンはどうやら本気で兄とエレインの間を取り持つつもりらしい。
(この王子さまと恋愛ってのは、どうも結びつかないんだけどねえ)
シャトンには、煎り豆を畑に蒔いて水を注ぐような、無駄な努力に見えた。
アリルの瞼がゆっくり下がってゆく。このまま夢の中へと落ちてゆければ、どんなに幸せだろう。うっとりとそんなことを考えていると、
「兄さま!」
元気な足音が近づいてきて、勢いよくドアが開いた。
至福の時は長くは続かない。
するん、とシャトンがアリルの背中から降り、開いた扉から外に出ていった。
「オルフェン、せめてノックぐらいしてくれないか」
枕に顔を埋め、アリルはくぐもった声で抗議を試みる。
「ノックなどしたら、兄さまに逃げてくださいと合図するようなものじゃありませんか。この部屋には惑わしの森への通路があるでしょう。あれを使われたら面倒ですもの」
悪びれない返事が返ってきた。
(その手があったか)
なんのかんのいっても、王子として教育を受けた身である。自分を訪ねてきた客を城に残して外に出る、などという行為は考えの外にあった。
(先手先手を打たれている……)
「はあ、今度は何ですか」
溜め息混じりに尋ねると、オルフェンの目が輝いた。
「すごいんですよ、兄さま。キアランてば、フィドルの名手なんです! いろいろな曲が弾けるのですって。だから、ホールでダンスをしましょう!」
(また、体を酷使するのか)
不服を申し立てたいところだが、弱い立場の兄には断る権利もない。黙って妹姫のお誘いを受けるより他に道はなかった。
急き立てられて部屋を出ると、階下からフィドルの音色が聞こえてきた。そこかしこにちらほらと足を止めて聴き入る人影がある。彼らは王女と王子の姿を見ると、はっとした表情で頭を下げ、足早に立ち去って行った。
哀調を帯びた古風な旋律がホールから流れてくる。
様々な色のタイルが描き出すモザイク模様の床、中央の赤いケシの花をステージにしてキアランがフィドルを弾いていた。
エレインはお行儀良く椅子に座り、真っ直ぐ演奏者を見つめている。その膝の上では、すでにシャトンが丸くなって寛いでいた。
フランは壁にもたれてむっつりと目を閉じている。不機嫌そうに見えるが、そのつま先がリズムに合わせてかすかに動いていた。
聴衆たちはオルフェンとアリルには気づいていないようだ。邪魔をしないよう、二人はホールの入り口で曲が終わるのを待った。
* * *
穏やかな曲に耳を傾けながら、エレインは緊張に体を強張らせていた。
辺境の古城とはいえ、お城はお城だ。自分なんかがこんなところで暮らしていていいのかと思う。
城主であるアリル王子の心遣いは細やかで、何もかもが行き届いている。慣れない城暮らしにも困ることがない。
妹の王女さまは気さくな性格で、まるでずっと前から友人であったかのような扱いをしてくれる。毎日のように楽しいことを思いついて、自分を誘ってくれる。
働きもせずに、こんな生活を続けていてもいいのか。
そんな悩みをフランに打ち明けると、
『すまんが、こっちにも事情があってな。窮屈だとは思うが我慢してくれ。オルフェン姫の遊び相手をするのが仕事だと思ってくれりゃいい』
なかなか大変そうだが、と最後の方は口の中でもごもご付け足した。
たぶん、大聖堂での事件が関係しているのだろう。
どうやら難しい事情がありそうなので、それ以上は聞かないことにした。
(王女さまの遊び相手、かあ……)
望んでできるものではない。どうせなら楽しんだ方がお得だ。
そんな風にエレインは自分の中で決着をつけた。
「上手ね。良い音だわ」
入り口の方角から明るい声が響き、はっとエレインは物思いから醒めた。
「お気に召しましたか?」
キアランが弓を下ろしてオルフェンの方を振り返る。
「ええ、わたしは好きよ」
「光栄に存じます」
うやうやしく一礼する、その姿も嫌味なほど様になる。
「今の曲は初めて聞いたわ。何という曲?」
「残念ながら曲名は知りません。昔、吟遊詩人が歌っていたのを聞き覚えたものです」
オルフェンの目が丸くなった。
「まあ、一度や二度聞いただけでそんなに弾けるものなの? あなたって、すごいのね」
まだ心許せぬ相手であっても、オルフェンは賛辞を惜しまない。
「恐れ入ります」
キアランはにっこりと微笑み、王女に向かって頭を下げた。さらりと黒褐色の髪が揺れる。
ケッ、とフランが白けた顔でそっぽを向いた。
「歌の内容は覚えている? 素朴だけれど、切なくて少し甘くて、懐かしい感じがしたわ。この曲にのせて、どのような物語が語られたのかしら」
物語と聞いて、シャトンがひょこっと頭をもたげた。エレインの頬が緩む。
(物語が好きだなんて、不思議な猫さんね)
しかしすぐに思い直す。森の中で獣たちに囲まれて歌ったという詩人の逸話もある。詩人が歌っている間は、熊も狼も鹿もウサギも、お互いを襲うことも恐れることもなくその歌声と竪琴に聞きほれたという。
キアランはしばし宙を見つめて唇を動かしていたが、軽く頷くと、
「一部分なら、歌えますね」
左の手のひらを上に向けてフランの方に差し出した。
「何の真似だ」
「竪琴を。フィドルでは弾き語りができません。お得意の魔法で近くにあるものをお取り寄せしてください」
「泥棒みたいな真似ができるか。黙って歌え」
「あなたも、なかなか無茶を言いますね」
フィドルを手に提げたまま、キアランはひとつ息を吐いてから歌い始めた。
私の太陽は遠くに行ったきり
他の誰かを照らしている
風鈴草の谷はずっと夜のまま
花が咲く日は来ない
残酷な人よ
私の声は届くだろうか
風鈴草の谷に朝が来るとき
あなたの苦難の道は終わる
しん、と静まり返ったホール。
最後の音の余韻が消えると、パチパチと可愛らしい拍手の音が響いた。
「悲しいけれど、綺麗な歌ね」
ほう、とオルフェンが溜め息をついた。
「お気に召しましたか?」
「ええ、とても。失恋の歌なのかしら」
「妖精の娘が人間の男に恋をして男のために尽くすのですが、男は人間の娘に心を移して、あっさりと彼女を捨てて去ってゆくという」
はあ、とまたオルフェンが溜め息をついた。
「どうしてかしら。詩情がどこかに行ってしまったわ」
「おや? どうしてでしょう」
キアランが不思議そうに首をかしげ、フランがオルフェンに同調した。
「お前、詩人には向いてねえな」
「あなたがそれを言いますか」
「ふふっ」
そのやりとりを聞いていたエレインが、堪えきれずに笑った。
くるっと四人が振り返り、シャトンがエレインを見上げた。視線を浴びたエレインは慌てて口を押えた。
「ご、ごめんなさい。でも、おかしくて」
ぱあっと満面に広がる笑みに、男たちの心臓が跳ねた。
――金のエニシダの贈り物。
「あなた、そんなふうに笑えるんじゃないの!」
見惚れる男たちを尻目に、オルフェンがつかつかとエレインに歩み寄った。ぎゅっと両手を握りしめ、たじろぐその顔を覗き込む。
「いつも何か遠慮してるし、そうでなきゃおどおどしてるし。心から楽しめていないんじゃないかって、気にしていたのよ」
「え? そんなつもりは……」
「ほら、それよ」
オルフェンは軽く眉根を寄せた。
「私なんか、って顔!」
私なんかがお城にいてもいいのかな。
私なんかがこんなに良くしてもらっていいのかな。
私なんかが―――。
否定はできない。いつもそう思っていたのだから。
なぜこんなに親切にしてもらえるのか、理由が分からないから余計に不安になる。
「わたしが、あなたにいて欲しいと思っているんだから、いいのよ。あなたにも事情があって、行かなきゃいけない場所もあるのだろうけど。どうか、時間が許す限りここにいらしてね」
澄んだ青い目が偽りのない気持ちを伝えてくれる。
(行かなければならないところ……)
そんなの、知らない。
思わずフランを振り返る。
「今のところ急ぐ用事はないな。てか、これからどうするか考え中。当分は神殿にも戻れないし。ま、追い出されるまでここに居座るのもいいかもな」
「またいい加減なことを」
アリルが師匠をたしなめる。フランは少し肩をすくめただけで何も言い返さなかった。
「決まり!」
ぱん、とオルフェンが手を打ち鳴らした。
「もうすぐサウィンの祭りがあるの。一緒に行きましょう。それから冬至と新年のお祭りと。春祭りも!」
「え? そんなに?」
アリルが悲鳴を上げる。
「そうよ! ファリアスの城では王女の務めだとか言われて、祭の間中ずーっと王宮に閉じ込められて、訪れる方々をもてなし続けなきゃいけないのですもの。ねえ、兄さま。いいでしょう?」
「僕が駄目だ、って言ったら、従ってくれるの?」
「ううん。勝手に出て行く」
そこまではっきりと即答されると、腹も立たない。却ってすがすがしいほどだ。
「好きにしていいよ。堅苦しいことは言わない。言えた義理じゃないし」
きゃあっとオルフェンが嬉しそうな声を上げ、握ったままのエレインの両手をぶんぶんと振った。その勢いに戸惑いながら、つられてエレインも笑う。今まで見せることのなかった、屈託のない笑顔だった。
キアランがそっとフランに近づいて囁く。
「ねえ、マクドゥーン」
「なんだ、ドウン」
フランが返す。
「あなたとしては、私がここにいるのは気に食わないんじゃないですか?」
「今のまま大人しくしている分には構わない」
「ふうん。寛大ですね」
「それより、さっきの歌は―――」
「どこかで聞いたような話、ですね。世間ではよくあることなのでしょう」
「ふざけやがって」
どこかで、どころではない。ある意味ここにいる全員が関係者だ。
剣呑な雰囲気になりかけたところを、明るい声が救った。
「キアラン! 何か弾いて。楽しく踊れる曲を!」
「お望みのままに、姫」
優雅な仕草で王女に歩み寄り、その可憐な手に軽く口づけをすると、キアランは再びフィドルを構えた。
「では」
ふわり。その弓が弦に触れる。そこから先刻とは打って変わって陽気な舞曲のメロディーが紡ぎ出された。
八分の六拍子の軽やかなリズム。
祭りでよく耳にする、ダナンではポピュラーな曲だ。曲を聴けば、いとけない子どもまでもが足踏みをして歌い出す。
さあさ、お聞きよこの歌を
楽しい祭りの始まりだ
花を飾って、広場に出よう
鈴を鳴らして、陽気に踊ろう
さあさ、酒樽を開けておくれ
けちけちするんじゃないよ
景気よくいこうじゃないか
カップを上げろ
乾杯だ、乾杯だ
知るも知らぬも、一期の出会い
炎を囲んで、踊れや踊れ
オルフェンがエレインの手を引いて踊り始める。
エレインのステップがリズムに合ったのを見ると、さらにアリルとフランを引き込んだ。
「兄さま、足がもたついていますよ」
「フラン、ずれてるよ。見ていると弾いている私までリズムが狂いそうだ」
適当に手を抜こうとすると、容赦なくダメ出しが飛んでくる。
「連日、これでは、体が、もたない、んですけど……」
息も絶え絶えといった風情のアリルをオルフェンが振り回し、エレインに渡す。
「情けないこと言わないでくださいな。レディーのエスコートは殿方の義務よ」
「アリル様、お相手を」
エレインがそっとアリルに手を差し出す。みるみるアリルの頬が染まった。エレインに手を引かれて何とか踊り始めたが、動きはぎこちなく、もたもたしている。
「ホント、情けねえな……」
「兄さまは女性に免疫がなさすぎます」
足を止めてしばらくその様子を見ていた二人は同時に溜め息をつき、顔を見合わせて笑った。
聖騎士の灰色のチュニックと、王女の空色のドレス。
フランと向かい合うと、オルフェンの頭は胸のあたりまでしか届かない。
「で、お姫さん。あんたは何を企んでいるのかな?」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでくださいな。ぱっさぱさに乾いた味気ない兄の人生に、ほんの少しの潤いをと思っただけです」
「なるほど」
人の悪い笑みを顔に貼りつけたまま、フランはじっとオルフェンの青い瞳を見つめた。
「どこの馬の骨とも分からない娘が、ダナンの王子に釣り合うか?」
その程度の挑発にたじろぐオルフェンではなかった。男の視線をしっかりと受け止め、あでやかな笑みで返す。
「牽制なさるおつもりね。あなたとキアラン。もう一人ぐらい恋敵が増えてもどうってことないでしょう」
フランが声を失う。
無言の返事にくすくすとオルフェンは笑った。
「垢抜けない地味な田舎娘。そんな風に見せかけたって、あなたが聖騎士としてぴったり傍にくっついていたら騙せるものも騙せないわ。それにあなたたちの目、とっても雄弁よ。ああ、お二人ともこの娘を愛おしく思っているのね、って。どちらもまだ彼女の心を射止めてはいないのでしょう? 今さら兄さまごときが一人加わったところで、痛くも痒くもないのではなくて?」
色恋沙汰は女の領分。小娘といえど見くびってはならない。
フランは神妙な顔で王女の言い分に耳を傾け、
「降参」
オルフェンの腰に手を回すとひょいとその軽い体を掬い上げ、曲に合わせてくるりと回った。
華やかな笑い声がホールに響く。
ブルーのドレスが花のように広がった。
その言葉通り、オルフェンは大切な客人をもてなすために早朝から全力で城内を駆け巡った。
ファリアスの王宮と季節ごとの離宮しか知らない王女にとって、地方の城館は未知の領域だった。
兄を引き連れ、家令に案内をさせて、城で働く者たちに片っ端から声をかけた。
ぐるりと一回りして内部の有りようを把握すると、その後はひとりで動いた。
エレインのために湯浴みの支度をさせ、若い娘の中から世話係を選んだ。料理人には事細かに要望を伝え、小皿の色まで指定した。庭園で庭師に声をかけたと思うと、灯台のある東の塔まで足を延ばす。
城中が上を下への大騒ぎになった。
「こんなに忙しく働くのはいつ以来だろうねえ」
皆の喜びようときたら、大変なものであった。
料理人たちは久しぶりに腕を揮う機会を与えられて張り切っていたし、庭の常緑樹は可愛らしい形にカットされた。王女が通りすがりに下っ端の兵士にまで眩しい笑顔を向けるものだから、兵たちの心はざわめき、自然と訓練にも熱が入った。
「私どもはよい城主に恵まれました」
家令などは感極まって目頭を押さえる始末だ。
ダナンの王子がこの城の主になると聞いた時、皆が、新しい城主がこの地を踏むことはあるまいと思った。年に数回使者を遣わす程度で、さほど関心を払わないのではないか、と。
「まさか殿下みずからこちらにお運びくださるとは。しかも王女殿下まで。このように気にかけていただけて、我々は幸せでございます」
(まさか、と言いたいのは僕の方だ)
アリルは複雑な気持ちだった。
わずらわしい宮廷を離れて、心穏やかな毎日を過ごすことができればそれでよかった。ここからなら足しげく庵へと通っても、文句は言われまい。いかにもな親切面をして王族の心得を説く血縁もいない。
と、思っていたのに。
オルフェンの来訪によって、アリルの平穏な日々は終わりを告げた。
『兄さま、ご一緒にお茶はいかがですか?』
『兄さま、チェスをしましょう』
『兄さま、部屋の模様替えを手伝ってくださいな』
『兄さま、町に出かけますよ』
『兄さま?』
どこにいても自分を呼ぶ声がする。
朝には灯台のてっぺんに上って景色を楽しみ、午後は馬で遠乗り。
天気がよければヒースの野でピクニック。
一刻たりとも思い通りになる時間はない。
なんでこんなことに、とアリルは嘆いた。
「僕はもともとそんなアクティブな人間じゃないんです。こう毎日毎日何かあると身がもちませんよ」
オルフェンの『精一杯のおもてなし』に付き合わされている者たちは、皆楽しそうだ。音を上げているのはアリル一人である。
ずっと、エレインに普通の娘らしい生活をさせてやりたいと願っていたフランは満足げだった。
「災い転じて何とやら。こっちに来たのは正解だったな。あいつが一緒なのは気に食わないが」
あいつというのはキアランのことだ。キアランの方はフランに何を言われても全く意に介さない。涼しい顔でさらりと受け流している。
「あたたた……。もう少し左です」
やっとのことで隙間を見つけて、シャトンに全身をマッサージしてもらう。そんな王子の姿は、少々――どころか、かなり情けない。
「いい若い者が、これくらいでへたばってどうするんだい」
ベッドの上にぐったりとうつぶせになったアリルの背中の上で、シャトンが足踏みをしている。
「このあたりかい?」
「もう少し下……、あっ、そこ! そこです! くう~…、気持ちいい」
ふみふみふみ。
小さな猫の足がかちかちに固まった背中をほぐしていく。
「極楽極楽。幸せですね~」
オルフェンはどうやら本気で兄とエレインの間を取り持つつもりらしい。
(この王子さまと恋愛ってのは、どうも結びつかないんだけどねえ)
シャトンには、煎り豆を畑に蒔いて水を注ぐような、無駄な努力に見えた。
アリルの瞼がゆっくり下がってゆく。このまま夢の中へと落ちてゆければ、どんなに幸せだろう。うっとりとそんなことを考えていると、
「兄さま!」
元気な足音が近づいてきて、勢いよくドアが開いた。
至福の時は長くは続かない。
するん、とシャトンがアリルの背中から降り、開いた扉から外に出ていった。
「オルフェン、せめてノックぐらいしてくれないか」
枕に顔を埋め、アリルはくぐもった声で抗議を試みる。
「ノックなどしたら、兄さまに逃げてくださいと合図するようなものじゃありませんか。この部屋には惑わしの森への通路があるでしょう。あれを使われたら面倒ですもの」
悪びれない返事が返ってきた。
(その手があったか)
なんのかんのいっても、王子として教育を受けた身である。自分を訪ねてきた客を城に残して外に出る、などという行為は考えの外にあった。
(先手先手を打たれている……)
「はあ、今度は何ですか」
溜め息混じりに尋ねると、オルフェンの目が輝いた。
「すごいんですよ、兄さま。キアランてば、フィドルの名手なんです! いろいろな曲が弾けるのですって。だから、ホールでダンスをしましょう!」
(また、体を酷使するのか)
不服を申し立てたいところだが、弱い立場の兄には断る権利もない。黙って妹姫のお誘いを受けるより他に道はなかった。
急き立てられて部屋を出ると、階下からフィドルの音色が聞こえてきた。そこかしこにちらほらと足を止めて聴き入る人影がある。彼らは王女と王子の姿を見ると、はっとした表情で頭を下げ、足早に立ち去って行った。
哀調を帯びた古風な旋律がホールから流れてくる。
様々な色のタイルが描き出すモザイク模様の床、中央の赤いケシの花をステージにしてキアランがフィドルを弾いていた。
エレインはお行儀良く椅子に座り、真っ直ぐ演奏者を見つめている。その膝の上では、すでにシャトンが丸くなって寛いでいた。
フランは壁にもたれてむっつりと目を閉じている。不機嫌そうに見えるが、そのつま先がリズムに合わせてかすかに動いていた。
聴衆たちはオルフェンとアリルには気づいていないようだ。邪魔をしないよう、二人はホールの入り口で曲が終わるのを待った。
* * *
穏やかな曲に耳を傾けながら、エレインは緊張に体を強張らせていた。
辺境の古城とはいえ、お城はお城だ。自分なんかがこんなところで暮らしていていいのかと思う。
城主であるアリル王子の心遣いは細やかで、何もかもが行き届いている。慣れない城暮らしにも困ることがない。
妹の王女さまは気さくな性格で、まるでずっと前から友人であったかのような扱いをしてくれる。毎日のように楽しいことを思いついて、自分を誘ってくれる。
働きもせずに、こんな生活を続けていてもいいのか。
そんな悩みをフランに打ち明けると、
『すまんが、こっちにも事情があってな。窮屈だとは思うが我慢してくれ。オルフェン姫の遊び相手をするのが仕事だと思ってくれりゃいい』
なかなか大変そうだが、と最後の方は口の中でもごもご付け足した。
たぶん、大聖堂での事件が関係しているのだろう。
どうやら難しい事情がありそうなので、それ以上は聞かないことにした。
(王女さまの遊び相手、かあ……)
望んでできるものではない。どうせなら楽しんだ方がお得だ。
そんな風にエレインは自分の中で決着をつけた。
「上手ね。良い音だわ」
入り口の方角から明るい声が響き、はっとエレインは物思いから醒めた。
「お気に召しましたか?」
キアランが弓を下ろしてオルフェンの方を振り返る。
「ええ、わたしは好きよ」
「光栄に存じます」
うやうやしく一礼する、その姿も嫌味なほど様になる。
「今の曲は初めて聞いたわ。何という曲?」
「残念ながら曲名は知りません。昔、吟遊詩人が歌っていたのを聞き覚えたものです」
オルフェンの目が丸くなった。
「まあ、一度や二度聞いただけでそんなに弾けるものなの? あなたって、すごいのね」
まだ心許せぬ相手であっても、オルフェンは賛辞を惜しまない。
「恐れ入ります」
キアランはにっこりと微笑み、王女に向かって頭を下げた。さらりと黒褐色の髪が揺れる。
ケッ、とフランが白けた顔でそっぽを向いた。
「歌の内容は覚えている? 素朴だけれど、切なくて少し甘くて、懐かしい感じがしたわ。この曲にのせて、どのような物語が語られたのかしら」
物語と聞いて、シャトンがひょこっと頭をもたげた。エレインの頬が緩む。
(物語が好きだなんて、不思議な猫さんね)
しかしすぐに思い直す。森の中で獣たちに囲まれて歌ったという詩人の逸話もある。詩人が歌っている間は、熊も狼も鹿もウサギも、お互いを襲うことも恐れることもなくその歌声と竪琴に聞きほれたという。
キアランはしばし宙を見つめて唇を動かしていたが、軽く頷くと、
「一部分なら、歌えますね」
左の手のひらを上に向けてフランの方に差し出した。
「何の真似だ」
「竪琴を。フィドルでは弾き語りができません。お得意の魔法で近くにあるものをお取り寄せしてください」
「泥棒みたいな真似ができるか。黙って歌え」
「あなたも、なかなか無茶を言いますね」
フィドルを手に提げたまま、キアランはひとつ息を吐いてから歌い始めた。
私の太陽は遠くに行ったきり
他の誰かを照らしている
風鈴草の谷はずっと夜のまま
花が咲く日は来ない
残酷な人よ
私の声は届くだろうか
風鈴草の谷に朝が来るとき
あなたの苦難の道は終わる
しん、と静まり返ったホール。
最後の音の余韻が消えると、パチパチと可愛らしい拍手の音が響いた。
「悲しいけれど、綺麗な歌ね」
ほう、とオルフェンが溜め息をついた。
「お気に召しましたか?」
「ええ、とても。失恋の歌なのかしら」
「妖精の娘が人間の男に恋をして男のために尽くすのですが、男は人間の娘に心を移して、あっさりと彼女を捨てて去ってゆくという」
はあ、とまたオルフェンが溜め息をついた。
「どうしてかしら。詩情がどこかに行ってしまったわ」
「おや? どうしてでしょう」
キアランが不思議そうに首をかしげ、フランがオルフェンに同調した。
「お前、詩人には向いてねえな」
「あなたがそれを言いますか」
「ふふっ」
そのやりとりを聞いていたエレインが、堪えきれずに笑った。
くるっと四人が振り返り、シャトンがエレインを見上げた。視線を浴びたエレインは慌てて口を押えた。
「ご、ごめんなさい。でも、おかしくて」
ぱあっと満面に広がる笑みに、男たちの心臓が跳ねた。
――金のエニシダの贈り物。
「あなた、そんなふうに笑えるんじゃないの!」
見惚れる男たちを尻目に、オルフェンがつかつかとエレインに歩み寄った。ぎゅっと両手を握りしめ、たじろぐその顔を覗き込む。
「いつも何か遠慮してるし、そうでなきゃおどおどしてるし。心から楽しめていないんじゃないかって、気にしていたのよ」
「え? そんなつもりは……」
「ほら、それよ」
オルフェンは軽く眉根を寄せた。
「私なんか、って顔!」
私なんかがお城にいてもいいのかな。
私なんかがこんなに良くしてもらっていいのかな。
私なんかが―――。
否定はできない。いつもそう思っていたのだから。
なぜこんなに親切にしてもらえるのか、理由が分からないから余計に不安になる。
「わたしが、あなたにいて欲しいと思っているんだから、いいのよ。あなたにも事情があって、行かなきゃいけない場所もあるのだろうけど。どうか、時間が許す限りここにいらしてね」
澄んだ青い目が偽りのない気持ちを伝えてくれる。
(行かなければならないところ……)
そんなの、知らない。
思わずフランを振り返る。
「今のところ急ぐ用事はないな。てか、これからどうするか考え中。当分は神殿にも戻れないし。ま、追い出されるまでここに居座るのもいいかもな」
「またいい加減なことを」
アリルが師匠をたしなめる。フランは少し肩をすくめただけで何も言い返さなかった。
「決まり!」
ぱん、とオルフェンが手を打ち鳴らした。
「もうすぐサウィンの祭りがあるの。一緒に行きましょう。それから冬至と新年のお祭りと。春祭りも!」
「え? そんなに?」
アリルが悲鳴を上げる。
「そうよ! ファリアスの城では王女の務めだとか言われて、祭の間中ずーっと王宮に閉じ込められて、訪れる方々をもてなし続けなきゃいけないのですもの。ねえ、兄さま。いいでしょう?」
「僕が駄目だ、って言ったら、従ってくれるの?」
「ううん。勝手に出て行く」
そこまではっきりと即答されると、腹も立たない。却ってすがすがしいほどだ。
「好きにしていいよ。堅苦しいことは言わない。言えた義理じゃないし」
きゃあっとオルフェンが嬉しそうな声を上げ、握ったままのエレインの両手をぶんぶんと振った。その勢いに戸惑いながら、つられてエレインも笑う。今まで見せることのなかった、屈託のない笑顔だった。
キアランがそっとフランに近づいて囁く。
「ねえ、マクドゥーン」
「なんだ、ドウン」
フランが返す。
「あなたとしては、私がここにいるのは気に食わないんじゃないですか?」
「今のまま大人しくしている分には構わない」
「ふうん。寛大ですね」
「それより、さっきの歌は―――」
「どこかで聞いたような話、ですね。世間ではよくあることなのでしょう」
「ふざけやがって」
どこかで、どころではない。ある意味ここにいる全員が関係者だ。
剣呑な雰囲気になりかけたところを、明るい声が救った。
「キアラン! 何か弾いて。楽しく踊れる曲を!」
「お望みのままに、姫」
優雅な仕草で王女に歩み寄り、その可憐な手に軽く口づけをすると、キアランは再びフィドルを構えた。
「では」
ふわり。その弓が弦に触れる。そこから先刻とは打って変わって陽気な舞曲のメロディーが紡ぎ出された。
八分の六拍子の軽やかなリズム。
祭りでよく耳にする、ダナンではポピュラーな曲だ。曲を聴けば、いとけない子どもまでもが足踏みをして歌い出す。
さあさ、お聞きよこの歌を
楽しい祭りの始まりだ
花を飾って、広場に出よう
鈴を鳴らして、陽気に踊ろう
さあさ、酒樽を開けておくれ
けちけちするんじゃないよ
景気よくいこうじゃないか
カップを上げろ
乾杯だ、乾杯だ
知るも知らぬも、一期の出会い
炎を囲んで、踊れや踊れ
オルフェンがエレインの手を引いて踊り始める。
エレインのステップがリズムに合ったのを見ると、さらにアリルとフランを引き込んだ。
「兄さま、足がもたついていますよ」
「フラン、ずれてるよ。見ていると弾いている私までリズムが狂いそうだ」
適当に手を抜こうとすると、容赦なくダメ出しが飛んでくる。
「連日、これでは、体が、もたない、んですけど……」
息も絶え絶えといった風情のアリルをオルフェンが振り回し、エレインに渡す。
「情けないこと言わないでくださいな。レディーのエスコートは殿方の義務よ」
「アリル様、お相手を」
エレインがそっとアリルに手を差し出す。みるみるアリルの頬が染まった。エレインに手を引かれて何とか踊り始めたが、動きはぎこちなく、もたもたしている。
「ホント、情けねえな……」
「兄さまは女性に免疫がなさすぎます」
足を止めてしばらくその様子を見ていた二人は同時に溜め息をつき、顔を見合わせて笑った。
聖騎士の灰色のチュニックと、王女の空色のドレス。
フランと向かい合うと、オルフェンの頭は胸のあたりまでしか届かない。
「で、お姫さん。あんたは何を企んでいるのかな?」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでくださいな。ぱっさぱさに乾いた味気ない兄の人生に、ほんの少しの潤いをと思っただけです」
「なるほど」
人の悪い笑みを顔に貼りつけたまま、フランはじっとオルフェンの青い瞳を見つめた。
「どこの馬の骨とも分からない娘が、ダナンの王子に釣り合うか?」
その程度の挑発にたじろぐオルフェンではなかった。男の視線をしっかりと受け止め、あでやかな笑みで返す。
「牽制なさるおつもりね。あなたとキアラン。もう一人ぐらい恋敵が増えてもどうってことないでしょう」
フランが声を失う。
無言の返事にくすくすとオルフェンは笑った。
「垢抜けない地味な田舎娘。そんな風に見せかけたって、あなたが聖騎士としてぴったり傍にくっついていたら騙せるものも騙せないわ。それにあなたたちの目、とっても雄弁よ。ああ、お二人ともこの娘を愛おしく思っているのね、って。どちらもまだ彼女の心を射止めてはいないのでしょう? 今さら兄さまごときが一人加わったところで、痛くも痒くもないのではなくて?」
色恋沙汰は女の領分。小娘といえど見くびってはならない。
フランは神妙な顔で王女の言い分に耳を傾け、
「降参」
オルフェンの腰に手を回すとひょいとその軽い体を掬い上げ、曲に合わせてくるりと回った。
華やかな笑い声がホールに響く。
ブルーのドレスが花のように広がった。
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