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序章
第1話 フラン
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―― ダナン暦678年 ――
月のない夜。
吐く息が白い。
その少年は聖殿の最奥部にいた。
頭上では星の光がきらきらとステンドグラスの上に躍っているが、人が自由に動き回れるほどの明るさはない。ロウソクを灯した燭台も、部屋の広さに比してあまりに少なかった。
しかし少年の足取りには少しのためらいもない。冷たい石の壁に囲まれた広間の中央に向かって歩いてゆく。その先にあるのは、金の装飾と色とりどりの宝石で飾られた煌びやかな棺である。
少年の名はフラン。育ての親はその世界ではちょっと名の知れた「墓荒らし」だ。実の両親はどこの誰とも分からない。まだ赤ん坊だった頃に、ひと仕事終えたばかりの夫婦に拾われた。それがたまたま盗掘屋だったというだけのことだ。
ここは島国ダナンで一番有名な「墓所」――のみならず、海峡を隔てた先の大陸で、最も愛される女性が眠る場所であった。
アンセルス、エリンの町。
聖女エレインの霊廟。
慈愛深き聖女が、神の御業によって生前の美しい姿を保ったまま眠っているという。
もちろん、盗掘屋としては棺に納められているという、金には換算できない宝飾品も魅力だ。しかしそれよりも、自分の技がどこまで通用するか腕試しをしたいという稚気、若き聖女の姿を拝んでみたいという好奇心といったものが勝っていたように思う。つまりは若気の至りによる所業だった。
今までにここに忍び込んだ不埒者がいたという話は聞いたことがない。この場の空気がどんな悪人の中にもわずかに存在するとかいう善なる心を揺り起こすとでもいうのか。それとも、事件自体が盗人もろとも揉み消されたか。
だから万が一にも失敗しないよう念には念を入れて下調べもした。聖女の棺がある場所は、秘されている。推測するしかなかった。敬虔な信徒を装って何度も足を運んでは建物内部の構造を頭に叩き込み、警備の仕組みを確かめた。そこから大体の位置を割り出したのだ。
エリウの丘に建つ聖堂。昼夜を問わず、ここは人であふれている。ダナン国内からだけではない。近くの港町からは他国からの巡礼者たちが連日途切れることのない列をなす。
聖堂を守るのは聖職者や、厳しい審査を経て選び抜かれた聖騎士たちだけではない。たまたま居合わせた民衆も、いざとなれば聖地を守る盾となる。決して易しい仕事ではない。
―――それなのに。
(順調すぎる)
少年の胸の内には警鐘が鳴り響いている。少年の行く手はまるで、茨の枝がみずから身を捩って場所を譲るかのように、自然に道が開かれていった。もちろん、障害が皆無だったわけではない。しかし、拍子抜けするほどあっさりと目的地にたどり着いたのだった。
そう。まるで招かれているかのように。
逸る心をおさめるため、棺の手前で立ち止まり、大きく息を吸い込んで吐く。
そしてゆっくりと祭壇に据えられた棺の上にかがみこむ。
(ダミーだ)
思った通り、棺は空であった。
それ自体お宝ではあるが聖女はいない。フランはぐるりと周囲を見渡し、祭壇の後ろにかけられた赤いビロードのカーテンを乱暴にかき分けた。重々しい樫の扉が現われる。体重のすべてを預けて力任せに押す。と、扉は音も立てずゆっくりと左右に開いた。その先に暗い通路がぽっかりと口を開けている。細い階段が下へと続いているようだ。ここまで来て迷う必要はない。フランはするりと体を滑り込ませ、飛ぶように階段を駆け下りた。
(見つけた)
大きな薔薇窓から降り注ぐわずかな光が、木製の祭壇を濡らしている。
そこに、聖女がいた。
古びた棺の中に、白いドレスに身を包んで。
ふわふわと波打つ亜麻色の髪に縁どられた雪白の肌。柔らかな赤い唇。若草色の瞳を覆う瞼と長いまつげ。
どういう錯覚か、その胸は組み合わされた華奢な指の下で、わずかに上下しているかのように見えた。
一目で、少年はその姿に魅入られた。
自分でも知らぬ間に、勝手に手が透明なガラスの覆いに伸びる。指が触れると、覆いはシャボンのようにふわんと消えた。
すぐ目の前に、乙女の顔がある。
引き寄せられるように、フランは聖女の唇に自分の震える唇を重ねた。
(……温かい?)
甘い陶酔にひたりかけた時、強い薔薇の芳香が鼻を刺激した。はっと我に返り身を離す。
音もなく、気配も感じさせず、見知らぬ女がそこに立っていた。
「やってくれたな、フラン」
名を呼ばれて心臓が跳ね上がる。
「誰だ!」
声が震えないよう、精一杯の虚勢を張る。青い闇の中、女の周囲だけがぼんやりと浮かび上がっている。黒い髪を垂らし、緑のドレスをまとった背の高い女。見覚えがあるような気もしたが、どこで会ったのかは思い出せない。フランは短刀を抜いて身構えた。
「何の冗談だ?」
怪訝な顔で女が尋ねる。
「それに、どうしたのだ。その姿は、まるで子どもじゃないか」
「俺は子どもじゃねえ」
「はあ? どう見たって子どもだろう。変若水の量を間違えたのか? お前らしくもない失態だな」
ふん、と鼻を鳴らす、その居丈高な仕草にフランはかっとなった。
「俺はお前なんか知らない」
女の目が一瞬見開かれ、すぐに細められた。できる限り低い声でフランは問うた。
「名を名乗れ」
脅したつもりだった、が、まるで効果はなかったようだ。呆れたように女が答える。
「この丘の主、エリウ。忘れたのか? お前自らが選んだ聖女の守り手だ」
「エリウ。妖精女王の、エリウだと?」
(こいつ、この俺をからかっているのか)
かっと熱い怒りがこみあげる。――途端、フランの頭の中に激しい嵐が吹き荒れた。
「うわっ……!」
がくんと膝が折れる。眩暈がする。何者かが今まで生きてきた十五年の記憶をかき回し、さらに奥に潜んでいた記憶を引きずり出した。
エレイン――不死の乙女――聖女――、守る。
切れ切れの言葉が意識の中に浮上してくる。忘れていた記憶が徐々に蘇ってくる。そこにエリウの言葉が重なった。
「お前がただの小僧っ子なら、首をねじ切るだけで勘弁してやれるんだがな」
(……俺は)
脳みそがかき回されるような感触に肌が粟立つ。全身から汗が噴き出す。気分が悪い。
「聖廟を荒らした罪は重いぞ。木に吊るされて惨めな姿を晒したくなかったら、さっさと自分が何者なのかを思い出すことだ」
頭を抱えて床に転がるフランの上にエリウの冷たい声が降ってくる。
「イニス・ダナエ最後の大魔法使い、マクドゥーン」
妖精の女王の眼差しに射抜かれ、閃光に貫かれて、少年は気を失った。
全ての感覚が戻って来たとき、フランは自らの肉体の重さに耐えきれず、ぐったりと石の床に伏したまま、起き上ることもできなかった。
荒い息をして横たわる少年の頭を、エリウは容赦なく裸足のつま先で蹴った。
「何があったのか、洗いざらい白状してもらうぞ。赤の賢者殿」
少年の髪は、陽だまりの木いちごと同じ色をしていた。
月のない夜。
吐く息が白い。
その少年は聖殿の最奥部にいた。
頭上では星の光がきらきらとステンドグラスの上に躍っているが、人が自由に動き回れるほどの明るさはない。ロウソクを灯した燭台も、部屋の広さに比してあまりに少なかった。
しかし少年の足取りには少しのためらいもない。冷たい石の壁に囲まれた広間の中央に向かって歩いてゆく。その先にあるのは、金の装飾と色とりどりの宝石で飾られた煌びやかな棺である。
少年の名はフラン。育ての親はその世界ではちょっと名の知れた「墓荒らし」だ。実の両親はどこの誰とも分からない。まだ赤ん坊だった頃に、ひと仕事終えたばかりの夫婦に拾われた。それがたまたま盗掘屋だったというだけのことだ。
ここは島国ダナンで一番有名な「墓所」――のみならず、海峡を隔てた先の大陸で、最も愛される女性が眠る場所であった。
アンセルス、エリンの町。
聖女エレインの霊廟。
慈愛深き聖女が、神の御業によって生前の美しい姿を保ったまま眠っているという。
もちろん、盗掘屋としては棺に納められているという、金には換算できない宝飾品も魅力だ。しかしそれよりも、自分の技がどこまで通用するか腕試しをしたいという稚気、若き聖女の姿を拝んでみたいという好奇心といったものが勝っていたように思う。つまりは若気の至りによる所業だった。
今までにここに忍び込んだ不埒者がいたという話は聞いたことがない。この場の空気がどんな悪人の中にもわずかに存在するとかいう善なる心を揺り起こすとでもいうのか。それとも、事件自体が盗人もろとも揉み消されたか。
だから万が一にも失敗しないよう念には念を入れて下調べもした。聖女の棺がある場所は、秘されている。推測するしかなかった。敬虔な信徒を装って何度も足を運んでは建物内部の構造を頭に叩き込み、警備の仕組みを確かめた。そこから大体の位置を割り出したのだ。
エリウの丘に建つ聖堂。昼夜を問わず、ここは人であふれている。ダナン国内からだけではない。近くの港町からは他国からの巡礼者たちが連日途切れることのない列をなす。
聖堂を守るのは聖職者や、厳しい審査を経て選び抜かれた聖騎士たちだけではない。たまたま居合わせた民衆も、いざとなれば聖地を守る盾となる。決して易しい仕事ではない。
―――それなのに。
(順調すぎる)
少年の胸の内には警鐘が鳴り響いている。少年の行く手はまるで、茨の枝がみずから身を捩って場所を譲るかのように、自然に道が開かれていった。もちろん、障害が皆無だったわけではない。しかし、拍子抜けするほどあっさりと目的地にたどり着いたのだった。
そう。まるで招かれているかのように。
逸る心をおさめるため、棺の手前で立ち止まり、大きく息を吸い込んで吐く。
そしてゆっくりと祭壇に据えられた棺の上にかがみこむ。
(ダミーだ)
思った通り、棺は空であった。
それ自体お宝ではあるが聖女はいない。フランはぐるりと周囲を見渡し、祭壇の後ろにかけられた赤いビロードのカーテンを乱暴にかき分けた。重々しい樫の扉が現われる。体重のすべてを預けて力任せに押す。と、扉は音も立てずゆっくりと左右に開いた。その先に暗い通路がぽっかりと口を開けている。細い階段が下へと続いているようだ。ここまで来て迷う必要はない。フランはするりと体を滑り込ませ、飛ぶように階段を駆け下りた。
(見つけた)
大きな薔薇窓から降り注ぐわずかな光が、木製の祭壇を濡らしている。
そこに、聖女がいた。
古びた棺の中に、白いドレスに身を包んで。
ふわふわと波打つ亜麻色の髪に縁どられた雪白の肌。柔らかな赤い唇。若草色の瞳を覆う瞼と長いまつげ。
どういう錯覚か、その胸は組み合わされた華奢な指の下で、わずかに上下しているかのように見えた。
一目で、少年はその姿に魅入られた。
自分でも知らぬ間に、勝手に手が透明なガラスの覆いに伸びる。指が触れると、覆いはシャボンのようにふわんと消えた。
すぐ目の前に、乙女の顔がある。
引き寄せられるように、フランは聖女の唇に自分の震える唇を重ねた。
(……温かい?)
甘い陶酔にひたりかけた時、強い薔薇の芳香が鼻を刺激した。はっと我に返り身を離す。
音もなく、気配も感じさせず、見知らぬ女がそこに立っていた。
「やってくれたな、フラン」
名を呼ばれて心臓が跳ね上がる。
「誰だ!」
声が震えないよう、精一杯の虚勢を張る。青い闇の中、女の周囲だけがぼんやりと浮かび上がっている。黒い髪を垂らし、緑のドレスをまとった背の高い女。見覚えがあるような気もしたが、どこで会ったのかは思い出せない。フランは短刀を抜いて身構えた。
「何の冗談だ?」
怪訝な顔で女が尋ねる。
「それに、どうしたのだ。その姿は、まるで子どもじゃないか」
「俺は子どもじゃねえ」
「はあ? どう見たって子どもだろう。変若水の量を間違えたのか? お前らしくもない失態だな」
ふん、と鼻を鳴らす、その居丈高な仕草にフランはかっとなった。
「俺はお前なんか知らない」
女の目が一瞬見開かれ、すぐに細められた。できる限り低い声でフランは問うた。
「名を名乗れ」
脅したつもりだった、が、まるで効果はなかったようだ。呆れたように女が答える。
「この丘の主、エリウ。忘れたのか? お前自らが選んだ聖女の守り手だ」
「エリウ。妖精女王の、エリウだと?」
(こいつ、この俺をからかっているのか)
かっと熱い怒りがこみあげる。――途端、フランの頭の中に激しい嵐が吹き荒れた。
「うわっ……!」
がくんと膝が折れる。眩暈がする。何者かが今まで生きてきた十五年の記憶をかき回し、さらに奥に潜んでいた記憶を引きずり出した。
エレイン――不死の乙女――聖女――、守る。
切れ切れの言葉が意識の中に浮上してくる。忘れていた記憶が徐々に蘇ってくる。そこにエリウの言葉が重なった。
「お前がただの小僧っ子なら、首をねじ切るだけで勘弁してやれるんだがな」
(……俺は)
脳みそがかき回されるような感触に肌が粟立つ。全身から汗が噴き出す。気分が悪い。
「聖廟を荒らした罪は重いぞ。木に吊るされて惨めな姿を晒したくなかったら、さっさと自分が何者なのかを思い出すことだ」
頭を抱えて床に転がるフランの上にエリウの冷たい声が降ってくる。
「イニス・ダナエ最後の大魔法使い、マクドゥーン」
妖精の女王の眼差しに射抜かれ、閃光に貫かれて、少年は気を失った。
全ての感覚が戻って来たとき、フランは自らの肉体の重さに耐えきれず、ぐったりと石の床に伏したまま、起き上ることもできなかった。
荒い息をして横たわる少年の頭を、エリウは容赦なく裸足のつま先で蹴った。
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