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第二章
第5話 シャトンは知っている
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結局、エレインの身支度には二日を要した。
庵で迎える三回目の夜。パチパチと薪のはぜる音を聞きながら、フランは暖炉の中で揺らめく炎を見るともなく眺めていた。
その足元に柔らかなものがするんと身をすり寄せた。
「おう、シャトン。どうだ、あいつの様子は」
フランが腰かけている椅子の下をぐるっとくぐってから、猫は暖炉の前でごろんと足を投げ出して横になった。
「あの娘ならもう寝たよ。良い寝顔だ。デニーさんに感謝しなきゃいけないね」
「そうか」
「あのさ、三代目」
「なんだ?」
「あの子は何だい?」
フランは目をぱちくりさせた。『何者か』ではなく、『何か』という問いに驚く。
「他の人間とは、何かが違うんだよ。どう違うかって聞かれると困るんだけどねえ」
シャトンは首もたげ、フランの方を向いて一生懸命言葉を探している。彼女の語彙では説明が難しいらしい。
「妖精のやつらとは違う。もちろん、鹿やらリスやら獣とも違う。確かに人間なんだろう。だけど、他の生きて動いている人間たちと匂いが違うんだ。かと言って死んだ人間が動いているってのでもない。何というか、こう。人間なんだけど、別の種類の人間みたいだ。アタシが猫だけど猫じゃないってのと同じように、さ」
そう言うと、再びシャトンはくるんと体を丸めた。
彼女は間違っていない。三代目はその感覚の鋭さに舌を巻いた。
しばし、二人は黙って炎の動きを見つめていた。
炎は一時たりとも同じ形ではいない。暖炉の中で踊りながら燃え続ける。
パチンと乾いた音がして、火の粉が散った。
「なあ、シャトン」
「なんだい」
「ちょっと昔話に付き合ってくれるか」
赤毛の隠者は、弟子にも話したことのない身の上話を、この世界で一人ぼっちの生き物に語ることに決めた。
* * *
俺の親父は、聖樹の賢者だった。
聖なる樹ってのは、聞いたことがあるよな?
母なる大地に最初に芽生え、天を支えたという伝説の木だ。聖樹の賢者というのは古の知恵を受け継ぐ人、ってくらいの意味だ。
賢者の中には常人にはない力を持つ者がいる。そいつらを『魔法使い』と呼ぶ。
魔法の力は先天的なものだ。持って生まれた素質によるところが大きい。だが稀に、眠っていた力が後から目覚める場合もある。だから、今でもその力を己の中から引き出そうと厳しい修行に励む者がいるんだな。
魔法使いには、神々と人をつなぐっていう大切な役割がある。目に映るさまざまな現象からそこにおわす神の心を読み取り、人に伝えるんだ。
例えば、そうだな。どこぞの川に変わった色の鮭が現れたとか、どこそこの森から一斉に鹿がいなくなったとか。そういう出来事に何か意味があるのか。意味があるならそれを解き明かして、どう行動したらいいか王や人々にアドバイスをする。
占い師との違い?
難しいことを聞いてくれる。
うーん、そうだな。
占い師が相手にするのは人間だ。神の声を聞いて人間に伝え助言はしても、神に人間の都合を訴えることはしない。
魔法使いは、神が人の世をどう見ているか。神がこの世をどうしたいと思っているのかを問う。そして、どういう捧げ物をしたら人の願いを叶えてもらえるかを聞き取る。
正しい捧げ物をして、神がそれを喜んで受け取れば、良い結果が得られるだろう。
そのへんは魔法使いの腕次第だな。
そして、魔力を持つ賢者の中で、最も腕のあるヤツが『大魔法使い』として全ての賢者の上位に立つんだ。
――こんなもんで、いいか?
そうか。なら話を戻そう。
親父はけっこう高位の賢者だったらしい。
らしい、ってのは俺は実際に会ったことがないんでな。人づてに聞いたってことだ。
賢者ってのは、修行と称してあちこち放浪したり、獣たちと共に暮らしたり。変わり者ばかりだ。一つ所に落ち着いているヤツのほうが珍しい。
そんな訳だから、俺には親父と一緒に過ごした記憶は全くない。
あの頃はイニス・ダナエがまだ一つにまとまっておらず、ぼんやりと五つの国に分かれていた。
ミース、アンセルス、コーンノート、スウィンダン、ウィングロット。
どこにも属さない部族もたくさんあった。
いつもどこかで戦乱が起こっていて、親のいない子供なんてざらにいたから、特に父親の不在を気にすることもなかった。
俺が生まれ育ったのはダナンの端。すぐ近くに北の海が迫る小さな村だ。さほど豊かではなかったが、それが幸いして野心の標的になることもなく、わりと穏やかな時代が続いていた。
母親と祖母と俺と俺の双子の兄。四人でまあまあうまくやっていたよ。特に不満もなかったし、不自由も感じなかった。
俺のお袋って人は近在ではちょいと名の知れた賢女でな。薬師と治癒師とまじない師と占い師をまぜこぜにしたような生業で、家族が食っていけるだけの稼ぎがあった。その点で言えば、よその家より恵まれていたかもしれん。
婆さんも相当な魔力の持ち主だったらしいぜ。魔法らしきものを使っているところを見たことがないから、どれほどのものだったかは分からんが。
まあ、とにかく。お袋も婆さんも、村の他の女たちとははっきりと違っていたよ。他の村からわざわざ訪ねて来るやつらが結構いたし、それが俺たちには自慢だった。
八つになった年だったか……。
ちっぽけな海辺の村にも、とうとう戦さの炎が飛び火した。
その混乱のどさくさに兄貴が攫われた。兄貴だけじゃない。村の子どもが何人もいなくなった。
昔っから、海沿いの村じゃよく聞く話だ。海賊やらはぐれ兵士に拐かされた子どもたちは、ほとんどがボロ船に押し込められて大陸に運ばれ、人買いに売られる。
兄貴は運が良かった。最終的にダナンに戻って来れたんだから。
案外知らず知らずのうちに、生まれ持った魔力を使っていたのかもな。外には現れなくても、かなり強い力を持っていたはずなんだ。少なくとも俺と同じくらいには。
――俺? 兄貴がいなくなってから『湖の島』に放り込まれた。
兄貴はお利口でかわいくて聞き分けが良くて。他人様がうらやむようなできた息子だったが、俺は手に負えないガキだったし。また持って生まれた魔力が半端じゃなかった。お袋も持て余したんだろう。
そこからは修行三昧。スプーンの持ち方から雨の呼び方まで、がっつりと仕込まれた。
きつかったよ。よく生きて帰れたよな、俺も。
今でもたまに夢に見るんだ。これから何年生きようと、忘れることはないだろう。
それじゃ次に、兄貴が大陸で出会った乙女の話をしよう。
名をイレーネという。生きていたときは大商人の一人娘だった。
親の方はかなり悪どい商いにも手を染めていたようだが、娘はいたって信心深く清らか。慈善活動に力を尽くしていた。人からも世界からも見捨てられたような者たちに心を寄せ、惜しげもなく持てるものを施した。
平たく言や、景気よく金をばら撒いていたってこった。その金ってのは、もとはといえば親が稼いだものなんだがな。
お嬢さまの小遣い程度でも、下々の者からすれば大枚をはたいているように見えただろうな。まるで天使のように崇められていたらしいぜ。
ま、道楽で収まる範囲だったから親も放っておいたんだろう。
娘が世間様からもてはやされるのは満更でもなかったろうし。自分たちがやってることの罪滅ぼし、悪意のある言い方をすれば隠れ蓑になってくれるからな。
俺の兄貴の方はといえば、同じように誘拐されてきた仲間たちが鉱山送りになったり、使い捨ての少年兵として買われたりしていくのを見送っているうちに、人買い集団がお上の手入れに遭った。高値がつくと期待されて、出し惜しみされていたのが幸いしたんだな。
俺の兄貴だけあって上玉だったんだよ。
みじめな境遇から救い出され、身柄を神殿に保護された。そこでエラい神官に見込まれて、聖職者の道を歩むことになった。
そこの修道院だか神殿だかでご奉仕している間に、イレーネお嬢さまと出会ったって流れだ。
偶然ってやつの仕業か、それとも神々の采配か知らんが、味なはからいをしてくれたもんだぜ。
俺の勘では兄貴は一発でお優しいお嬢さまに惚れてしまったんだと思うね。ただし、お嬢様には婚約者がいたから、完全に岡惚れだ。
は? 言い方が下品?
一目で恋に落ちた、とでも言えばいいのか? あんまり変わらないだろう。
とにかく、生身のイレーネは聖女でもなんでもなかった。
ただの気前のいい金持ちの娘だった。世に二人といないほどものすごい美人、ってわけでもない。
俺の兄貴ほどの男が惚れるんだから、かわいげのある娘だったことだけは間違いないけどな。
うん。それでそのイレーネお嬢さまなんだが、兄貴と出会ってほどなく、戦争で婚約者を失ってしまったんだと。どんな男だったか知らないが、戦場ではいいヤツほど早死にする。そんなもんさ。
お嬢さまはショックで寝付いちまった。心が弱っているところに加えて、流行病いまでが襲いかかってきて、呆気なく死んじまった。まるで婚約者の後を追うように、な。
眠っているかのような綺麗な死に顔だったそうだ。だから余計に親も諦めきれなかったんだろうなあ。さらに悪いことに、親の手元にはうなるほどの金がある。怪しげな魔法使いやら錬金術師やらを雇って、遺体を永遠に美しいまま残そうとした。
……そうだな。気持ちは分からんでもないが、俺が術を施される側だったら、やっぱ嫌だと思うだろうな。死んでしまってからでは抗議もできないけどな。
結果は、半分成功ってとこだ。
かなり長い間、生前の姿そのままで女子修道院の祭壇に祀られて、拝まれていたらしい。
その間にどんどん評判が広まって、とうとう聖女さまになっちまった。
彼女が聖女として正式に認定されてからは、あちこちから引き合いがあった。ぜひウチがご聖体を引き受けたいと、大陸中の大神殿や有名修道院から申し出があったらしい。
何故って?
儲かるからさ。決まってるじゃないか。
目玉商品があれば客が集まる。客が集まるところに金が落ちる。金が落ちれば誰かの懐が潤う、って寸法だ。
不謹慎、か。
聖職者が全員聖人ってわけじゃない。全く俗気のない人間なんてそうそういないさ。おキレイな心の持ち主がいたとしても、組織の前には無力だ。たとえ大神官であっても、な。
『聖女』になったイレーネお嬢様を巡って、醜い争いが起こった。
聖職者どもも、イレーネの両親が健在なうちは一応遠慮していただろうが、二人がこの世を去ると争奪戦は一気に激化した。
そこで兄貴、ヨハルの出番だ。
久しぶりに思い出したのさ、おのれの故郷を。
ガキの頃暮らしていたあのちっぽけな島国。もう帰ることもないと心のどこかで思っていたが、思い出してみると、あの辺鄙な島にはまだ古の神々の力が働いている。
親父には魔法の心得があって、お袋の方は賢女。
二人がこの世にいないとしても、弟は生きているだろうし、何らかの技を受け継いでいるはずだ。と、そう考えたんだな。
それでヨハルは、いや、その時にはもう大陸風にヨハネスと名乗っていたが、こんなふうに上つ方にお伺いを立てた。
『わたくしの故郷では、人々は今だに力のなくなった太古の神々に縋って暮らしております。哀れな未開の民を導くために、聖女さまのお力をお借りしたい。女神を奉ずる民なれば、必ず聖女さまは彼らの心を惹きつけ、その魂を蒙昧の闇から救うことができるでありましょう』
蒙昧? ああ、平たく言えば無知で馬鹿、ってことだ。
そんなに怒るなよ。方便ってやつだからさ。兄貴はそんなこと思っていやしないさ。
兄貴がまず救いたかったのは、愚かな人間たちに振り回されて安らかに眠ることもできない聖女さまだ。
ダナンに行けば、聖女さまも楽になれるだろう。もしかしたら、立派に育った弟が何とかしてくれるかもしれない。この思いつきは悪くなかった。結果として、肉の体に縛り付けられていた魂を解放することに、一応は成功したからな。
意外だろ? あっさり許しが出たんだ。
偉いさんたちも収めどころが分からなくて、いい加減うんざりしていたんじゃないか。それに海向こうのちっぽけな島でも、布教に成功すればそれなりにメリットはあるしな。
こうして、兄貴は聖女さまをお連れして女神ダヌの島に帰ってきた。
そこに、どういう運命のいたずらか。海を渡った先、イニス・ダナエにも癒しの聖女さまがいた。
自らの尽きせぬ命を注ぎ込むことで、どんな重病人も怪我人も治してしまったという王女さま。不死の乙女だ。
イレーネという名をこっち風にエレインと呼び換えて、上手いこと二人を重ねてしまった。
聖女イレーネと聖女エレインはもともと別々の人間だが、こうしてひとりになった。
逆のパターンもあるぞ。
大いなる女神は、たくさんの名前を持っている。
ここじゃ「ダヌ」。
広い大陸では、ダナ、アナ、アンナ。ダニュー。
呼び名が変わると、性格も変わる。多にして一。一にして多。みんな女神が見せるさまざまな顔だ。
シャトンだとどうなるかって?
俺もそんなによその言葉を知ってるワケじゃないんだけどな。
名づけたのは四代目だが。そもそも、シャトンってのが大陸の言葉なんだぞ。
こっちの言葉にすると、子猫ちゃんだ。
ははっ、おかしな感じがするってか。自分じゃないみたい?
どんな名前だろうとおまえさんはおまえさんだ。でも印象は変わるな。
名前の影響ってやつは大きい。それは確かだ。
俺も一度、生みの親からもらった名前を捨てている。
人生の転機には、時にそういうことが必要な場合もあるんだ。
生きる場所がまるっきり変わってしまったとき、今までとは全く違った自分になりたいと本気で願うとき。
過去を清算する、ってか?
確かにそういう言い方もできるが。
しかし、シャトンよ。お前、よくそんな言葉知ってるな。どこで覚えてくるんだ。
俺の場合は『湖の島』に入った時、偉い巫女がつけてくれた。
マクドゥーン。
冥界神の息子、だとさ。
イニス・ダナエ最強の大魔法使いマクドゥーン。その成れの果てがこの俺ってわけだ。
うん。つまりその、何というか。長々と話し込んじまったが、そういうことだ。
シャトン、お前さんの勘は正しいよ。
隣の部屋で眠っているのは、ただの娘なんかじゃない。
不死の乙女、『若草のエレイン』その人なんだ。
庵で迎える三回目の夜。パチパチと薪のはぜる音を聞きながら、フランは暖炉の中で揺らめく炎を見るともなく眺めていた。
その足元に柔らかなものがするんと身をすり寄せた。
「おう、シャトン。どうだ、あいつの様子は」
フランが腰かけている椅子の下をぐるっとくぐってから、猫は暖炉の前でごろんと足を投げ出して横になった。
「あの娘ならもう寝たよ。良い寝顔だ。デニーさんに感謝しなきゃいけないね」
「そうか」
「あのさ、三代目」
「なんだ?」
「あの子は何だい?」
フランは目をぱちくりさせた。『何者か』ではなく、『何か』という問いに驚く。
「他の人間とは、何かが違うんだよ。どう違うかって聞かれると困るんだけどねえ」
シャトンは首もたげ、フランの方を向いて一生懸命言葉を探している。彼女の語彙では説明が難しいらしい。
「妖精のやつらとは違う。もちろん、鹿やらリスやら獣とも違う。確かに人間なんだろう。だけど、他の生きて動いている人間たちと匂いが違うんだ。かと言って死んだ人間が動いているってのでもない。何というか、こう。人間なんだけど、別の種類の人間みたいだ。アタシが猫だけど猫じゃないってのと同じように、さ」
そう言うと、再びシャトンはくるんと体を丸めた。
彼女は間違っていない。三代目はその感覚の鋭さに舌を巻いた。
しばし、二人は黙って炎の動きを見つめていた。
炎は一時たりとも同じ形ではいない。暖炉の中で踊りながら燃え続ける。
パチンと乾いた音がして、火の粉が散った。
「なあ、シャトン」
「なんだい」
「ちょっと昔話に付き合ってくれるか」
赤毛の隠者は、弟子にも話したことのない身の上話を、この世界で一人ぼっちの生き物に語ることに決めた。
* * *
俺の親父は、聖樹の賢者だった。
聖なる樹ってのは、聞いたことがあるよな?
母なる大地に最初に芽生え、天を支えたという伝説の木だ。聖樹の賢者というのは古の知恵を受け継ぐ人、ってくらいの意味だ。
賢者の中には常人にはない力を持つ者がいる。そいつらを『魔法使い』と呼ぶ。
魔法の力は先天的なものだ。持って生まれた素質によるところが大きい。だが稀に、眠っていた力が後から目覚める場合もある。だから、今でもその力を己の中から引き出そうと厳しい修行に励む者がいるんだな。
魔法使いには、神々と人をつなぐっていう大切な役割がある。目に映るさまざまな現象からそこにおわす神の心を読み取り、人に伝えるんだ。
例えば、そうだな。どこぞの川に変わった色の鮭が現れたとか、どこそこの森から一斉に鹿がいなくなったとか。そういう出来事に何か意味があるのか。意味があるならそれを解き明かして、どう行動したらいいか王や人々にアドバイスをする。
占い師との違い?
難しいことを聞いてくれる。
うーん、そうだな。
占い師が相手にするのは人間だ。神の声を聞いて人間に伝え助言はしても、神に人間の都合を訴えることはしない。
魔法使いは、神が人の世をどう見ているか。神がこの世をどうしたいと思っているのかを問う。そして、どういう捧げ物をしたら人の願いを叶えてもらえるかを聞き取る。
正しい捧げ物をして、神がそれを喜んで受け取れば、良い結果が得られるだろう。
そのへんは魔法使いの腕次第だな。
そして、魔力を持つ賢者の中で、最も腕のあるヤツが『大魔法使い』として全ての賢者の上位に立つんだ。
――こんなもんで、いいか?
そうか。なら話を戻そう。
親父はけっこう高位の賢者だったらしい。
らしい、ってのは俺は実際に会ったことがないんでな。人づてに聞いたってことだ。
賢者ってのは、修行と称してあちこち放浪したり、獣たちと共に暮らしたり。変わり者ばかりだ。一つ所に落ち着いているヤツのほうが珍しい。
そんな訳だから、俺には親父と一緒に過ごした記憶は全くない。
あの頃はイニス・ダナエがまだ一つにまとまっておらず、ぼんやりと五つの国に分かれていた。
ミース、アンセルス、コーンノート、スウィンダン、ウィングロット。
どこにも属さない部族もたくさんあった。
いつもどこかで戦乱が起こっていて、親のいない子供なんてざらにいたから、特に父親の不在を気にすることもなかった。
俺が生まれ育ったのはダナンの端。すぐ近くに北の海が迫る小さな村だ。さほど豊かではなかったが、それが幸いして野心の標的になることもなく、わりと穏やかな時代が続いていた。
母親と祖母と俺と俺の双子の兄。四人でまあまあうまくやっていたよ。特に不満もなかったし、不自由も感じなかった。
俺のお袋って人は近在ではちょいと名の知れた賢女でな。薬師と治癒師とまじない師と占い師をまぜこぜにしたような生業で、家族が食っていけるだけの稼ぎがあった。その点で言えば、よその家より恵まれていたかもしれん。
婆さんも相当な魔力の持ち主だったらしいぜ。魔法らしきものを使っているところを見たことがないから、どれほどのものだったかは分からんが。
まあ、とにかく。お袋も婆さんも、村の他の女たちとははっきりと違っていたよ。他の村からわざわざ訪ねて来るやつらが結構いたし、それが俺たちには自慢だった。
八つになった年だったか……。
ちっぽけな海辺の村にも、とうとう戦さの炎が飛び火した。
その混乱のどさくさに兄貴が攫われた。兄貴だけじゃない。村の子どもが何人もいなくなった。
昔っから、海沿いの村じゃよく聞く話だ。海賊やらはぐれ兵士に拐かされた子どもたちは、ほとんどがボロ船に押し込められて大陸に運ばれ、人買いに売られる。
兄貴は運が良かった。最終的にダナンに戻って来れたんだから。
案外知らず知らずのうちに、生まれ持った魔力を使っていたのかもな。外には現れなくても、かなり強い力を持っていたはずなんだ。少なくとも俺と同じくらいには。
――俺? 兄貴がいなくなってから『湖の島』に放り込まれた。
兄貴はお利口でかわいくて聞き分けが良くて。他人様がうらやむようなできた息子だったが、俺は手に負えないガキだったし。また持って生まれた魔力が半端じゃなかった。お袋も持て余したんだろう。
そこからは修行三昧。スプーンの持ち方から雨の呼び方まで、がっつりと仕込まれた。
きつかったよ。よく生きて帰れたよな、俺も。
今でもたまに夢に見るんだ。これから何年生きようと、忘れることはないだろう。
それじゃ次に、兄貴が大陸で出会った乙女の話をしよう。
名をイレーネという。生きていたときは大商人の一人娘だった。
親の方はかなり悪どい商いにも手を染めていたようだが、娘はいたって信心深く清らか。慈善活動に力を尽くしていた。人からも世界からも見捨てられたような者たちに心を寄せ、惜しげもなく持てるものを施した。
平たく言や、景気よく金をばら撒いていたってこった。その金ってのは、もとはといえば親が稼いだものなんだがな。
お嬢さまの小遣い程度でも、下々の者からすれば大枚をはたいているように見えただろうな。まるで天使のように崇められていたらしいぜ。
ま、道楽で収まる範囲だったから親も放っておいたんだろう。
娘が世間様からもてはやされるのは満更でもなかったろうし。自分たちがやってることの罪滅ぼし、悪意のある言い方をすれば隠れ蓑になってくれるからな。
俺の兄貴の方はといえば、同じように誘拐されてきた仲間たちが鉱山送りになったり、使い捨ての少年兵として買われたりしていくのを見送っているうちに、人買い集団がお上の手入れに遭った。高値がつくと期待されて、出し惜しみされていたのが幸いしたんだな。
俺の兄貴だけあって上玉だったんだよ。
みじめな境遇から救い出され、身柄を神殿に保護された。そこでエラい神官に見込まれて、聖職者の道を歩むことになった。
そこの修道院だか神殿だかでご奉仕している間に、イレーネお嬢さまと出会ったって流れだ。
偶然ってやつの仕業か、それとも神々の采配か知らんが、味なはからいをしてくれたもんだぜ。
俺の勘では兄貴は一発でお優しいお嬢さまに惚れてしまったんだと思うね。ただし、お嬢様には婚約者がいたから、完全に岡惚れだ。
は? 言い方が下品?
一目で恋に落ちた、とでも言えばいいのか? あんまり変わらないだろう。
とにかく、生身のイレーネは聖女でもなんでもなかった。
ただの気前のいい金持ちの娘だった。世に二人といないほどものすごい美人、ってわけでもない。
俺の兄貴ほどの男が惚れるんだから、かわいげのある娘だったことだけは間違いないけどな。
うん。それでそのイレーネお嬢さまなんだが、兄貴と出会ってほどなく、戦争で婚約者を失ってしまったんだと。どんな男だったか知らないが、戦場ではいいヤツほど早死にする。そんなもんさ。
お嬢さまはショックで寝付いちまった。心が弱っているところに加えて、流行病いまでが襲いかかってきて、呆気なく死んじまった。まるで婚約者の後を追うように、な。
眠っているかのような綺麗な死に顔だったそうだ。だから余計に親も諦めきれなかったんだろうなあ。さらに悪いことに、親の手元にはうなるほどの金がある。怪しげな魔法使いやら錬金術師やらを雇って、遺体を永遠に美しいまま残そうとした。
……そうだな。気持ちは分からんでもないが、俺が術を施される側だったら、やっぱ嫌だと思うだろうな。死んでしまってからでは抗議もできないけどな。
結果は、半分成功ってとこだ。
かなり長い間、生前の姿そのままで女子修道院の祭壇に祀られて、拝まれていたらしい。
その間にどんどん評判が広まって、とうとう聖女さまになっちまった。
彼女が聖女として正式に認定されてからは、あちこちから引き合いがあった。ぜひウチがご聖体を引き受けたいと、大陸中の大神殿や有名修道院から申し出があったらしい。
何故って?
儲かるからさ。決まってるじゃないか。
目玉商品があれば客が集まる。客が集まるところに金が落ちる。金が落ちれば誰かの懐が潤う、って寸法だ。
不謹慎、か。
聖職者が全員聖人ってわけじゃない。全く俗気のない人間なんてそうそういないさ。おキレイな心の持ち主がいたとしても、組織の前には無力だ。たとえ大神官であっても、な。
『聖女』になったイレーネお嬢様を巡って、醜い争いが起こった。
聖職者どもも、イレーネの両親が健在なうちは一応遠慮していただろうが、二人がこの世を去ると争奪戦は一気に激化した。
そこで兄貴、ヨハルの出番だ。
久しぶりに思い出したのさ、おのれの故郷を。
ガキの頃暮らしていたあのちっぽけな島国。もう帰ることもないと心のどこかで思っていたが、思い出してみると、あの辺鄙な島にはまだ古の神々の力が働いている。
親父には魔法の心得があって、お袋の方は賢女。
二人がこの世にいないとしても、弟は生きているだろうし、何らかの技を受け継いでいるはずだ。と、そう考えたんだな。
それでヨハルは、いや、その時にはもう大陸風にヨハネスと名乗っていたが、こんなふうに上つ方にお伺いを立てた。
『わたくしの故郷では、人々は今だに力のなくなった太古の神々に縋って暮らしております。哀れな未開の民を導くために、聖女さまのお力をお借りしたい。女神を奉ずる民なれば、必ず聖女さまは彼らの心を惹きつけ、その魂を蒙昧の闇から救うことができるでありましょう』
蒙昧? ああ、平たく言えば無知で馬鹿、ってことだ。
そんなに怒るなよ。方便ってやつだからさ。兄貴はそんなこと思っていやしないさ。
兄貴がまず救いたかったのは、愚かな人間たちに振り回されて安らかに眠ることもできない聖女さまだ。
ダナンに行けば、聖女さまも楽になれるだろう。もしかしたら、立派に育った弟が何とかしてくれるかもしれない。この思いつきは悪くなかった。結果として、肉の体に縛り付けられていた魂を解放することに、一応は成功したからな。
意外だろ? あっさり許しが出たんだ。
偉いさんたちも収めどころが分からなくて、いい加減うんざりしていたんじゃないか。それに海向こうのちっぽけな島でも、布教に成功すればそれなりにメリットはあるしな。
こうして、兄貴は聖女さまをお連れして女神ダヌの島に帰ってきた。
そこに、どういう運命のいたずらか。海を渡った先、イニス・ダナエにも癒しの聖女さまがいた。
自らの尽きせぬ命を注ぎ込むことで、どんな重病人も怪我人も治してしまったという王女さま。不死の乙女だ。
イレーネという名をこっち風にエレインと呼び換えて、上手いこと二人を重ねてしまった。
聖女イレーネと聖女エレインはもともと別々の人間だが、こうしてひとりになった。
逆のパターンもあるぞ。
大いなる女神は、たくさんの名前を持っている。
ここじゃ「ダヌ」。
広い大陸では、ダナ、アナ、アンナ。ダニュー。
呼び名が変わると、性格も変わる。多にして一。一にして多。みんな女神が見せるさまざまな顔だ。
シャトンだとどうなるかって?
俺もそんなによその言葉を知ってるワケじゃないんだけどな。
名づけたのは四代目だが。そもそも、シャトンってのが大陸の言葉なんだぞ。
こっちの言葉にすると、子猫ちゃんだ。
ははっ、おかしな感じがするってか。自分じゃないみたい?
どんな名前だろうとおまえさんはおまえさんだ。でも印象は変わるな。
名前の影響ってやつは大きい。それは確かだ。
俺も一度、生みの親からもらった名前を捨てている。
人生の転機には、時にそういうことが必要な場合もあるんだ。
生きる場所がまるっきり変わってしまったとき、今までとは全く違った自分になりたいと本気で願うとき。
過去を清算する、ってか?
確かにそういう言い方もできるが。
しかし、シャトンよ。お前、よくそんな言葉知ってるな。どこで覚えてくるんだ。
俺の場合は『湖の島』に入った時、偉い巫女がつけてくれた。
マクドゥーン。
冥界神の息子、だとさ。
イニス・ダナエ最強の大魔法使いマクドゥーン。その成れの果てがこの俺ってわけだ。
うん。つまりその、何というか。長々と話し込んじまったが、そういうことだ。
シャトン、お前さんの勘は正しいよ。
隣の部屋で眠っているのは、ただの娘なんかじゃない。
不死の乙女、『若草のエレイン』その人なんだ。
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