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明鏡止水
その十四
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そのサイレンが響き渡ったのは多くの職場で仕事が終わって帰宅ラッシュが始まる頃だった。
12月の晴れた寒空は既に暗く沈み、闇を払う護りの力を少しだけ含んだ街灯が街をほんのりと照らし、それ以上に繁華街の生命の輝きが強く闇を払う。
ビジネス街はその中心近くに閉鎖地区が出来たにも関わらず逞しく活気付きオフィスビルのカーテンのない窓にはまだ仕事中の人々の灯す光が並んでいた。
今や、夜の闇を恐れることのない人類の営みを、誰もが疑問にすら思わずに甘受している。
だからこそ人々は、生き残る為に人間という種族が本来保持していた、闇から身を守る術を失いつつあった。
―― ◇ ◇ ◇ ――
「ん? なんだ? 火事か?」
寒くて暗いが、イベントの多い12月という月は、普段からなんとなく浮ついた気分にさせてしまう。
それは平和ということなのだろうけど、平和は人の心を鈍くするらしいと俺は思った。
なにしろ周囲からそんな声が聞こえてくるまでの間、俺はそのサイレンに反応出来なかったのだ。
「避難命令だ! 伊藤さん、シェルターの場所を知っていますか?」
「はい、この近くにもありますけど、この周辺のシェルターは公用のものより会社が各々保有する物のほうが規模が大きいものが多いんです。でも時間が時間ですからそういう会社のシェルターは動いていない可能性が高いですね」
伊藤さんは俺に答えながら端末のプログラムを起動してマップを表示させてくれた。
俺はカバンに突っ込んでいたハンター証を引っ張りだす。
案の定履歴が溜まっていた。
「ってことはこの周辺は人数に対してシェルターが足りない可能性が高いな」
「最も巨大なシェルターがあるのは官庁街と駅周辺ですけど」
「駅周辺は人が多すぎてパニックになる可能性が高い。官庁街はなにかあった時に狙われ易い上にもう周辺を封鎖しているだろうな。なにしろあそこが司令塔だ。確かいざって時は埋没フェンスで壁を作るんじゃなかったかな」
「あ、あの道路にある不自然な黄色いラインですね」
おおさすがよく知ってるな。
官庁街と皇城の周囲には物理と魔術による埋没式のフェンスがあり、緊急事態にはそれが地面からせり上がって壁となる。
今はあの周辺には近づかないのがいいだろう。
下手に近づいて敵と認識されたら目もあてられない。
俺はハンター証のログを開いて空中に展開した。
個人識別があるので俺にしか読めない表示だが、目前にずらずらっと並ぶとなんだか恥ずかしいな。
しかも今いるのは咄嗟に駆け込んだ廃ビルの駐車場ゲート内だったんだが、そこからでも表の混乱具合が聞こえて来て、ひどく焦る。
怒号と車のクラクションが凄い。
緊急時には車での移動は制限されるから車のエンジンが起動出来なくされてしまったのかもしれない。
ハンター証のログにはくっきりと緊急招集が残っている。
しかも1時間以上前の話だ。
……見なかった事にしたい。
そう言えば俺、今日端末も家に忘れて来てた。
「木村さん、あの」
何か言いたそうな伊藤さんの声に、気持ちが引き戻された。
見ればその目に強い光を浮かべながらも遠慮がちに俺を上目遣いで見ている。
さすがに俺も慣れて来た。
これは伊藤さんの一か八かのお願いの時の仕草だ。
断られてもいいけれどとにかく言ってみようと思っているときの顔である。
彼女の性質の悪い所は、そのお願いの内容について、答えを必要としていないところにある。すでに自分の行動を決めてしまっているのだ。
つまり俺に断られても自分で何か無茶をしようと思っているのは間違いない。
「何かしたいことがあるんですね」
「はい。この街がまだ結界の壁を持たなかった頃からある古い地域があるんですけど、そこの住宅街の地下シェルターは学校にあるんです。でも子どもたちはもう帰宅している時間で、仕事をしているご家族はまだ帰宅していない時間帯です。だからその地域はお年寄りや子どもが家に取り残されているんじゃないかと思うんです」
「助けに行きたいんですか?」
伊藤さんは困ったような笑顔を見せた。
「実はそこに友達がたくさんいて。週末に神社で一緒に遊んだりしているんです」
その友達って、もしかして子供ですか?
付き合っている年齢の幅が広いですね。
俺は溜め息を吐く。
ここで俺が断って別行動を取ると、伊藤さんは一人でその旧住宅街とやらに行って凄く大変なことになるんだろう。
目に見えるようだ。
まぁあれだ、手に負えないと言えばこっちのログの最後も手に負えない。
酒匂さんからの公式な要請が通信ログの結びにあった。
『自らの判断で行動されたし』
信頼なのか連絡が付かないことへの投げやりな対処なのか、いや、それでもこれは投げ過ぎだろ、そっちは大丈夫なのかよ。
俺にだってなんとなくわかるんだぜ。
酒匂さんは俺がどう行動しても後々問題にならないようにこの公式記録を残したってことはさ。
「行きましょう」
「え? いいんですか?」
俺の言葉に伊藤さんは意外そうに聞き返した。
「うちの連中は軍と合流して協力しているようです。俺は元々作戦のサポートや助言などには向いていませんからね。どうせ遊撃ならどこでどう行動しても同じでしょう」
「ありがとうございます! 実は一人じゃ怖くて泣きそうでした」
にっこり笑ってそう言う伊藤さん。
冗談めかしているが、それは本音だろう。
以前、俺を助けるために勇気を振り絞ってまともに立っていられない程に震えていた彼女を思い出す。
それでも、決して逃げようとしない彼女こそが本当の勇気ある者、勇者なのかもしれない。
俺たち二人は人の波に逆らうように街の中心部に向けて走り出した。
進むほどに人が減って移動しやすくなったのはいいんだけどね。
途中、軍の装甲車がマイクを使って人々を誘導しているのを何度も見た。
中にはこちらに声を掛けて来る相手もいたので、旧住宅街へ行く旨を伝えたらその地域の避難経路の簡略図を渡してくれた。
軍すげえな、親切だ。
「怪異侵食ということでしたけど、結界内に急に怪異が湧き出すなんてことがあるのでしょうか?」
伊藤さんが不思議そうに俺に聞いた。
さすがの彼女も以前の事件との繋がりはわからなかったらしい。
そりゃあもうあの地下街の一件から一ヶ月近く経ってるしね。
「以前食人鬼に襲われたことがあったでしょう? あいつらの根城が未発見でしたから、そこから発生したようです」
というか、その辺の詳しい経緯は通信に入っていた。
どうやら軍はとうとうグールの根城を発見したらしい、ところがその強襲時に逆襲されてこの有り様という訳だ。
なんでそうなったのかもっと詳しい詳細を知りたいが、そこまでは書かれていなかった。
ハンター証だけだと文字情報は拾えるが、相互通信はパーティメンバーとだけに限定されてしまう。
しかも距離があまり遠いとそれも制限が入るのだ。
どうやら由美子や浩二の現在の配置先は、官庁街に浩二、東部の繁華街に由美子という状態になっていて、しかもそれぞれに距離がありすぎて直接通信が使えないようだ。
お互いにマップ表示は出るので居場所はわかるのに合流しようとしていないということは合流する必要がないと判断しているということだろう。
「グールの大規模発生!」
伊藤さんが俺の言葉に息を飲む。
そりゃあそうだ。
普通結界に囲まれた都市に発生するような災害じゃない。
想定外にも程がある。
早いとこ頭の吸血鬼だかネクロマンサーだかをなんとかする必要があるのだが、さすがに御大将は巧妙に姿を隠しているようだった。
しかもこっち側には主犯の容姿などの情報がない。
正直見付けるのは至難の業だろう。
やたら入り組んだ道に詳しい伊藤さんの助けもあって、ほとんど障害なしに辿り着いた旧住宅街は、その響きとは違って落ち着いた綺麗な町並みだった。
最近は都市内ではほとんど見ない魔除けが刻んである門柱や、屋根の鬼瓦など、結界が無かった時代の名残が色濃く残っているため、古い建物とわかるぐらいだ。
通りは驚く程にシンとしていて、ふと迷宮内の人のいない住宅街を思い出した。
と、伊藤さんがやにわに走りだし、2階建ての木造の庭付き一戸建て住宅に向かった。
「ミキくん、メイちゃん、ゆかねぇが来たよ!」
玄関チャイムを鳴らした伊藤さんは声を上げて外からそう呼び掛ける。
俺は周囲を注意しながら様子を伺った。
この静かな場所で大きな声は目立つ。
何かがいたら引き寄せてしまうかもしれないのだ。
やがて家の中から小さな足音がドタドタと響き、玄関が開いた。
「ゆかねぇ!」
「おねえちゃあああん!」
十歳は超えているか? 野球のバットを手にした少年と、五、六歳ぐらいの女の子が伊藤さんに抱き付く。
ふと、その少年の目が俺を見つけた。
「睨まれた……だと?」
子供に怖がられたり泣かれたりするのはしょっちゅうで、それでもやっぱりこたえるのはこたえるんだが、敵意一杯に睨まれるのは初めての経験だった。
なんてこった、自分でもびっくりするぐらい凄くショックです。
12月の晴れた寒空は既に暗く沈み、闇を払う護りの力を少しだけ含んだ街灯が街をほんのりと照らし、それ以上に繁華街の生命の輝きが強く闇を払う。
ビジネス街はその中心近くに閉鎖地区が出来たにも関わらず逞しく活気付きオフィスビルのカーテンのない窓にはまだ仕事中の人々の灯す光が並んでいた。
今や、夜の闇を恐れることのない人類の営みを、誰もが疑問にすら思わずに甘受している。
だからこそ人々は、生き残る為に人間という種族が本来保持していた、闇から身を守る術を失いつつあった。
―― ◇ ◇ ◇ ――
「ん? なんだ? 火事か?」
寒くて暗いが、イベントの多い12月という月は、普段からなんとなく浮ついた気分にさせてしまう。
それは平和ということなのだろうけど、平和は人の心を鈍くするらしいと俺は思った。
なにしろ周囲からそんな声が聞こえてくるまでの間、俺はそのサイレンに反応出来なかったのだ。
「避難命令だ! 伊藤さん、シェルターの場所を知っていますか?」
「はい、この近くにもありますけど、この周辺のシェルターは公用のものより会社が各々保有する物のほうが規模が大きいものが多いんです。でも時間が時間ですからそういう会社のシェルターは動いていない可能性が高いですね」
伊藤さんは俺に答えながら端末のプログラムを起動してマップを表示させてくれた。
俺はカバンに突っ込んでいたハンター証を引っ張りだす。
案の定履歴が溜まっていた。
「ってことはこの周辺は人数に対してシェルターが足りない可能性が高いな」
「最も巨大なシェルターがあるのは官庁街と駅周辺ですけど」
「駅周辺は人が多すぎてパニックになる可能性が高い。官庁街はなにかあった時に狙われ易い上にもう周辺を封鎖しているだろうな。なにしろあそこが司令塔だ。確かいざって時は埋没フェンスで壁を作るんじゃなかったかな」
「あ、あの道路にある不自然な黄色いラインですね」
おおさすがよく知ってるな。
官庁街と皇城の周囲には物理と魔術による埋没式のフェンスがあり、緊急事態にはそれが地面からせり上がって壁となる。
今はあの周辺には近づかないのがいいだろう。
下手に近づいて敵と認識されたら目もあてられない。
俺はハンター証のログを開いて空中に展開した。
個人識別があるので俺にしか読めない表示だが、目前にずらずらっと並ぶとなんだか恥ずかしいな。
しかも今いるのは咄嗟に駆け込んだ廃ビルの駐車場ゲート内だったんだが、そこからでも表の混乱具合が聞こえて来て、ひどく焦る。
怒号と車のクラクションが凄い。
緊急時には車での移動は制限されるから車のエンジンが起動出来なくされてしまったのかもしれない。
ハンター証のログにはくっきりと緊急招集が残っている。
しかも1時間以上前の話だ。
……見なかった事にしたい。
そう言えば俺、今日端末も家に忘れて来てた。
「木村さん、あの」
何か言いたそうな伊藤さんの声に、気持ちが引き戻された。
見ればその目に強い光を浮かべながらも遠慮がちに俺を上目遣いで見ている。
さすがに俺も慣れて来た。
これは伊藤さんの一か八かのお願いの時の仕草だ。
断られてもいいけれどとにかく言ってみようと思っているときの顔である。
彼女の性質の悪い所は、そのお願いの内容について、答えを必要としていないところにある。すでに自分の行動を決めてしまっているのだ。
つまり俺に断られても自分で何か無茶をしようと思っているのは間違いない。
「何かしたいことがあるんですね」
「はい。この街がまだ結界の壁を持たなかった頃からある古い地域があるんですけど、そこの住宅街の地下シェルターは学校にあるんです。でも子どもたちはもう帰宅している時間で、仕事をしているご家族はまだ帰宅していない時間帯です。だからその地域はお年寄りや子どもが家に取り残されているんじゃないかと思うんです」
「助けに行きたいんですか?」
伊藤さんは困ったような笑顔を見せた。
「実はそこに友達がたくさんいて。週末に神社で一緒に遊んだりしているんです」
その友達って、もしかして子供ですか?
付き合っている年齢の幅が広いですね。
俺は溜め息を吐く。
ここで俺が断って別行動を取ると、伊藤さんは一人でその旧住宅街とやらに行って凄く大変なことになるんだろう。
目に見えるようだ。
まぁあれだ、手に負えないと言えばこっちのログの最後も手に負えない。
酒匂さんからの公式な要請が通信ログの結びにあった。
『自らの判断で行動されたし』
信頼なのか連絡が付かないことへの投げやりな対処なのか、いや、それでもこれは投げ過ぎだろ、そっちは大丈夫なのかよ。
俺にだってなんとなくわかるんだぜ。
酒匂さんは俺がどう行動しても後々問題にならないようにこの公式記録を残したってことはさ。
「行きましょう」
「え? いいんですか?」
俺の言葉に伊藤さんは意外そうに聞き返した。
「うちの連中は軍と合流して協力しているようです。俺は元々作戦のサポートや助言などには向いていませんからね。どうせ遊撃ならどこでどう行動しても同じでしょう」
「ありがとうございます! 実は一人じゃ怖くて泣きそうでした」
にっこり笑ってそう言う伊藤さん。
冗談めかしているが、それは本音だろう。
以前、俺を助けるために勇気を振り絞ってまともに立っていられない程に震えていた彼女を思い出す。
それでも、決して逃げようとしない彼女こそが本当の勇気ある者、勇者なのかもしれない。
俺たち二人は人の波に逆らうように街の中心部に向けて走り出した。
進むほどに人が減って移動しやすくなったのはいいんだけどね。
途中、軍の装甲車がマイクを使って人々を誘導しているのを何度も見た。
中にはこちらに声を掛けて来る相手もいたので、旧住宅街へ行く旨を伝えたらその地域の避難経路の簡略図を渡してくれた。
軍すげえな、親切だ。
「怪異侵食ということでしたけど、結界内に急に怪異が湧き出すなんてことがあるのでしょうか?」
伊藤さんが不思議そうに俺に聞いた。
さすがの彼女も以前の事件との繋がりはわからなかったらしい。
そりゃあもうあの地下街の一件から一ヶ月近く経ってるしね。
「以前食人鬼に襲われたことがあったでしょう? あいつらの根城が未発見でしたから、そこから発生したようです」
というか、その辺の詳しい経緯は通信に入っていた。
どうやら軍はとうとうグールの根城を発見したらしい、ところがその強襲時に逆襲されてこの有り様という訳だ。
なんでそうなったのかもっと詳しい詳細を知りたいが、そこまでは書かれていなかった。
ハンター証だけだと文字情報は拾えるが、相互通信はパーティメンバーとだけに限定されてしまう。
しかも距離があまり遠いとそれも制限が入るのだ。
どうやら由美子や浩二の現在の配置先は、官庁街に浩二、東部の繁華街に由美子という状態になっていて、しかもそれぞれに距離がありすぎて直接通信が使えないようだ。
お互いにマップ表示は出るので居場所はわかるのに合流しようとしていないということは合流する必要がないと判断しているということだろう。
「グールの大規模発生!」
伊藤さんが俺の言葉に息を飲む。
そりゃあそうだ。
普通結界に囲まれた都市に発生するような災害じゃない。
想定外にも程がある。
早いとこ頭の吸血鬼だかネクロマンサーだかをなんとかする必要があるのだが、さすがに御大将は巧妙に姿を隠しているようだった。
しかもこっち側には主犯の容姿などの情報がない。
正直見付けるのは至難の業だろう。
やたら入り組んだ道に詳しい伊藤さんの助けもあって、ほとんど障害なしに辿り着いた旧住宅街は、その響きとは違って落ち着いた綺麗な町並みだった。
最近は都市内ではほとんど見ない魔除けが刻んである門柱や、屋根の鬼瓦など、結界が無かった時代の名残が色濃く残っているため、古い建物とわかるぐらいだ。
通りは驚く程にシンとしていて、ふと迷宮内の人のいない住宅街を思い出した。
と、伊藤さんがやにわに走りだし、2階建ての木造の庭付き一戸建て住宅に向かった。
「ミキくん、メイちゃん、ゆかねぇが来たよ!」
玄関チャイムを鳴らした伊藤さんは声を上げて外からそう呼び掛ける。
俺は周囲を注意しながら様子を伺った。
この静かな場所で大きな声は目立つ。
何かがいたら引き寄せてしまうかもしれないのだ。
やがて家の中から小さな足音がドタドタと響き、玄関が開いた。
「ゆかねぇ!」
「おねえちゃあああん!」
十歳は超えているか? 野球のバットを手にした少年と、五、六歳ぐらいの女の子が伊藤さんに抱き付く。
ふと、その少年の目が俺を見つけた。
「睨まれた……だと?」
子供に怖がられたり泣かれたりするのはしょっちゅうで、それでもやっぱりこたえるのはこたえるんだが、敵意一杯に睨まれるのは初めての経験だった。
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