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第三章
第6話 キアラン
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切り立つ岸壁に波が打ち寄せている。風が強い。
空気が澄んでいるのだろう。今日は対岸がよく見える。
長い髪を風がもて遊ぶに任せ、キアランは城を背に、崖にぶつかっては砕ける白い波頭を見ていた。
「ここは春から夏にかけて、一面の花畑になるのだそうですよ」
誰もいない空間から、若い女の声が聞こえてきた。
「ふうん。それはいいね」
大して興味もなさそうに、キアランは相槌を打った。振り返ることもしない。
吹き抜ける風に、まばらに生えた灌木ががさがさと乾いた音を立てる。細い枝の間からヒースの紫がのぞいた。
色あせた草原に、ひとりの少女がふわりと立っていた。はおっているケープから彼女が修道女だと分かる。グレーのフードからこぼれる一房の髪が、きらりと日に反射した。
「エリウは元気? って聞くまでもないか」
「そうですね。相変わらず、お元気です」
少女、イレーネはくすっと笑った。
「ドウンさまはどうしてこちらに?」
キアランは軽く口に人差し指を当ててみせた。
「その名前はここでは出さないでくれないか。今の私は騎士なんだ」
「騎士の姿もお似合いですよ」
「ありがとう」
二人の言葉が風にさらわれ、波音に飲まれて消えてゆく。
「さきほどの問いに、答えていただけますか?」
イレーネがにこりと小首をかしげる。
「偶然だよ」
キアランはふと横を向き、睫毛をふせて薄く笑った。
「そのお答えでは、エリウさまは納得なさらないと思います。できれば近寄りたくない場所であろうに、と」
世間話のように軽やかな口調で、辛辣な言葉を口にする。
「先回りをして、あの子が来るのを待っていらしたのでしょうか」
「まさか」
「生前わたしが身に着けていた品と、わたし自身の抜け殻を狙う者たちが神殿の内外に潜んでいるのは分かっていました。かの者たちは人の身にしては長い年月、従順に務めを果たしながら静かに時を待っていたのです。そして、あの子が神殿に到着した日を選んで行動を起こしました」
「……」
「あなたが唆したのではないのか、とエリウさまは疑っておられます」
「ふうん。どうしてそんなふうに思ったのだろうね」
「少しでもあの娘に危害が及ぶ恐れがあれば、マクドゥーンさまがあの子を連れて神殿を出る。まず最初に向かうのは惑わしの森でしょう。身を隠すにはよい場所です。現在の隠者はマクドゥーンさまの直弟子。しかもダナン王の嫡子です。頼る先としては申し分ありません。その王子が今、居城とするのは静かな辺境の館。もともとあの子の身柄を湖の島からエリウの丘の神殿へと移したのは、人と触れあう機会を増やすため。ならば、次に何かあればマクドゥーンさまが向かうのはそちら。さらに森の奥に分け入るよりも砦の城を選ぶであろう、と」
イレーネはにこりと笑った。
「もしあなたが黒幕であるなら、そのように予見するのは難しいことではないと。そうエリウさまはおっしゃいましたが、いかがですか?」
あの者にとっては、屈辱の地ではあるが――、とエリウが付け加えたことは黙っておく。
「違う、と言ったら? エリウはともかく。イレーネ、あなたは信じてくれますか?」
「さあ、どうでしょう」
すぐ近くでかさかさと茂みをかき分ける音がした。
ウサギだろうか。荒れ野に細い筋をつけ、小動物が駆け抜けていく。
「……エリウや、ニムには分からないだろうね。人と交わって暮らしている方々には、ね」
しばらくの沈黙の後、ドウンはまっすぐにイレーネを見据えた。そのアメジストの瞳が赤みを帯びた昏い色に変わる。『死者の王』の目だった。
「あなたも物好きだ。せっかく肉の体という軛から解き放たれたというのに、次の世に向かわずこのようなところに留まっている。それはなぜですか?」
「そうですね、あちらからの呼び声は感じます。今も」
死者の王の視線を、少女の姿をしたイレーネの魂は、避けることなく受け止めた。
「落日の向こうの国。安らぎの園。こちらでは天の国をそう呼ぶのでしたね。そちらに向かうべきなのでしょう。けれど、どうしようもなく惹かれるのです。同じように癒しの乙女と呼ばれながら、わたし以上に過酷な運命を負わされたあの子に。あの子を放って自分だけ次の世に向かう気にはどうしてもなれないのです。冥界の神さま、あなたにならお分かりいただけると思うのですが」
柔らかな青い瞳がドウンを見上げている。
「エリウさまからのお言伝を預かっております」
何かな、とドウンが微笑むように目を細めた。
「あの子には手を出すな、ひどい目に遭わせたら私が許さない、だそうです」
「肝に銘じておきますよ」
イレーネがふわりと頭を下げると、そこには白い蝶が舞っていた。白い蝶は透き通る羽をはためかせ、風に溶けるようにして姿を消した。
癒しの聖女を見送ると、ドウンは眩しげに天を仰いだ。どこまでも空は青く、そのはるか高みに晩秋の太陽がある。
「女神も酷なことをなさる」
誰も聞く者はいない。それでもこぼさずにはいられなかった。
空気が澄んでいるのだろう。今日は対岸がよく見える。
長い髪を風がもて遊ぶに任せ、キアランは城を背に、崖にぶつかっては砕ける白い波頭を見ていた。
「ここは春から夏にかけて、一面の花畑になるのだそうですよ」
誰もいない空間から、若い女の声が聞こえてきた。
「ふうん。それはいいね」
大して興味もなさそうに、キアランは相槌を打った。振り返ることもしない。
吹き抜ける風に、まばらに生えた灌木ががさがさと乾いた音を立てる。細い枝の間からヒースの紫がのぞいた。
色あせた草原に、ひとりの少女がふわりと立っていた。はおっているケープから彼女が修道女だと分かる。グレーのフードからこぼれる一房の髪が、きらりと日に反射した。
「エリウは元気? って聞くまでもないか」
「そうですね。相変わらず、お元気です」
少女、イレーネはくすっと笑った。
「ドウンさまはどうしてこちらに?」
キアランは軽く口に人差し指を当ててみせた。
「その名前はここでは出さないでくれないか。今の私は騎士なんだ」
「騎士の姿もお似合いですよ」
「ありがとう」
二人の言葉が風にさらわれ、波音に飲まれて消えてゆく。
「さきほどの問いに、答えていただけますか?」
イレーネがにこりと小首をかしげる。
「偶然だよ」
キアランはふと横を向き、睫毛をふせて薄く笑った。
「そのお答えでは、エリウさまは納得なさらないと思います。できれば近寄りたくない場所であろうに、と」
世間話のように軽やかな口調で、辛辣な言葉を口にする。
「先回りをして、あの子が来るのを待っていらしたのでしょうか」
「まさか」
「生前わたしが身に着けていた品と、わたし自身の抜け殻を狙う者たちが神殿の内外に潜んでいるのは分かっていました。かの者たちは人の身にしては長い年月、従順に務めを果たしながら静かに時を待っていたのです。そして、あの子が神殿に到着した日を選んで行動を起こしました」
「……」
「あなたが唆したのではないのか、とエリウさまは疑っておられます」
「ふうん。どうしてそんなふうに思ったのだろうね」
「少しでもあの娘に危害が及ぶ恐れがあれば、マクドゥーンさまがあの子を連れて神殿を出る。まず最初に向かうのは惑わしの森でしょう。身を隠すにはよい場所です。現在の隠者はマクドゥーンさまの直弟子。しかもダナン王の嫡子です。頼る先としては申し分ありません。その王子が今、居城とするのは静かな辺境の館。もともとあの子の身柄を湖の島からエリウの丘の神殿へと移したのは、人と触れあう機会を増やすため。ならば、次に何かあればマクドゥーンさまが向かうのはそちら。さらに森の奥に分け入るよりも砦の城を選ぶであろう、と」
イレーネはにこりと笑った。
「もしあなたが黒幕であるなら、そのように予見するのは難しいことではないと。そうエリウさまはおっしゃいましたが、いかがですか?」
あの者にとっては、屈辱の地ではあるが――、とエリウが付け加えたことは黙っておく。
「違う、と言ったら? エリウはともかく。イレーネ、あなたは信じてくれますか?」
「さあ、どうでしょう」
すぐ近くでかさかさと茂みをかき分ける音がした。
ウサギだろうか。荒れ野に細い筋をつけ、小動物が駆け抜けていく。
「……エリウや、ニムには分からないだろうね。人と交わって暮らしている方々には、ね」
しばらくの沈黙の後、ドウンはまっすぐにイレーネを見据えた。そのアメジストの瞳が赤みを帯びた昏い色に変わる。『死者の王』の目だった。
「あなたも物好きだ。せっかく肉の体という軛から解き放たれたというのに、次の世に向かわずこのようなところに留まっている。それはなぜですか?」
「そうですね、あちらからの呼び声は感じます。今も」
死者の王の視線を、少女の姿をしたイレーネの魂は、避けることなく受け止めた。
「落日の向こうの国。安らぎの園。こちらでは天の国をそう呼ぶのでしたね。そちらに向かうべきなのでしょう。けれど、どうしようもなく惹かれるのです。同じように癒しの乙女と呼ばれながら、わたし以上に過酷な運命を負わされたあの子に。あの子を放って自分だけ次の世に向かう気にはどうしてもなれないのです。冥界の神さま、あなたにならお分かりいただけると思うのですが」
柔らかな青い瞳がドウンを見上げている。
「エリウさまからのお言伝を預かっております」
何かな、とドウンが微笑むように目を細めた。
「あの子には手を出すな、ひどい目に遭わせたら私が許さない、だそうです」
「肝に銘じておきますよ」
イレーネがふわりと頭を下げると、そこには白い蝶が舞っていた。白い蝶は透き通る羽をはためかせ、風に溶けるようにして姿を消した。
癒しの聖女を見送ると、ドウンは眩しげに天を仰いだ。どこまでも空は青く、そのはるか高みに晩秋の太陽がある。
「女神も酷なことをなさる」
誰も聞く者はいない。それでもこぼさずにはいられなかった。
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