イニス・ダナエの物語

楓屋ナギ

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第一章 

2.やわらかな女神

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「紙、紙がありません!」
 いつも傍にあるはずの物が、必要なときに限って手近にない。焦ると余計に見つからない。
「ペン! インク!」
「何でもいいから、さっさとおし!」
 サバ猫に叱られ、アリルは木製の花瓶敷きに消し炭でメッセージをしたためた。宛先は庵の常連、デニーさん。面倒見のよい初老のご婦人だ。
「これを届けりゃいいんだね」
 アリルから板をひったくり、シャトンは駆けた。

 それからほどなく。アリルにとっては長い長い時間が経ったころ。
「四代目、大丈夫かい?」

 ―――赤ちゃん いる

 たった二語のメッセージで呼び出された気の良いご婦人は、片手でシャトンを抱き、もう片方の手に籠をげてやって来た。
「ああ、よかった。もうどうしていいか分からなくて」
 アリルがほっと息を吐き、弱々しい笑みを浮かべる。
「はいはい」
 デニーさんは籠をテーブルの上に置くと、このひと冬でぐんと背の伸びた少年の頭をぽんぽんとあやすように叩いた。その腕からシャトンがするりと飛び降り、「にゃあ」と一声鳴いて客人をうながす。
「ふにゃあ」
 シャトンの声に応えるように、部屋の奥で猫に似た声がした。
「ああ、さっき泣き止んだばかりなのに」
「そんなにおろおろしなくても」
 うろたえるアリルを尻目に、デニーさんはずかずかと声の主に近づき、覗き込んだ。そうして目を細めてにっこりと笑う。
「おや、可愛らしいこと」
 ベッドの上にハシバミの枝で編んだ籠が置かれている。その中に、鹿の革を掛け布団にして、人間の赤子がすっぽりと収まっていた。
 革をめくると、赤子の胸から下は元の色も分からないほど染みつき色せた古布でぐるぐる巻きにされていた。その内側から何やらこうばしいにおいが漂ってくる。
「四代目、お湯はあるかい」
 デニーさんは背後を振り返り、心細げに部屋の片隅にたたずむ庵の主に向けて声を張った。
「はい。さっき沸かしたばかりです」
「それじゃ、そいつを桶に。風呂くらいの熱さにしておくれ」
「はい!」
 弾かれたようにアリルがかまどに向かう。
「よしよし、良い子だ」
 呪文を唱えるように、低い声で子守歌を歌いながら、デニーさんはてきぱきと赤子の世話を始めた。
「女の子だね。生まれて二月ふたつきから三月みつきってところか」
 体を包んでいたぼろ布は、汚れを内側にくるみ、丸めて床に。持参した古布を湯でぎゅっと絞り、全身をくまなく拭いてゆく。
 シャトンが興味津々、初めて見る人間の赤ん坊にじっと見入っている。
 赤子はおとなしい。「くくっ」、「くう」と、喉の奥でくぐもった音を立てて、されるがままになっている。
「ほうら、きれいになった。ご機嫌だねえ」
 やわらかな白い肌、ほわほわと頭頂部を覆う髪。頬はふっくらとして赤く、自由になった手足をぴょこぴょこと動かす姿は、思わず笑みを誘われるほど愛らしい。

「抱っこしてみるかい?」
 背後でうろうろと落ちつかなげに歩き回っているアリルに、デニーさんが声をかけた。
「とんでもない!」
 アリルはびくっとして、慌てて首を振った。
「無理ですよ、無理。僕にはできません」
「とは言ってもねえ。これから面倒を見なきゃいけないんだし」
「……は?」
 思いもよらない言葉に、アリルは固まった。
 面倒を見る。
 誰が? 何の?
「あんたの他に、誰がこの子の世話をするというんだい」
 半ば呆れたように、おかしそうに、デニーさんは笑った。そうして、
「ほい」
 とアリルの胸元に全裸の赤ん坊を押しつけた。
「うわ……」
 やわやわ、すべすべ。
 初めての感触にアリルは慌てふためいた。
「首の後ろを支えて。落とすんじゃないよ」
 すぐさま警告が飛んでくる。抱く手に力がこもる。赤ん坊はアリルの腕の中で窮屈そうに手足をもごもごと動かした。
 この世に生をうけて約十七年。
 王子として身につけた教養に「育児」は含まれない。乳飲み子とこんな間近で接するのは初めてだ。
(オルフェンが赤ちゃんだったときは……)
 記憶を掘り起こしても有益な情報は出てこなかった。乳母に抱かれている姿くらいしか浮かばない。アリルもまだ幼かったのだ。
「やり方を教えてやるから、やってみな」

 優秀な教師の手ほどきで、ダナンの王子は生まれて初めて乳児の世話を経験した。
 ぎこちない手つきで人肌に温めたミルクを飲ませる。これもデニーさんが持ってきてくれた羊の乳だ。赤ん坊が満足すると、恐る恐る肩にのせてゲップをさせる。世話をする側の未熟さを補うかのように、世話をされる側はお利口だった。
「そうそう、その調子」
 うとうとし始めるまで話しかけ、あやし続け。どうにかベッドの上に寝かしつけると、アリルは床にへたり込んだ。
「上等、上等。よくやったね」
 裸の上に鹿の革をかけて、赤子はくうくうと安らかな寝息を立てている。
 シャトンがベッドに上がり込み、頭のすぐ傍に陣取った。

 ようやく人心地がつくと、アリルは恩人のためにお茶を淹れ、赤子を保護した経緯いきさつを語った。
「最初に頭に浮かんだのは、妖精の取り替え子です」
 アリルが自分の見解を述べる。
 取り替え子。チェンジリング。
 妖精の中には、人間の赤子を欲しがる種族がいる。生まれたばかりの赤子をさらい、代わりに自分の子を置いてくる。自分の子はいとおしくないのか。そのあたりの心理は人間には分からない。
「でも、しっくりこないんです」
 妖精の仕業しわざなら、籠ごと麻袋に詰めて運ぶ、などというまどろっこしいことはするまい。赤子だけを連れていくだろう。
「それに、彼らは生まれたばかりの子を好むと聞きます。さっき世話をして思ったんですけれど、この子は少し育ちすぎているかな、と」
 それまでお茶をすすりながら話を聞いていたデニーさんは、ことんとカップを置くと、テーブルに肘をついて左手で頬を支えた。
「なら、人間の仕業ってことになるね」
「はい」
 アリルはどこかが痛むかのようにぎゅっと眉根を寄せた。あまり考えたくはないが、一度考え始めてしまうと、どんどん悪い方向に想像が|ふくらんでいく。
「捨て子か」
 三代目も拾われっ子だったと聞いた。墓盗人の夫婦に育てられ、十歳になる頃には大人に交じっていっぱしに稼いでいたという。
「あるいは、子攫い」
 幼子おさなごは子に恵まれない者に、そこそこ育ち上がった少年少女は安価な働き手を求める者に。物と同じように金品で取り引きされる。もっと恐ろしい話としては、生まれたばかりの赤ん坊のきも薬種やくしゅとしてあきなう者がいるらしい。肝は新鮮でないと効き目がないため、赤子は生かしたまま市に出されるという。
 闇市、沈黙の市。
 そこでは、まっとうな品に混じって人の道から外れるようなものも売買される。誰もその場所を口にしない。その場にあっては誰も声を発しない。ゆえに『だんまり市』。
 それは大陸にもあるし、ダナンにもあると聞く。ケイドンの森のどこかにあるとも噂される。実際に見た者から話を聞くことはできない。飽くまで噂でしかないのだが。
「もしかしたら、この子も売り物として市に出されるところだったのでは、と」
 自分の想像が胸を締め付ける。息が詰まる。言葉の続きをデニーさんが引き取った。
「そうして、そこへ向かう途中の売り主が初代の結界に引っかかって置いていった、っていうのかい」
 王子は頷いた。テーブルの上で握られたこぶしが微かに震えているのを見て、デニーさんは軽く肩をすくめた。
「あたしは、どちらでもないと思うけどね」
 はっと、アリルが青ざめた顔を上げる。
「何故ですか?」
「それは自分の頭で考えな」
 ぴしゃりとそう言ってから、デニーさんは口調をやわらげた。
「何にせよ、この子は運が良い」
 アリルは「えっ」と目を見開いた。
「少なくともこの子は生きてここにいる。ケガもしちゃいない。あんたに見つけてもらえて、本当にこの子は運が良い」
 赤ん坊は無心に眠っている。傍らでシャトンが身じろぎもせずに見守っている。
「……はい」
 アリルの肩からすうっと力が抜けた。そうだ。下手な想像を巡らせるより、この子のためにで
きることを考える方がずっといい。

「しかし、赤ん坊と贈り物が同時にやってくるなんてねえ」
 デニーさんは頬杖をついたまま、右手の人さし指でこつこつとテーブルを小突いている。
「人じゃないものが一枚噛んでいるのは間違いないと思うんだが……」
「はい。松ぼっくりの方は絶対に人間の仕業じゃありません」
 そんな手間をかける理由がない。だが、ふたつの事柄が無関係であるとは考えづらい。
「それなんだよねえ」
 ぼんやりと宙を眺めていたデニーさんが、ふと気づいたようにアリルに視線を戻した。
「ところで、四代目」
「なんですか?」
「一応、念のために聞くけれど。あんたの子ってことはないのかい?」
 きょとんとアリルが首をかしげる。その言葉の意味を飲み込むと、さっきまで青白かった少年の顔はみるみる赤く染まった。
「な、ななな……っ!」
「祭りの夜に、どこぞの娘と臥所ふしどを―――」
「違いますよ! 絶対に!」
 向きになって否定するアリルに、デニーさんが真剣な眼差しで念を押す。
「本当に、心当たりはないんだね」
「ありません!」
 恋人もいないし、心惹かれる女性もいない。お近づきになる機会もまるでない。
 そうアリルが主張すると、デニーさんはがっくりと頭を垂れて深い溜め息をついた。それはそれで問題がある。
「十五で結婚する者だっているのに。十七にもなって」
 王の長子がこれでは、ダナンの行く末が少々心配になってくる。
「僕のことは、どうだっていいです!」
 顔を真っ赤にしたまま、アリルが語気を強めて言う。
「今探さなければならないのは、まだ見ぬ僕の伴侶はんりょよりこの子の家族です!」
「そうだね」
 デニーさんは目を細めて頷いた。
「風の力を借りようか。ついでに三代目にも協力してもらおう」
「師匠に、ですか?」
 所在も分からない者に、どうやって。
「そこはあたしに任せておきな」
 怪訝けげんそうな面持ちの少年に、経験豊かなご婦人はにこりと笑った。
「それよりあの赤ん坊。いつまでも名がないままでは不便だし、なにより不憫ふびんだ。本当の名が分かるまでの仮の名を、あんたがつけてやりな。仮親としてさ」
「僕が、仮親……」
 ベッドの方に目を向けると、銀色の猫に見守られながらすうすうと気持ち良さげに眠る赤子の姿がある。淡い赤みがかった髪に、窓から入り込む日の光が映ってゆらゆらと揺れている。
「では、イオストレ、と」
 春の女神の名を、アリルは選んだ。

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