イニス・ダナエの物語

楓屋ナギ

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第一章 

6.ハシバミの実がつなぐもの

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 大きさも色もさまざまな布が所狭しと垂れ下がっている。事情を知らぬ者が見れば、何の祭りかと不審に思うだろう。
 しっとりと湿った旗の下で王子が作り置きのスコーンをもそもそと口に詰め込んでいると、小さなノックの音がして扉の外から侍従見習いの少年が告げた。
「湖の島より、オークの賢者さまがお越しです」
 揺りかごの中からシャトンがにゅうっと顔を出して耳をそばだてる。
「こちらへご案内してちょうだい」
 食事中の兄の代わりにオルフェンが返事をした。
「かしこまりました」
 扉の向こうの気配が遠ざかっていく。
「オルフェン、高位の賢者さまにそんな……」
 失礼だよ――と言いかけて、アリルはこふっとせた。
 花もなく、飾りもなく。ここにあるのは赤子と猫と、大量の洗濯物。書とインクの匂いの代わりに、赤子特有の甘酸っぱい乳臭さ。この部屋はおよそ客人を迎えるのにふさわしくなかった。
「兄さまにご用だなんて、イオストレに関わることに決まってるじゃありませんか」
 頬にあどけなさ残る金の王女は、きっぱりと断言した。
「他に何かありまして?」
「……ないです」
「ならば、ここにお通しするのが一番です」
 まだ十三歳の妹に言い返す言葉もなく、アリルはがっくりと頭を垂れた。

 ほどなくして訪問者が現れた。俗世の身分はなくとも、粗略そりゃくには扱えぬと判断されたのであろう。見習いではなく侍従長が自ら案内役を務め、王子の居室へと客人を導いた。
 アリルは床から立ち上がり、樫の賢者を出迎えた。
 賢者を名乗る人物は、まるでおとぎ話から抜け出してきたかのような姿をしていた。背が高く、大きなしわ深い手には使い込まれ黒々とした光沢《こうたく》を持つ樫の杖が握られている。顔は見えない。裾の長いくたびれた灰色のローブに身を包み、目深に被ったフードから胸まで届く白い美髯びぜんがふわふわとこぼれ落ちている。
 侍従長は客を王子に引き合わせると、うやうやしく頭を垂れてから、オルフェンの方を向いた。
「先ほどから、女王陛下がお探しですよ」
 オルフェンは不服そうに頬を膨らませた。これから面白くなるところなのに、と上目遣いにアリルに訴える。
「母上を待たせてはいけない。後で話してあげるから」
 しぶしぶ、といった風情ふぜいのオルフェンを促して、侍従長は静かに扉を閉めて下がっていった。
 部屋にはアリルと賢者が残された。
「ダナンの王子よ」
 いかにも威厳のある重々しい声がアリルに話しかけた。
「なにやら面倒なことに巻き込まれたようだな」
「はい」
 アリルは神妙な顔を作って床に片膝をついた。しかし、恐れ入ってはいなかった。
(本当にあぶり出されてきた)
 胸の内で密かに驚嘆しつつ、ことさら慇懃いんぎんに頭を下げる。
 ふんっ、と賢者が荒々しく鼻息をついた。その口から聞き慣れた声が吐き出される。
「とんだ茶番だぜ」
 バサッとフードを跳ね上げ、三代目森の隠者は頭を巡らせて揺りかごの中を一瞥いちべつした。
「そいつか。俺の隠し子とやらは」
 先ほどまで眠っていたイオストレが、ぱっちりと目を見開いている。淡いブルーの瞳が琥珀こはく色の鋭い視線を受け止めた。
 つい、と赤子から目をらすと、フランはどっかりと床に腰を下ろした。
「変装は解かないんですか?」
 アリルが尋ねる。
「いつ、誰が入ってくるか、分からんからな」
 こうしてまみえるのはほぼ半年ぶり。便りもまるで寄越さなかった師匠が今、目の前にいる。

 ――王子が他人の隠し子を押しつけられた。
 ――実父は先代惑わしの森の隠者だと。

 王城にそんな噂が届いたのは、つい昨日のことだ。もちろんこれは王宮から流れ出た話ではない。出所はデニーさんだろうか。

『風の力を借りようか。ついでに三代目にも協力してもらおう』

 彼女はそう言った。
(風の力って、すごいな)
 スキャンダラスな噂は世の人の好むところだが、こんなに早く本人が現れ出るとは思わなかった。
「詳しく話せ」
 あぐらを組み、膝の上で頬杖をついて、老賢者の姿をしたフランが言う。
「はいはい」
 アリルは、スコーンの残りと冷め切ったお茶を客人の前に差し出した。
 詳しく、とフランは言うが、アリルの知ることは少ない。真偽はともかく、ワタリガラスのもたらした『お話』の方がよほどディテールが凝っていた。

 オスタラの次の日に森の庵を訪れると、床に松ぼっくりが散乱していたこと。
 テーブルの上にぽつんとひとつ、ハシバミの実が置かれていたこと。
 シャトンが赤子の泣き声を聞きつけ、ハシバミの木の根元に置き去りにされていたところを保護したこと。

「これがイオストレが入っていた籠と麻袋。こちらが籠をくるんでいた鹿の革で、最初に身につけていた布がこれです」
 きちんと汚れを拭き取られた籠。麻袋は埃を払われ、鹿革はブラシをかけられている。布は洗濯されて、きちんと角をそろえて畳んであった。
(付着物なし、か)
 こびりついた汚れや土も手がかりになったかもしれないのに、とフランは溜め息を漏らした。
「こいつは後だ」
 ぽい、と麻袋を放り出し、赤ん坊をくるんでいた布を床の上に広げる。長方形の一枚布は真ん中に丸い穴が開いていた。
「貫頭衣か」
 アリルを立たせ、布をあてがう。
 着丈はアリルの脛が半分隠れるくらい。腰の辺りによれて擦れた形跡がある。ここで帯を結んでいたのだろう。
「これは下着、ですよね」
「さてな」
 アリルを座らせ、フランは膝の上で丹念たんねんに布の検分にかかった。
 布は染みだらけだった。というよりも、染みのついていないところを探す方が難しい。何より大きな特徴は、糸で縫った跡がひとつも見当たらないことだった。こういう衣類には嫌というほど見覚えがあった。かつて自分も着用していたことがある。懐かしささえ覚えるほどだ。
「何か分かりますか?」
 その手元をアリルが覗き込む。揺りかごの中ではシャトンが素知らぬ顔で耳を澄ませている。
 フランは大きく息を吸い込み、それを吐き出しながら、はあっと肩を落とした。
「修行者らが着るやつだ」
 リネンの一枚布に穴を開け、そこに頭を突っ込むだけ。前も後ろもない。脇を縫い合わせたりもしない。布を頭から被ったら、適当な紐で腰の部分を結ぶ。帯があれば使うかもしれないが、縄か、そこらに生えているツル草で十分。修行期間が長くなるほど、無頓着むとんちゃくになってゆく。
 この上に長衣やマントを羽織る場合もあるが、たいていの場合、修行中は男も女も着衣はこれ一枚っきり。夏にはそれすら脱ぎ捨てて腰回りにぐるっと布を巻き付けるだけの者も多い。知恵と力を得るためには自然と一体になる必要があり、それにはできるだけ裸に近い方が良いという考えからだ。
「人目をはばかる必要もないからな。森の奥には獣しかいねえ。人間がいたところで同業者だ」
 フランの見立てでは、染みの大半は薬草を扱うときについたものだ。
 樹液や、ぐつぐつと泡を立てる鍋から跳ねた煮出し汁。
「見ろ、ここに指の跡がある。生の草をすり潰していたときに、手に付いたやつをなすりつけたんだろうな」
 下着であれば、このような染みの付き方はしない。
 なるほど、とアリルは頷き、そして首をかしげた。
「でも、冬は?」
 洞窟や小屋の中なら、焚き火の傍にいれば、何とかなるかもしれない。しかし寒風吹きすさぶ中、雪道を歩かねばならないこともあるだろう。人間は熊のように冬眠することはできないのだ。
「そういうときは、こいつだ」
 フランは鹿革を取り上げた。鹿の形をそのまま残した、なめし革。
「獣の皮を足や体に巻き付ける」
 狩りのできない者は、自分が得た知恵や知識、森の恵みと引き換えに交易で手に入れる。
 鹿革は特に好まれる。柔らかく肌に馴染み心地よいだけでなく、茶の地に白い星を散らした模様は魔除けにもなると信じられているから。
「まあ、あれだ」
 手にしたものを無造作むぞうさに脇に置くと、赤の魔法使いは腕を組んだ。
「俺に分かるのは、それくらいだ」
 それくらい、と師匠は言うが、かなりの進展だ。
「この子の親は、ケイドンの森にいる修行者である可能性が高いってことですか」
「そうだな」
 今現在の暮らしは分からないが、修行の経験があるのは確かだ。ならば生業は限られる。
「こちらは手がかりになりませんか」
 アリルが朱書きされた文様がよく見えるよう、フランの目の前に麻袋を吊り下げた。

 ――闇への回帰。
 ――再生。

 生まれ直しの儀式の作法を知る者は、それほど多くないはずだ。
「それっぽく見えるが、不正確」
 あっさりとフランは否定した。
「あの儀式では、赤子を拾う役も前もって占いかなんぞで選ばれるからな。演出のつもりか何か知らんが、小賢しいことをする」
(演出?)
 そのひと言がアリルの心に引っかかった。
 庵の近くに置き去りにされた赤ん坊。
 これが本物の生まれ直しの儀式だったとしたら、赤子を拾い、母親の胎に見立てた麻袋から取り出した者がその子の新たな『親』となる。実際には、すぐに実の親に引き渡される手筈になっているのだというが――。
(僕にそんな知識はない)
 朱い模様にも気づかず、袋から赤子を出してしまった。それでは演出の意味がない。
「どれ、別嬪べっぴんさんの顔をしっかり拝ませてもらおうか」
 話に飽きたフランが、もそもそと揺りかごの方へと膝行いざる。
「この俺の隠し子っていうくらいだから、当然美人のはずだよな」
 赤子の顔を覗き込み、抱き上げようと差し出した手を
「厚かましい」
 シャトンがパシンと払いのけた。
 きゃっきゃっと、イオストレが楽しそうな笑い声を上げ、ぶんぶんと両手を振り回す。
「ん?」
 その小さな握りこぶしにフランが目を留めた。
「こいつは何を握っているんだ?」
「例のハシバミの実です。お気に入りらしくて、ずっと離そうとしないんですよ」
 ねえ、とあやすように幼な子に向かって微笑むと、アリルは懐かしい童謡を口ずさんだ。

  まあるいまあるいハシバミの実。
  知恵と知識がつまった実。
  風に揺られてぽとんと落ちた。

 すっとフランが目を細めた。
「貸せ」
 柔らかな手から強引に木の実を奪い取る。イオストレの頬がゆがんだ。
「そんな。いきなり取り上げたら泣いてしまいますよ」
「シャトンのしっぽでも握らせておけ」
 老賢者の姿を借りた魔法使いは赤子に背を向けると、そっと丸い木の実を両手のひらに挟んだ。そうして組み合わせた指を額に押し当て、祈るように目を閉じた。


 *

  まあるいまあるいハシバミの実。
  知恵と知識がつまった実。
  風に揺られてぽとんと落ちた。

  ころころぼちゃんハシバミの実。
  知恵と知識がつまった実。
  虹色魚がぱくんと食べた。

 ケイドンの森の奥深く。黒いお下げ髪の娘が歌う。その肩にはリス。頭上には声に合わせてさえずる鳥たち。草むらに跳ねるウサギたち。
 ふと春の日差しが遮られ、娘の上に影が落ちた。振り仰ぐと一片の雲が太陽を隠して空をよぎってゆく。娘の薄い唇から呟きが漏れた。
「……掛かった」
 ひときわ大きな鹿が彼女のそばに駆け寄り、背を差し出す。
 娘はなめらかなその背にまたがった。
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